【転宅】てんたく 落語演目 あらすじ
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【どんな?】
泥棒より数枚上手な女の話。
この泥棒のお人よしぶりには口あんぐり。
【あらすじ】
おめかけさんが「権妻」と呼ばれていた明治の頃。
船板塀に見越しの松の妾宅に、だんなが五十円届けて帰った後、これを聞きつけて忍び込んだのが間抜けな泥棒。
お膳の残りものをムシャムシャ食っているところを、おめかけさんのお梅に見つかり、
「さあ、ダンツクが置いてった五十円、蛇が見込んだ雨蛙。四の五の言わずに出せばよし、いやだ応だと抜かしゃがると、伊達には差さねえこの大だんびら、うぬがどてっ腹へズブリズブリとお見舞い申すぞ」
と居直ったが、このおめかけさん、いっこうに動じないばかりか、
「あたしも実は元はご同業で、とうにだんなには愛想が尽きているから、あたしみたいな女でよかったら、連れて逃げておくれ」
と言い出したから、泥棒は仰天。
「五十円はおろか、この家にはあたしの蓄えも入れて千円あるから、この金を持って駆け落ちし、世界一周した後、おまえさんに芸者屋でもやってもらう」
と色仕掛けで迫る。
泥棒、でれでれになって、とうとう、めおとの約束を。
「そう決まったら今夜は泊まっていく」
と泥棒がずうずうしく言い出すと、
「あら、今夜はいけないよ。二階にはだんなの友達でえらく強いのが、酔っぱらって寝てるんだから」
明日の朝に忍んでいく約束をしたが、
「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」
と稼いだなけなしの二十円を巻き上げられる始末。
で、その翌朝。
うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんや、もぬけのカラ。
あわてて隣の煙草屋のおやじに聞くと、
「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑いつづけなんです」
女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。ほうぼうで遊んできた人だから、人間がすれている。間抜け野郎の泥棒を口先でコロッとだまし、あの後、だんなをすぐに呼びにやったところ、あとでなにか不都合があるといけないというので、泥棒から巻き上げた金は警察に届け、明け方のうちに急に転宅(=引っ越し)した、とか。
「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた(=だまされた)」
【しりたい】
たちのぼる明治の匂い
「権妻」「転宅」ともに明治初期から使われだした言葉。まぎれもなく明治の新時代につくられた噺です。
初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が得意にしました。
この円遊は明治を代表する噺家で、大きい鼻のために「鼻の円遊」とも、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露したため「ステテコの圓遊」とも呼ばれていました。
円遊は、文明開化の新風俗を当て込み、鉄道馬車を登場させたり、オチも「あそこにシャボンが出ています」と変えるなどとしていました。
同時代で音曲の弾き語りや声色などで人気のあった二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-1898)は、女が「目印にタライを置いておく」と言い、オチは「転宅(=洗濯)なさいましたか。道理でタライが出ています」としています。
ちなみに、二代目今輔は右目が不自由だったことから「めっかちの今輔」と当時の資料には出てきます。
やはり、ひとつの時代の風俗に密着しているだけに、いつまでも生き残るには難しい噺かもしれません。
三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)も得意ネタにしていました。こちらのネタでも同じような運命をたどっています。
権妻
本妻に対しての愛人、妾、おめかけさんをいいます。
「権」を「けん」ではなく「ごん」と読みます。
「ごん」と読む場合は、「権大納言」「権禰宜」というように、「次の」「二番目の」をさす敬称となります。
愛人に対してわざとしゃれて使ったものです。明治時代の特徴です。
船板塀に見越しの松
「黒板塀に……」ともいいます。当時の典型的な妾宅の象徴として、三代目瀬川如皐(六三郎、1806-81)の代表的な歌舞伎世話狂言『源氏店』(お富与三郎)にも使われました。
瀬川如皐は歌舞伎作者です。
船板塀は、廃船となった船底板をはめた塀で、ふつう「忍び返し」という、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。
見越しの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。
いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。
「ドウスル!」女義太夫
「娘義太夫」「タレギダ」ともいいます。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。
明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。
ちなみに、「タレギダ」の「タレ」は女性の隠語、「ギダ」は義太夫のことで、娘義太夫を意味しています。内訳を知るとばかばかしいだけ。
娘義太夫は、今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどは、木下杢太郎(1885-1945)の詩「街頭初夏」(明治43年)にも。
濃いお納戸の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田もすずしげに
この噺のおめかけさんのように旅回りの女芸人となると、泥水もさんざんのみ、売春まがいのこともするような、かなり凄絶な境遇だったのでしょう。
そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。
それにしても
この噺、男女の愛欲を貫くよりも、泥棒を犯罪者とみなして追及するほうを優先しています。
明治期の世俗価値観が強く出ていて、いまいちどうも、とびきりのおもしろさはありません。
とはいえ、妾囲いを是とする風潮は許容しているわけです。
落語は、社会の不備や政治の不正に物申す、発信元の役割を果たしたわけではなかったようです。
自由民権運動では、講談や浪曲が媒体として使われはしても、落語は使われませんでした。
現代でも、聴者はそんなところを落語に求めていません。ただげらげら笑いたいだけなんですよね。私(古木)もです。