おおつえ【大津絵】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

志ん生ファンは数多くいますが、出久根達郎氏はとりわけ「大津絵 冬の夜」が好きだとはばかりません。こういう人、たまにいます。わたしもそんな一人です。

これは落語ではありません。俗曲です。一般には「大津絵」と呼んでいます。「大津絵」といえば、東海道の近江は髭茶屋追分宿でお土産に売られた戯画です。戯画の大津絵から派生して、さまざまな芸能が生まれました。ここがややこしい。戯画も大津絵、唄も大津絵、踊りも大津絵。志ん生の「大津絵」は大津絵節、ということになります。

髭茶屋追分は、東海道と伏見街道の交差する、まさに追分でしたので、大津絵はお土産に、願掛け魔除けに売られて、全国的な知名度をもったようです。画題が十種あって、そのバリエーションを忠実に守っていることが、大津絵の大津絵たらしめるゆえんなのだそうです。

大津絵節は明治の前半頃に大流行したそうです。うたいやすくて、素人でも誰でも詞をつくって曲をもつくれるのだそうで、花柳界ではどれもこれも大津絵節のお座敷だったとか。

         大津絵節の解説  大津絵踊り  幕末・明治期における民謡・大津絵節の歴史的研究                              

志ん生のうたう「大津絵 冬の夜」はCDに収録されています。これがおもしろく、志ん生にもう一人の志ん生がインタビューしているのです。

大津絵には滑稽味が漂うものなのですが、志ん生がうたう「大津絵 冬の夜」には滑稽味が皆無です。あの志ん生がどうして、といぶかる向きもありますが、これも志ん生なのです。市井に生きる人の切なる思いが胸を突きます。歌言の魂が聴く者に心に宿るような、しみじみとした太い力を感じさせます。    

五代目古今亭志ん生

ここで志ん生は、初代立花家橘之助(石田美代、1866-1935、音曲師)の弟子の「こみよ」さんという人に教わった、と言っています。

志ん生の「大津絵 冬の夜」にからんだ話には、いくつか有名なものがあります。

そのひとつ。

慶應の小泉信三(1888-1966、経済学)は毎年、志ん生を自宅に呼んで「大津絵 冬の夜」を聴きました。その折、小泉は、いつものくだりにくると必ず号泣するのだそうです。息子(小泉信吉)を戦争で亡くしたこと、多くの教え子を戦死させてしまったことなどがオーバーラップするのでしょうか。泣きたくて志ん生を呼んでいたようです。

私の大津絵(節)考

さらに。

山口瞳(1926-95、作家)の逸話もこれまた有名です。こちらは、明神下の神田川(うなぎ)において、志ん生を招いて聴いたという話。その額が10万円。昭和42年(1967)頃のこと。経済学的な換算ですと、消費者物価指数からはじき出せば4.3倍となり、それだと43万円となります。これなら、直木賞受賞の売れっ子作家ならどうということもありますまい。私の来し方の生活感覚からはじきだせば、現在の300万円ほどかと思われます。唄一曲聴くのにこの額は、そうとうなものです。竹内勉(1937-2015、民謡研究家)はこの当時、売れっ子噺家は5万円、円生が7万円で最高額だったようなことを言っています。押して知るべしです。

まずは、「大津絵 冬の夜」の歌詞をどうぞ。

冬の夜に風が吹く
知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ
これさ女房わらじ出せ
刺し子襦袢に火事頭巾
四十八組おいおいと
お掛かり衆の下知を受け
出て行きゃ女房はそのあとで
うがい手水にその身を清め
こよいうちの人になァ
けがのないように
南無妙法蓮華経
清正公菩薩
ありゃりゃんりゅうの掛け声で
勇みゆく
ほんにおまえはままならぬ
もしも生まれたこの子が男の子なら
おまえの商売させやせぬぞえ
罪じゃもの

山口瞳は神田川での一席を、一人5,000円の会費で募りましたら、またたく20人が集結。10万円は充填されました。それでも、神田川での食事代があります。付き添いのお弟子二人、三味線の平川てるさんなどへの払いは10万円の中にあったのでしょうが、気付けも(忘れてしまったそうですが)。なんだかだ10万円では足りなかったようです。まあ、それはともかく。「大津絵 冬の夜」を聴いた余韻にひたり鰻重に舌鼓打ちつつ酒席に変じた頃合い。はずした隣席の志ん生が、マネジャーの長女美濃部美津子(1926-2023)を通じて、山口を呼びました。「おとうちゃんが呼んでる」と。山口が行ってみると、志ん生はさっきの大津絵は満足しないのでもう一回聴いてくれ、と。その場で、山口は、志ん生のうなりをもう一回聴くことになりました。

