うじこじゅう【氏子中】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「氏子中」は同じ氏神を祭る人々、氏子の仲間。
同じ氏神って?
短いバレ噺。むふふの物語。
類話に「町内の若い衆」も。

【あらすじ】

与太郎が越後えちご(新潟)に商用に出かけ、帰ってきてみると、おかみさんのお美津の腹がポンポコリンのポテレン。

いかに頭に春霞はるがすみたなびいている与太郎もこれには怒って
「やい、いくらオレのが長いからといって、越後から江戸まで届きゃあしねえ。男の名を言え」
と問い詰めても、お美津はシャアシャアと、
「これは、あたしを思うおまえさんの一念いちねんが通じて身ごもったんだ」
とか、果ては
神田明神かんだみょうじんへ日参して『どうぞ子が授かりますように』とお願いして授かったんだから、いうなれば氏神うじがみさまの子だ」
とか、言い抜けをして、なかなか口を割らない。

そこで与太郎、親分に相談すると
「てめえの留守中に町内の若い奴らが入れ代わり立ち代わりお美津さんのところに出入りするようすなんで、注意はしていたが、四六時中番はできねえ。実は代わりの嫁さんはオレが用意してといた。二十三、四で年増としまだが、実にいい女だ。子供が生まれた時、荒神こうじんさまのお神酒みき胞衣えなを洗うと、必ずその胞衣に相手の情夫いろの紋が浮き出る。祝いの席で客の羽織はおりの紋と照らし合わせりゃ、たちまち親父が知れるから、その場でお美津と赤ん坊をそいつに熨斗のしを付けてくれてやって、おまえは新しいかみさんとしっぽり。この野郎、運が向いてきやがったぁ」

さて、月満ちて出産。

お七夜(名づけ祝い)になって、いよいよ親分の言葉通り、情夫の容疑者一同の前で胞衣を洗うことになった。

お美津は平気のへいざ。

シャクにさわった与太郎が胞衣を見ると、浮き出た文字が「神田明神」。

「そーれ、ごらんな」
「待て、まだ後に字がある」
というので、もう一度見ると
「氏子中」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

原話のコピーがざっくざく

現存最古の原話は正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集『新話笑眉』中の「水中のためし」。

これは、不義の妊娠・出産をしたのが下女、胞衣を洗うのが盥の水というディテールの違いだけで、ほぼ現行の型ができています。

結果は字ではなく、紋がウジャウジャ現れ、「是はしたり(なんだ、こりゃァ!)、紋づくしじゃ」とオチています。

その後、半世紀たった宝暦12年(1762)刊の『軽口東方朔』巻二「一人娘懐妊」では、浮かぶのが「若者中」という文字になって、より現行に近くなりました。

「若者中」というのは神社の氏子の若者組、つまり青年部のこと。

以後、安永3年(1774)刊『豆談語』中の「氏子」、文政4年(1821)起筆の松浦静山(松浦清、1760-1841、九代目平戸藩藩主)の随筆集『甲子夜話』、天保年間刊『大寄噺尻馬二編』中の「どうらく娘」と続々コピーが現れ、バリエーションとしては文政2年(1819)刊『落噺恵方棚』中の「生れ子」もあります。

連名で寄付を募る奉加帳にひっかけ、産まれた赤子が「ホーガ、ホーガ」と産声をあげるという「考えオチ」。

いずれにしても、これだけコピーがやたら流布するということは、古今東西、みなさんよろしくやってるという証。

類話ははるか昔から、ユーラシアを中心に散らばっていることでしょう。

もめる筈 胞衣は狩場の 絵図のやう    (俳風柳多留四編、明和6年=1769刊)

