しゅんぷうていこりゅうし【春風亭小柳枝】噺家

2024年1月31日、老衰で死去。88歳。告別式は近親者で済ませました。

東京出身。1965年に四代目春風亭柳好(小川清、1921-92、川崎の)に入門。76年に五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)門下に移り、78年、真打ちに昇進し九代目小柳枝を襲名しました。

1991年に文化庁芸術祭賞、2013年に同大賞を受賞。

軽妙、端正な語り口で「井戸の茶碗」「二番煎じ」などの古典落語を得意としました。

落語芸術協会のハワイアンバンド「アロハマンダラーズ」のメンバーとして、ウクレレや歌でも寄席などを盛り上げていました。

芸協における噺上手の最高峰でした。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 相談役
【前座】1965年5月、四代目春風亭柳好(小川清、1921-92、川崎の)に、春風亭笑好で
【二ツ目】1968年9月。76年3月、五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)門下となり、春風亭鶏昇
【真打ち】1978年9月、九代目春風亭小柳枝
【出囃子】梅は咲いたか
【定紋】三ツ追沢瀉
【本名】臼井正春
【生年月日】1936年1月18日-2024年1月31日 88歳 老衰
【出身地】東京都新宿区四ッ谷荒木町
【学歴】東京都立昭和高校→航空写真測量の会社に10年ほど
【血液型】AB型
【ネタ】妾馬 文七元結 二番煎じ 芝浜 井戸の茶碗 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】アロハマンダラーズ(ウクレレ、パーカッションなど)。1976年、NHK新人落語コンクール優秀賞。1991年、第46回文化庁芸術祭賞。2013年、第68回文化庁芸術祭賞大賞。

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しかのぶざえもん【鹿野武左衛門】噺家

志ん朝

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【芸種】はなし
【所属】江戸
【入門】
【前座】
【二ツ目】
【真打ち】
【定紋】
【本名】安次郎
【生没年月日】慶安2年(1649)-元禄12年8月13日(1699.9.6)
【出身地】大坂または京
【前歴】塗師 漆塗りの職人
【ネタ】新作
【出典】Wiki
【蛇足】以下の通り。

慶安2年(1649)-元禄12年(1699)。江戸落語の祖。江戸で初めて、座敷仕方咄を演じた人とされています。

出身は大坂とも京ともいわれていますが、よくわかりません。上方から江戸に下ってきた人のようです。

野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。本名は安次郎とかで、職業は塗師。漆塗りの職人でした。

日本橋の堺町や長谷川町(日本橋堀留)あたりの職人町に住んでいました。

人前でのおしゃべりがうまかったようで、座敷仕方咄を演じてはいつしか人気者に。身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。

そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延まんえんし、1万人余りが亡くなりました。当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。

そのさなか。

「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」

そんな噂がまことしやかに広まったのでした。もちろん馬鹿な。馬がしゃべるなんて。エドじゃあるめえし。ここは江戸だぜ。でも、そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。

忖度そんたくまじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相のせよりすけ(出雲守いずものかみ)は、配下に探索させます。

そしたら、出てきた。浪人者の筑紫団右衛門ちくしだんえもんと、神田須田町すだちょうの八百屋惣右衛門そうえもんの共同謀議だったことが。主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。ひっえー。従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。ざざざッ。厳しいお裁きでした。

これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。しゃべる馬の件です。取り調べで二人は、こんなことを言っていました。

咄本はなしぼん『鹿の巻筆まきふで』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。

咄本というのは、軽口かるくち(しゃれ)や落語などを記した本のこと。笑うための本ですね。だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。え、これが?

『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。武左衛門は伊豆大島に流罪。版元の本屋弥吉も江戸追放に。本は焼き捨てられました。焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。とんだとばっちりです。

武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。いやあ、もったいない。武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。

若い頃の武左衛門は、石川流宣いしかわりゅうせん小咄こばなしの会なんかをつくって、人気を得ました。中橋広小路なかばしひろこうじ(八重洲やえす)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。町奉行が切歯扼腕せっしやくわんしたのは、ここのところでした。な、なんでェ?

