したんろうふるき【紫檀楼古木】落語演目 

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

渋ーい噺。
爺さんが妙にカッコいいんです。

別題:古木 紫檀楼

あらすじ

ある冬の夕暮れ、薬研堀やげんぼりのさる家。

なかなかおつな年増としまで、芸事げいごとならばなんでもいけるというご新造しんぞが、お女中一人と住んでいる。

「らおやーァ、きせるー」
と売り声がしたので出てみると、ボロボロの半纏はんてん袖口そでくちが水っぱなでピカピカ光っている、きたない爺さん。

ちょうどご新造の煙管きせるが詰まっていたので、女中が羅宇らおの交換を頼む。

いやに高慢ちきな態度で、専門家の目で見ると趣味の悪い代物しろものなのに、金がかかっていることを自慢たらたら。

じいさんは嫌な気がしたが、仕事なのでしかたがない。

じいさん、玄関先で煙管をすげ替えていると、ご新造がそれを窓から見て、
「あんな、きたならしいじじいを煙管に触れさせるのはイヤだ」
と文句を言う。

二人の「きたない、きたない」という言葉が聞こえてきたので、爺さんはむっとして、代金を受け取る時、
「これをご新造に取り次いでほしい」
と、なにか書いてある紙切れを渡した。

ご新造がそれを読んでみると
「牛若の ご子孫なるか ご新造の 吾れを汚穢むさし(=武蔵坊)と 思いたまひて」
という皮肉な狂歌きょうか

だんなが狂歌をやるので、自分も少しはたしなみがあるご新造。

「ふーん」
と感心して、矢立やだてでさらさらと
「弁慶と 見たはひが目か すげ替えの のこぎりもあり 才槌さいづちもあり」
返歌へんかをしたためて、届けさせる。

それを爺さんが見て、またも、
「弁慶の 腕にあらねど 万力まんりきは 煙管の首を 抜くばかりなり 古木ふるき
と、今度は署名入りの返歌をよこした。

その署名を見て、ご新造は仰天。

紫檀楼古木したんろうふるきといえば、だんなの狂歌の先生の、そのまた先生という、狂歌界の大名人。

元蔵前の大きな羅宇問屋の主人だったが、番頭ばんとうにだまされて店をつぶされ、今は裏店うらだなに住んで、市中を羅宇のすげ替えに歩く身。

ご新造は、さっそく無礼をわびて家に招き入れた。

とりあえず、お風邪でも召しては、と綿入れの羽織を差し出す。

古木、断って
「ご親切はありがたいが、私はこのこの荷物をこう担げば、はおりゃー、着てるゥー(らおやー、きせるー)」

★auひかり★

うんちく

現行は短縮版

原話は不詳ですが、文化年間(1804-17)に作られた、古い狂歌噺といわれています。

最古の速記は、明治28年(1895)6月、雑誌『百花園ひゃっかえん』に掲載の二代目柳家小さんのものですが、小さんは当時すでに引退していて隠居名「禽語楼きんごろう」を名乗っています。

その小さんのバージョンは、現行よりかなり長く、この前に、零落した古木が女房に別れてくれと迫られ、「いかのぼり 長きいとまに さるやらば 切れて子供の 泣きやあかさん」と詠んで、女房が思いとどまるくだり、子供が、自身番の前でいたずらをし、町役になぐられて泣いて帰ってきたので、「折檻せっかん頂戴ちょうだいいたす おかげには せがれ面目めんもく なく(無く=泣く)ばかりなり」と詠んで、町役ちょうやくを謝らせる逸話いつわを付けています。

円生、彦六の演出

戦後は八代目林家正蔵しょうぞう(彦六ひころく)と六代目三遊亭円生がやっていました。

二人は同世代で犬猿の仲といわれた、ともに巨匠です。

競うように演じていました。

ともに円朝門弟の最後の一人、三遊一朝さんゆういっちょう(1847-1930)に習ったもので、本寸法ほんすんぽうです。

やり方では、円生の方が、ご新造と女中のやりとりなど、細かくなっています。

正蔵は、ご新造の返歌の「すげ替えの」を「背に負いし」としていますが、こうした演者による細かい異同は、昔からあったようです。

オチ近くでご女中がご新造にたしなめられ、ペコペコしながらもつい「今は落ちぶれて」だの、「これは私がいただいて、私のボロ半纏をこのじじいに」などと口にしてしまうくだりが円生演出にはありましたが、これは二代目小さんからの踏襲でした。

正蔵は、取り次ぎの女中が最後までなにがなにやらわからず、つっけんどんのまま終わるやり方でした。

狂歌

滑稽味を骨子こっしとする、和歌のジャンルとしては平安時代からありましたが、歌壇をはばかり「言い捨て」として記録されることはほとんどありませんでした。

近世に入って江戸初期、松永貞徳まつながていとく(1571-1653)の指導で、大坂で盛んになりました。初期には石田未得いしだみとくの『吾吟我集ごぎんわがしゅう』のような古歌こかのパロディーが主流でした。

