しんしょうのひとこと001【志ん生のひとこと 001】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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ほんとの落語は四千ぐらいあるね。わたしなんぞは一年毎日別なやつをやれるね。

『娯楽よみうり』1957年2月1日号「おしゃべり道中」から。

■対談で、大宅壮一(1900-70、ジャーナリスト、作家)から「大体、しゃべるネタというのは、幾つぐらい持てばいいんですか」と聴かれてのひとこと。落語の数が 「四千」もあるとは知りませんでしたが。 志ん生の持ちネタは普通の落語家よりも多かったと言われています。全集に収録されているだけでも150余。音源もそれなりにあります。ただ、志ん生落語で聴けるのはせいぜい30ほどとも。あくまでも一般論の凡庸なお説ですが。「やれる」噺と「持ちネタ」とは別の問題だという観点からのもの言いでしょう。コアなファンは、志ん生が倒れた後の滑舌の悪い、聴いちゃいられない噺(粟田口とか寝床とか)を聴いて喜ぶわけです。「味がある」とかなんとか言って。音源に残らず、志ん生の口の端にこぼれたままになった噺。ほごでもしくじりでもいいから聴いてみたかったなあ、とつくづく思うわけです。ここまでくれば志ん生熱も「狂」を帯びてきます。さて。「おしゃべり道中」は大宅壮一がホストの対談連載、志ん生は第64回を飾るゲストでした。お互いに気合入ってます。志ん生が「お直し」で文部大臣賞をもらったことが当時の話題だったため、白羽の矢が立ったようです。「一億総白痴化」「口コミ」「駅弁大学」「恐妻」など新語の発明家にして時代の狙撃手。大宅壮一は当時最強最良のジャーナリストでした。1957年。「戦後」が終わって高度経済成長のレールを走り出すあわい。周りはけたたましいばかりの活気と熱気。志ん生も大宅も、とっても活きのよかった頃だったのでしょう。時代とともに。二人のおしゃべりも躍っています。時は過ぎて。大宅壮一が亡くなったのは1970年11月22日。三島事件の三日前でした。三島事件を評せられなかった大宅はあの世で怨んでいるかもしれません。戦後最高のジャーナリストが戦後最高に話題をさらった事件に言及できなかったのですから。これは痛恨。さらに過ぎて。2020年は大宅壮一の没後50年、憂国忌も50年に。誰も忘れています。三島事件もどこか滑稽味を携えながら忘却のかなたへ。列島人の忘れっぽい習性のなせるわざでしょうか。さてさて。「娯楽よみうり」という雑誌は「週刊読売」とは別に刊行されていました。しょっぱい「読売」が大盤ぶるまいのなりふり。時代の勢いを感じさせます。当時の活字文化も、志ん生や大宅といっしょに躍っていたのですね。「娯楽よみうり」も「週刊読売」もすでに消えています。いずれ「読売新聞」が消える日も来るかもしれませんね。えぴたふ。

 古木優

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しんしょうのひとこと009【志ん生のひとこと009】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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「落語ってえもなァ、クサヤの干物みてえなもんなんでネ」

「週刊読売」(1961年12月4日発売)誌上に、志ん生一家の一週間にわたる日常生活のルポが載った。冒頭に掲げられたのが志ん生流「落語道の極意」。

1961年、つまり昭和36年12月とはオドロキ。

その年の12月15日に、志ん生は倒れるのだから。直前である。

15日は、高輪プリンスホテルで、読売巨人軍優勝祝賀会があった。

余興で落語を、の求めにこたえようと、よせばいいのに、のこのこ出かけた。

志ん生に、ではなく、優勝に喜ぶ野球一徹を相手に、落語を聴かせるには、志ん生の芸風はちょいと難があったろう。

パーティーは立食形式だった。巨人命どころか、落語ファンだって、名人のハナシに耳を貸せるわけがない。がやがやざわざわ。落語を聴かせる環境ではなかったのだ。

俺のハナシを聴け! 

志ん生は焦った。息張った。ひっくり返った。脳出血だった。

ホテル裏の、道路を挟んだ東京船員保険病院(東京せんぽ病院→東京高輪病院)に運ばれたのが幸いして死の淵で踏ん張った、というわけ。ここはまともな病院である。

九死に一生を得たからよかったものの、上記のひとことが娑婆との別れ、志ん生の「遺言」となっていたかもしれないのだ。
  
志ん生ファンは読売新聞や読売巨人軍を大いに怨むべきだろう。

だが、東京でそんな恨み節を聴いたことはめったにない(まれにはあるが)。

その理由は、「週刊読売」が倒れる直前に志ん生の特集を組んでいたから。

これで、「読売」は免罪符を得ていたのだ。

取材日は、11月13日(月)から19日(日)まで行われた。

日を追って克明に名人の日々を日記風に記録した、貴重な記録である。

せりふの続きは、以下の通り。

「……クサヤの干物てえのは、オメエ、好きな人は、大好きだがだれでも食えるってもんじゃねえ。それでいてわりと高いん……だから、ハナシカてえもなア、大通りを行こうと思っちゃ大マチゲエだ。裏通りを行くものなんで……」

わかったようなわからないような。これが志ん生流。コアなファンは、妙に納得させられてしまう。

論理など飛び超えた、摩訶不思議な言い回しである。

高田裕史

参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)



