【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】柳家花緑に入門
【前座】2007年4月「緑君」で
【二ツ目】2010年9月
【真打ち】2021年9月下席から古今亭志ん雀、柳家さん花、柳家花いちと。「緑也」に改名。
【出囃子】待てというなら
【定紋】剣片喰
【本名】吉田隆之
【生年月日】1990年2月5日
【出身地】愛知県名古屋市港区
【学歴】2006年愛知県立名古屋南高校中退
【血液型】O型
【出典】柳家緑也HP 柳家緑也twitter 落語協会柳家緑也 柳家緑也wiki
【蛇足】歌舞伎ファンのため六代目尾上松助の旧名「尾上緑也」からもらったとか。平成生まれ初の落語家。キーワードは、ジブリ、歌舞伎。
カテゴリー: 落語に触れる
落語に関するさまざまな体験をつづります。それと、噺家さんについても。
はやしやそめごろう【林家染語楼】噺家
【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】2001年12月、四代目林家染語楼(鹿田佳歩、1950-2005)に林家市楼で。2005年3月、四代目林家染丸の預かりに。2022年11月、五代目林家染語楼を追贈
【出囃子】 天王寺
【定紋】 ぬの字うさぎ
【本名】鹿田圭人
【生年月日】1980年4月13日
【没年月日】2022年11月14日 心臓疾患で
【出身地】大阪市
【学歴】大阪府立東住吉高校中退
【血液型】A型
【出典】上方落語家名鑑HP 林家市楼Wiki
【蛇足】新作中心。祖父は三代目林家染語楼(鹿田吉彦、1918-75)
林家市楼、逝く
上方落語の林家市楼(鹿田圭人)さんが、心臓疾患のため、11月14日に亡くなりました。42歳でした。
市楼さんは、12日に鹿児島県の加計呂麻島で落語会を催し、翌日はこの島で行われた5kmのマラソン大会に参加しました。14日、大阪に戻ると知人の飲食店で倒れ、救急搬送されましたが、そのまま亡くなりました。
市楼さんは1980年生まれの大阪市出身。祖父は三代目林家染語楼、師匠でもある父は四代目林家染語楼という、三代続く噺家一家でした。四代目染語楼の没後は林家染丸一門の預かりとなっていました。一門の意思により、五代目林家染語楼を追贈することが決まりました。
ご冥福を祈ります。
2022年11月18日 古木優
しょうふくていしょうし【笑福亭松枝】噺家
さんゆうていさゆう【三遊亭左遊】噺家
【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【前座】1969年4月、三代目三遊亭遊三に遊ぼうで
【二ツ目】1973年9月、松遊三で
【真打ち】1984年4月、二代目三遊亭左遊を襲名して
【出囃子】操三番叟
【定紋】高崎扇
【本名】佐藤喜八郎
【生没年月日】1953年9月28日-2022年11月15日 心不全のため 享年70
【出身地】横浜市
【学歴】
【血液型】
【出典】三遊亭左遊 三遊亭左遊Wiki
【蛇足】得意演目は「黄金の大黒」「釜泥」「二人旅」「鼠」など。寄席出演は平成29年(2017)2月5日、浅草演芸ホールの高座が最後の高座での「薮医者」が最後でした。持病の悪化のため、これ以降は「会友」として高座を控えていました。
たてかわきっしょう【立川吉笑】噺家
【芸種】落語
【所属】落語立川流
【前座】2010年11月、六代目立川談笑に吉笑で
【二ツ目】2012年4月
【出囃子】東京節
【定紋】丸に左三階松
【本名】人羅真樹
【生年月日】1984年6月27日
【出身地】京都市
【学歴】京都市立堀川高校→京都教育大学教育学部数学科
【血液型】A型
【出典】立川吉笑公式HP 立川吉笑Wiki
【蛇足】新作路線 2022年10月30日、NHK新人落語大賞を「ぷるぷる」で受賞 180cm 70kg 『中央公論』(中央公論新社)に「炎上するまくら」連載中 新作ユニット「ソーゾーシー」(春風亭昇々、瀧川鯉八、玉川太福、立川吉笑)
2022年NHK新人落語大賞に吉笑さん
2022年11月23日、「NHK新人落語大賞」が発表されました。10月31日に東京のイイノホールで行われたものですが、落語立川流の立川吉笑さん(京都教育大→立川談笑、38)が優勝したこと、やっと明らかになりました。なんすか、この3週間の「間」は。よくもまあ、関係者のみなさんも、黙ってられたもんですなあ。さて。競争者はほかに、林家つる子(中大文→林家正蔵、35)、三遊亭わん丈(北九州市大文→三遊亭円丈→三遊亭天どん、39)、露の紫(姫路学院女短大→露の都、48)、桂源太(関学商→桂雀太、26)、桂天吾(関学→桂南天、26)の6氏。吉笑さんは、自作の新作「ぷるぷる」で勝負しました。八五郎が松ヤニをなめていたら、乾いて唇がくっついてしまって「ぷるぷる」としか言えなくなってしまうという、文句なしに笑っちゃうマンガのような噺です。彼に大賞を授けた審査員は次の5氏。桂文珍(72)、三遊亭小遊三(75)、片岡鶴太郎(67)、赤江珠緒(47)、堀井健一郎(64)の各氏で、なんと全員が10点をつける50点満点での優勝でした。小遊三師匠は、体調芳しくない柳家権太楼師匠の代審です。ちなみに、司会は林家たい平師匠と南沢奈央さんでした。立川流では2005年の立川志ら乃師(明大文→立川志らく、32)以来、17年ぶりの受賞となりました。「NHK新人落語大賞」は、若手落語家の登竜門といわれる大きな賞ですから、これからの活躍は大いに期待できるでしょう。なによりも、吉笑さんは、月刊誌『中央公論』(中央公論新社)誌上で「炎上するまくら」(2022年12月号で第72回)を連載するといった、ほんまもんの文化人。落語界の枠をぶっこわすかもしれない、型破りな活躍を楽しませてくれそうです。(古木優)
