【大神宮】だいじんぐう 落語演目 あらすじ
【どんな?】
大神宮とは伊勢神宮のこと。
神さまと仏さまが吉原へ。
どこかで読んだコミックみたい。
別題:神仏混淆 大神宮の女郎買い お祓い
【あらすじ】
昔、浅草雷門脇に、磯辺大神宮という祠があった。
弁天山の暮れ六ツの鐘がなると雷門が閉ざされるので、吉原通いの客は、みなここの境内を通り抜けた。
待ち合わせの連中が、
「今朝はお女郎が便所に立ってそのまま消えてしまったので、あいつは丑歳だろう」
とか、
「つねられた痕を見ると女を思い出すから、消えないように友達にまたつねってもらった」
などと、愚痴やノロケを並べる。
大神宮が祠からこれを聞き、
「人間どもがあれだけ大騒ぎをするからには、女郎買いというのはよほどおもしろいものに違いない」
と、自分も行ってみたくてたまらなくなった。
一人で行くのはつまらないから、誰か仲間を、と、あれこれ考えているうち、黒い羽織で粋ななりをした門跡さま(阿弥陀如来)がそこを通りかかった。
誘うと乗ってきたので、自分も茶店でいかめしい直垂と金の鉢巻きを脱ぎ、唐桟の対、茶献上の帯という姿になると、連れ立って吉原へ。
お互いに正体がばれるとまずいから、「大さん」「門さん」と呼び合うことにした。
その晩は芸者を揚げて、ワッと騒いでお引けになる。
明くる朝。
若い衆が勘定書きを持っていくのに、一人は唐桟づくめで商家の旦那然とし、もう一方は黒紋付きの羽織で頭が丸く、医者のようなこしらえだから、これは藪医者が旦那を取り巻いて遊んでいるのだろうと、門跡さまの方に回すことにした。
「ええ、おはようございます。恐れ入りますが、昨夜のお勤め(=勘定)を願いたいので」
「お勤め」というから、大神宮、正体がバレたかと思い、
「いたしかたありません。手をこうやって合わせなさい」
「へい」
「では、やりますよ。ナームアミー」
「へへ、これはどうもおからかいで。お払いを願います」
「お祓いなら、大神宮さまへ行きなさい」
【うんちく】
円遊の創作かも 【RIZAP COOK】
直接の原話は不詳です。
神仏がお女郎買いに行くという趣向は、宝暦7年(1757)刊の洒落本『聖遊廓』(作者不詳)にすでにあり、これは孔子と老子と釈迦の三人が、大坂道頓堀で茶屋遊びするという、罰当たりなお話。
ついで、天明3年(1783)刊の洒落本『三教色』では、天照大神と釈迦と孔子と老子が吉原でお女郎買いという、天をも地をも怖れぬものすごさ。
『三教色』は唐来参和(1744-1810)作、喜多川歌麿(1753-1806)画による作品です。
ちなみに、洒落本とは18世紀後半にさかんにつくられた遊里を舞台にした物語集です。
この本から人々は「通」なる感覚を身に着けていきました。
この噺の現存最古の速記は「神仏混淆」と題して明治24年(1891)10月、『百花園』に掲載された初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものです。
噺の中に「神仏ともに力を戮せて日本人民を助けましょう」などのセリフがあるので、この噺は、明治20年代、明治初期の神仏分離、廃仏毀釈の政策が見直され、宗教の融和が進んだことを当て込んだ、初代円遊の新作ではないか、というのが、暉峻康隆(1908-2001、江戸文学)の見立てです。
大正期は小せん 【RIZAP COOK】
初代円遊は、品川鮫洲の荒神さまが幇間役で大神宮と阿弥陀さまを吉原へ誘う、という設定で、神仏が三人(?)となっています。
荒神さま(竈の神)も大神宮の末社なので、当時、円遊以外でも、これを主役にする演者がいたようです。
明治末から大正にかけては、廓噺を集大成した初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の独壇場でした。
演題を「大神宮」として磯辺大神宮に設定したのも小せんでした。
遺稿集『廓噺小せん十八番集』に、晩年の速記が収録されています。
別題は「大神宮の女郎買い」「お祓い」などです。
パーツを取られ、本体消滅 【RIZAP COOK】
現在は継承者がなく、すたれた噺ですが、小せんのマクラ部分は、多くの後輩が「いただい」ています。
お女郎の便所が長いので、あいつは丑年だろうというくすぐりは、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が「明烏」に、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が「義眼」に、それぞれ使っていました。
二人とも小せんに廓噺を直伝された「門下生」です。
志ん生はこのほか、あらすじでは略しましたが、小せんの振ったもう一つのマクラ小咄「蛙の女郎買い」を、「首ったけ」その他、自らの廓噺にそっくり頂戴していました。
なお、前半の遊客のノロケ部分をふくらませたものがかつて「別れの鐘」として一席噺になっていました。
これは、あまりにもお女郎に振られるので、意趣返しに帰り際、お女郎屋の金たらいをくすね、背中に隠したはいいが、女に「また来てくださいよ」と背中をたたかれ、「ボーン」と鐘のようにたらいが鳴ってバレる、というもの。
現在では演じ手がありません。
「大神宮」自体、昭和16年(1941)10月31日、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)境内の「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語にすら入らないため、当時でもすでに後継者はなかったのかもしれません。
磯辺大神宮 【RIZAP COOK】
「富久」でおなじみの大神宮さま。
大神宮は、伊勢の内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)を併せた尊称です。
磯辺大神宮は、伊雑とも書き、伊勢内宮の別宮です。
江戸では、北八丁堀の塗師町にも勧請してありましたが、浅草のは、浅草寺内の日音院が別当(管理者の親玉)をしていました。
別当とは、本来の職務のある人が別の職務を兼任することです。たいていはその組織の親玉です。
明治以前の神仏習合(神道と仏教を調和融合する信仰)の時代には、神社と寺がセットになっている形態がよくありましたが、その場合、宮司か住職のどちらかが両方を管理しているのが一般的でした。
現在の雷門付近にありましたが、明治元年(1868)3月28日の新政府の神仏分離令で廃され、今はありません。
門跡さま 【RIZAP COOK】
もとは本願寺のこと。「築地の門跡さま」とも。
そこから、阿弥陀仏の異称に転化しました。