しんしょうのひとこと002【志ん生のひとこと 002】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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二十四、五から三十くらいまででしたね。その頃は、どうしてもわたしといっしょになるてえ女が来て、しょうがなかった。

『サンケイ読物』1956年1月8日号「かたい話やわらかい話」から。


■福田蘭堂との対談で、福田が「師匠がいちばん女のほうではなやかなりし頃はいくつです?」の問いにこたえてのひとこと。志ん生は上のひとことのあとに「わたしの仲人がね、おまえさん、もう女房もらったらいいでしょうって言ってきた。いいかげんな返事をしているうちに半月ほどして、ほかの女をズルズルベッタリに引っ張り込んでいっしょにいたんです。そこへね、とつぜん、前の話の女を引っ張ってこられたんです、仲人に。しかたがないから、いっしょにいた女を戸棚ン中にしまいこんじゃって……。実はそのとき、仲人に連れてこられたのが今のかかあなんです」と告白しています。戸棚の中に女を隠す、とは。これって、「今戸の狐」をなんとなく彷彿とさせるじゃありませんか。志ん生の噺っていうのは、ディテールが実体験からの連想なのですね。

福田蘭堂(石渡幸彦、1905-76、音楽家、随筆家)は青木繁の息子で、石橋エータローの実父にあたる人。青木繁は洋画家、石橋エータローはクレージーキャッツのメンバーで料理家です。

 古木優



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しんしょうのひとこと001【志ん生のひとこと 001】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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ほんとの落語は四千ぐらいあるね。わたしなんぞは一年毎日別なやつをやれるね。

『娯楽よみうり』1957年2月1日号「おしゃべり道中」から。

■対談で、大宅壮一(1900-70、ジャーナリスト、作家)から「大体、しゃべるネタというのは、幾つぐらい持てばいいんですか」と聴かれてのひとこと。落語の数が 「四千」もあるとは知りませんでしたが。 志ん生の持ちネタは普通の落語家よりも多かったと言われています。全集に収録されているだけでも150余。音源もそれなりにあります。ただ、志ん生落語で聴けるのはせいぜい30ほどとも。あくまでも一般論の凡庸なお説ですが。「やれる」噺と「持ちネタ」とは別の問題だという観点からのもの言いでしょう。コアなファンは、志ん生が倒れた後の滑舌の悪い、聴いちゃいられない噺(粟田口とか寝床とか)を聴いて喜ぶわけです。「味がある」とかなんとか言って。音源に残らず、志ん生の口の端にこぼれたままになった噺。ほごでもしくじりでもいいから聴いてみたかったなあ、とつくづく思うわけです。ここまでくれば志ん生熱も「狂」を帯びてきます。さて。「おしゃべり道中」は大宅壮一がホストの対談連載、志ん生は第64回を飾るゲストでした。お互いに気合入ってます。志ん生が「お直し」で文部大臣賞をもらったことが当時の話題だったため、白羽の矢が立ったようです。「一億総白痴化」「口コミ」「駅弁大学」「恐妻」など新語の発明家にして時代の狙撃手。大宅壮一は当時最強最良のジャーナリストでした。1957年。「戦後」が終わって高度経済成長のレールを走り出すあわい。周りはけたたましいばかりの活気と熱気。志ん生も大宅も、とっても活きのよかった頃だったのでしょう。時代とともに。二人のおしゃべりも躍っています。時は過ぎて。大宅壮一が亡くなったのは1970年11月22日。三島事件の三日前でした。三島事件を評せられなかった大宅はあの世で怨んでいるかもしれません。戦後最高のジャーナリストが戦後最高に話題をさらった事件に言及できなかったのですから。これは痛恨。さらに過ぎて。2020年は大宅壮一の没後50年、憂国忌も50年に。誰も忘れています。三島事件もどこか滑稽味を携えながら忘却のかなたへ。列島人の忘れっぽい習性のなせるわざでしょうか。さてさて。「娯楽よみうり」という雑誌は「週刊読売」とは別に刊行されていました。しょっぱい「読売」が大盤ぶるまいのなりふり。時代の勢いを感じさせます。当時の活字文化も、志ん生や大宅といっしょに躍っていたのですね。「娯楽よみうり」も「週刊読売」もすでに消えています。いずれ「読売新聞」が消える日も来るかもしれませんね。えぴたふ。