宇井無愁ういむしゅう氏は、こんなふうに解釈しています。

街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。

宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)

なるほど。当局の考えそうなことですね。

ついでに座敷咄ざしきばなしなる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。暗黙のご法度となったのです。江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。

その後、寛政かんせい10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。岡本万作おかもとまんさく神田豊島町藁店かんだとしまちょうわらだなの寄席。それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽さんしょうていからく)による下谷柳したややなぎ稲荷社いなりしゃ境内にも寄席が。二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。

ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。江戸時代おそるべし、です。

【蛇足】

「堺町馬の顔見世」

『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。

市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。

伊藤正太夫は、一座の座頭ざがしら、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。

『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。

鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門にしひがしたろうざえもんという人が『本朝話者系図ほんちょうわしゃけいず』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。

ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。

「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたのだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。

参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」

塗師

「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。

七十一番職人歌合しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ』という歌集があります。明応めいおう9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代のどさくさの頃の歌集です。

べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことなどできません。

天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、物合ものあわせという形式の歌集です。やんごとない人たちというのは、すさまじいほどに暇だったのですね。その歌集の三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。

以下は、「画中詞」と呼ばれる、詞画きです。絵のちょっとした解説じみた文をさします。

よげにそうろう 木掻きがきのうるしげに候 今すこし火どるべきか

よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。

そんな意味合いです。いつまでも蛤刃はまぐりばなるこがたなのあふべきことのかなはざるらん

しぼれども油がちなるふるうるしひることもなき袖をみせばや

このように二首載って、競っているわけです。歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。

それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職号を垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。

最後に、以下のような判が下っています。

左右、ともに心詞こころことばきゝて面白く聞こゆ よきにこそはべるめれ

どうということもない文言です。歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。

「七十一番職人歌合」の第三番「塗士」の図

右の男は侍烏帽子さむらいえぼしをかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶっているのは珍しいことではありません。小袖にはかま。腕をまくっています。

右手には、漆刷毛うるしはけを持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。二人が行っているのは、吉野紙の漆し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。

漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。

さて、鹿野武左衛門。

これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと、喜ばれていたのかもしれませんね。

参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』

志ん朝

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ここんていしんきょう【古今亭志ん橋】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1969年1月、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に
【前座】1972年10月、志ん太
【二ツ目】1975年5月
【真打ち】1982年12月、六代目古今亭志ん橋
【出囃子】大拍子
【定紋】鬼蔦
【本名】小椋おぐら幸彦ゆきひこ
【生年月日】1944年8月17日-2023年10月8日午前5時43分(大腸がんで、79歳)
【出身地】東京都墨田区江東橋
【学歴】東京都立第四商業高校→ガソリンスタンド
【血液型】A型
【ネタ】藪入り 無精床 鰻の幇間 柳田格之進 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は三道楽、ゴルフ、スキー、観劇、新内。特技は獅子舞。1979年、国立劇場新人演芸会銀賞。1985年、浅草芸能大賞新人賞。1986年、文化庁芸術祭優秀賞(「若手花形落語会」)。映画『の・ようなもの のようなもの』(杉下泰一監督、2015年)に日暮雄一役で出演。2023年1月5日、浅草演芸ホールでの高座が最後の寄席出演に。



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さんゆうていさえんば【三遊亭左圓馬】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【前座】1969年1月、四代目三遊亭円馬(森田彦太郎、1899-1984)に、三遊亭喜久馬で
【二ツ目】1973年4月、三遊亭桂馬
【真打ち】1984年4月、三遊亭左圓馬
【出囃子】鉄道唱歌
【定紋】高崎扇
【本名】横手基彦
【生年月日】1944年4月10日-2023年10月27日
【出身地】群馬県中之条町
【学歴】日本大学 ※落研
【血液型】B型
【ネタ】寝床 大山詣り 選挙風景
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味はスポーツ、小唄、茶道、古美術。大江戸小町会。



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いなせやはんしち【いなせ家半七】噺家

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いなせ家半七師匠は、2023年5月11日(木)0時40分、膵臓がんのため亡くなりました。64歳でした。合掌。