荒神さまのお神酒

荒神さまは竈の守り神で、転じて家の守護神。

そのお神酒を掛ければ、というのは、家の平安を乱す女房の不倫を裁断するという意味ともとれます。

別に、女房が荒神さまを粗末にすれば下の病にかかるという俗説も。

胞衣の定紋の俗信は古くからあります。

と、これまでは記してきましたが、これではなんのことかわかりません。

改めて、最近の見解を記しておきます。

荒神は神仏習合しんぶつしゅうごうの日本の神です。経典には出てきません。

仏教やヒンズー教に由来を求める人もいますが、おおかたあやしい。

この神はつねになにかを同定しています。

その結果、なんでもありの神に。

各地方でもまちまちです。おおざっぱには、屋内の守り神、屋外の守り神の二つの存在が確認できます。

中国四国地方では屋外の神です。

屋敷の隅にまつって土地財産の守護を祈る、というような。

この地域の山村部では、スサノオを荒神と同定しています。

川の氾濫をヤマタノヲロチの暴威とすればスサノオが成敗してくれるだろう、という具合です。

スサノオは確かに荒ぶるイメージです。

荒神には、さまざまな暴威から守ってくれるという要素がつねに漂っています。

都市部の荒神となるとどうか。屋内の守り神となりました。

屋内の主な暴威は火事です。

荒神は火除けの神となりました。

時代が下ると、さまざまな災厄すべて引き受けることに。

なんでもありの総合保険的な神さまとなったのです。

神田明神

千代田区外神田2丁目。

江戸の総鎮守です。祭神はオオナムヂ(=大国主命)と平将門。

オオナムヂは五穀豊穣をつかさどる神なので、当然、元を正せば荒神さまとご親類。

明神は慶長8年(1603)、神田橋御門ごもん内の芝崎村から駿河台に移転、さらに元和2年(1616)、家康が没したその年に、現在の地に移されました。

噺が噺だけに

明治26年(1893)の初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)の速記の後、さすがに速記はあっても演者の名がほとんど現れません。

類話の「町内の若い衆」の方が現在もよく演じられるのに対し、胞衣の俗信がわかりにくくなったためか、ほとんど口演されていません。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)は、「氏子中」の題で「町内の若い衆」を演じていました。

胞衣と臍帯

胞衣えなとは、胎児を包んでいる膜のこと。

古くから、胞衣には呪力があると信じられていました。

胎盤に願い文を添えて瓶に入れ、戸口の下に埋める慣習が古くからありました。

そんなことが『医心方いしんほう』(丹波康頼、924年、日本最古の医書)に記載されています。

奈良時代から平安前期までの宮中では、初湯の式のあとに胞衣を土中に埋める儀式「胞衣おさめ」がありました。

江戸では、胞衣を埋めた土の上を最初に歩いた人は、一生涯、胞衣の主に嫌われるという俗信がありました。

そのため、反対に、子供に嫌われて当然という人に踏まれてもらおう、という考えも生まれました。

胞衣を戸口に埋めるのは、人の出入りが多いからです。

胞衣をよく踏んでもらうほど子供は丈夫に育つとか、賢い人になるとか言われ、むしろ真意はそこにあったようです。

この噺にあるように、胞衣を洗ってみると、親の紋章があらわれるという俗信も。

子供が寝ている間、無心に笑うさまを「胞衣にすかされる」ともいいました。

臍脱さいだつした後は、臍帯さいたいも大切に保管するものでした。

「へその緒」のことです。

胎児のへそから母親の胎盤に通じている細長い管です。

これを介して、胎児は母親から栄養や生きる要素を受け取るわけです。まさに生命線です。

出産では、産婆さんばさんがへその緒を切るのですが、臍に残った残りの部分が数日後に剥がれ落ちます。一般には、これを「へその緒」と呼んでいます。

母親との絆、親の愛を感じ取れる、数少ない現物です。あるいは、この世に生を受けた証でもあります。

へその緒は油紙あぶらがみ真綿まわたにに包み、大切に保管するのは現代でも生き残っている風習です。

その子が大病したときに臍帯を煎じて飲ませると、命を長らえるといわれてきました。

産屋の出産では胞衣は神さまが処理してくれる、とも考えられていました。

その場合、胞衣は産屋内の石の下に埋められました。

ここらへんのしきたりや考えは、地域や時代によってもさまざまです。

明治中期に法律が公布されるまで(現在は昭和23年施行の各自治体の胞衣条例などが主)、胞衣はかめ、壷、桶などに入れ、戸口、土間、山中などの土の中に埋められていたものです。

