めにかりができた【眼に借りができた】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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宇野信夫(1904-91、劇作家)が書き残しています。

宇野が白鬚橋の手前に住んでいた頃、柳家甚語楼(志ん生)がよく遊びにきたそうです。

志ん生が業平のなめくじ長屋に住んでいた当時。貧苦の底をさまよっていた頃のことでしょう。業平から40分近くかけて歩いてきていたそうです。意外に距離があるんですね。

ある寒い日、宇野はあんかに入っていました。訪ねた志ん生もあんかに入り、二人は世間話に。

話しているうちに、志ん生はコクリコクリといねむりを始めました。

そのようすを見て、宇野は「この人はこれでおしまいかもしれない」と思ったそうです。よほど底辺徘徊、疲労困憊の様相だったのでしょう。

ところが、志ん生は目を覚ますや、「じゃり(子供)が朝早くから目をさまして、胸の上をあるきゃァがるから、どうも眼に借りができちゃって」とポロリ。

なかなかにしぶとい。いねむりのわけは貧苦よりもじゃりによるものだ、と。

「眼に借りができる」なんて、生活臭と酔狂感がないまぜの語感ではないですか。

志ん生っていう人は、ときどき使ってみたくなるような言い回しを発するものです。

宇野は記していませんが、志ん生はこれで終わりということはなく、いやいやどうして、なかなかに踏ん張っているもんだな、というかんじが行間からにじみ出ていました。

宇野と志ん生の年の差は十四歳。若い宇野には、奈落の淵にあってもしぶとくそこらへんをうろついている風情を漂わす志ん生の境地は、じゅうぶんに理解できなかったのかもしれません。

「眼に借りができる」とはその状況を集約しています。

志ん生は、土壇場でうっちゃれる噺家だったのですね、きっと。

※宇野信夫『今はむかしの噺家のはなし』(河出文庫、1986年)

古木優



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かげのぞき【影覗き、陰覗き】ことば

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文字通りの「物陰からこっそり見る」から、義理にでもたまには挨拶に来る、顔を見せるの意味。

ほとんどは否定語を伴って「かげのぞきもしない」で、「不義理をする、まったく顔を見せない」という非難の言葉になります。

このフレーズ、古い江戸の言葉で、『全国方言辞典』(佐藤亮一編、三省堂)には記載がありますが、なぜか『日本国語大辞典』(小学館)にも、『江戸語の辞典』(前田勇編、講談社)にも、項目がありません。

慣用表現としては死語となっても、直訳的におおよそ意味が推測できるからでしょうか。

宇野信夫(1904-91、劇作家)が、1935年(昭和10)に六世尾上菊五郎(寺島幸三、1885-1949、音羽屋)のために書き下ろした歌舞伎脚本「巷談宵宮雨こうだんよみやのあめ」。

この中で、「影覗き」をセリフに用いました。

宇野は、大御所の岡鬼太郎(1872-1943、劇評家)から「あなたはお若いのに、かげのぞきという言葉をお使いになった」と褒められた、ということです。

こんなのが逸話に残るほど、昭和に入ると「影覗き」は使われなくなっていたようです。

当の宇野だって、生まれは埼玉県本庄市で、熊谷市育ち。長じて、慶応に通い出してから浅草で暮らしていたという、えせもの。

この言葉がはたして血肉になっていたのかどうか、あやしいものです。

とまれ、昭和初期にはすでに、老人語としてのほかは、東京でもほとんど忘れ去られていたということでしょうかね。

用のある時は来るけれども、さもなきゃかげのぞきもしやがらねえ。たまには出てこいよ。

              雪の瀬川(六代目三遊亭円生)

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