さんゆうていえんらく【三遊亭円楽】噺家
【芸種】落語
【所属】五代目円楽一門会
【入門】1970年4月、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)に
【前座】1972年3月、楽太郎で
【二ツ目】1976年7月
【真打ち】1981年3月。2010年3月、六代目円楽。2017年6月、落語芸術協会に客員として入会
【出囃子】元禄花見踊り
【定紋】三ツ組
【本名】會泰通
【生没年月日】1950年2月8日-2022年9月30日
【出身地】東京都墨田区
【学歴】青山学院大学法学部
【血液型】A型
【出典】五代目円楽一門会HP 三遊亭円楽Wiki
【蛇足】五代目円楽一門会幹事長 息子は三遊亭一太郎
せん八、逝く
せん八、逝く
柳家せん八師匠が、2022年9月11日、腹膜炎のため、都内の自宅で亡くなりました。74歳でした。
せん八師匠は、昭和23年(1948)2月5日、群馬県太田市の出身。本名は吉沢博。昭和43年(1968)に四代目柳家小せん(飯泉真寿男、1923-2006)に入門、せん松を名乗りました。
昭和48年(1973)9月、二ツ目に昇進して「せん八」に改名。このときの同時昇進には、春風亭一朝、三遊亭勝馬(→三代目三遊亭小金馬→2018年没)がいました。
昭和57年(1982)12月、真打ちに昇進しました。このときの同時昇進には、初代古今亭志ん五(2010年没)、七代目三遊亭円好(2007年没)、四代目吉原朝馬、春風亭一朝、三代目三遊亭小金馬(2018年没)、六代目古今亭志ん橋、立川談生(→鈴々舎馬桜)、立川左談次(2018年没)、六代目立川ぜん馬がいました。10人のうち6人が故人。
最後の寄席出演は、令和3年(2021)1月5日、浅草演芸ホールでした。
ご冥福をお祈りいたします。
柳家せん八師匠

(2022年9月18日、古木優)
しかのぶざえもん【鹿野武左衛門】噺家
慶安2年(1649)-元禄12年(1699)。江戸落語の祖。
江戸で初めて、座敷仕方咄を演じた人とされています。
出身は大坂とも京ともいわれていますが、よくわかりません。
上方から江戸に下ってきた人のようです。
鹿野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。
本名は安次郎とかで、職業は塗師。漆塗りの職人でした。
日本橋の堺町や長谷川町(日本橋堀留)あたりの職人町に住んでいました。
人前でのおしゃべりがうまかったようで、座敷仕方咄を演じてはいつしか人気者に。
身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。
そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。
江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延し、1万人余りが亡くなりました。
当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。
そのさなか。
「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」
そんな噂がまことしやかに広まったのでした。
もちろん馬鹿な。馬がしゃべるなんて。エドじゃあるめえし。ここは江戸だぜ。
でも、そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。
ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。
頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。
人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。
忖度まじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相(出雲守)は、配下に探索させます。
そしたら、出てきた。
浪人者の筑紫団右衛門と、神田須田町の八百屋惣右衛門の共同謀議だったことが。
主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。ひっえー。
従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。ざざざッ。
厳しいお裁きでした。
これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。しゃべる馬の件です。
取り調べで二人は、こんなことを言っていました。
咄本『鹿の巻筆』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。
咄本というのは、軽口(しゃれ)や落語などを記した本のこと。笑うための本ですね。
だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。え、これが?
