ちょうないのわかいしゅう【町内の若い衆】落語演目



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【どんな?】

すごいオチですね。
さすが。
長屋のかみさんは太っ腹!

別題:鉢山嬶(上方) 類話:氏子中

【あらすじ】

長屋の熊五郎、兄貴分の家に増築祝いに寄ると、かみさんが、今組合の寄り合いに出かけて留守だと言う。

熊がお世辞ついでに、兄貴はえらい、働き者でこんな豪勢な建て増しもできて、組合だって兄貴の働き一つでもっているようなもんだと並べると、このかみさんの言うことが振るっている。

「あら、いやですよ。うちの人の働き一つで、こんなことができるもんですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

熊公、この言葉のおくゆかしさにすっかり感心してしまい「さすがに兄貴のとこのかみさんだ。それに引き換え、うちのカカアは同じ女でありながら」と、つくづく情けなくなった。

帰るといきなり「どこをのたくってやがった」とヘビ扱い。

てめえぐれえ口の悪い女はねえ、これこれこういうわけだが、てめえなんざこれだけの受け答えはできめえと説教すると「ふん、それくらい言えなくてさ。言ってやるから建て増ししてごらん」

痛いところを突かれる。

形勢が悪いので「湯ィへえってくる」と言えば「ついでに沈んじゃえ。ブクブク野郎」

熊公が腹を立て「しらみじゃねえが、煮え湯ぶっかけてやろうかしらん」と考えながら歩いていると、向こうから八五郎。

そこで熊「カカアの奴、ああ大きなことを抜かしゃあがったからには、言えるか言えねえか試してやろう」と思いつき、八五郎に「オレが留守のうちに何かオレのことをほめて、うちの奴がどんな受け答えをするか、聞いてきてくんねえ」と頼む。

一杯おごる約束で引き受けた八五郎、いきなり熊のかみさんに「あーら、八っつあん、うちのカボチャ野郎、生意気に湯へ行くなんて出てったけど、どうせあんなツラ、洗ったってしょうがないのにさ。あきれるじゃないか」

先制パンチを食らわされ、目を白黒させたが、なにかほめなくてはとキョロキョロ見回しても、何もない。

畳はすりきれている。土瓶は口がない。かみさんは臨月で腹がせり出している。

これだと思って「いやあ、さすがに熊兄ィ。この物価高に赤ん坊をこさえるなんて、さすが働き者だ」

するとかみさんが「あら、いやですよ。うちの人の働き一つでこんなことができるものですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

出典:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

意外に珍しい、原話もそのまま 【RIZAP COOK】

たいていの噺は、原典があっても長い年月を経ているうちにかなりストーリーが変わってくるものですが、この「町内の若い衆」ばかりは最古の原話とされる元禄3年(1690)刊の笑話本『枝珊瑚珠』中の「人の情」以来、大筋はまったく同じなんです。

この笑話集は、江戸落語の始祖といわれる鹿野武左衛門(1649-99)の手になるものですが、それから1世紀を経た寛政10年(1798)刊の『軽口新玉箒』中の「築山」になると、オチの女房のセリフが「これも主(=主人)ばかりでなく、内の若い衆の転合(てんごう。いたずら)にこしらえました」と、よけいエスカレートしています。

いかに「若い衆がよってたかって」のオチにインパクトが強かったかがわかろうというものです。

「こさえてくれた」の一言でご難 【RIZAP COOK】

このたった一言のおかげで、あわれ、この噺はアジア太平洋戦争の間は禁演落語の一つに指定され、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)の「はなし塚」に葬られていました。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がまだ七代目金原亭馬生だったころの昭和10年(1935)2月、レコードに吹き込んだ「町内の若い衆」の速記が残っています。

問題の最後の部分は「こさえてくれた」ではとても検閲を通らず、「育ててくれた」という、おもしろくもおかしくもないものになっています。

昭和10年の時点までは、こんな程度のゴマカシで、エロ落語もかろうじて命脈を保っていたことになります。

はなし塚が建立されて53席の噺が葬られたのは、昭和16年(1941)10月31日のことでした。

もっと強烈な「氏子中」 【RIZAP COOK】

前述の志ん生の速記は、実はタイトルが「氏子中」で、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)も同じ題で「町内の若い衆」を演じています。

