ほんぜん【本膳】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

庄屋の娘の婚礼で食事をすることに。
誰も本膳の作法を知らないことから……。
今も悩ますテーブルマナー。
ハレの食事でのさまざまな作法。
恥かきたくないから知ったかぶりでごまかして。

【あらすじ】

ある村のむらおさ(庄屋)の家で嫁取りをした。

村の衆が婚礼の際に祝物を贈った返礼に、今夜、村のおもだった者三十六人が招待され、ごちそうになることになったが、誰も本膳の作法や礼式を知らない。

恥をかきたくないので、江戸者の手習いのお師匠さんに頼んで、泥縄で教えてもらうことにした。

相談された師匠、
「今夜ではとても一人ずつ稽古する時間はないから、上中下どこの席についても、自分のすることをまねするように」
と言い、
「羽織りだけは着ていくように」
と注意する。

「それなら間違えがねえ」
と一同安心して、いよいよ宴席。

主人があいさつし、盃が回された後、いよいよ本膳。

師匠が汁碗の蓋を取ると、一同同じように蓋を取る。

師匠が一口吸うと、隣の男が次席の者に
「これ、二口吸うでねえぞ。礼式に外れるだ。一口だぞ。一口一口」

これを順番に同じ文句で隣の人間に伝えていくのだから、末席まで伝わるのにえらく時間がかかる。

今度はご飯を一口食うと、同じように
「たんと食ってはダミだぞ」
と伝達が回る。

師匠、おかしくなってクスリと笑うと、とたんに鼻先に飯粒が二粒くっついた。

一同、さあ、食うだけでは礼式を違えると、一斉に飯粒を鼻へ。

間違って五粒くっつけてしまった男が、あわてて三粒食ってしまう騒ぎ。

平碗が出て、中身は悪いことに里芋の煮っころがし。しかも箸が塗り箸だから、ヌルヌルしてはさめない。

師匠、不覚にもつるっと箸がすべって、膳の上に芋が転がり出た。

仕方なく箸で突っ付いていると、さっそくあちらでもこちらでも芋をコロコロコロ。箸でコツンコツンやるから、膳は傷だらけ。

先生、
「今のは違う違う」
といくら注意しても聞こえないから、隣の脇腹を拳固で突いた。

「あいてッ、今度の礼式はいてえぞ」
とまた、その隣をドン。それがまた隣をドン。

「いてえ、あにするだ」
「本膳の礼式だ。受け取ったら次へまわせ」
「さあ、この野郎」
「そっとやれ」
「そっとはやれねえ。覚悟スろ。ひのふのみ」
「いててッ」

最後の三十六人目が思いきり突いてやろうと隣を見ても誰もいない。

「先生さまぁ、この礼式はどこへやるだ?」

底本:八代目林家正蔵(彦六) 三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

時代や地域に変わりなく

後漢(25-220)の笑話集『笑林』中の「-人欲相共只喪」が最古の原話とされます。

これは、葬列で足を踏まれた人が怒って「バカ」と罵ったのを後ろの者が追悼の儀礼と勘違いし、一同まねして「バカ」と叫んだというお話。 

日本の笑話では、元和年間(1615-24)刊の『戯言養気集』中の無題の小咄があります。

信濃国深志の連中が伊勢参宮して御師(=伊勢神宮の神職)に膳をふるまわれ、先達の坊さんが山椒にむせて顔をしかめ、水をのんだのを全員まねする、というお笑い。

万治2年(1659)刊の『百物語』にも。

にゅう麺の薬味の山椒にむせてクシャミをし、四つんばいで退出するのをまた一同まねする小咄があります。

民話に類話があるようです。

現代の結婚式風景などを見ても、テーブルマナーなるものが時代や地域を問わず、いかに人々を悩ませてきたかがうかがわれる噺です。

本膳

日本料理の正式の膳立てで、ふつうは三の膳まであります。

最初に出る一の膳を本来「本膳」と呼びますが、三の膳までひっくるめてそう呼ぶ場合もあります。

正式なマナーとしては、和え物と煮物に続けて箸をつけない、菜と汁をいっしょに食べない、迷い箸をしない、おかわりの時は飯碗を受け取ったら必ず一度膳に置く、などがあります。

いやはや、うるさいこと。

本膳では、一の膳に飯がつくのがふつうだそうです。

彦六、小さんが得意に

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から四代目小さん(大野菊松、1888-1947)を経て、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)に受け継がれてました。

三代目小さんの養子だった二代目柳家つばめ(浦出祭次郎、1875-1927)に教わって、八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)もよく演じました。