 古木優

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おおつえ【大津絵】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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志ん生ファンは数多くいますが、出久根達郎氏はとりわけ「大津絵 冬の夜」が好きだとはばかりません。こういう人、たまにいます。わたしもそんな一人です。

これは落語ではありません。俗曲です。一般には「大津絵」と呼んでいます。「大津絵」といえば、東海道の近江は髭茶屋追分宿でお土産に売られた戯画です。戯画の大津絵から派生して、さまざまな芸能が生まれました。ここがややこしい。戯画も大津絵、唄も大津絵、踊りも大津絵。志ん生の「大津絵」は大津絵節、ということになります。

髭茶屋追分は、東海道と伏見街道の交差する、まさに追分でしたので、大津絵はお土産に、願掛け魔除けに売られて、全国的な知名度をもったようです。画題が十種あって、そのバリエーションを忠実に守っていることが、大津絵の大津絵たらしめるゆえんなのだそうです。

大津絵節は明治の前半頃に大流行したそうです。うたいやすくて、素人でも誰でも詞をつくって曲をもつくれるのだそうで、花柳界ではどれもこれも大津絵節のお座敷だったとか。

         大津絵節の解説  大津絵踊り  幕末・明治期における民謡・大津絵節の歴史的研究                              

志ん生のうたう「大津絵 冬の夜」はCDに収録されています。これがおもしろく、志ん生にもう一人の志ん生がインタビューしているのです。

大津絵には滑稽味が漂うものなのですが、志ん生がうたう「大津絵 冬の夜」には滑稽味が皆無です。あの志ん生がどうして、といぶかる向きもありますが、これも志ん生なのです。市井に生きる人の切なる思いが胸を突きます。歌言の魂が聴く者に心に宿るような、しみじみとした太い力を感じさせます。    

五代目古今亭志ん生

ここで志ん生は、初代立花家橘之助(石田美代、1866-1935、音曲師)の弟子の「こみよ」さんという人に教わった、と言っています。

志ん生の「大津絵 冬の夜」にからんだ話には、いくつか有名なものがあります。

そのひとつ。

慶應の小泉信三(1888-1966、経済学)は毎年、志ん生を自宅に呼んで「大津絵 冬の夜」を聴きました。その折、小泉は、いつものくだりにくると必ず号泣するのだそうです。息子(小泉信吉)を戦争で亡くしたこと、多くの教え子を戦死させてしまったことなどがオーバーラップするのでしょうか。泣きたくて志ん生を呼んでいたようです。

私の大津絵(節)考

さらに。

山口瞳(1926-95、作家)の逸話もこれまた有名です。こちらは、明神下の神田川(うなぎ)において、志ん生を招いて聴いたという話。その額が10万円。昭和42年(1967)頃のこと。経済学的な換算ですと、消費者物価指数からはじき出せば4.3倍となり、それだと43万円となります。これなら、直木賞受賞の売れっ子作家ならどうということもありますまい。私の来し方の生活感覚からはじきだせば、現在の300万円ほどかと思われます。唄一曲聴くのにこの額は、そうとうなものです。竹内勉(1937-2015、民謡研究家)はこの当時、売れっ子噺家は5万円、円生が7万円で最高額だったようなことを言っています。押して知るべしです。

まずは、「大津絵 冬の夜」の歌詞をどうぞ。

冬の夜に風が吹く
知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ
これさ女房わらじ出せ
刺し子襦袢に火事頭巾
四十八組おいおいと
お掛かり衆の下知を受け
出て行きゃ女房はそのあとで
うがい手水にその身を清め
こよいうちの人になァ
けがのないように
南無妙法蓮華経
清正公菩薩
ありゃりゃんりゅうの掛け声で
勇みゆく
ほんにおまえはままならぬ
もしも生まれたこの子が男の子なら
おまえの商売させやせぬぞえ
罪じゃもの

