【氏子中】うじこじゅう 落語演目 あらすじ
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【どんな?】
「氏子中」は同じ氏神を祭る人々、氏子の仲間。
同じ氏神って?
短いバレ噺。むふふの物語。
類話に「町内の若い衆」も。
【あらすじ】
与太郎が越後(新潟)に商用に出かけ、帰ってきてみると、おかみさんのお美津の腹がポンポコリンのポテレン。
いかに頭に春霞たなびいている与太郎もこれには怒って
「やい、いくらオレのが長いからといって、越後から江戸まで届きゃあしねえ。男の名を言え」
と問い詰めても、お美津はシャアシャアと、
「これは、あたしを思うおまえさんの一念が通じて身ごもったんだ」
とか、果ては
「神田明神へ日参して『どうぞ子が授かりますように』とお願いして授かったんだから、いうなれば氏神さまの子だ」
とか、言い抜けをして、なかなか口を割らない。
そこで与太郎、親分に相談すると
「てめえの留守中に町内の若い奴らが入れ代わり立ち代わりお美津さんのところに出入りするようすなんで、注意はしていたが、四六時中番はできねえ。実は代わりの嫁さんはオレが用意してといた。二十三、四で年増だが、実にいい女だ。子供が生まれた時、荒神さまのお神酒で胞衣を洗うと、必ずその胞衣に相手の情夫の紋が浮き出る。祝いの席で客の羽織の紋と照らし合わせりゃ、たちまち親父が知れるから、その場でお美津と赤ん坊をそいつに熨斗を付けてくれてやって、おまえは新しいかみさんとしっぽり。この野郎、運が向いてきやがったぁ」
さて、月満ちて出産。
お七夜(名づけ祝い)になって、いよいよ親分の言葉通り、情夫の容疑者一同の前で胞衣を洗うことになった。
お美津は平気のへいざ。
シャクにさわった与太郎が胞衣を見ると、浮き出た文字が「神田明神」。
「そーれ、ごらんな」
「待て、まだ後に字がある」
というので、もう一度見ると
「氏子中」
底本:五代目古今亭志ん生
【しりたい】
原話のコピーがざっくざく
現存最古の原話は正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集『新話笑眉』中の「水中のためし」。
これは、不義の妊娠・出産をしたのが下女、胞衣を洗うのが盥の水というディテールの違いだけで、ほぼ現行の型ができています。
結果は字ではなく、紋がウジャウジャ現れ、「是はしたり(なんだ、こりゃァ!)、紋づくしじゃ」とオチています。
その後、半世紀たった宝暦12年(1762)刊の『軽口東方朔』巻二「一人娘懐妊」では、浮かぶのが「若者中」という文字になって、より現行に近くなりました。
「若者中」というのは神社の氏子の若者組、つまり青年部のこと。
以後、安永3年(1774)刊『豆談語』中の「氏子」、文政4年(1821)起筆の松浦静山(松浦清、1760-1841、九代目平戸藩藩主)の随筆集『甲子夜話』、天保年間刊『大寄噺尻馬二編』中の「どうらく娘」と続々コピーが現れ、バリエーションとしては文政2年(1819)刊『落噺恵方棚』中の「生れ子」もあります。
連名で寄付を募る奉加帳にひっかけ、産まれた赤子が「ホーガ、ホーガ」と産声をあげるという「考えオチ」。
いずれにしても、これだけコピーがやたら流布するということは、古今東西、みなさんよろしくやってるという証。
類話ははるか昔から、ユーラシアを中心に散らばっていることでしょう。
もめる筈 胞衣は狩場の 絵図のやう (俳風柳多留四編、明和6年=1769刊)
荒神さまのお神酒
荒神さまは竈の守り神で、転じて家の守護神。
そのお神酒を掛ければ、というのは、家の平安を乱す女房の不倫を裁断するという意味ともとれます。
別に、女房が荒神さまを粗末にすれば下の病にかかるという俗説も。
胞衣の定紋の俗信は古くからあります。
と、これまでは記してきましたが、これではなんのことかわかりません。
改めて、最近の見解を記しておきます。
荒神は神仏習合の日本の神です。経典には出てきません。
仏教やヒンズー教に由来を求める人もいますが、おおかたあやしい。
この神はつねになにかを同定しています。
その結果、なんでもありの神に。
