【志ん生のひとこと009】しんしょうのひとこと009 志ん生雑感 志ん生! 落語 あらすじ
「落語ってえもなァ、クサヤの干物みてえなもんなんでネ」
「週刊読売」(1961年12月4日発売)誌上に、志ん生一家の一週間にわたる日常生活のルポが載った。冒頭に掲げられたのが志ん生流「落語道の極意」。
1961年、つまり昭和36年12月とはオドロキ。
その年の12月15日に、志ん生は倒れるのだから。直前である。
15日は、高輪プリンスホテルで、読売巨人軍優勝祝賀会があった。
余興で落語を、の求めにこたえようと、よせばいいのに、のこのこ出かけた。
志ん生に、ではなく、優勝に喜ぶ野球一徹を相手に、落語を聴かせるには、志ん生の芸風はちょいと難があったろう。
パーティーは立食形式だった。巨人命どころか、落語ファンだって、名人のハナシに耳を貸せるわけがない。がやがやざわざわ。落語を聴かせる環境ではなかったのだ。
俺のハナシを聴け!
志ん生は焦った。息張った。ひっくり返った。脳出血だった。
ホテル裏の、道路を挟んだ東京船員保険病院(東京せんぽ病院→東京高輪病院)に運ばれたのが幸いして死の淵で踏ん張った、というわけ。ここはまともな病院である。
九死に一生を得たからよかったものの、上記のひとことが娑婆との別れ、志ん生の「遺言」となっていたかもしれないのだ。
志ん生ファンは読売新聞や読売巨人軍を大いに怨むべきだろう。
だが、東京でそんな恨み節を聴いたことはめったにない(まれにはあるが)。
その理由は、「週刊読売」が倒れる直前に志ん生の特集を組んでいたから。
これで、「読売」は免罪符を得ていたのだ。
取材日は、11月13日(月)から19日(日)まで行われた。
日を追って克明に名人の日々を日記風に記録した、貴重な記録である。
せりふの続きは、以下の通り。
「……クサヤの干物てえのは、オメエ、好きな人は、大好きだがだれでも食えるってもんじゃねえ。それでいてわりと高いん……だから、ハナシカてえもなア、大通りを行こうと思っちゃ大マチゲエだ。裏通りを行くものなんで……」
わかったようなわからないような。これが志ん生流。コアなファンは、妙に納得させられてしまう。
論理など飛び超えた、摩訶不思議な言い回しである。
高田裕史
参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)