こうぼう【工房】高田裕史


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【 ごあいさつ 】

学生時代、徹底的にこの世を茶化し抜いた江戸の戯作にのめり込み過ぎたせいで、その毒気にあてられ、いつの間にやらこの世を斜に構えてしか見られない、困った精神構造が根つきました。

テレビ番組のコメディーだろうが漫画だろうが、ちょっとやそっとではクスリとも笑えない心根に変質。

もっとも、草創期のテレビ番組や少年漫画雑誌に耽溺した小学校時分でも、本当に腹八分目以上に笑わされたのは「トムとジェリー」「おそ松くん」にクレージーキャッツくらいでしたから、幼い頃から性根がカーブしていたのかもしれません。

落語に本格的にのめり込みだしたのは大学時分のこと。のめり込むといっても、そのネジ曲がった自らのフィルターを通してでしか、噺も噺家も評価はできません。

落語の価値基準は、以下の二つです。

①噺は優れた短編小説のように短くシャープであるべき。

②オチが噺の価値の大半を決めるものだが、湿ったものよりもドライなファース(farce)で構成された噺がより好ましい。

捕捉するなら、「毒」をどこかに隠している噺、それを洒脱に演じられる噺家はさらにお好みである。

とまあ、こんなふうに决めています。勝手なお好みですが。

立川談志がよく「落語は業の肯定」と念仏のように唱えていましたが、「毒をもって毒を制す」という通り、今や本当に必要なのは清濁併せ持つダイナミズムと、どんな時代にも存在した社会の「毒」への耐性を少しでも取り戻すことではないでしょうか。

その点、リニューアルした本サイトを通して、落語の持つものすごい魅力を、ほんの少しばかりの知性と業と毒の絶妙な加減の上にあることを、向こう見ずにも大いに喧伝したいと思っております。

お引き立てのほどをよろしく願い上げます。

【RIZAP COOK】

【私の好きな落語家7傑】

四代目春風亭柳朝

四代目柳家小せん

十代目桂文治

八代目古今亭志ん馬

三代目八光亭春輔

二代目春風亭梅橋

上位3傑は志ん生、志ん朝、馬生で決まり。4位以下の7人です。順不同。

■高田裕史の主な著書
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)古木優と共編著 A5判 1995年
『千字寄席 噺の筋がわかる落語事典 下巻』(PHP研究所)古木優と共編著 A5判 1996年
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)古木優と共編著 文庫判 2000年
『図解 落語のおはなし』(PHP研究所)古木優と共編著 B5判 2006年


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しんしょうのひとこと008【志ん生のひとこと008】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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これは、六代目古今亭志ん馬(稲田真佐文、1935-94)の証言です。

「腹が減ったときに飯を食う奴の了見が知れねえ」

志ん馬が、テレビ番組「人に歴史あり」の志ん生特集で、うちの師匠がよく言うせりふです、として言っていました。

東京12チャンネル(→テレビ東京)は昭和43年(1968)5月15日から、「スタジオドキュメンタリー番組」と銘打った「人に歴史あり」の放送を開始しました。毎週水曜日午後9時-9時30分の時間帯で。

その後、曜日や時間帯が変わりながら、昭和56年(1981)9月23日まで続きました。この年の10月1日からテレビ東京に社名変更するにあたっての、番組改編のあおりでした。

この番組は、内外を問わず第一線で活躍中野各界の著名人をゲストに呼び、ご対面形式で、その人の歩んできた人生を浮き彫りにしようというもの。司会は八木治郎(1925-83)。NHKから移籍したムード派のアナウンサーです。

第1回のメインゲストは池島信平(1909-73)。この人は編集者。当時、文藝春秋の三代目社長でした。この番組は文藝春秋の協力で成り立っていたのです。肝煎りです。

池島の取り巻きゲストには、永井竜男、中山義秀、松本清張、村上元三、開高健、五味康祐、安岡章太郎、由起しげ子、吉行淳之介、生島治郎、五木寛之、今東光、城山三郎、杉森久英、寺内大吉、戸川幸夫、南条範男、三好徹など。

毎回50人ほどの取り巻きが登場するという、30分番組にしては濃密です。

第2回以降のメインゲストは、東山千栄子、石坂洋次郎、川端康成、川口松太郎、水谷八重子、芹沢光治良、尾上梅幸、山岡荘八、徳川夢声、榎本健一、藤原義江、水上勉、中村汀女、松下幸之助、近衛秀麿、松本清張、林武、湯川秀樹、古今亭志ん生など。

