らくごのねんぴょう【落語の年表】古木優


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落語の流れを時系列に作成していきます。

和暦(西暦)落語と世間
寛政10年(1798)6.-岡本万作が神田豊島町藁店に寄席を。6.-万作に対抗して山生亭花楽(→初代三笑亭可楽)が下谷柳の稲荷神社内で寄席を。5日で終わり。9.28花楽は目黒不動で祈願。10.1花楽、武州越ヶ谷で講席。のち松戸で講席。三笑亭可楽に改名。11.12深川元町で母娘の敵討ち、敵は死亡し母娘はおかまいなしに。
この年、初代桂文治、大坂座摩社内で寄席を。寄席時代の幕開け
寛政11年(1799)1.-桜川慈悲成撰、式亭三馬序『太平楽』刊
寛政12年(1800)この年、可楽が江戸に帰り二度の咄の会を。摺り物に烏亭焉馬、桜川慈悲成、可楽の3人の狂歌を載せる
寛政13年/享和元年(1801)2.5改元
享和2年(1802)1.-『浪華なまり』
この年、百川堂灌河編『新撰勧進話』京都版。「盗っ人の仲裁」→三代目小さんが「締め込み」に。この年、十返舎一九『落咄臍くくり金』江戸版。「餅搗き」は上方「尻餅」の原話
享和3年(1803)この年、桜川慈悲成『遊子珍学文』。「三年目」の原話
享和4年/文化元年(1804)2.11改元
文化2年(1805)
文化3年(1806)
文化4年(1807)
文化5年(1808)
文化6年(1809)
文化7年(1810)
文化8年(1811)
文化9年(1812)
文化10年(1813)
文化11年(1814)
文化12年(1815)
文化13年(1816)
文化14年(1817)
文化15年/文政元年(1818)4.22改元
文政2年(1819)
文政3年(1820)
文政4年(1821)
文政5年(1822)
文政6年(1823)
文政7年(1824)
文政8年(1825)
文政9年(1826)
文政10年(1827)
文政11年(1828)
文政12年(1829)
文政13年/天保元年(1830)12.10改元
天保2年(1831)
天保3年(1832)
天保4年(1833)
天保5年(1834)
天保6年(1835)
天保7年(1836)
天保8年(1837)
天保9年(1838)
天保10年(1839)4.1円朝、湯島切通片町(文京区湯島4)で誕生
天保11年(1840)
天保12年(1841)
天保13年(1842)
天保14年(1843)
天保15年/弘化元年(1844)12.2改元
弘化2年(1845)3.3円朝、橘家小円太で土手倉(中央区日本橋2)で初出勤
弘化3年(1846)
弘化4年(1847)
弘化5年/嘉永元年(1848)2.28改元
嘉永2年(1949)
嘉永3年(1850)
嘉永4年(1851)
嘉永5年(1852)
嘉永6年(1853)
嘉永7年/安政元年(1854)11.27改元
安政2年(1855)3.21 小円太、初代円生の菩提寺(浅草金龍寺)に参詣して三遊派再興を誓う。円朝に改名
安政3年(1856)この年、円朝は池之端七軒町に転居、母を引き取り父も迎える
安政4年(1857)
安政5年(1858)
安政6年(1859)
安政7年/万延元年(1860)3.18改元
万延2年/文久元年(1861)2.19改元
文久2年(1862)
文久3年(1863)
文久4年/元治元年(1864)2.20改元
元治2年/慶応元年(1865)4.7改元
慶応2年(1866)
慶応3年(1867)
慶応4年/明治元年(1868)9.8改元
明治2年(1869)
明治3年(1870)
明治4年(1871)
明治5年(1872)
明治6年(1873)
明治7年(1874)
明治8年(1875)
明治9年(1876)
明治10年(1877)
明治11年(1878)
明治12年(1879)
明治13年(1880)
明治14年(1881)
明治15年(1882)
明治16年(1883)
明治17年(1884)
明治18年(1885)
明治19年(1886)
明治20年(1887)
明治21年(1888)
明治22年(1889)
明治23年(1890)
明治24年(1891)
明治25年(1892)
明治26年(1893)
明治27年(1894)
明治28年(1895)
明治29年(1896)7.28円朝が日蓮宗の大信者に(日宗新報604号)
明治30年(1897)
明治31年(1898)
明治32年(1899)
明治33年(1900)8.11三遊亭円朝没。8.21麗々亭柳橋没(41)。11.-三代目春風亭柳枝没
明治34年(1901)
明治35年(1902)
明治36年(1903)
明治37年(1904)
明治38年(1905)
明治39年(1906)
明治40年(1907)1,5六代目朝寝坊むらく没(49)。
明治41年(1908)
明治42年(1909)
明治43年(1910)
明治44年(1911)
明治45年/大正元年(1912)5.29初代柳家つばめ没。7.30改元
大正2年(1913)
大正3年(1914)
大正4年(1915)
大正5年(1916)
大正6年(1917)
大正7年(1918)
大正8年(1919)