古代の人々が胎盤に摩訶不思議な呪力を感じたのは、自然の成り行きでしょう。

出産した母親も家族も、実際に胎盤に触れて大切に扱っていました。

【語の読みと注】
荒神さま こうじんさま
お神酒 おみき
胞衣 えな:胎児を包む膜
情夫 いろ
熨斗 のし
竈 へっつい:かまど



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にかいのまおとこ【二階の間男】落語演目

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【どんな?】

女房が亭主を尻目に自宅であいびきして。
バレ噺。二階付き長屋での。

別題:お茶漬け 二階借り 茶漬け間男(上方)

【あらすじ】

ある夫婦、茶飲み話に亭主の友達の噂話をしている。

「畳屋の芳さんは粋でいい男だなァ」
「あらまァ、私もそう思っているんですよ。男っぷりもよし、読み書きもできるし、子供好きでつきあいもいいし」
「おらァ、男ながら惚れたョ」
「あたしも惚れましたよ」

ところが、間違いはどこに転がっているかわからないもの。

この女房、本当に芳さんに惚れてしまった。

こうなると、もう深みにはまって、はらはらどきどき密会を重なるうち、男の方はもうただでは刺激がない、となる。

一計を案じて、亭主のいる所で堂々と間男してやろうと。

ある日、ずうずうしくも乗り込んでくる。

「実はさる亭主持ちの女と密通しているので、お宅の二階を密会の場所にお借り申したい」
というのである。

まぬけな亭主、わがことともつゆ知らず、
「そいつはおもしろい」
というわけ。

言われるままに当の女房を湯に入ってこいと追い出した。

ごていねいにも
「いろ(相手の女)は明るい所は体裁が悪いと言っているから、外でエヘンとせき払いをしたらフッと明かりを消してください」
という頼みも二つ返事。

こうもうまくいくと、かえって女房の方が心配になり、表で姦夫姦婦の立ち話。

「あたしゃいやだよ。そんなばかなことができるもんかね」
「まかしとけ。しあげをごろうじろだ」
「明かりをつけやしないかしら」

亭主は能天気にパクパクと煙草をふかした後、かねての合図でパッと灯火を消すと、あやめも分かたぬ真っ暗闇。

「どこの女房だかしらないが、ズンズンおはいんなさいよ」

うまくいったとほくそ笑んだ二人。

女房は勝手を知ったる家の中。

寝取られ亭主になったとも知らず
「この闇の中で、よくまァぶつからねえで、さっさと上がれるもんだ」
と、妙に感心しているだんなを尻目に、二階でさっさとコトを始めてしまった。

亭主、思わず上を眺めて
「町内で知らぬは亭主ばかりなり。ああ、そのまぬけ野郎のつらが見てえもんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【うんちく】

二階付き長屋

三軒長屋」にも登場しました。二階付き長屋は数が少なく、おもに鳶頭のように、大勢が出入りする稼業の者が借りました。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、終生、稲荷町の二階付き長屋に住んでいたことはよく知られています。

円生の逸品

原話は、天保13(1842)年刊の『奇談新編』中の漢文体笑話です。

明治23年(1890)5月の雑誌『百花園』に掲載された、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残っています。

紙入れ」「風呂敷」と同じく、間男噺ですが、その過激度では群を抜いていて、現在、継承者がいないのが惜しまれます。

この噺は演者によって題が異なります。

桂米朝(中川清、1925-2015)は「茶漬け間男」で、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)は「二階の間男」で、五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)は「お茶漬け」で、それぞれやっていました。