地味で笑いも少なく、ウケにくい噺なので、現在はほとんど手掛ける者がなく、CDが出ているのは五代目小さんのものです。

正蔵のものは、小さん系のやり方とほとんど変わりませんが、招待されるきっかけが違っています。

三代目小さんの大正3年(1914)の速記では名主の家へ江戸者の婿が来る披露で、庄屋以下が出かける設定です。

江戸の人間に村の恥を見せたくないという見栄が、師匠に作法を習いに行く動機になっているわけです。

正蔵ではこの要素を省き、村長の招待で村民一同が出かけることにしてあります。

これで、名主と庄屋は同じであるのに、同じ地方の一つの村に同時にいるのはおかしいという矛盾を解消しています。

オチは、五代目小さんは「この拳はどこへやるだ?」としていました。

村長

むらおさ。庄屋、名主に同じです。

藩主(天領の場合は幕府→代官)の任命で、地頭(代官)の下で年貢そのほか、村の事務を司りました。

関東以北では名主、関西では庄屋と呼びました。

講談にも類話

講談「荒茶の湯」は類話でしょう。

福島正則(1561-1624)以下の無骨な侍が、茶の席で上座の加藤清正(1562-1611)を、逐一まねして失敗します。



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評価 :1/3。

ねぎまのとのさま【ねぎまの殿さま】落語演目

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【どんな?】

認識のギャップを笑う噺。
殿さまもののひとつです。

あらすじ

さるお大名が、庭の雪を眺め、急に向島の雪景色を見たくなった。

そこで、お忍びで、年寄りの側用人三太夫だけをお供に、本郷の屋敷を抜け出し、本郷切り通しから池之端仲町の、錦丹円という大きな薬屋の前に来て馬を止めると、うまそうな匂いが漂ってきた。

このあたりは煮売り屋が軒を並べていて、深川鍋や葱鮪を商っている。

ちょうど昼時で、殿さま、空腹に耐えられず、
「あれへ案内いたせ」

鶴の一声で、
「下郎の参る店でございます」
と三太夫が止めても聞かない。

縄のれんから入ると、殿さまにはなにもかも珍しく、「宮下」が大神宮さまの祭壇の下の席であると聞き、その場で拍手を打ったり、
「床几を持て」
と言いつけたりのトンチンカン。

床几の代わりに醤油樽に座らされ
「町人の食しているものはなんじゃ?」

若い衆が答えたのが、早口なものだから、殿さまには
「にゃっ」
と聞こえる。

「さようか。その『にゃー』を持て」
「へいッ、ねぎま一丁ッ」

ぐらぐらあぶった(煮た)のを見ると、煮売屋の安い葱鮪だから、鮪も骨と血合いがついたまま。

殿さま、葱を一口かむと、熱い芯が飛び出して丸呑みし、喉が焼けそうになったので、
「これは鉄砲仕掛けになっている」
と、びっくり。

酒を注文すると
「だりにいたしますか、三六にいたしますか?」

「だり」は一合四十文の灘の生一本、「三六」は三十六文の並み。

だりをお代わりして、殿さますっかりご機嫌になり、珍味であったとご満悦で、雪見をやめて屋敷へ帰る。

この味が忘れられず、何日かしてまた雪が降ると、ご膳番の留太夫に
「昼(食)の好みはニャーである」
とのお達し。

留太夫、なんのことかわからないが、ご機嫌を損ねればクビなので、聞き返せない。

首をひねった末、三太夫に聞いてやっと正体が判明したが、台所では、鮪の上等なところを蒸かし、葱もゆでて出したので、出てきたのは、だし殻同然。

殿さまは
「屋敷のニャーは鼠色であるな。さぞ珍味であろう」
と口をつけたが、あまりのまずさに
「これはニャーではない。チユーである。ミケのニャーを持て」

また、わけがわからない。

「ミケ」とは葱の白と青、血合いの垢の三色だと三太夫が「翻訳」したので、やっとその通りにこしらえると、殿さまは大満足。

熱い葱をわざわざかみつぶして
「うむ、やはり鉄砲仕掛けだ。ああ、だりを持て。三六はいかんぞ」

また三太夫に聞いて、瀬戸の徳利に猪口をつけ、灘の生一本を熱燗で持っていくと、殿さまは喜んでお代わり。

「だりと申し、ニャーと申し、余は満足に思うぞ」
「ありがたきしあわせ」
「だが留太夫、座っていてはうもうない。醤油樽を持て」

【RIZAP COOK】

 

しりたい

だり  【RIZAP COOK】

行商、駕籠、八百屋、魚屋の符丁で、4、40、400のこと。「だりがれん」だと45、450になります。

煮売り屋  【RIZAP COOK】

一膳飯屋のことです。「煮売り」は上方から来た名称で、元は、長屋の住人などが、アルバイトに屋台のうどん、そばなどを商ったのが発祥です。江戸では、元禄年間(1688-1704)に浅草に奈良茶飯を食べさせる店ができたのが本格的な飲食店、つまり煮売屋のはしりとか。落語では「二人旅」にも登場します。

錦丹円  【RIZAP COOK】

正しくは「錦袋円」、俗称を「金丹屋」ともいいました。元祖は了翁僧都という高僧で、承応4年(1655=明暦元)、夢告によって仁丹に似た錦丹円という霊薬の製法を授かり、これを売って得た三千両余で、現在の湯島聖堂の場所に寛文10年(1670)、「勧学寮」という学問所兼図書館を建設しました。大正年間まで残っていたその額は、徳川光圀(水戸黄門)の揮毫だったとか。錦丹円の娘が不忍池の主の大蛇に見初められ、池の中に消えたという伝説が残っていました。