山口瞳は神田川での一席を、一人5,000円の会費で募りましたら、またたく20人が集結。10万円は充填されました。それでも、神田川での食事代があります。付き添いのお弟子二人、三味線の平川てるさんなどへの払いは10万円の中にあったのでしょうが、気付けも(忘れてしまったそうですが)。なんだかだ10万円では足りなかったようです。まあ、それはともかく。「大津絵 冬の夜」を聴いた余韻にひたり鰻重に舌鼓打ちつつ酒席に変じた頃合い。はずした隣席の志ん生が、マネジャーの長女美濃部美津子(1926-2023)を通じて、山口を呼びました。「おとうちゃんが呼んでる」と。山口が行ってみると、志ん生はさっきの大津絵は満足しないのでもう一回聴いてくれ、と。その場で、山口は、志ん生のうなりをもう一回聴くことになりました。

 これを一言で言うならば、はなはだ月並みに言うならば、芸人の執念である。あるいは恨みである。あるいは怒りである。もどかしさである。あるいは魂である。あるいは律義である。そうして、自分の体と自分の芸との戦いだった。その場に立ちあってくれと言っているのである。大変に辛いことを書くが、そのときの志ん生さんは、もう、声が出なくなっていた。冬の夜に風が吹く、までは出る。あとは何が何やらわからない。私は、志ん生さんのまえに頭を垂れているばかりである。

志ん生の意気地を強く感じます。そのあと、山口はこうも記しています。

 志ん生さんが亡くなってから、彼の人柄がチャランポランであり、その芸は天衣無縫だと言われた。私は断じてそうは思わない。志ん生さんは律儀な人であり、その芸は計算された芸である。まっとうな修練を経た芸である。

私はここを引用したくて、ながながとつづったのかもしれません。「大津絵 冬の夜」には、もうひとつの「志ん生」がひそんでいます。

必聴です⇒大津絵 冬の夜

                               古木優

※参考文献:山口瞳『隠居志願』(新潮社、1974年)、矢野誠一『志ん生のいる風景』(青蛙房、1983年)、矢野誠一『文人たちの寄席』(白水社、1997年)


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めにかりができた【眼に借りができた】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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宇野信夫(1904-91、劇作家)が書き残しています。

宇野が白鬚橋の手前に住んでいた頃、柳家甚語楼(志ん生)がよく遊びにきたそうです。

志ん生が業平のなめくじ長屋に住んでいた当時。貧苦の底をさまよっていた頃のことでしょう。業平から40分近くかけて歩いてきていたそうです。意外に距離があるんですね。

ある寒い日、宇野はあんかに入っていました。訪ねた志ん生もあんかに入り、二人は世間話に。

話しているうちに、志ん生はコクリコクリといねむりを始めました。

そのようすを見て、宇野は「この人はこれでおしまいかもしれない」と思ったそうです。よほど底辺徘徊、疲労困憊の様相だったのでしょう。

ところが、志ん生は目を覚ますや、「じゃり(子供)が朝早くから目をさまして、胸の上をあるきゃァがるから、どうも眼に借りができちゃって」とポロリ。

なかなかにしぶとい。いねむりのわけは貧苦よりもじゃりによるものだ、と。

「眼に借りができる」なんて、生活臭と酔狂感がないまぜの語感ではないですか。

志ん生っていう人は、ときどき使ってみたくなるような言い回しを発するものです。

宇野は記していませんが、志ん生はこれで終わりということはなく、いやいやどうして、なかなかに踏ん張っているもんだな、というかんじが行間からにじみ出ていました。

宇野と志ん生の年の差は十四歳。若い宇野には、奈落の淵にあってもしぶとくそこらへんをうろついている風情を漂わす志ん生の境地は、じゅうぶんに理解できなかったのかもしれません。

「眼に借りができる」とはその状況を集約しています。

志ん生は、土壇場でうっちゃれる噺家だったのですね、きっと。

※宇野信夫『今はむかしの噺家のはなし』(河出文庫、1986年)

古木優



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しんしょうとにんじゃ【志ん生と忍者】志ん生雑感 志ん生!