ところが、同じ不倫噺でも本来、この二つは別話なんですね。

氏子中」の項目を見ていただければおわかりになると思いますが、ここでは、そっちを見るのもめんどうな方のために、さわりを記しておきます。

商用の旅から一年ぶりに帰った亭主の与太郎が、女房が妊娠しているのを見て、驚いて問いただすと、女房もさるもの、氏神の神田明神に願掛けして授かった子だと、しらばっくれる。親分に相談すると、「子供が産まれたら、祝いに友達連中を呼んで荒神さまのお神酒で胞衣(えな。胎盤)を洗えば、胞衣に本当の父親の紋が浮かび出る。そいつに母子ともノシつけてくれてやれ」そこで、言われたとおりにすると、「神田大明神」の文字がくっきり。疑いが晴れたかに見えたが、よくよく見ると横に「氏子中」。

こちらは、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)がたまに演じていました。

歌麿の『艶本 葉男婦舞喜』から 【RIZAP COOK】

この噺を絵にすると、こんなかんじでしょうか。

下の絵は、喜多川歌麿(北川信美、1753-1806)の『艶本 葉男婦舞喜』に収録されています。

「えほん はなふぶき」という、歌麿の有名な春画本の中の一枚ですね。

喜多川歌麿『艶本 葉男婦舞喜』上巻第七図より

この絵の書き入れ(絵のまわりにちりばめられた文字)は男女の会話です。じつは、こんなことを話しているのです。現代語訳にしてみました。

女「この子は確かおめえの子だよ。うちの亭主には少しも似ねえ。おめえにどこか似ているようだ」
男「世間の人は、とかく子持ちのぼぼは味が悪いというが、おいらあ、子持ちのぼぼでなけりゃアうま味は出ねえものと心得ている。あああ、いい。どうも言えねえ。豪勢、豪勢。まだ気をやるのは惜しいが、どうももう、たまらなくなってきた。さあさあ、十四の背骨がずんずんしてきたぞ」

絵に出ている子供はどうやら、おかみさんと「町内の若い衆」との子のようです。女は「あんたの子だよ」なんて詰め寄っているのに、男は「子持ちのぼぼがいい」とかほざいて、どこ吹く風。この子の認知をしません。会話のちぐはぐがなんとも笑いを誘います。

ひとつ、蛇足を。この絵では子供が乳を吸っています。乳を吸われると締まりがよくなるため、それを好んで男が挑むのだそうです。ということは、この男女はなかなかな手練れなのかもしれませんね。

参考文献:車浮代『歌麿春画で江戸かなを学ぶ』(中央公論新社、2021年)



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だいじんぐう【大神宮】落語演目



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【どんな?】

大神宮とは伊勢神宮のこと。
神さまと仏さまが吉原へ。
どこかで読んだコミックみたい。

別題:神仏混淆 大神宮の女郎買い お祓い

あらすじ

昔、浅草雷門脇に、磯辺大神宮というほこらがあった。

弁天山の暮れ六ツの鐘がなると雷門が閉ざされるので、吉原通いの客は、みなここの境内を通り抜けた。

待ち合わせの連中が、
「今朝はお女郎が便所に立ってそのまま消えてしまったので、あいつは丑歳うしどぢだろう」
とか、
「つねられた痕を見ると女を思い出すから、消えないように友達にまたつねってもらった」
などと、愚痴やノロケを並べる。

大神宮がほこらからこれを聞き、
「人間どもがあれだけ大騒ぎをするからには、女郎買いというのはよほどおもしろいものに違いない」
と、自分も行ってみたくてたまらなくなった。

一人で行くのはつまらないから、誰か仲間を、と、あれこれ考えているうち、黒い羽織で粋ななりをした門跡さま(阿弥陀如来)がそこを通りかかった。

誘うと乗ってきたので、自分も茶店でいかめしい直垂ひたたれと金の鉢巻きを脱ぎ、唐桟とうざんの対、茶献上ちゃけんじょうの帯という姿になると、連れ立って吉原へ。

お互いに正体がばれるとまずいから、「大さん」「門さん」と呼び合うことにした。

その晩は芸者を揚げて、ワッと騒いでお引けになる。

明くる朝。

若い衆が勘定書きを持っていくのに、一人は唐桟づくめで商家の旦那然とし、もう一方は黒紋付きの羽織で頭が丸く、医者のようなこしらえだから、これは藪医者が旦那を取り巻いて遊んでいるのだろうと、門跡さまの方に回すことにした。

「ええ、おはようございます。恐れ入りますが、昨夜のお勤め(=勘定)を願いたいので」

「お勤め」というから、大神宮、正体がバレたかと思い、
「いたしかたありません。手をこうやって合わせなさい」
「へい」
「では、やりますよ。ナームアミー」
「へへ、これはどうもおからかいで。お払いを願います」
「お祓いなら、大神宮さまへ行きなさい」