 これを一言で言うならば、はなはだ月並みに言うならば、芸人の執念である。あるいは恨みである。あるいは怒りである。もどかしさである。あるいは魂である。あるいは律義である。そうして、自分の体と自分の芸との戦いだった。その場に立ちあってくれと言っているのである。大変に辛いことを書くが、そのときの志ん生さんは、もう、声が出なくなっていた。冬の夜に風が吹く、までは出る。あとは何が何やらわからない。私は、志ん生さんのまえに頭を垂れているばかりである。

志ん生の意気地を強く感じます。そのあと、山口はこうも記しています。

 志ん生さんが亡くなってから、彼の人柄がチャランポランであり、その芸は天衣無縫だと言われた。私は断じてそうは思わない。志ん生さんは律儀な人であり、その芸は計算された芸である。まっとうな修練を経た芸である。

私はここを引用したくて、ながながとつづったのかもしれません。「大津絵 冬の夜」には、もうひとつの「志ん生」がひそんでいます。

必聴です⇒大津絵 冬の夜

                               古木優

※参考文献:山口瞳『隠居志願』(新潮社、1974年)、矢野誠一『志ん生のいる風景』(青蛙房、1983年)、矢野誠一『文人たちの寄席』(白水社、1997年)


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とよたけや【豊竹屋】落語演目

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【どんな?】

義太夫大好き男とでたらめ口三味線野郎。
二人の極め付き、夢の競演。
上方噺の音曲噺。
豊竹豆仮名太夫だった六代目円生のお得意。

あらすじ

下手の横好きで、義太夫に凝っている豊竹屋節右衛門という男。

なんでも見聞きしたものをすぐ節をつけて、でたらめの義太夫にしてしまうので、かみさんはいつも迷惑している。

あくびにまで節をつける始末。

朝起こされると
「おとといからの寝続けに、まだ目がさめぬゥ、ハァ(と欠伸して)、あくびィ、かかるところに春藤玄蕃、くび見る役はァ、まつおうまるゥ」
と、さっそく「寺子屋」をひとうなり。

あちこち飛んで、
「その間遅しとォ、駆けいるお染、逢いたかったァ……」
と野崎村に変わったと思うと
「武田方の回し者、憎い女と引き抜いてェ」
と「十種香」になり、いつの間にか
「母の皐月がァ、七転八倒ォ、やややややァッ」
と「太功記」十段目・尼崎の場。

「ちちちちちっつん、つんつん、巡礼姿の八右衛門、後に続いて八幡太郎、かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれェ」
と、しまいにはなんだかわからない。

朝飯になると、碗の蓋を取るなり
「ちちん、お碗の蓋ァ、開くゥればァッ、味噌汁八杯豆腐、煮干の頭の浮いたるはァ、あやしかりけるゥ、ぶるるるッ」
と、興奮して蛮声を張り上げ、お膳を引っくり返す騒ぎ。

そこへ訪ねてきた男、これまた
「てん、ちょっとお尋ね申します、豊竹屋節右衛門さんンンは、こちらかええッ」
と、妙な節回し。

同類が現れたと、かみさんは頭を抱える。

この男、浅草三筋町三味線堀に住む花林胴八といって、でたらめの口三味線を弾くのが好きという、負けず劣らずの義太夫狂。

節右衛門の噂を聞いて、手合わせしたいと訪ねてきたもの。

三味線とはちょうどいいと、かみさんの渋い顔もどこ吹く風、節右衛門は大喜び。

さっそく二人の「競演」が始まった。

隣のお婆さんが洗濯する音が聞こえると
「ばあさァんせんだあくゥ、ううゥゥゥ」
「は、じゃっじゃっじゃっじゃじゃ。しゃぽォん」
「にじゅうごにちのォ、ごォえェんにィち」
「はっ、てんじんさん」
「ちんをふったわァ、ごォみィやァ、かァえ」
「ハッ、ちりちりん、ちんりんちんりん、ちりつんでゆくゥ」
「うまいッ。きょねんのくれのォ、おォおみォそおか、米屋と酒屋に責められェ、てェ」
「てんてこまい、てんてこまい」

いよいよ乗ってきて、
「子供の着物を親が着てェ」
「ハッ、つんつるてん」
「そばに似れどもそばでなくゥ、うどォんに似れども、うどんでなく、酢をかけ蜜かけたべェるのは」
「とォころてん、かァんてん」
「おなかこォわァしてェ、かよォうのォはッ」
「せっちんせっちん」
と、やっていると、棚から鼠が三匹。