『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。
武左衛門は伊豆大島に流罪。
版元の本屋弥吉も江戸追放に。
本は焼き捨てられました。
焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。
とんだとばっちりです。
武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。
いやあ、もったいない。武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。
若い頃の武左衛門は、石川流宣と小咄の会なんかをつくって、人気を得ました。
中橋広小路(八重洲)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。
人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。
お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。
町奉行が切歯扼腕したのは、ここのところでした。な、なんでェ?
宇井無愁氏は、こんなふうに解釈しています。
街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。
宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)
なるほど。当局の考えそうなことですね。
ついでに座敷咄なる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。
存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。
その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。
暗黙のご法度となったのです。
江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。
その後、寛政10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。
岡本万作の神田豊島町藁店の寄席。
それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽)による下谷柳の稲荷社境内にも寄席が。
二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。
ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。
江戸時代おそるべし、です。
【蛇足】
「堺町馬の顔見世」
『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。
市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。
伊藤正太夫は、一座の座頭、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。
『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。
鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門という人が『本朝話者系図』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。
ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。
「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたんだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。
参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」
塗師
「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。
「七十一番職人歌合」という歌集があります。明応9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代の頃の歌集です。
べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことできません。
天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、という物合という形式の歌集です。
あの階層の人たちって、病的なほどに暇だったのですね。