【RIZAP COOK】

うんちく

円遊の創作かも 【RIZAP COOK】

直接の原話は不詳です。

神仏がお女郎買いに行くという趣向は、宝暦7年(1757)刊の洒落本しゃれぼん聖遊廓ひじりゆうかく』(作者不詳)にすでにあり、これは孔子と老子と釈迦の三人が、大坂道頓堀で茶屋遊びするという、罰当たりなお話。

ついで、天明3年(1783)刊の洒落本『三教色さんきょうしき』では、天照大神と釈迦と孔子と老子が吉原でお女郎買いという、天をも地をも怖れぬものすごさ。

『三教色』は唐来参和とうらいさんな(1744-1810)作、喜多川歌麿(1753-1806)画による作品です。

ちなみに、洒落本とは18世紀後半にさかんにつくられた遊里を舞台にした物語集です。

この本から人々は「通」なる感覚を身に着けていきました。

この噺の現存最古の速記は「神仏混淆しんぶつこんこう」と題して明治24年(1891)10月、『百花園』に掲載された初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものです。

噺の中に「神仏ともに力をあわせて日本人民を助けましょう」などのセリフがあるので、この噺は、明治20年代、明治初期の神仏分離、廃仏毀釈はいぶつきしゃくの政策が見直され、宗教の融和が進んだことを当て込んだ、初代円遊の新作ではないか、というのが、暉峻康隆てるおかやすたか(1908-2001、江戸文学)の見立てです。

大正期は小せん 【RIZAP COOK】

初代円遊は、品川鮫洲さめずの荒神さまが幇間役で大神宮と阿弥陀さまを吉原へ誘う、という設定で、神仏が三人(?)となっています。

荒神さま(かまどの神)も大神宮の末社なので、当時、円遊以外でも、これを主役にする演者がいたようです。

明治末から大正にかけては、廓噺を集大成した初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の独壇場でした。

演題を「大神宮」として磯辺大神宮に設定したのも小せんでした。

遺稿集『廓噺小せん十八番集』に、晩年の速記が収録されています。

別題は「大神宮の女郎買い」「お祓い」などです。

パーツを取られ、本体消滅 【RIZAP COOK】

現在は継承者がなく、すたれた噺ですが、小せんのマクラ部分は、多くの後輩が「いただい」ています。

お女郎の便所が長いので、あいつは丑年だろうというくすぐりは、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が「明烏」に、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が「義眼」に、それぞれ使っていました。

二人とも小せんに廓噺を直伝された「門下生」です。

志ん生はこのほか、あらすじでは略しましたが、小せんの振ったもう一つのマクラ小咄「蛙の女郎買い」を、「首ったけ」その他、自らの廓噺にそっくり頂戴していました。

なお、前半の遊客のノロケ部分をふくらませたものがかつて「別れの鐘」として一席噺になっていました。

これは、あまりにもお女郎に振られるので、意趣返しに帰り際、お女郎屋の金たらいをくすね、背中に隠したはいいが、女に「また来てくださいよ」と背中をたたかれ、「ボーン」と鐘のようにたらいが鳴ってバレる、というもの。

現在では演じ手がありません。

「大神宮」自体、昭和16年(1941)10月31日、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)境内の「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語にすら入らないため、当時でもすでに後継者はなかったのかもしれません。

磯辺大神宮 【RIZAP COOK】

富久」でおなじみの大神宮さま。

大神宮は、伊勢の内宮ないぐう(皇大神宮こうたいじんぐう)と外宮げぐう(豊受大神宮とようけだいじんぐう)を併せた尊称です。

磯辺大神宮は、伊雑とも書き、伊勢内宮の別宮です。

江戸では、北八丁堀の塗師町ぬしちょうにも勧請してありましたが、浅草のは、浅草寺内の日音院にちおんいんが別当(管理者の親玉)をしていました。

別当とは、本来の職務のある人が別の職務を兼任することです。たいていはその組織の親玉です。

明治以前の神仏習合(神道と仏教を調和融合する信仰)の時代には、神社と寺がセットになっている形態がよくありましたが、その場合、宮司か住職のどちらかが両方を管理しているのが一般的でした。

現在の雷門付近にありましたが、明治元年(1868)3月28日の新政府の神仏分離令で廃され、今はありません。

門跡さま 【RIZAP COOK】

もとは本願寺のこと。「築地の門跡もんぜきさま」とも。

そこから、阿弥陀仏の異称に転化しました。



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