【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1980年5月、五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)に
【前座】1981年11月、春風亭朝吉
【二ツ目】1985年3月、春風亭茶々丸。91年2月、師の没後、春風亭小朝門下
【真打ち】1996年3月、いなせ家半七
【出囃子】昼飯ひるまま
【定紋】光琳蔦
【本名】国本貴久
【生年月日】1959年3月13日-2023年5月11日 膵臓がん 64歳
【出身地】大阪府大阪市
【学歴】山口県立徳山高校→成蹊大学法学部中退
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】政治家めざして温泉博士に。最後の寄席出演は令和5年4月20日の鈴本演芸場でした。

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たちばなやふみぞう【橘家二三蔵】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に
【前座】1964年3月、桂小多みで
【二ツ目】1968年5月、桂楽之助。桂文楽の逝去に伴い、73年1月、七代目橘家圓蔵(市川虎之助、1902-1980)門下、橘家二三蔵
【真打ち】1979年3月
【出囃子】半染め
【定紋】三ツ割桔梗
【本名】寺田多三男たみお
【生没年月日】1945年6月20日-2023年3月30日 誤嚥性肺炎で死去
【出身地】秋田県横手市生まれ、東京都文京区育ち
【学歴】国学院高校
【血液型】O型
【ネタ】神田松五郎 文七元結 青菜
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】「橘家二三蔵」は過去に数人いるが、代数をつけて呼ぶことはないらしい

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はやしやそめごろう【林家染語楼】噺家

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】2001年12月、四代目林家染語楼(鹿田佳歩、1950-2005)に林家市楼で。2005年3月、四代目林家染丸の預かりに。2022年11月、五代目林家染語楼を追贈
【出囃子】 天王寺
【定紋】 ぬの字うさぎ
【本名】鹿田圭人
【生年月日】1980年4月13日
【没年月日】2022年11月14日 心臓疾患で
【出身地】大阪市
【学歴】大阪府立東住吉高校中退
【血液型】A型
【出典】上方落語家名鑑HP 林家市楼Wiki
【蛇足】新作中心。祖父は三代目林家染語楼(鹿田吉彦、1918-75)

林家市楼、逝く

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上方落語の林家市楼(鹿田圭人しかたよしと)さんが、心臓疾患のため、11月14日に亡くなりました。42歳でした。

市楼さんは、12日に鹿児島県の加計呂麻島かけろまじまで落語会を催し、翌日はこの島で行われた5kmのマラソン大会に参加しました。14日、大阪に戻ると知人の飲食店で倒れ、救急搬送されましたが、そのまま亡くなりました。

市楼さんは1980年生まれの大阪市出身。祖父は三代目林家染語楼、師匠でもある父は四代目林家染語楼という、三代続く噺家一家でした。四代目染語楼の没後は林家染丸一門の預かりとなっていました。一門の意思により、五代目林家染語楼を追贈することが決まりました。

ご冥福を祈ります。

2022年11月18日 古木優

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さんゆうていさゆう【三遊亭左遊】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【前座】1969年4月、三代目三遊亭遊三に遊ぼうで
【二ツ目】1973年9月、松遊三で
【真打ち】1984年4月、二代目三遊亭左遊を襲名して
【出囃子】操三番叟
【定紋】高崎扇
【本名】佐藤喜八郎
【生没年月日】1953年9月28日-2022年11月15日 心不全のため 享年70
【出身地】横浜市
【学歴】
【血液型】
【出典】三遊亭左遊 三遊亭左遊Wiki
【蛇足】得意演目は「黄金の大黒」「釜泥」「二人旅」「」など。寄席出演は平成29年(2017)2月5日、浅草演芸ホールの高座が最後の高座での「薮医者」が最後でした。持病の悪化のため、これ以降は「会友」として高座を控えていました。

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さんゆうていえんらく【三遊亭円楽】噺家

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【芸種】落語
【所属】五代目円楽一門会
【入門】1970年4月、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)に
【前座】1972年3月、楽太郎で
【二ツ目】1976年7月
【真打ち】1981年3月。2010年3月、六代目円楽。2017年6月、落語芸術協会に客員として入会
【出囃子】元禄花見踊り
【定紋】三ツ組
【本名】會泰通かいやすみち
【生没年月日】1950年2月8日-2022年9月30日
【出身地】東京都墨田区
【学歴】青山学院大学法学部
【血液型】A型
【出典】五代目円楽一門会 Wiki
【蛇足】五代目円楽一門会幹事長 息子は三遊亭一太郎