その三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。
以下は、詞書き。
よげに候 木掻のうるしげに候 今すこし火どるべきか
よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。
そんな意味合いです。
いつまでも蛤刃なるこがたなのあふべきことのかなはざるらん
しぼれども油がちなる古うるしひることもなき袖をみせばや
このように二首載って、競っているわけです。
歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。
それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職号を垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。
最後に、以下のような判が下っています。
左右、ともに心詞きゝて面白く聞こゆ よき持にこそはべるめれ
どうということもない文言です。
歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。

右の男は侍烏帽子をかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶっているのは珍しいことではありません。小袖に袴。腕をまくっています。
右手には、漆刷毛を持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。
二人が行っているのは、吉野紙の漆漉し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。
漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。
「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。
塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。
これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。
さて、鹿野武左衛門。
これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと喜ばれていたのかもしれませんね。
参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』
金翁、逝く
三遊亭金翁師匠が、令和4年(2022)8月27日未明、お亡くなりになりました。93歳でした。
金翁師匠は、昭和4年(1929)、東京の生まれ。本名は松本龍典。両親が深川森下町で安価な洋食店をいとなんでいたそうです。昭和16年(1941)7月、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、本所生まれ、1894-1964)に入門しました。山遊亭金時の名で、12歳でした。太平洋戦争が始まる5か月前のこと。戦前の入門だったとは、びっくりです。
昭和20年(1945)に小金馬で二ツ目となり、33年(1958)には真打ちに。三代目没後、42年(1967)には四代目金馬を襲名。令和2年(2020)からは名跡を次男に譲り、二代目金翁を名乗っていました。
この人と言ったら、ゼッタイ忘れられないのが「お笑い三人組」です。
このテレビ番組がNHKで始まったのは昭和31年(1956)年なんだそうですが、私が覚えているのは、毎週火曜日20時-20時30分の時間帯での時期です。それは38年(1963)から39年(1964)3月までで、ちょうど東京五輪が始まる頃の、日本全体が勢いと張りで輝いていた時代でした。
「お笑い三人組」が放送される時間帯の前後が、これまたすごかった。前の19時30分-20時に「ジェスチャー」が、後の20時30分-21時30分に「事件記者」が。
どれも、ものすごい人気番組です。これら3つの番組を通して見るのが、その夜のまっとうなおつとめだったような心持ちでした。
家族みんながテレビの前で大笑い。日本中が笑ってたかんじ。そんな時代でした。
「お笑い三人組」は生放送だったそうです。「あまから横丁」という架空の街角が舞台の、町内もの人情劇です。
満腹ホールというラーメン店の金ちゃんが小金馬、ニコニコクレジット社員の正ちゃんが講談の一龍斎貞鳳、クリーニング店の八ちゃんが物まねの三代目江戸家猫八。
三人が中心に繰り広げる、笑いと涙の舞台劇場だったのでした。
「お笑い三人組」と言ったら、金馬じゃなくて小金馬と、今でも記憶している日本人は少なくないのではないでしょうか。

円蔵じゃなくて円鏡、円歌じゃなくて歌奴、というのと同じですね。