江戸では、明和6年(1769)、唐衣橘洲からごろもきつしゅう(1743-1802)が自宅で狂歌会を催したのがきっかけで、同好の大田南畝おおたなんぽ( 1749-1823 )らとさかんに会を開くうち、これが江戸中の評判に。

ちなみに、この年は海の向こうでナポレオンが生まれています。

天明年間(1781-89)になると、狂歌の大ブーム、黄金時代を迎えました。

その時期の狂歌は、自由な機知と笑いがあふれ、「天明ぶり」とうたわれています。

文化年間(1804-18)になると低俗化し、次第に活力を失います。

狂歌師の中でも蜀山人しょくさんじん(太田南畝)は偶像的存在で、落語にも、その逸話や狂歌を紹介するだけの多くの「狂歌噺」が生まれました。

今ではこの「紫壇楼古木」を除いて、すたれています。

それすら、円生、正蔵没後は、ほとんど後継者がいません。

現代は、狂歌よりも川柳が好まれるようです。

島田裕巳の『大和魂のゆくえ』(集英社インターナショナル、2020年)を読んでいましたら、三島由紀夫の章がありまして、「三島の辞世の句」とやっていました。

三島は明らかに「辞世歌」ですね。あんな大智識ですらこんな具合です。現代の風潮、推して知るべしです。

噺家兼業の狂歌名人

紫壇楼古木( 1777-1832 )は、この噺で語られる通り、元は大きな羅宇屋の主人でした。

朱楽管江あけらかんこう( 1740-1800 )に師事した、寛政から文化年間にかけての狂歌後期の名匠です。

同時に落語家でもあって、狂歌噺を専門にしていたため、その創始者ともいわれます。

本名は藤島古吉。辞世歌は以下の通り。

六道の 辻駕籠に 身はのり(乗り=法)の 道念仏ねぶつ申して 極楽へ行く

羅宇屋

煙管きせる雁首がんくびと吸い口をつなぐ道具にラオス産の竹を使ったことから、この部分を羅宇らおと言いました。

ですから、羅宇屋らおやとは、煙管の竹の交換や修理をする職人をさします。

羅宇らおはラオス産、南瓜かぼちゃはカンボジア産、桟留さんとめはコロマンデル海岸のセントトマス産、咬𠺕吧じゃがたらはジャワ島産、錫蘭せいらんはセイロン島産、弁柄べんがらはベンガル地方産など、江戸時代は意外に国際的だったようです。

このように見ると、どこが鎖国だったのだろう、と思えてしまいます。

オランダ東インド会社と中国の船によって、南アジア方面から持ち込まれたものが多いのですね。

「鎖国」という用語がいずれ、教科書から消える日が来るそうです。

【語の読みと注】
新造 しんぞ:下級武士や上級町人の妻女
煙管 きせる
羅宇 らお
裏店 うらだな
唐衣橘洲 からごろもきっしゅう:1743-1802
大田南畝 おおたなんぽ:蜀山人、1749-1823
紫壇楼古木 したんろうふるき:1777-1832
朱楽管江 あけらかんこう:1740-1800



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がんりゅうじま【岸柳島】落語演目

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【どんな?】

渡し舟に乗り合わせた町人と侍。
戦わずして勝つの極意が披露。
間抜け武士の横柄と横暴を笑います。

別題:巌流島 桑名船(上方)

あらすじ

浅草の御廐河岸おんまやがしから渡し船に乗り込んだ、年のころは三十二、三の色の浅黒い侍。

船縁で一服つけようとして、煙管きせるをポンとたたくと、罹宇らおが緩んでいたと見え、雁首がんくびが取れて、川の中に落ちてしまった。

日頃よほど大切にしていたものと見え、たちまち顔色が変わる。

船頭に聞くと、ここは深くてもう取ることはできないと言われ、無念そうにブツブツ言っている。

そこへ、よせばいいのに乗り合わせた紙屑屋かみくずやが、不要になった吸い口を買い上げたいと持ちかけたので
「黙れっ、武士を愚弄ぐろういたすか。いま拙者せっしゃが落とした雁首と、きさまの雁首を引き換えにいたしてくれるから、そこへ直れっ」
ときたから紙屑屋は仰天。

いくらいつくばって謝っても、若侍は聞かばこそ。

へたに仲裁をすれば、今度はこっちにお鉢がまわりそうだから、誰もとりなす者はいない。

あわれ、首と胴とが泣き別れと思ったその時、小者こものに槍を持たせた七十過ぎの侍が
「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴公の恥。ことに御主名が出ること、乗り合いいたししたる一同も迷惑いたしますから、どうぞご勘弁を」
と詫びたが、かえって火に油。

「しからば貴殿が相手。いざ尋常に勝負をさっしゃい」

けんかが別のところに飛び火した。

「それではやむを得ずお相手するが、ここは船中、たってとあれば広き場所で」
「これはおもしろい。船頭、船を向こう岸にやれ」

さあ、船の中は大騒ぎ。

若侍ははかま股立ももだち(袴の左右両脇の開きの縫い止め部分)を取り、たすきを掛けて、この爺、ただ一撃ちと勇んで支度する。

老人の方はゆっくりと槍のさやを払い、りゅうりゅうとしごく。

対岸近くなると、若侍は勢いこんで飛び上がり、桟橋にヒラリと下り立った。

とたんに老人が槍の石突きでトーンと杭を突くと、反動で船が後戻り。

「あ、こら、卑怯者。船頭、返せ、戻せ」
「これ、あんなばかにかまわず、船を出してしまえ」
「へいっ。ざまあみやがれ、居残り野郎め。満潮になって、魚にでもかじられちまえ」