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金翁、逝く

三遊亭金翁師匠が、令和4年(2022)8月27日未明、お亡くなりになりました。93歳でした。

金翁師匠は、昭和4年(1929)、東京の生まれ。本名は松本龍典りゅうすけ。両親が深川森下町で安価な洋食店をいとなんでいたそうです。昭和16年(1941)7月、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、本所生まれ、1894-1964)に入門しました。山遊亭金時の名で、12歳でした。太平洋戦争が始まる5か月前のこと。戦前の入門だったとは、びっくりです。

昭和20年(1945)に小金馬で二ツ目となり、33年(1958)には真打ちに。三代目没後、42年(1967)には四代目金馬を襲名。令和2年(2020)からは名跡を次男に譲り、二代目金翁を名乗っていました。

この人と言ったら、ゼッタイ忘れられないのが「お笑い三人組」です。

このテレビ番組がNHKで始まったのは昭和31年(1956)年なんだそうですが、私が覚えているのは、毎週火曜日20時-20時30分の時間帯での時期です。それは38年(1963)から39年(1964)3月までで、ちょうど東京五輪が始まる頃の、日本全体が勢いと張りで輝いていた時代でした。

「お笑い三人組」が放送される時間帯の前後が、これまたすごかった。前の19時30分-20時に「ジェスチャー」が、後の20時30分-21時30分に「事件記者」が。

どれも、ものすごい人気番組です。これら3つの番組を通して見るのが、その夜のまっとうなおつとめだったような心持ちでした。

家族みんながテレビの前で大笑い。日本中が笑ってたかんじ。そんな時代でした。

「お笑い三人組」は生放送だったそうです。「あまから横丁」という架空の街角が舞台の、町内もの人情劇です。

満腹ホールというラーメン店の金ちゃんが小金馬、ニコニコクレジット社員の正ちゃんが講談の一龍斎貞鳳、クリーニング店の八ちゃんが物まねの三代目江戸家猫八。

三人が中心に繰り広げる、笑いと涙の舞台劇場だったのでした。

「お笑い三人組」と言ったら、金馬じゃなくて小金馬と、今でも記憶している日本人は少なくないのではないでしょうか。

あははおほほ、「お笑い三人組」の3人。右から金馬(当時は小金馬)、貞鳳、猫八の面々

円蔵じゃなくて円鏡、円歌じゃなくて歌奴、というのと同じですね。

この「お笑い三人組」、もとはといえば、日本テレビが企画を立てていたところ、NHKに持っていかれたんだとか。

当時はそんなことがよくあったそうなのです。永六輔が言っていました。テレビ草創期のNHKは、野心的だったのですね。

そもそもの話。

昭和28年(1953)、日本テレビ開局記念番組の放送中、どうしたわけかトラブルがあって、小金馬、歌奴(四代目三遊亭円歌)、貞鳳、猫八の4人が、即興でプロレスコントを演じることになり、なぜかそれが爆発的な人気を得たそうです。

それを見ていた日本テレビ社長の正力松太郎が、4人を使ってレギュラー番組をつくるようにと、社員に命じたんだそうです。

残念ながら、歌奴は「山のあなあな」で売れっ子になってしまい、すぐに抜けてしまいました。

残る3人はNHKに移されて、そこで「お笑い三人組」を演じることに。売れてなかった三人は、あれよあれよの急上昇に夢心地。

お茶の間の人気をがっちりつかまえたのでした。

金馬師匠とテレビと言ったら、じつはほかにもあるのです。

「ミスター・エド」という米国ドラマ。

米ホームドラマの変化球「ミスター・エド」。右端がエドくん

その日本語吹き替えにも出ていたのです。フジテレビ系では、昭和37年(1962)から39年(1964)まで。

エドという名の馬が、飼い主(アラン・ヤング、吹き替えは柳澤愼一さん)とだけおしゃべりする、というもの。

その会話を聴けるのはお茶の間の視聴者だけ、というお得感もりもりのドラマでした。

飼い主のお悩みを馬が聞いてあげて、適切な解決策を飼い主に導く、というものすごい筋立てです。

金馬師匠はエドくんの声を演じていました。金馬が馬を演じて、その名もエドとは。江戸落語家にはぴったり。

人のことばをしゃべる馬が登場するのは、どこか鹿野武左衛門にも似ていて、落語とゆかりあり過ぎの設定です。

なんとも、奇妙で不思議な米ドラでした。

「お笑い三人組」の金ちゃん(小金馬)