ここでの「茶漬け」は亭主が茶漬けを食っている間にコトを済ます、というすじだからです。

ここでは六代目三遊亭円生の速記を使いました。あの謹厳実直を絵に描いたようなイメージの、昭和の名人の、です。

寝取られ男

この言葉に対応するフランス語は「コキュ(cocue)」が有名です。

cocuはカッコウから来ている言葉のようで、「かっこうの雌は他の鳥の巣で卵を産むことから」のようです。

そういえば、私が大学に通っていた頃に、こんなカッコウのようなことをしていた女子がいましたっけ。ちゃっかりしてます。

フランスでは伝統的にコキュを描いた文学や演劇などが多くあります。

他人のセックスを覗いて笑うネタにするのは世界共通ですが、フランスはもう少し高度な文化のようです。

他人の持ち物で楽しむ人を覗いて笑う趣味がある、ということでしょうか。

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ほっけながや【法華長屋】落語演目

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【どんな?】

法華とは日蓮宗のこと。江戸の町では、浄土宗と並ぶ庶民の生活を支えていました。

【あらすじ】

宗論は どちらが負けても 釈迦の恥

下谷摩利支天、近くの長屋。

ここは大家の萩原某が法華宗の熱心な信者なので、他宗の者は絶対に店は貸さない。

路地の入り口に「他宗の者一人も入るべからず」という札が張ってあるほどで、法華宗以外は猫の子一匹は入れないという徹底ぶりだ。

今日は店子の金兵衛が大家に、長屋の厠がいっぱいになったので汲み取りを頼みたいと言ってくる。

大家はもちろん、店子全員が、法華以外の宗旨の肥汲みをなりわいとする掃除屋を長屋に入れるのはまっぴら。

結局、入り口で宗旨を聞いてみて、もし他宗だったらお清めに塩をぶっかけて追い出してしまおうということになった。

こうして、法華長屋を通る掃除屋は十中八九、塩を見舞われる羽目となった。

これが同業者中の評判となり、しまいにはだれも寄りつかなくなってしまった。

ところが物好きな奴はいるもので、
「おらァ、法華じゃねえが、しゃくにさわるからうそォついてくんできてやんべえ」
と、ある男、長屋に入っていく。

酒屋の前に来て
「おらァ、自慢じゃねえが、法華以外の人間から肥を汲んでやったことはねえ。もし法華だなんてうそォついて汲ましゃあがったら、座敷ン中に肥をぶんまける」
と、まくしたてた。

感激した酒屋の亭主、さっそく中に入れて、
「仕事の前に飯を食っていけ」
と言うので、掃除屋、すっかりいい気になって、
「芋の煮っころがしじゃよくねえから、お祖師さまに買ってあげると思えばよかんべえ」
と、うまいことを言って鰻をごちそうさせた上、酒もたらふくのんで、いい機嫌。

「そろそろ、肥を汲んでおくれ」
「もう肥はダミだ」
「どうして」
「マナコがぐらぐらしてきた。あんた汲んでくれろ。お祖師さまのお頼みだと思えば腹も立つめえ」
「冗談言っちゃいけねえ」

不承不承、よろよろしながら立ち上がって肥桶を担いだが、腰がふらついて石にけっつまづいた。

「おっとォ、ナムアミダブツ」
「てめえ法華じゃねえな」
「なーに、法華だ」
「うそォつきやァがれ。いま肥をこぼしたとき念仏を唱えやがったな」
「きたねえから念仏へ片づけた」

【しりたい】

浄土宗対日蓮宗  【RIZAP COOK】

絶えたことのない宗教、宗旨のいがみあいという、普遍的テーマを持った噺です。

それだけに、現代の視点で改作すれば、十分に受ける噺としてよみがえると思うのですが、すたれたままなのは惜しいことです。

速記は、明治27年(1894)7月の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)を始め、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)、四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)と、落語界各派閥を問わずまんべんなく、各時代の大看板のものが残されています。

それも昭和初期までで、先の大戦後は、六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)がたまに演じたのを最後で、まったく継承者がいません。

一般新聞に宗教欄が消えた頃と時期を一致させています。

昭和20年まではもちろんそうでしたが、昭和30年代までは、一般紙には必ず宗教欄が用意されてあって、各宗派の僧侶や宗教研究者がなにやかやとまじめに寄稿していました。

それがいまの日本では、公の場で宗教を語ることがどこかタブーとなってしまっているのはいびつです。

だんだんよく鳴る法華の太鼓  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、池上本門寺派の勢力が強く、日蓮=法華衆徒の多かった江戸で、古くから口演されてきました。