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じんごろうのころ【甚語楼の頃】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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以下は、昭和4年(1929)11月7日付の読売新聞に掲載された「講談落語 一百人」第49回「柳家甚語楼」の記事です。

甚語楼というのは柳家金語楼のとりなしで柳家三語楼門に移ってからの志ん生。読みやすく直してあります。

ちょいちょい芸名を変えるのはあまり策の得たものではなく、この男などもそのために存在を知られていない上、こんにちは甚だ不遇の位置に甘んじて金語楼派の雑兵になって兵隊劇や寸劇だのヂャズなどへ使われているが、一時は真打ちで看板をあげたこともあり、しん馬を前名としていた過去を持っている。したがって本当にやらせれば随分大物もかつぎ出してどうにかこうにか消化してのけるところ時勢がよければ相当の位置にも昇るところはモヅモヅして引き立たないのは名人肌というわけで甚五郎と洒落たのかもしらねど妙に円右を張ったりする癖を除け自分を出して精進すれば独特の味もあるのだから大成もしよう。とにかくこのまま埋もれ木にしたくない良材なことは保証する。

なんと、この筆者は、その後の大成ぶりを予告していました。大切なところをしっかり見ていたようです。

古木優



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立花隆が思い寄せた「カク」二つ



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立花隆の本名は橘隆志です。レスラーではありません。嵐の党(→NHK党)とも関係なし。日本で最高峰のジャーナリストです。

20歳のとき、初めて渡欧しました。昭和35年(1960)4月6日から10月12日まで。約半年。長旅でした。

長崎医科大病院で生まれたからか、その頃の彼は「核」に強い関心がありました。広島で開かれた原水爆禁止大会では外国人に片っ端から名刺を配ってまわりました。

ある日、ロンドンで開かれる「第1回学生青年核軍縮国際会議」の招待状が彼の元に。東大2年の彼には渡航費がありません。その頃の東大生はビンボーでした。

同窓の駒井洋(後に筑波大教授、社会学)といっしょに、茅誠司総長に掛け合いました。茅は核の平和利用指導者です。二人の熱意を察した茅は、その場で読売新聞の正力松太郎社長に電話。正力は原発の推進者ですが、渡航費は全額、読売が。太っ腹です。

核の推進者が核の反対者を援助する。うるわしくもおおらかな時代でした。

現地のルポを逐一送ること。それが条件でした。こうして両君は、まだ見ぬ欧州の地に飛び立っていったのです。

ところが、結果はさんざん。

西欧各国では、被爆の悲劇など誰も理解してくれませんでした。「原爆を落とされたから日本は降伏したんだろう。大戦終結に原爆は役立ったじゃないか」。西洋人のおおかたの日本認識はそんなものでした。一瞬に20万人が逝ってしまったことなど、彼らにはどうでもよいのです。

2人は、持参した4本の映画を51回にわたって各地で上映し、原水爆の恐ろしさとその禁止を訴えたのですが、芳しい結果は得られませんでした。

なんとも消化不良のまま、オランダ貨物船ジッセンカーク号で名古屋港に帰ってきたのです。秋でした。

そんな顛末が、1960年10月12日付読売新聞夕刊のコラム「話の港」に載っています。

ということは、この2人、東大生ながらも、6月15日に起こった安保の悲劇には遭遇しなかったことになります。よかったのか悪かったのか。

田中角栄、テルアビブ、宇宙体験、脳死、臨死、サル学、東大、香月泰男、武満徹……。立花の登場で日本のジャーナリズムの可能性が変わりました。

ダイナミックなスケールで緻密かつ周到な仕上げわざ。そんな仕事ができたのは、ひょっとしてあの事件に寸毫かかわらなかったことが幸いしたのかもしれません。

それと、晩年。

フクイチの事故が起こっても核について言及することはありませんでした。勉強不足を理由にしていましたが、彼が書かないのはたんに関心がそれていたからなのでしょう。も、彼にはもう、どうでもよかったのかもしれません。

宿題だった「武満徹」の本を出せたことで、もう安堵してあっちへ行けると踏んだのでしょうし。

今では、立花隆といえば「知の巨人」。こんなこっぱずかしいかんむりを、誰が言い出したのでしょう。平成8年(1996)の頃には、彼自身、自分の職業は「勉強屋だ」と言っていました。そんなところじゃないでしょうか。知りたいことをとことん知りたい。勉強屋のいわれはそんなところです。「知の巨人」とはおよそベクトルが違います。

私が彼を評価するとしたら、立花隆は最高のメディア(媒介)だった、ということです。専門家の功績を、とりわけ理系の話題を普通の言葉に言い換えてわかりやすく説明してくれる人、それが立花隆だったのです。

まさに勉強屋の所業、ジャーナリストの本分です。彼を超える媒介者(メディア)は日本中どこにも見当たらなかったでしょうし、今も見つからないように見えます。すべてのジャーナリスト垂涎の的です。

さて。その後の立花隆と読売新聞のかかわりは、といえば、恥ずかしいくらいさんざんでした。彼は読売に一度も寄稿していません。異常です。

ならば、落語とのかかわりはどうか。うーん、こっちもさんざんでした。上野高校に通ってたっていうのに、鈴本演芸場や本牧亭に一度も足を運ばなかったのでしょうか。ちょっとした異常です。

2021年7月8日 古木優



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