「あれあれ、むこうの棚に、ねずみが三ついでてむつまじィく、ひとつのそなえをォ、引いてゆゥく」
と、節付けすると、鼠まで節をつけて
「チュウチュウチュウチュウ」

「いやあ、節右衛門さんとこのねずみだけあって、よく弾き(=引き)ますな」
「いやあ、ちょっとかじるだけで」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

貴重な音曲噺

原話は不詳ですが、貞享4年(1687)刊の笑話本『はなし大全』中巻ノ二の「口三味線」がそれらしき原型のようです。大坂で、天保年間(1830-44)から口演されてきた、今に残る貴重な音曲噺です。いつ、だれが東京に移植したかは、不明です。演題は、浄瑠璃の一派で、豊竹越前少掾(1681-1764)が享保16(1731)年に創始した豊竹派をもじったものです。

円生の十八番

義太夫の素養がなくてはできないため、戦後、音曲噺がすたれてからは、幼時「豊竹豆仮名太夫」を名乗って義太夫語りだった、六代目三遊亭円生の独壇場でした。

円生は最晩年、まるで後継者を捜し求めるように頻繁にこの噺を高座に掛け、国立劇場のTBS落語研究会(1978年12月26日)を始め、残された音源は11種、CDは6種という、ちょっとした記録です。入船亭扇橋、林家正雀、古今亭志ん輔など、手掛ける人が出ました。

円生の工夫

円生の芸談によると、昔は現行の話の前に、節右衛門が湯屋で義太夫をうなりすぎてふらふらになる場面がつくこともあったといいます。東京でも、柳派はこのやり方でした。円生は、口三味線で胴八が洒落る場面で「隣のじいさん抱き火鉢」「たどん」とやっていたのを婆さんの洗濯に変えています。

通じないオチ

「ちょっとかじるだけ」というオチは、人形浄瑠璃の符丁で三味線を弾くことを「かじる」と呼んだことから。もう現在では、よほどの文楽マニアでないと通じないでしょう。

義太夫四題 

噺の中で披露される演目は、いずれも今日、文楽、歌舞伎のレパートリーとして著名なものですが、複数の浄瑠璃の登場人物が、入り乱れてごたまぜで現れるのが落語の落語たるところで、こういう滑稽は「五目講釈」にも登場します。

「寺子屋」は『菅原伝授手習鑑』の四段目の切です。松王丸は、大宰府に流罪となった旧主・菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の命を救うため、わが子を身代わりに立てる悲劇の人物。春藤玄蕃は、菅秀才の首実験のため派遣される役人で敵役。おやじが流罪なのに縁座の子供が打ち首という摩訶不思議な芝居。

「野崎村」は、世話浄瑠璃『新版歌祭文』全二段の上の切。

「十種香」は、『本朝二十四孝』四段目の中で、長尾謙信の息女八重垣姫が、恋する武田勝頼の回向に香を焚く場。

八右衛門は『恋飛脚大和往来』(近松門左衛門)の新口村の段の登場人物。八幡太郎義家は『奥州安達原』(近松半二)の登場人物。町人と武将がごちゃまぜに出る混乱ぶりです。

三味線堀

台東区小島一丁目にあった堀。形が三味線に似ていたことからこう呼ばれました。寛永7年(1630)、鳥越川の掘削によってできたもので、閑静な景勝地でした。戦後、川も堀も無残に埋め立てられ、今は跡形もありません。

フィクションでは、昭和37年(1962)の東映映画『怪談三味線堀』の舞台となったほか、『その男』(池波正太郎)の主人公、剣客の杉虎之助が生まれ育った地でした。

花林胴八

カリン(マルメロ)の木で三味線の胴を作ることから、それをもじった名です。

【語の読みと注】
新口村 にのくちむら
花林胴八 かりんどうはち



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あいのやま【相の山】川柳 ことば

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面白くなる銭のなくなる相の山  八十二18

「相の山」は伊勢神宮の内宮ないぐう外宮げぐうの間にある小高い山。「間の山」とも。

江戸時代を通して有名な話ですが、ここには、三味線を弾いて参詣客から銭も乞う女がいました。

客が女目当てに投げる銭をばちではじいてわが身に当たらせない特技が売り物でした。客は絶対当ててやろうとついつい銭を使ってしまうという、まるでゲーセン感覚の遊びです。いつも二人でやっていて、「お杉」「お玉」と名乗っていました。