それと、もうひとつ。

国立演芸場が設立したこと。国立演芸場ができたのは、じつは、金馬師匠や一龍斎貞鳳先生たちが頑張ったからなのだそうです。

貞鳳先生は一期ながらも参院議員となって、三木武夫内閣や福田赳夫内閣の政務次官を務めました。

ちょうどその頃、国立演芸場が三宅坂に建設されることが決まったのです。演芸界には快挙、というよりも椿事でした。

今泉正二参院議員(一龍斎貞鳳先生の本名)の執務室で、金馬師匠が親し気に「ショウちゃーん」と呼んだら、「なんだ、ショウちゃんとは。先生と呼べ」と一喝されたんだとか。講談も先生、政治家も先生、同じ先生なのにね。

当時の三宅坂は陸の孤島でした。あんなへんぴなところに演芸場ができても、不便でしかありません。今もまだ不便かも。それでも、実現できたのは、先生のお力のたまものでしょう。

と、こんな内輪の話は『金馬のいななき 噺家生活六十五年』(朝日新聞出版、2006年3月)に載っていました。これを機に文庫化してほしいものです。中公文庫あたりで、ぜひ。

ヘタを演じる金馬師匠の住吉踊りも、今はただ懐かしく。見ているだけで楽しくなる、明るい芸風でした。

ご冥福をお祈りいたします。

(2022年8月28日、古木優)

さんゆうていきんおう【三遊亭金翁】噺家

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)に
【前座】1941年7月、三代目山遊亭金時で
【二ツ目】1945年8月、三遊亭小金馬で
【真打ち】1958年3月。67年、四代目三遊亭金馬。2020年9月、二代目三遊亭金翁
【出囃子】本調子かっこ
【定紋】中陰に鬼蔦
【本名】松本龍典りゅうすけ
【生没年月日】1929年3月19日-2022年8月27日 93歳
【出身地】東京都世田谷区
【学歴】深川区立八名川尋常小学校(江東区立八名川小学校)
【血液型】A型
【持ちネタ】阿武松 芝浜 親子酒 藪入り 試し酒 茶金 御神酒徳利 長短 子なさせ地蔵 文七元結 ねぎまの殿様 鼠穴 景清 など
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】落語協会最高顧問、日本演芸家連合名誉会長。息子は五代目三遊亭金馬、孫はホンキートンク。『金馬のいななき―噺家生活六十五年』(朝日新聞社、2006年)

金翁ロードショショー ⇒2021年10月30日、鈴本演芸場で開催された「三遊亭金翁芸歴80周年記念の会 金翁ロードショー」。これは必見必聴!

【三遊亭金翁師匠に聞く】インタビュー「寄席とは何か」第3回 古今亭菊之丞

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やなぎやさんきち【柳家さん吉】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1957年4月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に、柳家小二三で
【前座】1957年秋
【二ツ目】1960年11月、柳家小三郎で。62年、柳家さん吉に
【真打ち】1973年3月
【出囃子】南公(おはん)
【定紋】片喰
【本名】榑井くれい昌夫
【生年月日】1938年1月18日-2022年2月15日 心不全 84歳
【出身地】新潟県中蒲原郡村松町(五泉市)
【学歴】新潟県立村松高校
【血液型】AB型
【出典】落語協会HP 柳家さん吉Wiki
【蛇足】剣道 テレビレポーター

しゅんぷうていえいし【春風亭栄枝】噺家

【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1957年10月、八代目春風亭柳枝に、春風亭枝二で。柳枝没後、59年12月、八代目林家正蔵門下に、林家枝二で
【二ツ目】1960年8月
【真打ち】1973年3月。83年7月、七代目春風亭栄枝に
【出囃子】吉原雀
【定紋】光琳蔦
【本名】天津征
【生年月日】1938年9月16日-2022年2月9日
【出身地】東京都豊島区
【学歴】京華高校
【血液型】AB型
【出典】落語協会HP 春風亭栄枝Wiki
【蛇足】

かわやなぎせんりゅう【川柳川柳】噺家

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  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

 