日蓮宗は「天文法華の乱」や安土宗論で織田信長を悩ませたように、排他的・戦闘的な宗派で知られています。

そういう点では浄土宗や浄土真宗と変わりません。

浄土宗と日蓮宗(法華宗)がつねに対立宗派として、江戸のさまざまな場面で登場するすることは、江戸を知る上で重要なポイントです。

法華にからんだ噺は、ほかにも「堀の内」「甲府い」「清正公酒屋」「鰍沢」「おせつ徳三郎」など、多数あります。

晩年の三遊亭円朝は、自作「火中の蓮華」の中に「法華長屋」を挿入しています。

明治29年(1896)、妻(お幸)の勧めもあって、円朝は臨済宗から日蓮宗に改宗していたのです。

お祖師さま  【RIZAP COOK】

「堀の内のお祖っさま」で、落語マニアにはおなじみ。本来は、一宗一派の開祖を意味しますが、一般には、日蓮宗(法華)の開祖・日蓮上人を指します。

汲み取り  【RIZAP COOK】

別称「汲み取り屋」で、東京でも昭和50年代前半まで存在しました。

水洗が普及する以前、便所の糞尿を汲み取る商売で、多くは農家の副業。

汲んだ肥は言うまでもなく農作の肥料になりました。

葛西(江戸川区)の半農半漁の百姓が下町一帯を回りました。

汲み取りにストライキを起こされるとお手上げなので、「葛西肥汲み」は江戸時代には、相当に大きな勢力と特権を持っていました。

摩利支天  【RIZAP COOK】

まりしてん。インドの神です。

バラモン教の聖典「ヴェーダ」に登場する暁の女神ウシャスが仏教に取り込まれたといわれています。

太陽や月光などを神格化したもので、形を見せることなく難を除き、利益を与えるとされ、日本では、中世から武士の守護神となりました。

楠木正成が信仰したことはよく知られています。

この噺に摩利支天が登場するわけは、そんな薄っぺらな知識で理解できるものではありません。

「髭曼荼羅」を見てもわかるように、日蓮宗は仏教以外の神々をも守護神として奉じています。

日蓮をさまざまな形で支えた神々、ということです。

摩利支天もその一つで、日蓮を守護する神とされています。

「下谷摩利支天」というのは、寺の俗称です。

正しくは「妙宣山徳大寺」という日蓮宗の寺院。

摩利支天をウリにした日蓮宗の寺という意味です。

かつては下総(千葉県北部)の中山法華経寺の末寺でしたが、いまは普通の日蓮宗の寺院です。

台東区上野四丁目、アメヤ横丁近くの密集地にあって、山手線からも眺められます。

この寺のすごいことは、上野の戦争(1868年5月15日)でも、震災(1923年9月1日)でも、空襲(1945年3月10にち)でも、焼失しなかったこと。これは奇跡的です。

