ごじゅうねんごのしんしょうは【五十年後の志ん生は】志ん生雑感 志ん生!

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

2023年8月26日、美濃部美津子さんが「お父ちゃん」の元に旅立った。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の長女である。マネジャーとして、長年、名人を支えてきた人でもあった。白寿の享年。合掌。

奇しくも、あれから五十年。経めぐってきたこのとき。はやいようなおそいような。

志ん生はまだ向こうでおとなしくやっているかのどうか。知りはしないが。

美津子さんは美濃部ファミリーの語り部だった。志ん生、りん、喜美子(次女、三味線豊太郎、1925-81)、馬生、志ん朝……。志ん生志ん朝マニアには、美津子さんご自身が伝説であり続けた。

伝説といえば、このこと。

この半世紀、落語界の枠を超えて針小棒大に手垢をなすられ続けた感のある志ん生。

その人気は、ネット時代となっても衰えを知らない模様である。

こころみにYouTubeで検索すれば、出るわ出るわ。

病後のくたびれた時期の録音も、数少ない実写などもあわせたら、ゆうに100件を超えている。

中身もふるっている。

五十回忌での「五十年追善興行記者会見」とか、新作落語「志ん生がスティック買う?」とか。

百花繚乱である。

ひところは、当人出演の古いTVインタビューも、ざくざくアップされていた。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894.10.25-1964.11.8)との、ともに入れ歯ガチャガチャの対談など、まだまだ掘り出しものがさらされることだろう。

現在、Wikipediaの外国語版では、ドイツ語版にのみ志ん生のページがある。奇妙なことだ。次男志ん朝との因縁なのだろうか。

こんな現象が続くならば、志ん生の私生活や心象風景をも覗き込めるかもしれない。

志ん生という人は、その芸が好きになると、もう風呂場の中まで覗きたがるたちだったという。

岡本和明著『志ん生、語る』は、近親者や弟子の聞き書きで、要領よくまとめられてある。そんな生身の志ん生が浮き上がっている。全編、興味深い。

骨董贔屓に力士贔屓が活写されている。印象深い逸話の数々。

ただ、やれ骨董道楽だの、それ鶴ヶ嶺贔屓だのと、それは過ぎし世の老爺たちがいとなむ、ありふれた日常にすぎないようにも見える。

あたりまえのことだが、志ん生は噺家である。そこらの爺とは違う。

肝心の落語についてはどうか。

あえて、私見を。

志ん生の一見アナーキーなギャグや客の掴み方は、演芸界で生き残らんがための当人の悪戦苦闘と、そこから生み出された冷徹な計算の賜物ではないか、と私は思うのだ。

当人が意図的に拡散した虚実ない交ぜの武勇伝。例の極貧譚なども、すべてはおのれが落語でのし上がるための方便だったのではないだろうか。

具体例を出そう。

五銭の遊び」である。

紙くず屋との「十銭か」「五銭か」と、たたみみ掛けるやり取り。

その末に、「三銭か」「当たった」「あ、三銭」の最後の「あ」と同時に客の笑いがどっと被り、末尾をかき消すと同時に、笑いは百倍にも増幅する。

痛快な場面である。

スタジオ録音などでは、とうてい得られない誘爆力だろう。

これもまた、志ん生流の落語の立体化である。

没後、半世紀にもなって、なおマニアを量産する魔術、催淫効果と言えないか。

なにか、身ぶるいのする凄みさえ感じるというのは、大仰だろうか。

で、蛇足を。

明治23年(1890)生まれの美濃部孝蔵クンには、日本だけでも119万人もの赤ん坊仲間がいた。世界中の「同級生」を挙げれば、アイク、ドゴールがすぐに思い浮かぶ。この二人で十分だろう。