大正9年(1920)
大正10年(1921)
大正11年(1922)
大正12年(1923)9.1関東大震災
大正13年(1924)8.18三代目古今亭今輔没。11,2二代目三遊亭円朝(初代三遊亭円右→)没(65)
大正14年(1925)
大正15年/昭和元年(1926)1.29余代目古今亭志ん生没。5.3に代目三遊亭金馬没。12.25改元
昭和2年(1927)
昭和3年(1928)3.11第二次落語研究会第1回※全179回。44年3月まで
昭和4年(1929)
昭和5年(1930)
昭和6年(1931)
昭和7年(1932)
昭和8年(1933)
昭和9年(1934)9.21東宝名人会第1回公演(東宝劇場5階、510席の東宝小劇場で)
昭和10年(1935)
昭和11年(1936)
昭和12年(1937)
昭和13年(1938)
昭和14年(1939)
昭和15年(1940)
昭和16年(1941)
昭和17年(1942)2.-三代目柳家つばめ没(59)。11.1正岡容主催の寄席文化向上会(大塚鈴本)で第1回「特殊古典落語鑑賞」※「古典落語」の初出
昭和18年(1943)
昭和19年(1944)
昭和20年(1945)
昭和21年(1946)2.3第三次落語研究会第1回※46年8月まで
昭和22年(1947)
昭和23年(1948)10.9第四次落語研究会第1回※全115回。58年まで
昭和24年(1949)
昭和25年(1950)
昭和26年(1951)
昭和27年(1952)
昭和28年(1953)4.11三越落語会第1回。桂小金治「三人旅」、古今亭今輔「印鑑証明」、柳家小さん「提灯屋」、三遊亭円生「百川」、桂三木助「宿屋仇討」、桂文楽「心眼」※子母田万太郎が提唱
昭和29年(1954)
昭和30年(1955)
昭和31年(1956)5.30東横落語会第1回(渋谷・東急百貨店東横店)。※主催は湯浅喜久治。東横落語会・全公演データリスト
昭和32年(1957)8.30東横落語会「円朝祭」※サラ口で三木助「真景累ヶ淵」
昭和33年(1958)
昭和34年(1959)6.6落語勉強会(東宝演芸場)※若手の勉強会で公演後、飯島友治が批評(ダメ出し)。7.30東京落語会(NHK)第1回※東京落語会全公演・データリスト(仮公開)
昭和35年(1960)
昭和36年(1961)10.-四代目柳家つばめ没(69)。
昭和37年(1962)4.5精選落語会第1回(イイノホール)。三笑亭可楽「今戸焼」、桂文楽「明烏」、林家正蔵「花見の仇討」、柳家小さん「笠碁」、三遊亭円生「百川」、新人推薦で三遊亭全生(→五代目円楽)「たらちね」※68年12月まで
昭和38年(1963)
昭和39年(1964)9.12紀伊國屋寄席第1回※不定期で、66年から毎月1回開催。11.30古典落語をきく会(紀伊國屋ホール)※桂文楽、三遊亭円生、林家正蔵
昭和40年(1965)
昭和41年(1966)
昭和42年(1967)
昭和43年(1968)3.14第五次落語研究会第1回
昭和44年(1969)
昭和45年(1970)
昭和46年(1971)
昭和47年(1972)
昭和48年(1973)9.21五代目古今亭志ん生没
昭和49年(1974)
昭和50年(1975)
昭和51年(1976)
昭和52年(1977)
昭和53年(1978)
昭和54年(1979)9.3六代目三遊亭円生没
昭和55年(1980)4,21藤浦富太郎没(95)。
昭和56年(1981)
昭和57年(1982)
昭和58年(1983)
昭和59年(1984)
昭和60年(1985)6.28東横落語会最終演(第294回)。※東横落語会・全公演データリスト
昭和61年(1986)
昭和62年(1987)
昭和63年(1988)
昭和64年/平成元年(1989)1.7改元
平成2年(1990)
平成3年(1991)
平成4年(1992)
平成5年(1993)
平成6年(1994)
平成7年(1995)
平成8年(1996)
平成9年(1997)
平成10年(1998)
平成11年(1999)
平成12年(2000)
平成13年(2001)10.1三代目古今亭志ん朝没
平成14年(2002)5.16五代目柳家小さん没
平成15年(2003)
平成16年(2004)
平成17年(2005)2.10東宝名人会第1260回で最終演(芸術座)。4.18二代目桂文朝没
平成18年(2006)
平成19年(2007)
平成20年(2008)
平成21年(2009)
平成22年(2010)
平成23年(2011)
平成24年(2012)
平成25年(2013)
平成26年(2014)
平成27年(2015)
平成28年(2016)
平成29年(2017)
平成30年(2018)
平成31年/令和元年(2019)5.1改元
令和2年(2020)
令和3年(2021)3.19東京落語会(NHK)、毎月開催の形式での公演終了※東京落語会・全公演データリスト(仮公開)。10.7十代目柳家小三治没
令和4年(2022)
令和5年(2023)5.28藤浦敦没。7.21五街道雲助に人間国宝(文化審議会)
令和6年(2024)2.25落語協会百周年
令和7年(2025)

