【岸柳島】

がんりゅうじま

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【どんな噺】

渡し舟に乗り合わせた町人と侍。
戦わずして勝つの極意が披露。
間抜け武士の横柄と横暴を笑います。

★★

別題:巌流島 桑名船(上方)

あらすじ

浅草の御廐河岸おんまやがしから渡し船に乗り込んだ、年のころは三十二、三の色の浅黒い侍。

船縁で一服つけようとして、煙管きせるをポンとたたくと、罹宇らおが緩んでいたと見え、雁首がんくびが取れて、川の中に落ちてしまった。

日頃よほど大切にしていたものと見え、たちまち顔色が変わる。

船頭に聞くと、ここは深くてもう取ることはできないと言われ、無念そうにブツブツ言っている。

そこへ、よせばいいのに乗り合わせた紙屑屋かみくずやが、不要になった吸い口を買い上げたいと持ちかけたので
「黙れっ、武士を愚弄ぐろういたすか。いま拙者せっしゃが落とした雁首と、きさまの雁首を引き換えにいたしてくれるから、そこへ直れっ」
ときたから紙屑屋は仰天。

いくらいつくばって謝っても、若侍は聞かばこそ。

へたに仲裁をすれば、今度はこっちにお鉢がまわりそうだから、誰もとりなす者はいない。

あわれ、首と胴とが泣き別れと思ったその時、小者こものに槍を持たせた七十過ぎの侍が
「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴公の恥。ことに御主名が出ること、乗り合いいたししたる一同も迷惑いたしますから、どうぞご勘弁を」
と詫びたが、かえって火に油。

「しからば貴殿が相手。いざ尋常に勝負をさっしゃい」

けんかが別のところに飛び火した。

「それではやむを得ずお相手するが、ここは船中、たってとあれば広き場所で」
「これはおもしろい。船頭、船を向こう岸にやれ」

さあ、船の中は大騒ぎ。

若侍ははかま股立ももだち(袴の左右両脇の開きの縫い止め部分)を取り、たすきを掛けて、この爺、ただ一撃ちと勇んで支度する。

老人の方はゆっくりと槍のさやを払い、りゅうりゅうとしごく。

対岸近くなると、若侍は勢いこんで飛び上がり、桟橋にヒラリと下り立った。

とたんに老人が槍の石突きでトーンと杭を突くと、反動で船が後戻り。

「あ、こら、卑怯者。船頭、返せ、戻せ」
「これ、あんなばかにかまわず、船を出してしまえ」
「へいっ。ざまあみやがれ、居残り野郎め。満潮になって、魚にでもかじられちまえ」

真っ赤になって怒った若侍、なにを思ったか、裸になると、大小を背負い、海にざんぶと飛び込んだ。

こりゃあ、離されて悔しいから、腹いせに船底に穴を開けて沈めちまおうてえ料簡らしいと、一同あわてるが、老侍は少しも騒がず、船縁でじっと待っていると、若侍がブクブクと浮き上がってきた。

「これ、その方はそれがしにたばかられたのを遺恨に思い、船底に穴を開けに参ったか」
「なーに、落ちた雁首を探しにきた」

しりたい

刻舟求剣ではなく無手勝流

呂氏春秋りょししゅんじゅう』の「察今さつこん編」にこんな話があります。

其の剣、舟中より水中におつ。にわかにその舟にきざみていわく、「これわが剣のよりておちし所なり」と。

これが「岸柳島」の原典と見られていましたが、ちょっと違うと思います。

これは「舟に刻みて剣を求む(刻舟求剣)」という故事に過ぎません。

『呂氏春秋』は中国の戦国末期、紀元前239年、呂不韋りょふい雑家ざつかに編集させた書です。

雑家とは、諸子百家のひとつで、儒、道、法、墨、農、名など諸家ごちゃまぜの流派です。

ですから、この書は百科事典のような役割を果たしてきました。広く浅く、という。

乗っている舟から剣を落とした人が、あわてて舟べりに印をつけてその下の川底を捜したという故事です。

「刻舟求剣」「舟に刻みて剣を求む」「剣を落として舟に刻む」「舟べりに刻む」「刻舟」といった成句が、いまでも使われます。時流を読めずいたずらに古い習慣から離れられない人を笑うときに。

成句には、古い物事(剣)にこだわって状況の変化(舟)に応じることができないでいる人の愚かぶり、それを糾弾する世間の嘲笑が込められています。まあ、マヌケを笑うわけです。