相の山→お杉お玉→銭当ての連想です。それにしても、すごい商売ですね。

抜打ぬきうちにお杉お玉へ銭つぶて  七十四02

客はいろんな手でお杉お玉を狙い撃ちです。

手がらなりお杉お玉をいたがらせ  宝十三松03

たまには当たるわけで。これも彼女らの手の内でしょうか。

毛のばちで弾けばあわれな相の山  宝七、十一

「毛のばち」とは胡弓こきゅうを連想させます。これでは銭をうまくはじけませんね。かわいそうな話ですが、「だったらいいな」という、ただの妄想でしょう。

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ごけごろし【後家殺し】落語演目

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【どんな?】

すじだけ読むと笑える代物ではないのですが。
六代目円生のお得意噺でした。

あらすじ

職人の常さん、大変に義太夫に凝っている。

ある日、町内の伊勢屋という大きな質屋で開かれた会で、「平太郎住家」を一段語ったのが縁となって、そこの後家さんといい仲になった。

もう三年越し。

後家さんは年のころ二十七、八で、色白の上品ないい女。

常さん、コソコソ隠れてするのが嫌いな性分なので、堂々とかみさんに打ち明けると、このかみさんもさばけたもの。

「決してうれしいことではないけれど、私を追い出すというのでさえなければ、おまえさんがほかに変な女に引っ掛かるよりはいいし、男の働きだから」
と公認してくれている。

そんなわけで、本宅と伊勢屋に一日交代で泊まり、向こうも心得たもので、月々にはちゃんと金も届けて寄こすし、うらやましいご身分。

ところが、その話を聞いた友達がやっかみ半分に、
「あの後家さんは、もうとうにおまえに飽きが来て、荒井屋という料理屋の板前で喜助という男とできている」
と吹き込んだから、さあ常さんは心穏やかではない。

喜助は女殺しの異名を取る、小粋ないい男。

疑心暗鬼にかられた常吉、ついにある夜、出刃包丁を持って伊勢屋に踏み込み、酒の勢いも借りて
「よくもてめえはオレの顔に泥を塗りゃあがったなッ」

後家さんのいいわけも聞かばこそ、馬乗りになると、出刃でめった突き。

なます斬りにしてしまった。

あとで、その話はまったくの作り話と知れ、後悔したが、もう遅い。

お白州へ引き出され、打ち首と決まった。

「その方、去る二月二十四日、伊勢屋の後家芳なる者を殺害いたし、重々不届きにより、重き科にも行うべきところ、お慈悲をもって打ち首を申し付ける。ありがたくお受けいたせ」
「ありがたかありません」
「今とあいなり未練なことを申すな」

奉行が、
「いまわの際に一つだけ願いをかなえてつかわす」
というので、常さん、義太夫で
「後に残りし女房子が、打ち首とォ聞くゥなァらばァ、さそこなげかァーん、ふびんやーとォー」
と語ると奉行、ぽんと膝をたたいて
「よっ、後家殺しッ」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

しりたい

円生ネタ

もともと上方落語の切りネタ(大ネタ)で、原話は不詳です。

大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)からの直伝で、戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が東京に移植、独壇場にしていました。

義太夫の素養が不可欠なため、円生在世中もほとんどほかにやる落語家はなく、没後の継承者も出ません。今となると、貴重な噺です。

実際に、高座で義太夫を語る音曲噺なので、「やはり耳で聞いていただくのがいちばん」と円生も述べています。

円生は、「噺の中の進行のために、浄瑠璃の文句のすべてを節づけず、半分の文句は普通にしゃべりますが、義太夫の素養がないと、節の場合とちがって自然に出てこないものです」とも、語り残しています。

すじだけ読むと、とても笑える代物ではないのですが。円生のお得意噺でした。

この噺や「豊竹屋」などは、少年時代にプロの義太夫語りだった円生ならではのもの。豊竹豆仮名太夫の名で高座に出ていました。こうした噺を自在にこなせる落語家は、残念ながらいまはいません。

平太郎住家

浄瑠璃「祇園女御九重錦」全五段のうち三段目。柳の木の精が人間の妻になるという筋立てで、俗に「柳」ともいい、歌舞伎にも脚色されています。

お慈悲をもって打ち首

「下手人」といいます。この言葉は、犯人をも意味しますが、罪名として用いられる場合は、単純な斬首刑のこと。

取られるものは首だけで、同じ打ち首でも、「死罪」のように市中引き回し、家財没収、山田朝右衛門によるためし斬りなどの付加刑がない分、確かにありがたいお慈悲です。

後家殺し

上方で、浄瑠璃にかけるほめ言葉です。語源は不明ですが、後家を悩殺するほどの色男、という意味でしょう。

義太夫の三味線は「太ザオ」なので、あらぬ連想をたくましくすることも不可能ではありませんが……。

「後家が惚れるくらいですからいい加減な義太夫ではいけません」(六代目円生)

【語の読みと注】
下手人 げしゅにん:斬首刑

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