しかのぶざえもん【鹿野武左衛門】噺家

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

慶安けいあん2年(1649)-元禄げんろく12年(1699)。江戸落語の祖。

江戸で初めて、座敷仕方咄ざしきしかたばなしを演じた人とされています。

出身は大坂とも京ともいわれていますが、よくわかりません。

上方から江戸に下ってきた人のようです。

鹿野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。

本名は安次郎とかで、職業は塗師ぬし。漆塗りの職人でした。

日本橋の堺町さかいちょう長谷川町はせがわちょう(日本橋堀留ほりどめ)あたりの職人町に住んでいました。

人前でのおしゃべりがうまかったようで、座敷仕方咄を演じてはいつしか人気者に。

身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。

そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。

江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延まんえんし、1万人余りが亡くなりました。

当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。

そのさなか。

「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」

そんな噂がまことしやかに広まったのでした。

もちろん馬鹿な。馬がしゃべるなんて。エドじゃあるめえし。ここは江戸だぜ。

でも、そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。

ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。

頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。

人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。

忖度そんたくまじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相のせよりすけ(出雲守いずものかみ)は、配下に探索させます。

そしたら、出てきた。

浪人者の筑紫団右衛門ちくしだんえもんと、神田須田町すだちょうの八百屋惣右衛門そうえもんの共同謀議だったことが。

主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。ひっえー。

従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。ざざざッ。

厳しいお裁きでした。

これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。しゃべる馬の件です。

取り調べで二人は、こんなことを言っていました。

咄本はなしぼん『鹿の巻筆まきふで』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。

咄本というのは、軽口かるくち(しゃれ)や落語などを記した本のこと。笑うための本ですね。

だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。え、これが?

『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。

武左衛門は伊豆大島に流罪。

版元の本屋弥吉も江戸追放に。

本は焼き捨てられました。

焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。

とんだとばっちりです。

武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。

いやあ、もったいない。武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。

若い頃の武左衛門は、石川流宣いしかわりゅうせん小咄こばなしの会なんかをつくって、人気を得ました。

中橋広小路なかばしひろこうじ(八重洲やえす)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。

人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。

お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。

町奉行が切歯扼腕せっしやくわんしたのは、ここのところでした。な、なんでェ?

宇井無愁ういむしゅう氏は、こんなふうに解釈しています。

街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。

宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)

なるほど。当局の考えそうなことですね。

ついでに座敷咄ざしきばなしなる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。

存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。

その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。

暗黙のご法度となったのです。

江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。

その後、寛政かんせい10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。

岡本万作おかもとまんさく神田豊島町藁店かんだとしまちょうわらだなの寄席。

それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽さんしょうていからく)による下谷柳したややなぎ稲荷社いなりしゃ境内にも寄席が。

二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。

ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。

江戸時代おそるべし、です。

【蛇足】

「堺町馬の顔見世」

『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。

市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。

伊藤正太夫は、一座の座頭ざがしら、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。

『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。

鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門にしひがしたろうざえもんという人が『本朝話者系図ほんちょうわしゃけいず』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。

ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。

「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたんだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。

参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」

塗師

「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。

「七十一番職人歌合」という歌集があります。明応めいおう9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代の頃の歌集です。

べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことできません。

天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、という物合ものあわせという形式の歌集です。

あの階層の人たちって、病的なほどに暇だったのですね。

その三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。

以下は、詞書き。

よげにそうろう 木掻きがきのうるしげに候 今すこし火どるべきか

よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。

そんな意味合いです。

いつまでも蛤刃はまぐりばなるこがたなのあふべきことのかなはざるらん

しぼれども油がちなるふるうるしひることもなき袖をみせばや

このように二首載って、競っているわけです。

歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。

それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職号を垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。

最後に、以下のような判が下っています。

左右、ともに心詞こころことばきゝて面白く聞こゆ よきにこそはべるめれ

どうということもない文言です。

歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。

「七十一番職人歌合」の第三番「塗士」の図

右の男は侍烏帽子さむらいえぼしをかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶっているのは珍しいことではありません。小袖にはかま。腕をまくっています。

右手には、漆刷毛うるしはけを持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。

二人が行っているのは、吉野紙の漆し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。

漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。

「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。

塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。

これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。

さて、鹿野武左衛門。

これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと喜ばれていたのかもしれませんね。

参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

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