原話は、塚原卜伝つかはらぼくでん(1489-1571)の逸話です。

塚原卜伝は戦国期の武術者です。常陸ひたち(茨城県)の鹿島神流かしましんりゅうから出て、鹿島新当流かしましんとうりゅうという新流派を打ち立てました。「剣聖」とも呼ばれ、並みいる武芸者とは格が少々違います。

しかも、長生きしたせいか、逸話がたいへん多く残っているのですね。

その中に、『甲陽軍鑑こうようぐんかん』に載っている無手勝流の逸話があります。

この書はつい最近までは偽書の疑いがありましたが、山本勘助やまもとかんすけ(?-1561)も実在したとされるようになって、資料的価値もにわかに出てきています。

『甲陽軍鑑』での話の舞台は琵琶湖です。すじだては「岸柳島」とまったく同じです。

この噺の軸足は「舟に刻みて剣を求む」ではなく、「戦わずして勝つ」にあるのだと思うのです。無手勝流です。

『燃えよ!ドラゴン』でも

日本では昭和48年(1973)に公開された、ワーナー映画『燃えよドラゴン』(Enter the Dragon、龍争虎闘)。

この作品の前半部に、無手勝流のサイドストーリーが描かれていました。無手勝流の勝者は、もちろん、ブルース・リーが演じています。

巌流島か、岸柳島か

この噺は、安永2年(1773)刊の『坐笑産ざしょうみやげ』中の小ばなし「むだ」を始め、さまざまな笑話本に脚色されています。

上方噺の「桑名船」が原初です。これは「桑名舟煙管のやりとり」「桑名舟七里の渡し」とも呼ばれています。舞台は、東海道の桑名の渡し場にしているのです。

時を経て、上方噺「桑名船」として口演されたものが、東京に移すことになりました。

その際、佐々木小次郎の逸話をもとにした講談の「佐々木巌流」の一節が加味され、「巌流島」、または、風流めかした「岸柳島」の名がついたものです。

そのせいか、もとは若侍を岸に揚げた後、老人は、佐々木巌流(小次郎)がしつこく立ち合いを挑む相手を小島に揚げたまま舟を返して勝負をしなかった、という故事(物語)を物語ります。そんな場面がありました。

この、老人の説明がなければ、「巌流」といってもなんのことかわからず、むしろ「岸柳島」の演題が正しい、と三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が述べています。

総じてこの噺は、明治時代になって完成したものでしょう。

隅田川の渡し

隅田川に架かる橋は極端に少なかったため、両岸を船で渡す交通が発達していました。それを渡しと呼びました。

主な渡しは、隅田川上流から以下の通り。

言問の渡し(橋場の渡し) 橋場町北-向島水神近く

寺島の渡し 橋場今戸寄り-寺島村

竹屋の渡し(待乳の渡し) 金竜山下瓦町-三囲神社近く

枕橋の渡し(山の宿の渡し) 浅草山の宿-本所枕橋

竹町の渡し(業平の渡し) 浅草材木町-中の郷竹町

御蔵の渡し(御厩の渡し) 浅草御米蔵北-本所石原町

富士見の渡し 浅草瓦町-本所横網町

三途の渡し 浅草芳町-本所藤代町近く

千歳の渡し 日本橋矢の倉-本所一ノ橋

安宅の渡し(浜町の渡し) 浜町二丁目-安宅町

大工町の渡し 東元町-東大工町

清住の渡し 日本橋菖蒲河岸-深川清住町

この噺の舞台は、もちろん、御蔵の渡し(御厩の渡し)ですね。

東都名所図絵隅田川渡しの図 初代広重 右側が水神森、左側が橋場のあたり

志ん生の十八番

古くは三遊亭円朝、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が演じ、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)を経て、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が抱腹絶倒のくすぐり満載で大ヒットさせました。

志ん生が昭和31年(1956)に演じた「巌流島」は、志ん生自身の数少ない貴重な映像の一つとして残っています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)などの大看板も手掛けました。最近では、意外や、入船亭扇遊も。

志ん生のくすぐり

●若侍が舟中に飛び込んできて

「あー、これッ。もっとそっちィ寄れッ。じゃまだッ。町人の分際でなんだその方たちは。あー? うー、人間の形をしてやがる。生意気にィ……あー、目ばたきをしてはならん。……息をするなッ」

●果たし合いが決まって舟中の連中

「あのじいさんは斬られる。するってえと、返す刀であの屑屋を斬る。そいからこんだ、てめえを斬る。斬らなきゃオレが頼む。『えー、そっちが済みましたらついでに……』」
「床屋じゃねえや」

●置いてけぼりの若侍をののしって

「ざまあみやがれ、宵越しの天ぷらァ」
「なんだい、そりゃ?」
「揚げっぱなしィ」

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