この「お笑い三人組」、もとはといえば、日本テレビが企画を立てていたところ、NHKに持っていかれたんだとか。
当時はそんなことがよくあったそうなのです。永六輔が言っていました。テレビ草創期のNHKは、野心的だったのですね。
そもそもの話。
昭和28年(1953)、日本テレビ開局記念番組の放送中、どうしたわけかトラブルがあって、小金馬、歌奴(四代目三遊亭円歌)、貞鳳、猫八の4人が、即興でプロレスコントを演じることになり、なぜかそれが爆発的な人気を得たそうです。
それを見ていた日本テレビ社長の正力松太郎が、4人を使ってレギュラー番組をつくるようにと、社員に命じたんだそうです。
残念ながら、歌奴は「山のあなあな」で売れっ子になってしまい、すぐに抜けてしまいました。
残る3人はNHKに移されて、そこで「お笑い三人組」を演じることに。売れてなかった三人は、あれよあれよの急上昇に夢心地。
お茶の間の人気をがっちりつかまえたのでした。
金馬師匠とテレビと言ったら、じつはほかにもあるのです。
「ミスター・エド」という米国ドラマ。

その日本語吹き替えにも出ていたのです。フジテレビ系では、昭和37年(1962)から39年(1964)まで。
エドという名の馬が、飼い主(アラン・ヤング、吹き替えは柳澤愼一さん)とだけおしゃべりする、というもの。
その会話を聴けるのはお茶の間の視聴者だけ、というお得感もりもりのドラマでした。
飼い主のお悩みを馬が聞いてあげて、適切な解決策を飼い主に導く、というものすごい筋立てです。
金馬師匠はエドくんの声を演じていました。金馬が馬を演じて、その名もエドとは。江戸落語家にはぴったり。
人のことばをしゃべる馬が登場するのは、どこか鹿野武左衛門にも似ていて、落語とゆかりあり過ぎの設定です。
なんとも、奇妙で不思議な米ドラでした。

それと、もうひとつ。
国立演芸場が設立したこと。国立演芸場ができたのは、じつは、金馬師匠や一龍斎貞鳳先生たちが頑張ったからなのだそうです。
貞鳳先生は一期ながらも参院議員となって、三木武夫内閣や福田赳夫内閣の政務次官を務めました。
ちょうどその頃、国立演芸場が三宅坂に建設されることが決まったのです。演芸界には快挙、というよりも椿事でした。
今泉正二参院議員(一龍斎貞鳳先生の本名)の執務室で、金馬師匠が親し気に「ショウちゃーん」と呼んだら、「なんだ、ショウちゃんとは。先生と呼べ」と一喝されたんだとか。講談も先生、政治家も先生、同じ先生なのにね。
当時の三宅坂は陸の孤島でした。あんなへんぴなところに演芸場ができても、不便でしかありません。今もまだ不便かも。それでも、実現できたのは、先生のお力のたまものでしょう。
と、こんな内輪の話は『金馬のいななき 噺家生活六十五年』(朝日新聞出版、2006年3月)に載っていました。これを機に文庫化してほしいものです。中公文庫あたりで、ぜひ。
ヘタを演じる金馬師匠の住吉踊りも、今はただ懐かしく。見ているだけで楽しくなる、明るい芸風でした。
ご冥福をお祈りいたします。
(2022年8月28日、古木優)
たてかわしえん【立川志ゑん】噺家
【芸種】落語
【所属】落語立川流
【入門】1999年4月、立川志らくに
【前座】1999年8月、立川らく八
【二ツ目】2012年4月、立川志奄 19年5月、前座に降格 19年7月、二ツ目復帰
【真打ち】2021年9月、立川志ゑん
【出囃子】鳩ぽっぽ
【定紋】丸に左三階松
【本名】後藤貴雄
【生年月日】1974年6月24日
【出身地】神奈川県横浜市
【学歴】神奈川県立厚木西高校→駒澤大学経済学部
【血液型】AB型
【ネタ】
【出典】立川志ゑんWiki 立川志ゑんTwitter 立川志ゑんFB 立川志ゑん 落語立川流HP
【蛇足】厚木市飯山在住。読売新聞(神奈川版)2022年5月13日付で『現代落語論其の二』を評価
さんゆうていえいらく【三遊亭栄楽】噺家
せきせきていももたろう【昔昔亭桃太郎】噺家
【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)に
【前座】1966年6月、春風亭昇太
【二ツ目】1969年4月、とん橋。72年、春風亭笑橋
【真打ち】1981年10月、三代目昔々亭桃太郎。87年、昔昔亭桃太郎に
【出囃子】旧桃太郎
【定紋】丸に葉敷き桃
【本名】柳澤尚心
【生年月日】1945年5月20日
【出身地】長野県小諸市
【学歴】長野県立埴生高校
【血液型】
【ネタ】裕次郎物語 歌謡曲斬る ぜんざい公社 結婚相談所 御見合中 金満家族 受験家族 世界を斬る 高校番長物語
【出典】落語芸術協会HP 昔昔亭桃太郎Wiki 昔昔亭桃太郎Twitter 昔昔亭桃太郎公式ブログ
【蛇足】①とにかくビートルズ、ポール・マッカートニー。石原裕次郎も。②「とうちゃん、やくざって、儲かるね」
はやしやたいへい【林家たい平】噺家
【芸種】落語
【所属】落語協会 落語協会常任理事
【入門】1987年春、林家こん平(笠井光男、1943-2020)に
【前座】1988年8月、林家たい平