【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1955年7月、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)に三遊亭さん生で
【二ツ目】1958年3月
【真打ち】1974年3月。1978年、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下に、川柳川柳で
【出囃子】三味線ブギ
【定紋】結び橘
【本名】加藤利男
【生年月日】1931年3月23日-2021年11月17日 90歳
【出身地】埼玉県秩父市
【学歴】横瀬村尋常小学校
【血液型】A型
【出典】落語協会HP 川柳川柳Wiki
【蛇足】「ラ・マラゲーニャ」「ガーコン」「ジャズ息子

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

 

さんゆうていえんりゅう【三遊亭圓龍】噺家


【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1965年2月、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)に旭生で
【二ツ目】1969年4月。78年6月、六代目円生に従い落語協会を脱会。円生没(79年9月)後、79年11月落語協会に復帰
【真打ち】1981年3月、三遊亭圓龍で。2018年4月、引退
【出囃子】末広狩
【定紋】三ツ組橘
【本名】水野孝雄
【生年月日】1939年2月20日-2021年8月20日 悪性腫瘍 82歳
【出身地】東京都杉並区→山梨県北巨摩郡高根町(北斗市)
【学歴】東京都立紅葉川高校→松井証券
【血液型】AB型
【出典】落語協会HP 三遊亭圓龍Wiki
【蛇足】『圓龍のそば行脚』308店 三味線で「転失気」など多彩

さんゆうていえんじょう【三遊亭圓丈】噺家

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

 


【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1964年12月、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)にぬう生で
【二ツ目】1969年3月
【真打ち】1978年3月、二代目三遊亭円丈に。78年6月、六代目円生に従い落語協会を脱会。円生没(79年9月)後、79年11月落語協会に復帰
【出囃子】官女
【定紋】くずし橘
【本名】大角弘
【生年月日】1944年12月10日-2021年11月30日
【出身地】愛知県名古屋市
【学歴】明治大学文学部中退
【血液型】A型
【出典】落語協会HP 三遊亭円丈Wiki 
【蛇足】落語協会理事

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やなぎやこさんじ【柳家小三治】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会 会長→顧問
【入門】五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に入門
【前座】1959年3月、小たけで
【二ツ目】1963年4月、さん治で
【真打ち】1969年9月、十代目柳家小三治に
【出囃子】二上がり鞨鼓
【定紋】変わり羽団扇
【本名】郡山剛蔵
【生年月日】1939年12月17日-2021年10月10日 81歳
【出身地】東京都新宿区
【学歴】東京都立青山高校
【血液型】B型
【出典】落語協会 Wiki 
【蛇足】3人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)。若林映子と高校で同学年。柳家の噺以外では、初代三遊亭円遊の持ちネタを小三治流にさらっていたように見える。

得意ネタ⇒ 柳家小三治、逝く

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さんゆうていえいば【三遊亭栄馬】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【前座】1967年9月、四代目三遊亭小円馬(森山清、1925-99)に三遊亭栄馬で
【二ツ目】1971年9月
【真打ち】1981年4月
【出囃子】越後獅子中程
【定紋】高崎扇
【本名】足立建比古あだちはつひこ
【生年月日】1944年9月7日-2021年9月27日 急性心筋梗塞 77歳
【出身地】大分県臼杵市
【学歴】大分県立臼杵高校
【血液型】O型
【出典】三遊亭栄馬Wiki
【蛇足】絵手紙

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さんゆうていたかすけ【三遊亭多歌介】噺家

【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1983年、三代目三遊亭円歌に、三遊亭歌ちわりで
【二ツ目】1989年、三遊亭歌風
【真打ち】1998年、三遊亭多歌介
【出囃子】昇上
【定紋】かたばみ
【本名】栗原史郎
【生年月日】1966年11月26日-2021年8月27日 新型コロナウイルス感染症で死去
【出身地】東京都江東区→鹿児島県→埼玉県越谷市
【学歴】春日部共栄高校
【血液型】
【ネタ】主に円歌流の新作
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はマージャン