文藝春秋が協力しているだけあって、錚々たる文化人の勢ぞろいでした。文化人に偏しているきらいもありましたが、そこが魅力です。この中に志ん生が入っていたわけですから、世間での評価のすごみを感じさせます。

志ん生の回の放送は、昭和43年(1968)7月3日でした。取り巻きゲストは、馬生、志ん朝、文楽、金語楼、志ん馬、円菊、朝馬など。

この番組、構成力がいまいちでした。草創の東京12チャンネルだからでしょうか。志ん生をよく知る人たちが入れ代わり立ち代わり登場するのですが、スタジオで椅子に座ったままの志ん生(ひとことも発しない)をお飾りにして、八木治郎とぺらぺらしゃべるだけのもの。今では信じられないほど、工夫なしの陳腐ぶり。志ん馬の証言だけがいきいきと際立っていました。

それでも、文楽や金語楼などが出てくるのは、いまとなっては貴重な映像ですね。

この年の10月9日の精選落語会で「二階ぞめき」が「王子の狐」に化けてしまいました。それが最後の高座になりました。

そのちょっと前の頃の話です。

人に歴史あり

高田裕史

※参考資料:読売新聞



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しんしょうのひとこと007【志ん生のひとこと007】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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これは、初代古今亭志ん五(篠崎進、1949-2010)の証言。

「ウンコがこわくて、いい百姓になれるか」

べつに、志ん生と百姓は無関係でしょうが。でも、なんだか、おかしい。

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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しんしょうのひとこと005【志ん生のひとこと005】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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海上自衛隊出身、古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)の証言です。

(銭湯で溺れかかって)
「泳ぎの練習をしてたんだ」

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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しんしょうのでしは?【志ん生の弟子は?】志ん生雑感 志ん生!

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NHK「いだてん」では、志ん生の弟子は今松と五りんしか出てきません。

今松はのちの古今亭円菊、五りんは架空の人。これはもう、既知のことかと踏んで、お次に進みます。

しかしまあ。

ここまで単純化すると、ストーリーをしっかり追っかけられてわかりやすい、ということなのかもしれません。でも、現実はそんな単純なもんじゃない。

落語ファン、志ん生ファンにはどうにも消化不良でした。だって、昭和30年当時、飛ぶ鳥落とす勢いの志ん生は、弟子たったの二人、なんていうことがあるわけがないのです。

あれは、NHKの策略で、「全国の落語嫌い」または「落語なんてどうーでもよいスポーツばか」のために、極端に矮小化したまでのことです。

ならば、実際には、どれほどの弟子がいたのか。

このサイトをご覧になってるのは、こよなく「落語」を、あるいは「志ん生」を愛する方々でしょうから、しっかりお伝えすることにいたしやしょう。

以下の通りです。ここから先は高田くんの登場です。(以上、古木)

はい、高田です。では、私が、志ん生と弟子について、少々しっかりとお伝えしましょう。

志ん生は『びんぼう自慢』末尾で「弟子もみんなよくなりましてな」と嬉しそうに語り、その後二人の息子(十代目馬生と三代目志ん朝)を除く、直弟子六人、内輪二人(古今亭甚五楼と古今亭志ん好)の名前を挙げています。

その六人とは以下の通りです。

馬の助(初代)
志ん馬(八代目)
円菊(二代目)
朝馬(三代目)
志ん駒(二代目)
高助(のち初代志ん五)

このうち、最後の高助は、正確には志ん朝の弟子ですが、志ん生生前には内「孫」弟子で住み込み、事実上門下扱いでした。

その他、早世した志ん治(鶯春亭梅橋)。

さらには、廃業した四人も。

志ん一(二代目志ん朝)
もう一人の、志ん一
銀助
古今亭馬子(紅一点)

馬子については、おそらく落語界初めての女流落語家でしたが、残念ながら入門時期や経歴は不明。

長女の美濃部美津子さんによれば、「結構頑張ってましたよ。父もかわいがってたんですけど、しばらくして好きな人ができて」、その結果、結婚・廃業したようです。

そんなわけで、直弟子は、惣領弟子で長男の馬生以下、志ん朝を加えて13人。

このうち、廃業して現在消息が知れない面々を除けば、平成29年(2018)1月18日に亡くなった志ん駒を最後に、ついにすべて、志ん生が待つ極楽亭に行ってしまいました。