【二ツ目】1992年5月
【真打ち】2000年3月
【出囃子】ぎっちょ
【定紋】花菱
【本名】田鹿明
【生年月日】1964年12月6日
【出身地】埼玉県秩父市
【学歴】埼玉県立秩父高校→武蔵野美術大学造形学部
【血液型】B型
【ネタ】紙くず屋 お見立て 七段目
【出典】林家たい平公式サイト 林家たい平Twitter 林家たい平Wiki 林家たい平YT落語協会HP
【蛇足】日本動物愛護協会理事
やなぎやこえんじ【柳家小袁治】噺家
やなぎやさんぱち【柳家さん八】噺家
きんげんていうまのすけ【金原亭馬の助】噺家
【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1965年6月、初代金原亭馬の助(伊藤武、1928-76)に
【前座】1966年9月、金原亭小馬吉
【二ツ目】1971年11月、駒三郎。76年2月、師の逝去に伴い、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)門下に
【真打ち】1981年3月、二代目金原亭馬の助
【出囃子】どうぞ叶えて
【定紋】馬の紋
【本名】松本直夫
【生年月日】1945年12月19日
【出身地】茨城県美浦村
【学歴】東京都立第一商業高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】金原亭馬の助Wiki 落語協会HP
【蛇足】
さんゆうてい うたじ【三遊亭 歌司】噺家
やなぎや ごんたろう【柳家 権太楼】噺家
【芸種】落語
【所属】落語協会 落語協会相談役
【入門】五代目柳家つばめ(木村 栄次郎、1928-74)に
【前座】1970年4月、柳家ほたる 74年9月、つばめの逝去に伴い、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下に
【二ツ目】1975年11月、柳家さん光
【真打ち】1982年9月、三代目柳家権太楼
【出囃子】金毘羅舟々
【定紋】丸にくくり猿
【本名】梅原健治
【生年月日】1947年1月24日
【出身地】東京都北区滝野川
【学歴】明治学院大学法学部
【血液型】A型
【ネタ】代書屋 長短 不動坊 火焔太鼓 三枚起請 など
【出典】柳家権太楼公式サイト 落語協会HP 柳家権太楼Wiki 柳家権太楼Twitter
【蛇足】①1982年5月23日、快晴の代々木公園。はやりの「ダイ・イン」をしたくてむらくもはせ参じた労働者を前に、マイク握っていた男女の司会者。そのかたわれが権太楼に羽化する直前のさん光さんでした。クルーカット(今も)、紺ブレにチノパン、スリッポンといった出で立ちで、なんだかスマートでカッコよかったなあ。まるで『の・ようなもの』から飛び出してきたような。あの紺ブレもKENTかな。あれから40年。矢のごとし。②じつは「昔昔亭桃太郎」の名跡が本命だったんだとか(本人の弁)。③倍賞美津子さんと滝野川第一小学校→紅葉中学校で同学年だったという話は有名ですね。ちなみに、滝野川第一小学校と滝野川第七小学校は統合されて、平成26年(2014)から田端小学校となりました。「タキイチ」と「タキシチ」、両校とも聞き違いや言い違いが多かったのです。「タバタ」で解消されました。さらに、紅葉中学校も滝野川中学校と統合されて、平成21年度(2009)から滝野川紅葉中学校となりました。
柳家さん吉、逝く
柳家さん吉師匠が、2022年2月15日、心不全で亡くなりました。84歳でした。
柳家さん吉。1938年1月18日-2022年2月15日。落語協会。新潟県村松町(五泉市)出身。本名は榑井昌夫。地元の高校を卒業後、昭和32年(1957)6月に五代目柳家小さんに入門。前座名は「柳家小二三」。昭和35年(1960)11月、二ツ目に。柳家小三郎に改名。昭和37年(1962)、「柳家さん吉」に改名。
昭和48年(1973)3月、三升家勝弥(七代目三升家小勝、1937-92、安達勝美)、橘家円平(1931-2020、阿部雄厚)、三遊亭さん生(川柳川柳、1931-2021、加藤利男)、三代目吉原朝馬(1930-78、西澤貞一)、柳家小のぶ(1937-、本田延吉)、柳家かゑる(十代目鈴々舎馬風、1939-、寺田輝雄)、三升家勝二(八代目三升家小勝、1938-、小林守巨)、桂小益(九代目桂文楽、1938-、武井弘一)、林家枝二(七代目春風亭栄枝、1938-2022、天津征)とともに、計10人で真打ちに。
2022年2月9日に亡くなった七代目春風亭栄枝師匠とは、1973年の大量真打ち昇進でお仲間でした。奇しくも同じ月、日をおかずに亡くなったことになります。
春風亭栄枝、逝く
春風亭栄枝、83歳。本名は天津征。2月9日、急性腎障害で亡くなりました。東京都豊島区西巣鴨の出身。1957年3月、八代目春風亭柳枝に入門。前座名は春風亭枝二。師匠の没後、八代目林家正蔵門下(彦六)に移って林家枝二に。73年10月、真打ちに昇進。83年7月、七代目春風亭栄枝を襲名しました。ジャズばかりか狂歌や都々逸にも詳しく、『蜀山人狂歌ばなし』(三一書房、1997年)がありました。弟子に春風亭百栄師匠がいます。