よほど霊験あらたかなのだと篤信されているのです。

現在も厄除けの寺として、信仰を集めています。

つまり、この寺の近所の長屋が舞台だということが、「法華」をテーマにした噺であることを、はじまりから暗喩しているわけですね。

江戸にはそんなものをテーマにしても笑ってくれるだけの、法華の壇越だんのつ(信者)が多かったということです。

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ねこきゅう【猫久】落語演目

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【どんな?】

業の見えない長屋噺です。幕末に生まれた生ッ粋の江戸落語。珍品です。

【あらすじ】

長屋に住む行商の八百屋、久六は、性格がおとなしく、怒ったことがないところから「猫久」、それも省略して「猫」「猫」と呼ばれている。 その男がある日、人が変わったように真っ青になって家に飛び込むなり、女房に 「今日という今日はかんべんできねえ。相手を殺しちまうんだから、脇差を出せッ」 と、どなった。 真向かいで熊五郎がどうなるかと見ていると、かみさん、あわてて止めると思いの外、押し入れから刀を出すと、神棚の前で、三べん押しいただき、亭主に渡した。 「おい、かかァ、驚いたねえ。それにしても、あのかみさんも変わってるな」 「変わってるのは、今に始まったことじゃないよ。亭主より早く起きるんだから。井戸端で会ってごらん。『おはようございます』なんて言いやがるんだよ」 「てめえの方がよっぽど変わってらァ」 と熊がつぶやいて床屋に行こうとすると、かみさんが 「今日の昼のお菜はイワシのぬたなんだから、ぐずぐずしとくと腐っちまうから、早く帰っとくれ。イワシイワシッ」 とがなりたてる。 「かかァの悪いのをもらうと六十年の不作だ」 と、ため息をついて床屋に行くと、今日はガラガラ。 親方に猫の話を一気にまくしたてると、そばで聞いていたのが五十二、三の侍。 「ああ、これ町人、今聞くと猫又の妖怪が現れたというが、拙者が退治してとらす」 と、なにか勘違いをしているようす。 熊が、実は猫というのはこれこれの男手、と事情を話すと 「しかと、さようか。笑ったきさまがおかしいぞ」 急にこわい顔になって 「もそっと、これへ出い」 ときたから、熊五郎はビクビク。 「よおっく、うけたまわれ。日ごろ猫とあだ名されるほど人柄のよい男が、血相を変えてわが家に立ち寄り、剣を出せとはよくよく逃れざる場合。また、日ごろ妻なる者は夫の心中をよくはかり、これを神前に三べんいただいてつかわしたるは、先方にけがのなきよう、夫にけがのなきよう神に祈り夫を思う心底。身共にも二十五になるせがれがあるが、ゆくゆくはさような女をめとらしてやりたい。後世おそるべし。貞女なり孝女なり烈女なり賢女なり、あっぱれあっぱれ」 熊、なんだかわからないが、つまり、いただく方が本物なんだと感心して、家に帰る。 とたんに 「どこで油売ってたんだ。イワシイワシッ」 とくるから、 「こいつに一ついただかしてやろう」 と侍の口調をまねる。 「男子……よくよくのがれ……のがれざるやとけんかをすれば」 「ざる屋さんとけんかしたのかい」 「夫はラッキョ食って立ち帰り、日ごろ妻なる者は、夫の真鍮磨きの粉をはかり、けがのあらざらざらざら、身共にも二十五になるせがれが」 「おまえさん、二十七じゃないか」 「あればって話だ。オレがなにか持ってこいって言ったら、てめえなんざ、いただいて持ってこれめえ」 「そんなこと、わけないよ」 言い合っているうち、イワシを本物の猫がくわえていった。 「ちくしょう、おっかあ、そのその摺り粉木でいいから、早く持って来いッ。張り倒してやるから」 「待っといでよう。今あたしゃ、摺り粉木をいただいてるところだ」 志ん朝

【しりたい】

猫又   【RIZAP COOK】

猫が百年以上生きて、妖怪と化したものです。 日本の「原生種」は、尻尾が二つに分かれ、口は耳まで裂けて火を吹き、人を食い殺します。

脇差なら「免許不要」  【RIZAP COOK】

脇差は二尺(60cm)以下の小刀です。 これなら、護身用に町人が差してもさしつかえありませんでした。 実際はれっきとした大刀なのに、「長脇差」という名称で渡世人が差していたことはヤクザ映画などでおなじみです。 いいかげんなもんです。どうとでもなるもんで。

六代目円生の回想  【RIZAP COOK】

「この猫久という噺はあたくしは初めて三代目小さんのを聞いたんです。あんまり聞いておかしいんで、大きな声で楽屋で笑ったんで怒られました。(中略)その(後)『猫久』という噺はまあ、失礼ですがどなたのを聞いてもなンかちっともおしくないんです」

『江戸散歩』六代目三遊亭円生、朝日新聞社、1988年

小さん三代の工夫  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、幕末の嘉永年間(1848-54)ごろから口演されてきた、古い江戸落語です。 明治中期に二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が完成させ、以後、代々の小さん系の噺として、三代目小さん(豊島銀之助、1857-1930)、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)、三代目の高弟だった七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の可楽)を経て、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番として受け継がれてきました。 二代目は、明治初期(つまり同時代)に時代を設定し、晩年の明治27年(1894)12月の速記では、町人も苗字を許されたというので、猫久も清水久六としました。 熊に意見をするのは、せがれの道楽で窮迫した氏族の老人となっています。 三代目小さんは、舞台を江戸時代に戻し、そのため、以後は熊五郎の侍への恐怖心という一種の緊張感が噺に加わっています。 オチは、ずっと地で「いただいていました」と説明していたのを、五代目小さんが今回のあらすじのように、すりこぎを押し戴く仕種オチでオチるよう工夫しました。 「馬に止動の間違いあり、狐にケンコンの誤りあり」とマクラに振り、世の中には間違いが定着してしまっていることがよくあると説明、そこから、猫よりも犬の方が人に忠実なのに、猫にたとえられると喜び、犬と呼ばれると怒るという不合理を風刺してから噺に入るのが、二代目小さん以来の伝統です。 【語の読みと注】 摺粉木 すりこぎ

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