83歳3か月で大往生した師匠の没年を超えたのは、円菊(2012年10月13日没、84歳6か月)だけで、ほんのわずか足りなかった志ん駒(81歳16日)を除けば、後は順に以下の通り。

梅橋(1955年、享年29、肺結核)
馬の助(1976年、享年47、癌)
朝馬(1978年、享年47、膵臓癌)
馬生(1982年、享年54、食道癌)
志ん馬(1994年、59歳、肝臓癌)
志ん朝(2001年、享年63、肝臓癌)
志ん五(2010年、61歳、上行結腸癌)

ここまで、師匠より先立った志ん治の梅橋を除き、すべて働き盛りでみんな癌。浴びるほど大酒を食らっても胃癌にも肝臓癌にもなるでなし、最後は眠っているうちに楽々と昇天した師匠に比べ、時代とはいえ、不公平なことかぎりなく、まるで志ん生にことごとく、生気を吸い取られたかのようです。

この弟子連、生前はそれぞれ、折に触れて師匠の思い出、逸話を語り残しています。

それを集大成したのが、『志ん生、語る。』(岡本和明編、アスペクト、2007年)。

家族、弟子、同僚や後輩の噺家たちが、知られざる志ん生の思い出を寄せた、貴重な一冊です。弟子では二人の子息初め、志ん馬、志ん駒、志ん五の証言。

それぞれに興味深いですが、志ん馬は、師匠は若い者に稽古をつけるのが好きで、よその弟子でも、来れば細部までていねいに教えていたこと、「落語ってのは、大筋を覚えてればいいんだ。後は自分の創意工夫だ」と。

倒れてから「どうしてみんな稽古に来ないんだろう」と寂しそうに言ったそうです。

総じて、志ん生は弟子にやさしかったようです。飲み屋の払いも、わざと円菊にさせ、まるでせがれに親孝行でおごらせるように、ニコニコと嬉しそうにしていたとか。

ところで、円菊といえば、二つ目のむかし家今松当時、志ん生が病後のもっとも大変な時期に、内弟子でいつも影のように寄り添い、寄席に復帰してからも毎日師匠をおぶって楽屋入りするので、落語は下手だが、稀に見る師匠孝行というので真打ちにしてもらったという噂で「おぶい真打ち」というあだ名まで奉られた人。

その円菊も、『志ん生! 落語ワンダーランド』(読売新聞社編、1993年)中のロングインタビューで、こんなことを述べていました。

稽古については志ん馬同様、あまり細かいことはうるさくなかったと回想しているのです。

おもしろいのは、師匠が前で噺をしゃべってくれても、あまりにおかしくてろくに覚えられず、吹き出してしまうと「木戸銭取るぞ」と怒られたとか。

ここに、ちょっと興味深い音源があります。

題して「古今亭志ん生 表と裏」。

出自はまったく不明ですが、おそらく当時、志ん生が専属だったニッポン放送のラジオドキュメンタリーかと思われます。

志ん生がトリで寄席がハネた後の楽屋風景から、朝の志ん生家の生録音へと移る貴重な記録。時期は推定で、倒れる直前の昭和36年(1961)ごろ。

りん夫人ほか一家総出演で、途中で別棟の馬生が孫の志津子(のち女優の池波志乃、当時6歳)を連れてやってくる場面があって、なかなか愛らしいのですが、その後、当時今松の円菊が「三人旅」を志ん生に稽古してもらうくだりがあります。

「…あのね、旅してありいてんだからね、え、少しからだをね、こウ、いごかしてほしいんだな。(自ら出発風景を演じて見せて)旅というものをしている心持ちじゃなけりゃいけない。(山や海を見ている心で)客を引っ張り込まなきゃいけない」

「紋付きを着て出てえる人間(噺家)が、紋付きがなくなっちゃって、半纏着ている人間がしゃべっているようでなきゃ。…ただ噺をすればいいってもんじゃない。噺を活躍させなきゃいけない」

いかにも実際的で、志ん生が生涯目指していたという正統派の志向が、よくうかがわれます。

ふだんはぶっきらぼうで、弟子がやって見せても真剣そのものの表情で、クスリとも笑ってくれなかった志ん生でも、これほどすべての弟子に愛され、慕われた師匠は、またとなかったでしょうね。

高田裕史



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ごじゅうねんごのしんしょうは【五十年後の志ん生は】志ん生雑感 志ん生!