参考文献:「ホール落語と六代目三遊亭円生」(宮信明)/読売新聞



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かんしゃく【癇癪】落語演目

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【どんな?】

大正時代。
小言ばかり言ってるだんなは家中でうるさい。
家人が大掃除をしたら……。
近代人の小言幸兵衛。
他人に当たり散らす怒りんぼうの噺。

あらすじ

大正のころ。

ある大金持ちのだんなは、有名な癇癪持ち。

暇さえあれば家中点検して回り、
「あそこが悪い、ここが悪い」
と小言ばかり言うので、奥方始め家の者は戦々恐々。

今日も、その時分にはまだ珍しい自家用車で御帰宅遊ばされるや、書生や女中をつかまえて、やれ庭に水が撒いていないの、天井にクモの巣が張っているのと、微に入り細をうがって文句の言い通し。

奥方には、
「茶が出ていない、おまえは妻としての心掛けがなっていない」
と、ガミガミ。

おかげで、待っていた客がおそれをなして、退散してしまった。

それにまた癇癪を起こし、
「主人が帰ったのに逃げるとは無礼な奴、首に縄付けて引き戻してこい」
と言うに及んで、さすがに辛抱強い奥方も愛想をつかした。

「妻を妻とも思わない、こんな家にはいられません」
と、とうとう実家へ帰ってしまう。

実家の父親は、出戻ってきた娘のグチを聞いて、そこは堅い人柄。

「いったん嫁いだ上は、どんなことでも辛抱して、亭主に気に入られるようにするのが女の道だ、『けむくとも 末に寝やすき 蚊遣かな』と雑俳にもある通り、辛抱すれば、そのうちに情けが通ってきて、万事うまくいくのが夫婦だから、短気を起こしてはいけない」
と、さとす。

