【落語】らくご あらすじ
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
人の心を動かす話芸、とでもいうのでしょうか。
「小説」の始まりは『荘子』内編が初出だと、駒田信二が言っていました。
ある村に三本足の烏がいた。
これだけでもう小説なのだ、という例でした。
これを聴いたり読んだりすると、人は「え!」と驚くわけです。そんな烏はいないに決まっているからです。
人の心が動く。
それが小説なんだ、ということです。
ならば、落語だって同じでしょう。
小説の読者は作家の目の前にはいませんから、紙面を通しての交流というか伝達でしょうが、落語のような話芸は、客は目の前にいるわけです。
この人たちの心を動かすのは、笑いと涙にもっていかせたほうが手っ取り早いに決まっています。
涙よりも笑いのほうがにぎやかで儲かりそうだから、というようなわけで、落語は笑い中心の芸になっていったのでしょう。
おおざっぱですが、正解はこんなところにあるのだと思うのです。
ごちゃごちゃ考証してもおもしろいのですが、それでも、とどのつまりはここに行きつくものです。
もとより「落語」ということばは、そんなに古くありません。
ことばそのものは江戸期には生まれていましたが、定着したのは明治に入ってから、というかんじですね。
明治初期の寄席では「はなし」「むかしばなし」などと番付に記しています。
噺家の芸を、なんと称して当局に届け出ていいのか迷ったほどなのですから。
なんとも、こころもとない芸であり、職業です。
でも、それが落語なのでしょう。私はそこが好きです。
「落語」は「おとしばなし」から来た漢語表現ですし、つづめて言うのを好む日本人には「らくご」の語感が向いていたでしょうから、こちらが定着した、ということですね。
「オチ」があるのが落語、とかいわれていますが、別に、落語ばかりの専売特許でもありません。
小説にだって、映画にだって、オチがあるものです。ときに、どんでんがえしのなんていう、ものすごいオチもありますが。
『荘子』での「小説」の意味は「とるにたりない話」ということだそうですから、落語と同じくくりですね。
ということは、「三本足の烏」は小説でも落語でも使えるわけで、出元は同じといえるでしょう。
今では、高座でかかるもの全般、つまり、怪談、人情噺、滑稽噺などをひっくるめて、「落語」と呼んでいますね。
明治初期の、つまり、三遊亭円朝(1839-1900)がいたころの人たちには福音のことばだったんじゃないですかね。いちいち区別している向きもあったようです。
円朝なんか、番付には「新作」と記されています。今となっては笑える表記です。
落語といっても、始まりはなにも特別なものではありません。
われわれの心の中から湧き出てきた思いやおもしろさ、日常生活の中から長い時間をかけて生まれてきたもの、といえるのではないでしょうか。
古木優
【語の読みと注】
荘子 そうじ:荘周が編んだ道家のテキスト。内編は荘周、外編と雑編は偽書
駒田信二 こまだしんじ:中国文学者、作家。1914-1994