各地方でもまちまちです。おおざっぱには、屋内の守り神、屋外の守り神の二つの存在が確認できます。
中国四国地方では屋外の神です。
屋敷の隅にまつって土地財産の守護を祈る、というような。
この地域の山村部では、スサノオを荒神と同定しています。
川の氾濫をヤマタノヲロチの暴威とすればスサノオが成敗してくれるだろう、という具合です。
スサノオは確かに荒ぶるイメージです。
荒神には、さまざまな暴威から守ってくれるという要素がつねに漂っています。
都市部の荒神となるとどうか。屋内の守り神となりました。
屋内の主な暴威は火事です。
荒神は火除けの神となりました。
時代が下ると、さまざまな災厄すべて引き受けることに。
なんでもありの総合保険的な神さまとなったのです。
神田明神
千代田区外神田2丁目。
江戸の総鎮守です。祭神はオオナムヂ(=大国主命)と平将門。
オオナムヂは五穀豊穣をつかさどる神なので、当然、元を正せば荒神さまとご親類。
明神は慶長8年(1603)、神田橋御門内の芝崎村から駿河台に移転、さらに元和2年(1616)、家康が没したその年に、現在の地に移されました。
噺が噺だけに
明治26年(1893)の初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)の速記の後、さすがに速記はあっても演者の名がほとんど現れません。
類話の「町内の若い衆」の方が現在もよく演じられるのに対し、胞衣の俗信がわかりにくくなったためか、ほとんど口演されていません。
五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)は、「氏子中」の題で「町内の若い衆」を演じていました。
胞衣と臍帯
胞衣とは、胎児を包んでいる膜のこと。
古くから、胞衣には呪力があると信じられていました。
胎盤に願い文を添えて瓶に入れ、戸口の下に埋める慣習が古くからありました。
そんなことが『医心方』(丹波康頼、924年、日本最古の医書)に記載されています。
奈良時代から平安前期までの宮中では、初湯の式のあとに胞衣を土中に埋める儀式「胞衣おさめ」がありました。
江戸では、胞衣を埋めた土の上を最初に歩いた人は、一生涯、胞衣の主に嫌われるという俗信がありました。
そのため、反対に、子供に嫌われて当然という人に踏まれてもらおう、という考えも生まれました。
胞衣を戸口に埋めるのは、人の出入りが多いからです。
胞衣をよく踏んでもらうほど子供は丈夫に育つとか、賢い人になるとか言われ、むしろ真意はそこにあったようです。
この噺にあるように、胞衣を洗ってみると、親の紋章があらわれるという俗信も。
子供が寝ている間、無心に笑うさまを「胞衣にすかされる」ともいいました。
臍脱した後は、臍帯も大切に保管するものでした。
「へその緒」のことです。
胎児の臍から母親の胎盤に通じている細長い管です。
これを介して、胎児は母親から栄養や生きる要素を受け取るわけです。まさに生命線です。
出産では、産婆さんがへその緒を切るのですが、臍に残った残りの部分が数日後に剥がれ落ちます。一般には、これを「へその緒」と呼んでいます。
母親との絆、親の愛を感じ取れる、数少ない現物です。あるいは、この世に生を受けた証でもあります。
へその緒は油紙や真綿にに包み、大切に保管するのは現代でも生き残っている風習です。
その子が大病したときに臍帯を煎じて飲ませると、命を長らえるといわれてきました。
産屋の出産では胞衣は神さまが処理してくれる、とも考えられていました。
その場合、胞衣は産屋内の石の下に埋められました。
ここらへんのしきたりや考えは、地域や時代によってもさまざまです。
明治中期に法律が公布されるまで(現在は昭和23年施行の各自治体の胞衣条例などが主)、胞衣は甕、壷、桶などに入れ、戸口、土間、山中などの土の中に埋められていたものです。
古代の人々が胎盤に摩訶不思議な呪力を感じたのは、自然の成り行きでしょう。
出産した母親も家族も、実際に胎盤に触れて大切に扱っていました。
【語の読みと注】
荒神さま こうじんさま
お神酒 おみき
胞衣 えな:胎児を包む膜
情夫 いろ
熨斗 のし
竈 へっつい:かまど