池之端仲町  【RIZAP COOK】

舞台になる池之端仲町は、現在の東京都台東区上野二丁目。このあたりは、古くは不忍池の堤でした。上野広小路と地続きで、将軍家の直轄領なので、お成りの際の警備の都合で本建築は許されず、バラック同様の煮売屋が並んでいました。店を、上野「袴腰の土手」と設定するやり方もあります。袴腰は、上野黒門の左右の石垣をさします。その形状が袴に似ていたから。今の上野公園のあたりです。

講談からの翻案  【RIZAP COOK】

五代目立川談志(生没年不詳、明治初期-昭和初期)が、講談から落語に翻案したといわれます。講談では、殿さまは松江の雲州公(松平治郷、「目黒のさんま」参照)で、煮売り屋のおやじを召抱えて料理番にするという筋立てです。

今輔の十八番  【RIZAP COOK】

昭和の新作落語のパイオニア的存在だった五代目古今亭今輔(1898-1976)が数少ない「古典落語」の持ちネタとして十八番にしていました。

現在でもよく高座に掛けられます。客がセコなときにやる「逃げ噺」の代名詞的存在。

ことばよみいみ
葱鮪 
ねぎま
床几 
しょうぎ
錦袋円 きんたいえん

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しんしょうのひとこと008【志ん生のひとこと008】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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これは、六代目古今亭志ん馬(稲田真佐文、1935-94)の証言です。

「腹が減ったときに飯を食う奴の了見が知れねえ」

志ん馬が、テレビ番組「人に歴史あり」の志ん生特集で、うちの師匠がよく言うせりふです、として言っていました。

東京12チャンネル(→テレビ東京)は昭和43年(1968)5月15日から、「スタジオドキュメンタリー番組」と銘打った「人に歴史あり」の放送を開始しました。毎週水曜日午後9時-9時30分の時間帯で。

その後、曜日や時間帯が変わりながら、昭和56年(1981)9月23日まで続きました。この年の10月1日からテレビ東京に社名変更するにあたっての、番組改編のあおりでした。

この番組は、内外を問わず第一線で活躍中野各界の著名人をゲストに呼び、ご対面形式で、その人の歩んできた人生を浮き彫りにしようというもの。司会は八木治郎(1925-83)。NHKから移籍したムード派のアナウンサーです。

第1回のメインゲストは池島信平(1909-73)。この人は編集者。当時、文藝春秋の三代目社長でした。この番組は文藝春秋の協力で成り立っていたのです。肝煎りです。

池島の取り巻きゲストには、永井竜男、中山義秀、松本清張、村上元三、開高健、五味康祐、安岡章太郎、由起しげ子、吉行淳之介、生島治郎、五木寛之、今東光、城山三郎、杉森久英、寺内大吉、戸川幸夫、南条範男、三好徹など。

毎回50人ほどの取り巻きが登場するという、30分番組にしては濃密です。

第2回以降のメインゲストは、東山千栄子、石坂洋次郎、川端康成、川口松太郎、水谷八重子、芹沢光治良、尾上梅幸、山岡荘八、徳川夢声、榎本健一、藤原義江、水上勉、中村汀女、松下幸之助、近衛秀麿、松本清張、林武、湯川秀樹、古今亭志ん生など。

文藝春秋が協力しているだけあって、錚々たる文化人の勢ぞろいでした。文化人に偏しているきらいもありましたが、そこが魅力です。この中に志ん生が入っていたわけですから、世間での評価のすごみを感じさせます。

志ん生の回の放送は、昭和43年(1968)7月3日でした。取り巻きゲストは、馬生、志ん朝、文楽、金語楼、志ん馬、円菊、朝馬など。

この番組、構成力がいまいちでした。草創の東京12チャンネルだからでしょうか。志ん生をよく知る人たちが入れ代わり立ち代わり登場するのですが、スタジオで椅子に座ったままの志ん生(ひとことも発しない)をお飾りにして、八木治郎とぺらぺらしゃべるだけのもの。今では信じられないほど、工夫なしの陳腐ぶり。志ん馬の証言だけがいきいきと際立っていました。

それでも、文楽や金語楼などが出てくるのは、いまとなっては貴重な映像ですね。

この年の10月9日の精選落語会で「二階ぞめき」が「王子の狐」に化けてしまいました。それが最後の高座になりました。

そのちょっと前の頃の話です。

人に歴史あり

高田裕史

※参考資料:読売新聞



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さけちゃづけ【酒茶漬け】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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山田風太郎(山田誠也、1922-2011)の『神曲崩壊』にはこんな話も載っている。

せがれの志ん朝が生前、高級ふりかけ「錦松梅」のCMに出ていた。おやじの方は、そういうものは飯にはかけない。志ん生が茶漬けにしたのは、もちろん酒。鮭茶漬け? いや、酒茶漬け。

もっとも、若き日は焼酎茶漬け、だったようだ。酒のうちでももっとも安い「鬼ころし」さえ買えなかったらしい。

高田裕史


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