しかし、である。と、私は強調したいのだが。

たかだか米仏大統領二人の朗々たる名演説ごときは、志ん生が成し遂げた酔いどれ聴衆掌握の珍妙きてれつな話術に比べれば、屁でもない。それは断言できる。

冥界の当人は、さぞ、もう、多分、うんざりなことだろう。

娑婆ではまだそんな繰り言めいた妄言を広げているのか、いいかげんに瞑目させてくれ、と怒っているかもしれない。

だが、まだまだ当分、娑婆にたゆとう「古今亭志ん生」は、解脱などできそうにない。マニアの脳裏にしっかり根付いているのだから。

あれこれ含め、古今亭志ん生はつくづく不世出、永久欠番の天才噺家であったことだなぁ。

高田裕史

ごせんのあそび【五銭の遊び】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

五銭をもって吉原で遊んだ男の珍体験談。
いくらなんでも五銭では。
それがりっぱにあがれたのです。

別題:白銅の女郎買い

【あらすじ】

明治から大正の頃。

吉原は金さえあれば、どうとでもなる場所だ。

花魁の格はピンからキリまである。

下の方にくると「じょーろ(女郎)」というのがいる。

町内の連中が、なか(吉原)のじょーろの評判をしている。

とめ公が
「おれは五銭で遊んできたぜ」
と自慢しはじめた。

そのわけを話す。

その日は、二銭しか持ち合わせがなかった。

外にも行けず、家にいて小説本を読んでいたのだ。

おふくろが
「馬道まで、無尽のお金をもらってきておくれ」
と頼まれた。

無尽で五銭が当たったのだ。

用が済んで、浅草の瓢箪池まで来てみると、しめて七銭持っていることに気づいた。

心が動いた。

足がなんとなく吉原に向いていった。

七銭もってむらむらと。

どうせ、ひややかすだけだ。

そんでもって、女を安心させてやろう、と。

千束から吉原土手に出て、大門をくぐって、江戸町二丁目を突き抜ける。

ひやかしていると、角海老の大きな時計が、夜の12時を打った。

腹が減った。

おでん屋に飛び込んで、コンニャクを食べた。

金がないから、コンニャクの二銭を払って、それ以外は食べずに出てきた。

コンニャクで威勢がついた。

「まるで小石川の閻魔さまだな」

話を聴いている連中にひやかされる。

話はさらに。

夜が明ける頃に帰れば、母親も安心するだろう。もう少し冷やかしていこうかと思った。

投げ節をうたった。

ある店の前を通った。

「ちょいとぉ」
と、後ろから声がかかった。

二十四、五歳の女だった。

「二日続けてお茶を引いちゃったんで、今晩ぐらいお客を取らないと、ごないしょに怒られるからさ、どうしても助けておくれよ」
「だめだ、金がねえんだ」
「いったい、いくらあんのさ」

さすがに「五銭なんだ」とは言えないので、右手を出して「これくらい」と伝えた。

女が少し考えて出たひとことが、「なら、お上がりよ」だった。

浮き立つ心で、トントーンと二階にあがった。

「むりを言ってすまないね。恩に着るよ。寝ようよ」
「その前に、腹が減ったんで、なにか食わしてくれ」

この時分では注文もできない。

女は親切にも、廊下から台屋のお鉢を抱え込んで、食べさせてくれた。

おかずは、といえば、これがすごい。

「ぜいたく言わないで、梅干し食べていると思って食べな」

しょうがない。すっぱい唾で飯をかき込んだ。

さて、寝ようと。

若い衆の松どんが入ってきて、「宵勘だから」と催促された。

「はいよ」と五銭を投げた。

すぐに女が言った。

「足りない分は、私が足すから文句を言わないで承知しな」
「承知もなにも」
「がまんおしいよ」
「五銭ですよッ」

女はジイッと俺の顔を見ていた。

「片手を出したじゃないいか」
「そうだよ。五銭だから」
「まあ、五銭でよく店の敷居をまたいだね。その上、飯まで食べてさ。あんたは面の皮が厚いね」
「俺は薄くはないいよ」

【しりたい】

白銅

明治期からの通貨です。

「安い」の代名詞として知られます。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席