真っ赤になって怒った若侍、なにを思ったか、裸になると、大小を背負い、海にざんぶと飛び込んだ。

こりゃあ、離されて悔しいから、腹いせに船底に穴を開けて沈めちまおうてえ料簡らしいと、一同あわてるが、老侍は少しも騒がず、船縁でじっと待っていると、若侍がブクブクと浮き上がってきた。

「これ、その方はそれがしにたばかられたのを遺恨に思い、船底に穴を開けに参ったか」
「なーに、落ちた雁首を探しにきた」

しりたい

原話のキモは無手勝流

呂氏春秋りょししゅんじゅう』の「察今さつこん編」にこんな話があります。

其の剣、舟中より水中におつ。にわかにその舟にきざみていわく、「これわが剣のよりておちし所なり」と。

これが「岸柳島」の原典と見られていましたが、ちょっと違うと思います。

これは「舟に刻みて剣を求む」という故事に過ぎません。

『呂氏春秋』は中国の戦国末期、紀元前239年、呂不韋りょふい雑家ざつかに編集させた書です。

雑家とは、諸子百家のひとつで、儒、道、法、墨、農、名など諸家ごちゃまぜの流派です。

ですから、この書は百科事典のような役割を果たしてきました。広く浅く、という。

乗っている舟から剣を落とした人が、あわてて舟べりに印をつけてその下の川底を捜したという故事です。

古い物事(剣)にこだわって、状況の変化(舟)に応じることができないでいる男の愚かぶりが描かれています。

原話は、塚原卜伝つかはらぼくでん(1489-1571)の逸話です。

塚原卜伝は戦国期の武術者です。常陸ひたち(茨城県)の鹿島神流かしましんりゅうから出て、鹿島新当流かしましんとうりゅうという新流派を打ち立てました。

「剣聖」とも呼ばれ、並みいる武芸者とは少々格が違います。

しかも、長生きしたせいか、逸話がたいへん多く残っているのですね。

その中に、『甲陽軍鑑こうようぐんかん』に載っている無手勝流の逸話があります。

この書はつい最近までは偽書の疑いがありましたが、山本勘助やまもとかんすけ(?-1561)も実在したとされるようになって、資料的価値もにわかに出てきています。

『甲陽軍鑑』での話の舞台は琵琶湖ですが、すじだては「岸柳島」とまったく同じです。

この噺の軸足は「舟に刻みて剣を求む」ではなく、「戦わずして勝つ」にあるのだと思います。

日本では昭和48年(1973)に公開されたワーナー映画『燃えよドラゴン』(Enter the Dragon、龍争虎闘)。

この作品の前半部にも無手勝流のサイドストーリーが描かれていました。

無手勝流の勝者は、もちろんブルース・リーが演じています。

巌流島か、岸柳島か

この話は、安永2年(1773)刊の『坐笑産ざしょうみやげ』中の小ばなし「むだ」を始め、さまざまな笑話本に脚色されています。

その後、上方落語「桑名船」として口演されたものを東京に移す際、佐々木小次郎の逸話をもとにした講談の「佐々木巌流」の一節が加味され、この名がついたものです。

そのせいか、もとは若侍を岸に揚げた後、老人が、昔、佐々木巌流(小次郎)がしつこく立ち合いを挑む相手を小島に揚げて舟を返し勝負をしなかった、という伝説を物語る場面がありました。

この説明がなければ、「巌流」といってもなんのことかわからず、むしろ「岸柳島」の演題が正しい、と三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が述べています。

こちらも志ん生の十八番

古くは三遊亭円朝、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が演じ、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)を経て、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が抱腹絶倒のくすぐり満載で大ヒットさせました。

志ん生が昭和31年(1956)に演じた「巌流島」は、志ん生自身の数少ない貴重な映像の一つとして残っています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)などの大看板も手掛けました。

上方では、東海道の桑名の渡し場を舞台にしています。

志ん生のくすぐり

●若侍が舟中に飛び込んできて

「あー、これッ。もっとそっちィ寄れッ。じゃまだッ。町人の分際でなんだその方たちは。あー? うー、人間の形をしてやがる。生意気にィ……あー、目ばたきをしてはならん。……息をするなッ」

●果たし合いが決まって舟中の連中

「あのじいさんは斬られる。するってえと、返す刀であの屑屋を斬る。そいからこんだ、てめえを斬る。斬らなきゃオレが頼む。『えー、そっちが済みましたらついでに……』」
「床屋じゃねえや」

●置いてけぼりの若侍をののしって

「ざまあみやがれ、宵越しの天ぷらァ」
「なんだい、そりゃ?」
「揚げっぱなしィ」

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