「いっぺん、書生や女中を総動員して、亭主がどこをどうつついても文句が出せないぐらい、家の中をちゃんと整えてごらん」
と助言し、娘を送り返す。

奥方、父親に言われた通り、家中総出で大掃除。

そこへだんなが帰ってきて、例の通り
「おい、いかんじゃないか。入り口に箒が立てかけて」
と見ると、きれいに片づいている。

「おい、帽子かけが曲がっていないか。庭に水が撒いてある。ウン、今日は大変によろしい。おいッ」
「まだなにかありますか」
「けしからん。これではオレが怒ることができんではないか」

しりたい

作者は若だんな

益田太郎冠者(益田太郎、1875-1953)が明治末に、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)のためにつくった落語です。

作者の父親は男爵益田孝(1848-1938)。三井財閥の大番頭として近代日本の財界に重きをなした人物です。

せがれの太郎は「太郎冠者」という名乗った帝劇の重役兼座付作者で、主に軽喜劇と女優劇のための台本を執筆しました。

「女天下」「心機一転」「ラブ哲学」「新オセロ」などの作品があります。

特に大正9年(1920)、森律子主演のオペレッタ「ドッチャダンネ」の劇中歌として作詞作曲した「コロッケの唄」は流行歌となり、今にその名を残しています。

落語も多数書いていますが、現在演じられるのはこの「癇癪」くらいです。

富豪の日常を描写

明治末から大正期に運転手付きの自家用車を持ち、豪壮な大邸宅で大勢の書生や女中さんにかしづかれ、そのころはまだ珍しい扇風機まで持っているこのだんなの生活は、そのまま作者の父親のそれを模写したものと容易に想像できます。

現代的感覚からすると、もはや古色蒼然。さほどおもしろくもありません。

わずかに主人公の横暴ぶりを、演者の腕によって誇張されたカリカチュアとして生かせると、掘り出し物になるかもしれません。

文楽の十八番

初演の円左の速記は残っていません。

円左没後は、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)を経て、先の大戦後は、八代目文楽(並河益義、1892-1971)が一手専売に、十八番のひとつにしました。

ひところはよく客席から「かんしゃく!」と、リクエストされたとか。

噺が作られたのは明治期でした。文楽が、作者の許可と監修のもとに細部を整え、明治とは一味垢ぬけた大正時代に設定し直したもののようです。

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じどうしゃのふとん【自動車の布団】落語演目

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【どんな?】

大正期のお笑い。自動車が出てくる古典落語です。驚きです。

【あらすじ】

大正時代の中頃。

自動車があちこちで走り出し、八人乗りバスも登場した頃の話。

日曜日でも天気がよく、新しい着物ができてきたばかりなので、奥方は町に出て見せびらかしたくてたまらない。

そこで、亭主に、しつこく芝居に行こう、上野か浅草に連れて行ってくれと、せがむが、この亭主、大変に嫉妬深いタチなので、女房をほかの男が見るだけでもがまんならないから、ああだこうだと言って渋る。

そこをむりやりに連れ出して、乗合自動車(=バス)に乗ると、満席だったが、色白の役者のような男が、親切に席を譲ってくれた。

それを見て、亭主の顔がさっと青ざめる。

まだ乗ったばかりなのに、車掌に無理に言って、奥方の手をひっつかむと降りてしまう。

家に戻ると
「おまえはけしからん女だ。今日限りおまえを離縁する」
と申し渡したから、奥方は驚いた。

なにも悪いことはしていないと抗議すると
「なに、悪いことはしてない? ずうずうしい奴だ。おまえ、さっき乗合自動車で会った若い男と間男しとるじゃないか」
「いったになにを証拠にそんなことをおっしゃいます」
「証拠はある。わからなければ、自動車の布団に聞いてみろ」

