素人相撲 しろうとずもう 演目

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勧工場というのは、今のデパートのことですね。

別題:大丸相撲(上方)

【あらすじ】

明治の初め、東京でも素人相撲がはやったことがある。

その頃の話。

ある男が相撲に出てみないかと勧められて、オレは大関だと豪語している。

こういうのに強い奴はいたためしがなく、この間、若い衆とけんかをしてぶん投げたと言うから
「病人じゃなかったのか」
「ばかにするねえ」
「血気の若えもんだ」
「いくつくらいの?」
「七つが頭ぐれえで」

こういう手合いばかりだから、いざ本番で少しでも大きくて強そうな奴が相手だと、尻込みして逃げてしまう。

「向こうはばかに大きいからイヤだ」
「本場所は小さい者が大きい者と取るじゃねえか」
「おやじの遺言で、けがするのは親不孝だから、大きい奴と取ったら草葉の陰から勘当だと言われてる」
「てめえのおやじはあそこで見てるじゃねえか」
「なに、ゆくゆくは死ぬからそのつもりだ」

与太郎も土俵に上がれとけしかけられるが、
「おばさんから、相撲を取ってけがしたら小遣いをあげないと言われてるんで、いいか悪いか横浜まで電報を打って」
とひどいもの。

そこに、やけに小さいのが来て、
「私が取る」
と言うので
「おい、子供はだめだ」
「あたしは二十三です」

どうしても、と言うから、しかたなくマワシを付けさせて土俵に上げると、その男、大男の前袋にぶら下がったりしてチョロチョロ動いて翻弄し、引き落としで転がしてしまう。

「それ見ろ。小さいのが勝った。煙草入れをやれ、紙入れも投げろ。羽織も放っちまえ」
「おい、人のを放っちゃいけねえ。てめえのをやれ」
「しみったれめ」
「おまえがしみったれだ、しかし強いねえ。あれは誰が知っているかい?」
「あれは勧工場の商人だ」
「道理で負けないわけだ」

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【うんちく】

お江戸の素人相撲 

辻相撲、草相撲とも呼ばれる素人相撲。地方では、草相撲の盛んな地域はよくありますが、江戸では、相撲は見るもので、本来はするものではありませんでした。

それでも、祭りの奉納相撲としては、地域によって行われたらしく、『江戸年中行事』(三田村鳶魚編)に、「貞享度(1684-88)において、七月十五日の浅草蔵祭、同十六日の雑司ヶ谷の法明寺、享保度(1716-36)には五月五日の大鳥大明神祭」など、主に郊外を中心に行われたとあります。

ただし、「これらが草相撲なのか否かはにわかに断ぜられない」とのこと。

円喬は速記のマクラで、素人相撲を次のように、流行の一つとして説明しています。

「……よくこの、はやりすたりと申します。しかし此のはやりものも、あんまりパッとはやりますものは、すたるところへ行くとたいそう早いもので」

それに続き、茶番狂言、女義太夫、寄席くじなど、一時的に流行してすたれた物を列挙しているので、いずれ素人相撲も、明治30年代かぎりで、あまり長続きしなかったと見えます。

『武江年表』に、幕末の文久3年(1863)、下谷常在寺や本郷真光寺その他の境内で、子供相撲が盛んに催されたという記事があります。この連中が壮年になるのが、明治20-30年代。昔取った杵柄か、と思えないでもありません。

類話「大安売り」

よく似た噺に「大安売り」があります。こちらは反対に、コロコロよく負ける力士が出て、それが安売り店の主人。「なるほど、道理でよくまける」と、オチが反対になります。

東京では、相撲取り出身という異色の経歴と巨体が売り物の、三遊亭歌武蔵の持ちネタとして知られます。大阪では、先代桂文枝が高座にかけていました。「素人相撲」(大丸相撲)の方は、今はあまり演じ手がないようです。

原話について

原話は二種類あり、古い方が、正徳6年(=享保元、1716)に京都で刊行の『軽口福蔵主』巻一中の「現金掛値なし」、次に、安永年(1778)江戸板の『落話花之家抄』中の「角力」です。後者はオチもそっくりで、完全な原型とみられます。

志ん生も演じた噺

戦後では、終生、四代目橘家円喬に私淑していた五代目古今亭志ん生が、独自のオチを工夫して、たまに演じていました。

志ん生のは、「よく押しがきくねえ」「きくわけだ。漬け物屋のセガレだから」というものでした。

オリジナルは上方落語

明治30年代に、四代目橘家円喬が上方落語「大丸相撲」を東京に移したらしく、明治34年(1901)7月の『文藝倶楽部』に、同人の速記が載っています。

上方の方は、背景が村相撲で、商人風の男が飛び入りしてどんどん勝ち抜いていくので、「強いやっちゃなあ。どこの誰や?」「大丸呉服店の手代や}「道理でまけん」というオチです。

大阪では、大丸は掛け値しないことで有名だったので、こういうオチになったのを、円喬はそれを、明治の東京新風俗の「勧工場」に模したわけです。

勧工場の没落

その後、商品の質が落ちたことで評判も落ち、明治40年代になると、新興の三越、高島屋、白木屋ほかの百貨店に客を奪われて衰退。大正に入ると、ほとんどが姿を消しました。

勧工場の特徴は掛け値せず定価で売ったことで、これは当時としては新鮮でした。この噺のオチ「まけない」は、そこから来ています。

現在、新橋橋詰にある「博品館」の前身は勧工場で、場所もこの位置です。

勧工場

家庭用品、文房具、衣類などをそろえた、今でいうデパートやスーパーのはしりです。

明治10年(1877)に開かれた、第一回内国勧業博覧会の残品を売りさばくために設けられたものです。大阪では、「勧商場」と呼びました。

明治11年(1878)1月創設の、東京府立第一勧工場を皮切りに、明治25年ごろまでに、京橋、銀座、神田神保町、日本橋、上野広小路など、東京中の盛り場に雨後の筍のように建てられました。

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