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古今亭志ん生を語ろうとすると、いまだに「貧乏」の二字がついて回ります。

でも、志ん生自身は貧乏ではなかったようなのです。

志ん生の懐にはしっかり金が入ってきていました。志ん生はこの金を家に渡さなかったのです。

貧乏だったのは美濃部の家族です。りん、美津子、喜美子、清(十代目金原亭馬生)までが辛酸をなめ尽くしました。最後の強次(三代目古今亭志ん朝)は、貧とは無縁でした。

強次が生まれた昭和13年(1938年)あたりから、志ん生は売れ出しているからです。

おまけにこの年は、師匠の初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が逝っています。志ん生は三語楼の話財をまるごといただいているのです。「ヘービーチーデー」とかの。噺家の世界にはよくある類型です。

美濃部家は高位の旗本直参だったという話ですが、これもどこまで高位なのだか。

ただ、美濃部という家は近江国おうみのくに(滋賀県)の甲賀こうか郡の国人(土豪)ですから、甲賀衆の流れをくんでいるのはたしかです。美濃部達吉も美濃部亮吉も同じ系統なんでしょうね。

神君伊賀甲賀越えに随従した甲賀者の一人だった、ということでしょう。

名前を17回も変えてみたり、「二階ぞめき」をやっているうちに「王子の狐」に代えてしまったり(最後の高座、1968年10月9日)、といった融通無碍ぶりは、こっちの系統だったからなんでしょうかね。

融通無碍。すてきなことばです。これこそが、志ん生を読み解くためのキーワードでしょう。

貧乏も忍者もこの四字熟語にパックリのみ込まれて、いずれはとろけてしまうのです。だから、なめくじとも縁があるんですね。

古木優



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しんしょうのなかにはっかーが!【志ん生の中にハッカーが!】志ん生雑感 志ん生!

テレビドラマ「VIVANT」(TBS系)が話題です。

8月6日放送の第4話では、丸菱商事のシステムを改竄して誤送金を仕組んだのは太田梨歩(飯沼愛)だったことが判明しました。

彼女宅から警視庁公安部が押収したブツの中には、なんと『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)も。

渋いです。

このディスクが怪しいと睨んだ野崎守(阿部寛)。PCに差し込むと出囃子「一丁入り」が公安部内、場違いに響きわたります。

ディスプレイには「blue@walker」の文字が次々と表れて。太田梨歩は名うての暗躍ハッカーだったのでした。

志ん生とハッカー。

この盤には「首ったけ」「火焔太鼓」「幾代餅」が収録されています。お得です。

ドラマ後半では、乃木憂助(堺雅人)がじつは自衛隊内のかそけき組織「別班」の一員だったことが。

これには視聴者全員ビックリでしたが、それ以上の椿事はやはり志ん生CDにハッカー(の名)が潜んでいたことでしょう。まさに首ったけ。

このドラマの視聴者にどれほどの志ん生ファンが潜伏しているのかは知りませんが、私なんかは、その唐突ぶりに噴飯の吃驚を禁じ得ませんでした。

小道具づかいに長けた「VIVANT」。

スタッフの粋なセンスにほろ酔いますが、劇中、何度か映る神田明神境内の祠にも「ひょっとしてこれも?」なぁんて淡い勘繰りをつのらせます。

赤い饅頭が供えられていたりいなかったりと。謎めいてくるではありませんか。

お次は「饅頭こわい」とかね。饅こわと別班。渋辛なおもむきで迫ってきます。

古木優

首ったけ 五代目古今亭志ん生