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

自動車ことはじめ

日本に最初にクルマが入ったのは、明治33年(1900)、皇太子(のちの大正天皇)の成婚祝いにサンフランシスコ日本人会から献上したときとか。

国産車となると、同43年(1910)、陸軍東京工廠でトラックを、大正3年(1914)、快進社が小型自動車「脱兎号」を試作。これが「ダットサン」のはしりです。

本格的な国産品の生産は、昭和に入って軍用規格でトラック、バスが生産されたものの、乗用車となると、戦後まで待たねばなりませんでした。

大正新時代の花形

大正中ごろから少しずつ、上流階級や富豪などがT型フォード、シボレー、パッカードなどの輸入車を購入しはじめました。

この噺や「かんしゃく」(益田太郎冠者作)などは、そうしたハイカラな大正新時代を当て込んだ新作落語です。

乗合バスは、東京では大正8年(1919)、新橋-上野間に、この噺に登場する十六人乗りの乗合自動車が開通したのが始め。

関東大震災後の同13年(1924)1月、架線をずたずたにされた市電や省線(山手線)の代替輸送手段として、東京市営乗合自動車、通称「青バス」がお目見え。本格的なバス時代を迎えます。

創業当時の初乗り運賃は、一区券十銭でした。昭和に入ると、いよいよタクシー(円タク)が登場します。

「間男」から「姦通罪」へ

間男、不義密通→姦通、不貞→不倫と、時代と呼び名は変われど、やっていることは相変わらずお変わりないのが人のさが。

江戸時代には、密通は表向きは女房・間男共々死罪。実際は、七両二分の示談金で済まされることが多かったとか。

明治に入っても「姦通罪」は厳然と生きていて、北原白秋がこれに引っかかり、監獄に食らい込んだのは有名な話です。

岡倉天心と九鬼男爵夫人のスキャンダルも当時、巷間をにぎわせました。九鬼周造はこの夫人の息子です。

周造は若い天心がよく家に来るので、この人が自分の父親ならよいのにとあこがれていたそうです。実際の父親である九鬼隆一はさほどの人ではなかったのでしょうか。

二代目金馬の新作

大正10年(1921)2月、『文藝倶楽部』掲載の二代目三遊亭金馬(1867-1926)の速記が、唯一の口演資料です。金馬の当時の新作と思われます。

オチは「間男」と「布団」の連想だけの陳腐なもので、内容も取るに足らないものですが、大正初-中期の風俗資料としては貴重でしょう。

二代目金馬は、本名が碓井米吉。本名を取って「碓井の金馬」、若年のころ本所亀沢町のお盆店に奉公していたため「お盆屋の金馬」の異名があります。

若いころは実力のわりに不遇で、旅興行ばかりでしたが、晩年は「落語会の策士」といわれ、関東大震災後の「睦会」の設立など、ヤマっ気の多い人だったようです。喜劇王となった柳家金語楼の師匠でもあります。得意な噺は「花見酒」「死神」などでした。

名優がしでかした人身事故

明治大正の名興行師、田村成義(1851-1920)が著した『無線電話』は、冥土に電話して、故人になった名優や劇界関係者と対話をするという、ユニークな内容です。雑誌『歌舞伎』大正3年(1914)9月号に掲載されたものは、五代目尾上菊五郎(1903年没)の霊との会話を通して、当時最新流行の自動車について、なかなか愉快な問答が展開します。

自動車の存在を知らずに死んだ菊五郎に、田村が、上野から品川まで20分かからないとか、値段は当時(大正初期)一台安くて3000-4000円、高いので9000円、宮様が乗る最高級車は15000円など、得意になってこの「文明の利器」についてひけらかします。役者も競ってクルマを購入、得意になって走らせたはいいものの……。

田村:時々は往来の子供を引き倒したり、怪我をさせることも度々あります。(中略)君んとこの息子(六代目尾上菊五郎)なんざ、学校へかよう余所の息子の足を折って詫び事に行ったり、費用を払ったりした事もあるのですもの。

という次第。物騒な交通事故は、このころからということがわかります。

そのほか、これも名優の十五代目市村羽左衛門の車が、肥たごを載せた大八車に追突、あたりが糞だらけになったというエピソードや、当時すでに蝶々印の貸し自動車もあって、ハイヤーのはしりが現れていたことも記されています。

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