【東宝名人会は別格】
とうほうめいじんかいはべっかく
寄席といったら、東宝名人会でしょう。
私の場合はね。
日比谷映画街にあった、あそこですよ。桂歌丸の真打ち襲名披露を間近に見たのは懐かしい思い出。昭和43年(1968)3月、小学5年生の春休みの頃でした。
へええ、落語家っていうのは、こんなことをして一人前になるんだなあとしげしげと。ずいぶん儀式ばっているわけで、それがなんだか心地よかったもんです。
私は、毎週日曜日、北関東の奥地からたいへんな思いをして、親に連れられてくるもんでして。有楽町駅から少し歩いた都会のビル街、古風なしっかりしたエレベーターで、たしか5階でしたか、ホールはいつも立ち見客でいっぱいでした。なんでこんなにこんでいたのか。
出てくる芸人のほとんどがテレビでおなじみの人気者ばっかり。まるで夢を見ているようでした。
その頃は、「笑点」なんかが始まって、いまや全国的に落語ブームだったんですよ。談志、円楽、円鏡、小せん、三平なんかをテレビで見かけました。そんな人たちが入れ代わり立ち代わり登場するのですから、微熱を出してしまいます。
ホールの袖に立ちんぼで高座を見ていると、その脇を文楽(八代目)やら円生(六代目)やらが通り過ぎて奥の楽屋に入っていくもんでして。
演芸界というのはこうもお近いものかと、すぐになじみました。
海老一染太郎染之助の「お次は五本。龍角散でーす」とか。青空球児・好児の「よきすがたなあ」とか。あそこで聴いて腹を抱えたもんでした。懐かしい。
東宝名人会の特異性、その圧倒的な存在感というもの、小学生の私にはわかっていませんでしたね、そのときは。
親の気まぐれで、たまに鈴本や末広亭に連れていってくれたりして、それではじめてわかってきたんです。
こちらは、なんだかうらぶれた風情で、次々と出てくるのはまったく知らない芸人ばかり。ここは、どこか格落ちの場所なのだろうか、といぶかしんで。故郷の野良でののど自慢を又聞きしてるような心持ちでした。各人の出入りも早いし。10分ほどでしょうか。東宝名人会はしっかり聴けたのになあ。
そんな体験をしたのちに、ひさかたぶりに東宝名人会に舞い戻れば、やっぱりここでしょ、というかんじ。安堵に浸れる至福な時間が、やさしく包んでくれていました。日比谷のここはほかの寄席とは違うな、という匂いと風格をあらためて感じたものです。
てなかんじの、夢みる時間も昭和55年(1980)8月いっぱいでおしまいとなりました。
日劇の取り壊しで日劇ミュージックホールが日比谷に移ってきて、玉突きで、東宝名人会は流浪の寄席とあいなったのでした。五代目小さんが「ストリップに追い出されまして」とぼやいてましたっけ。東宝名人会の名称は2005年(平成17)まで続きはしましたが、不定のさまよえる演芸場に。その威容と高邁は昔日の感へと。
ガキの頃の寄席通いは、さまざまに自慢の種です。
ただ、残念ながら、東宝名人会になじんでいた元少年に出会ったことは、いまだありません。上野鈴本、新宿末広亭、人形町末広あたりが落語ファンのお決まりの寄席。
東宝名人会というものは、北京放送やプリズナーNo6あたりと同格のマイブームでした。これはこれで、まあ、話芸が人に及ぼすものすごさの発露なのでしょうね。