やなぎやさんきち【柳家さん吉】噺家
しゅんぷうていえいし【春風亭栄枝】噺家
かわやなぎせんりゅう【川柳川柳】噺家
さんゆうていえんりゅう【三遊亭圓龍】噺家
【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1965年2月、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)に旭生で
【二ツ目】1969年4月。78年6月、六代目円生に従い落語協会を脱会。円生没(79年9月)後、79年11月落語協会に復帰
【真打ち】1981年3月、三遊亭圓龍で。2018年4月、引退
【出囃子】末広狩
【定紋】三ツ組橘
【本名】水野孝雄
【生年月日】1939年2月20日-2021年8月20日 悪性腫瘍 82歳
【出身地】東京都杉並区→山梨県北巨摩郡高根町(北斗市)
【学歴】東京都立紅葉川高校→松井証券
【血液型】AB型
【出典】落語協会HP 三遊亭圓龍Wiki
【蛇足】『圓龍のそば行脚』308店 三味線で「転失気」など多彩
さんゆうていえんじょう【三遊亭圓丈】噺家
やなぎやこさんじ【柳家小三治】噺家
さんゆうていきんおう【三遊亭金翁】噺家
【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)に入門
【前座】1941年7月、三代目山遊亭金時で
【二ツ目】1945年8月、三遊亭小金馬で
【真打ち】1958年3月。67年、四代目三遊亭金馬。2020年9月、二代目三遊亭金翁
【出囃子】本調子かっこ
【定紋】中陰に鬼蔦
【本名】松本龍典
【生没年月日】1929年3月19日-2022年8月27日 93歳
【出身地】東京都世田谷区
【学歴】深川区立八名川尋常小学校(江東区立八名川小学校)
【血液型】A型
【持ちネタ】阿武松 芝浜 親子酒 藪入り 試し酒 茶金 御神酒徳利 長短 子なさせ地蔵 文七元結 ねぎまの殿様 鼠穴
【出典】落語協会HP 三遊亭金翁Wiki
【蛇足】落語協会最高顧問、日本演芸家連合名誉会長。息子は五代目三遊亭金馬、孫はホンキートンク。
さんゆうていえいば【三遊亭栄馬】噺家
【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【前座】1967年9月、四代目三遊亭小円馬(森山清、1925-99)に三遊亭栄馬で
【二ツ目】1971年9月
【真打ち】1981年4月
【出囃子】越後獅子中程
【定紋】高崎扇
【本名】足立建比古
【生年月日】1944年9月7日-2021年9月27日 急性心筋梗塞 77歳
【出身地】大分県臼杵市
【学歴】大分県立臼杵高校
【血液型】O型
【出典】三遊亭栄馬Wiki
【蛇足】絵手紙
談志が新春ドラマに
BS笑点ドラマスペシャル「笑点をつくった男 立川談志」が放送されます。BS日テレで、2022年1月2日(日)19時から。
放送55年を超えた日本テレビ系の番組「笑点」。その原型を作ったのは、立川談志でした。ドラマでの談志役は駿河太郎が演じます。2017年来のこと。この方、笑福亭鶴瓶師匠のご子息なんですね。岩崎のスポ魂おやじ役とかで記憶に新しいんですが。
「笑点」というタイトルは、当時、大人気だった三浦綾子の『氷点』から命名された本歌取りなのですが、いまや三浦綾子も『氷点』も忘れ去られた時代となってしまいました。名付け親は柳原良平だったとか。こちらも過去の人ですね。
あの頃の世間では「氷」や「点」がつく名前がなにかと多かったように記憶しています。布施明の「霧氷」とかありました。ブームだったんですね。
「笑点」が人気番組となった頃には、とうの談志は司会を降板してしまいます。1966年5月15日から69年11月2日まで。でも、けっこうやってましたねえ。
ドラマは、「笑点」とのかかわりを軸に、稀有な天才落語評論家、立川談志の半生が描かれるそうです。わくわく。
繁昌亭大賞、笑福亭たま
上方落語協会によれば、天満天神繁昌亭で年間を通じていちばん活躍した中堅の落語家に贈る「第16回繁昌亭大賞」に、笑福亭たま師を選んだとのことです。12月23日のことです。
笑福亭たま師は大阪府貝塚市出身の46歳。本名は辻俊介。京都大学経済学部を卒業して、1998年(平成10)、笑福亭福笑師匠に入門しました。
意識してネット配信を取り入れた「電脳落語会」や、若手中心の公演「落語フォー・ザ・フューチャー」を企画するなど、コロナ禍で厳しい状況が続く上方落語界をにぎやかに盛り上げたことが、大きく評価されたそうです。
奨励賞は、桂阿か枝師、林家染左師のお二人で、ともに50歳。表彰式と記念落語会は、2022年3月1日に行われます。
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