【おおあくび 001.2019/08/03】 古木優

中世といいますか、戦国時代といいますか、そこらへんがおもしろくて。

たとえば、斎藤道三。

この人は、僧侶から油売りを経て美濃を奪った梟雄であるかのように語られてきました。司馬遼太郎の『国盗り物語』でもそんなふうに描かれています。

最近の研究では、僧侶から油売りを経て美濃の守護、土岐家の家臣になったところまでは道三の父親で、土岐家を追い出して一国一城の主にのし上がったのが息子の道三だった、とのこと。二世代にわたる異業績だったわけなんですね。

「まむし」とあだ名された人物のイメージもちょっと変わります。乗っ取りの英才教育を授かったお坊ちゃん、というところでしょうか。

もひとつ、鉄砲伝来も。

1543年(天文12)に種子島に漂着したポルトガル人が持ってきて、領主の種子島時堯に2丁売った。これが鉄砲伝来だ。なんていうような話に納得していました。

でも、鉄砲は、その前すでに倭寇なんかが九州地方に持ち込んでいたことが最新の研究でわかっているそうです。

南蛮船と呼ばれていたポルトガル人の船(じつはマラッカやルソンの人たちのほうが多かった)も、当時の日本は別に鎖国していたわけでもないし中央のコントロールが機能していなかったので、日本のどこに寄港しても不思議ではありませんでした。関東や奥州の国人・地侍などが鉄砲を手にすることだってありだったのです。

鉄砲が軍制に組み込まれたのは、関東以北では1570年(元亀元)以降とされているのですが、いずれ新事実が明らかとなって、この通説も覆されるかもしれません。いやいや、もうすでに。

さらに、落ち武者の流亡。

西国の某城で忠勤に励みながらも戦いに敗れて、命からがら逃れた果てが東国、またはみちのく。

この地方は元来穏やかで、いろんな面で遅れていました。だから、落ち武者たちはなにかと有用だったのです。鉄砲の扱い方を伝えたのはこの手の人たちでした。

と、この人たちが東国やみちのくで増えていくと、いくさはまるで西国落ち武者同士の傭兵戦争となって、次第に激しさを増していくのです。これまで見たこともない戦法なんか使ったりして。あるいは、西国では見果てぬ夢だった思いが東国で実現できたりしたわけ。東漸です。

日本国内には「〇〇千軒」という古地名がいくつか残されています。

広島県福山市の「草戸千軒」がもっとも有名でしょうか。ここでいう「千軒」とは「栄えた町」くらいの意味なのでしょう。今はさびれてしまったけれど、昔は栄えていたのだ、というようなニュアンスが込められているようです。滅びてしまった理由はたいてい洪水や津波など天変地異によるもの。今となってはふるさと自慢の素材のひとつというのが物悲しさを漂わせます。

ただ、「〇〇千軒」に共通するものがいくつかあります。

鉱山と港。近くの山で採れた金銀を海上交通を使ってどこかに運んだ、ということなのでしょうか。買い手がいたのですね。どこの誰にでしょうか。モノばかりか、ヒトも運ばれていったのかもしれません。毎日必ずどこかで殺し合いがあった戦国時代も、ちょっと見方を変えると別な世界がみえてくるかもしれません。夢はふくらみますね。千軒と千字寄席。これはただの偶然ですが。

こんなふうに、これまで戦国時代の常識とされてきたことが少しずつ剥がされていきなんでもありなのが戦国時代だ、という認識が今日広まりつつあるようです。

ひるがえって、落語。これはどうでしょうか。

落語史は戦国史と違って、ごく一部の真摯で優れた方々を除けば、いまだにまともな研究者や評論家がいません。戦国史は多くの大学で学べても、落語史を学べる大学はあまりありません。あったとしても、なにかの片手間か気まぐれです。

落語評論なる文章も、先学諸兄の孫引きが目立って、当人は元が間違っていることにも気づかずにさらしたりしているようで。それを誰もなにも言わずに放置の状態、なんていうことを見かけます。われわれもその過ちを犯してきたのかもしれません。

どうにも曖昧模糊、なんだかなあ、いまだ霧の中にたたずんでいるのが落語史の研究。千鳥足の風情です。

いずれ誰かが全体を明らかにしてくれるのだろうと心待ちにしていましたが、いつまで待ってもあまり変わり映えしそうもありません。

そんなこんなで、こちらの持ち時間もじわじわとさびしくなってきた昨今、ここはもう知りたいことは自分でやるしかないかとばかり、心を入れ替え気合を込めてじわじわがつがつと落語について読み込んでいこうと覚悟を決めたというところです。落語も戦国時代のような状態なのかもしれません。

われわれは、落語というものを、芸能史の流れ、つまり、口承、唱導、説教、話芸といった一連のたゆたい、舌耕芸態として見つめていきたいのです。

落語は聴いて笑うもので調べるものではない、などと言っている人がいます。たしかに、落語研究などとは野暮の骨頂なのかもしれません。ある種の人たちには「笑い」を肩ひじ張って「研究」するなんてこっぱずかしいなりわいなのでしょう。

それでも、たとえば、三遊亭円朝が晩年、臨済宗から日蓮宗に改宗したことの意味を、われわれはやはりもう少し深く知りたいものです。そうすれば、いま残された42の作品の位置づけや意味づけも少し変わってくるかもしれませんし。

世間もわれわれも、なんであんなに「円朝」なるものを仰ぎ見ているのか。その不思議のわけを知りたいものです。

もひとつ。明治時代の寄席のありさま。

「寄席改良案」といったものが当時、しょっちゅう新聞ダネになっています。

「町内ごとに寄席はあったもんだ」なんて、まるで見てきたようなことを言っている人がいますが、どうなんでしょうか。

あるにはあったようですが、場末の端席と一流どころの定席では同じ「寄席」でくくるにはあまりにも不釣り合いなほどに異空間だったように思えます。それはもちろん、今日、私たちが知る鈴本演芸場や新宿末広亭のようなあしらいの寄席とはおそろしく異なるイメージの空間でもあったようなのです。

寄席で終日待ってても落語家が一人も来なかった、なんていう端席は普通にあったようです。同席する客は褌一丁で上ははだけたかっこうの酒臭い車引きやひげもじゃ博労の連中がごろごろにょろにょろ。床にひっくるかえっては時間をつぶし、あたら品ない世間話に花が咲く町内の集会所のようなものだったのでしょう。

これでは、良家の子女は近づきません。まともな東京人は来ないわけです。

歌舞伎に客を取られてはならじと、寄席や落語家の幹部連中はなんとかせねばとうずうずしていたのが、明治中期頃までの寄席の実態だったようです。

だからなんだ、と言われればそれまでなんですが。

うーん、それでも、やっぱり、どうしてもそういうところを深く知りたい。

たとえば「藪入り」。なんであんなヘンな噺が残っているのだろう。そこには、当時の寄席の雰囲気を知ると見えてくるものがあるんじゃないだろうか、なんて思うわけです。

見たり聴いたり、五感を刺激される体験をしてみると、それをまた違った形でもいちど味わってみたいという欲求にかられるのも人のさが。そんな人種もたまにはいるのです。

これを機会に、おぼろげでかそけき落語研究の世界について、テキストをしっかり読み込むことで、くっきり視界をさだめていこうと思っています。

いまとなっては、われわれには仰ぐべき師匠も依るべとなる先達もいません。だから時間がかかります。それでも、手探りながらも地道に少しずつ前に進んでいきたいと思います。ご叱正、ご助言あれば、すこぶる幸い。お暇な方は、どうぞおつきあいください。

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