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2023年8月26日、美濃部美津子さんが「お父ちゃん」の元に旅立った。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の長女である。マネジャーとして、長年、名人を支えてきた人でもあった。白寿の享年。合掌。

奇しくも、あれから五十年。経めぐってきたこのとき。はやいようなおそいような。

志ん生はまだ向こうでおとなしくやっているかのどうか。知りはしないが。

美津子さんは美濃部ファミリーの語り部だった。志ん生、りん、喜美子(次女、三味線豊太郎、1925-81)、馬生、志ん朝……。志ん生志ん朝マニアには、美津子さんご自身が伝説であり続けた。

伝説といえば、このこと。

この半世紀、落語界の枠を超えて針小棒大に手垢をなすられ続けた感のある志ん生。

その人気は、ネット時代となっても衰えを知らない模様である。

こころみにYouTubeで検索すれば、出るわ出るわ。

病後のくたびれた時期の録音も、数少ない実写などもあわせたら、ゆうに100件を超えている。

中身もふるっている。

五十回忌での「五十年追善興行記者会見」とか、新作落語「志ん生がスティック買う?」とか。

百花繚乱である。

ひところは、当人出演の古いTVインタビューも、ざくざくアップされていた。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894.10.25-1964.11.8)との、ともに入れ歯ガチャガチャの対談など、まだまだ掘り出しものがさらされることだろう。

現在、Wikipediaの外国語版では、ドイツ語版にのみ志ん生のページがある。奇妙なことだ。次男志ん朝との因縁なのだろうか。

こんな現象が続くならば、志ん生の私生活や心象風景をも覗き込めるかもしれない。

志ん生という人は、その芸が好きになると、もう風呂場の中まで覗きたがるたちだったという。

岡本和明著『志ん生、語る』は、近親者や弟子の聞き書きで、要領よくまとめられてある。そんな生身の志ん生が浮き上がっている。全編、興味深い。

骨董贔屓に力士贔屓が活写されている。印象深い逸話の数々。

ただ、やれ骨董道楽だの、それ鶴ヶ嶺贔屓だのと、それは過ぎし世の老爺たちがいとなむ、ありふれた日常にすぎないようにも見える。

あたりまえのことだが、志ん生は噺家である。そこらの爺とは違う。

肝心の落語についてはどうか。

あえて、私見を。

志ん生の一見アナーキーなギャグや客の掴み方は、演芸界で生き残らんがための当人の悪戦苦闘と、そこから生み出された冷徹な計算の賜物ではないか、と私は思うのだ。

当人が意図的に拡散した虚実ない交ぜの武勇伝。例の極貧譚なども、すべてはおのれが落語でのし上がるための方便だったのではないだろうか。

具体例を出そう。

五銭の遊び」である。

紙くず屋との「十銭か」「五銭か」と、たたみみ掛けるやり取り。

その末に、「三銭か」「当たった」「あ、三銭」の最後の「あ」と同時に客の笑いがどっと被り、末尾をかき消すと同時に、笑いは百倍にも増幅する。

痛快な場面である。

スタジオ録音などでは、とうてい得られない誘爆力だろう。

これもまた、志ん生流の落語の立体化である。

没後、半世紀にもなって、なおマニアを量産する魔術、催淫効果と言えないか。

なにか、身ぶるいのする凄みさえ感じるというのは、大仰だろうか。

で、蛇足を。

明治23年(1890)生まれの美濃部孝蔵クンには、日本だけでも119万人もの赤ん坊仲間がいた。世界中の「同級生」を挙げれば、アイク、ドゴールがすぐに思い浮かぶ。この二人で十分だろう。

しかし、である。と、私は強調したいのだが。

たかだか米仏大統領二人の朗々たる名演説ごときは、志ん生が成し遂げた酔いどれ聴衆掌握の珍妙きてれつな話術に比べれば、屁でもない。それは断言できる。

冥界の当人は、さぞ、もう、多分、うんざりなことだろう。

娑婆ではまだそんな繰り言めいた妄言を広げているのか、いいかげんに瞑目させてくれ、と怒っているかもしれない。

だが、まだまだ当分、娑婆にたゆとう「古今亭志ん生」は、解脱などできそうにない。マニアの脳裏にしっかり根付いているのだから。

あれこれ含め、古今亭志ん生はつくづく不世出、永久欠番の天才噺家であったことだなぁ。

高田裕史