しょうふくていにかく【笑福亭仁鶴】噺家

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【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】1961年4月、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)に仁鶴で
【出囃子】猩猩くずし
【定紋】五枚笹
【本名】岡本武士
【生没年月日】1937年1月28日-2021年8月17日 84歳
【出身地】大阪府大阪市 実家は鉄工所
【学歴】大阪市立生野工業高校
【血液型】O型
【出典】上方落語家名鑑 Wiki
【所属】吉本興行
【蛇足】上方落語協会相談役でした 「どんなんかなぁ」

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はやしやこそめ【林家小染】噺家


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【芸種】落語
【所属】上方落語協会/林家染丸一門 吉本興業
【入門】1982年、四代目林家小染(山田昇、1947-84)に、林家染八で。96年、五代目林家小染
【出囃子】たぬき
【定紋】ぬの字うさぎ
【本名】上村政二
【生年月日】1963年年 2月21日-2024年3月9日 61歳
【出身地】大阪府大阪市
【学歴】大阪府立茨田高校
【血液型】B型
【出典】公式 上方落語家名鑑 Wiki
【趣味や特技】小唄、飲酒
【蛇足】1992年、NHK新人演芸大賞。93年、花形演芸会金賞。94年、咲くやこの花賞

告別式は2024年3月14日午前10時、大阪市西区北堀江3の7の27あみだ池和光殿。喪主は長男で弟子の林家染八(本名・上村勘太朗)氏。



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さんゆうていえんた【三遊亭円太】噺家

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【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 会友(事実上の引退)
【前座】1956年2月、四代目三遊亭円馬(森田彦太郎、1899-1984)に、三遊亭新馬で
【二ツ目】1959年10月、三遊亭円太
【真打ち】1973年4月
【出囃子】草津節
【定紋】
【本名】藤生進
【生年月日】1932年9月25日-2023年12月 91歳
【出身地】群馬県笠懸村(みどり市)
【学歴】
【血液型】
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は野球観戦、相撲観戦

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やなぎやこはん【柳家小はん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に入門
【前座】1960年4月、桂木久弥で。1961年3月三木助の死没で五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下、柳家さん弥に
【二ツ目】1964年10月
【真打ち】1973年9月。75年3月、二代目柳家小はん
【出囃子】並木駒形
【定紋】剣片喰
【本名】渡辺研三
【生没年月日】1941年12月18日-2022年4月25日 膵臓がん
【出身地】東京都足立区
【学歴】東京都立上野高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】落語協会HP 柳家小はんWiki 
【蛇足】2022年4月25日、膵臓がんで死去。80歳。初代小はん(鶴見正四郎、1873-1953)は三代目柳家小さん(豊島銀之助、1853-1930)門下で、大正末期に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976)たちといっしょに革新派を結成した人。二代目登場まで40年以上も空白の名跡でした。またも空白になってしまいました。南無。

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さんゆうていえんそう【三遊亭圓窓】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-1959)に入門
【前座】1959年3月、枝女吉で。59年10月、柳枝死去に伴い、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)門下、三遊亭吉生で
【二ツ目】1962年11月
【真打ち】1969年3月、六代目三遊亭円窓。78年6月、円生に従い落語協会を脱会。円生没後の80年2月1日、落語協会に復帰
【出囃子】新曲浦島
【定紋】三ツ組橘
【本名】橋本八郎
【生没年月日】1940年10月3日-2022年9月15日 心不全
【出身地】東京都江東区(当時は深川区)深川生まれ、豊島区育ち
【学歴】東京都立文京高校
【血液型】B型
【持ちネタ】五百噺
【出典】三遊亭圓窓HP 落語協会HP 三遊亭圓窓Wiki 圓窓五百噺全集
【蛇足】落語協会相談役。息子は三遊亭窓輝。1970年6月21日から77年8月21日まで「笑点」の大喜利レギュラー。色紋付きはピンクだったにもかかわらず、地味でした。後任は三笑亭夢之助(佐藤信夫、1949-、2019廃業)。78年6月の落語協会分裂騒動で円生らと脱会。80年2月1日、落語協会に復帰。五百噺は2001年、名古屋市東区の含笑寺(曹洞宗)で完了。仏教知識に造詣の深い人でした。七代目三遊亭円生の襲名にに名乗りを上げましたが、2015年には取り下げました。。著書多数ながら、最初の作品『ふてくされ人生学―古典的生き方のすすめ』(社会思想社現代教養文庫、1972年)が秀逸でした。

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