はなみざけ【花見酒】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

酒のみの噺。
呑み助は呑み助らしく。
いろんなところでしくじるもんですね。

あらすじ

幼なじみの二人。

そろそろ向島の桜が満開という評判なので
「ひとつ花見に繰り出そうじゃねえか」
と話がまとまった。

ところが、あいにく二人とも金がない。

そこで兄貴分がオツなことを考えた。

横丁の酒屋の番頭に灘の生一本を三升借り込んで花見の場所に行き、小びしゃく一杯十銭で売る。

酒のみは、酒がなくなるとすぐにのみたくなるものなので、みんな花見でへべれけになっているところに売りに行けば必ずさばける。

もうけた金で改めて一杯やろうという、なんのことはないのみ代稼ぎである。

そうと決まれば桜の散らないうちにと、二人は樽を差し担いで、向島までやって来る。

着いてみると、花見客で大にぎわい。

さあ商売だという矢先、弟分は後棒で風下だから、樽の酒の匂いがプーンとしてきて、もうたまらなくなった。

そこで、「お互いの商売物なのでタダでもらったら悪いから、兄貴、一杯売ってくれ」
と言い出して、十銭払って、グビリグビリ。

それを見ていた兄貴分ものみたくなり、やっぱり十銭出してグイーッ。

「俺ももう一杯」
「じゃまた俺も」
「それ一杯」
「もう一杯」
とやっているうちに、三升の樽酒はきれいさっぱりなくなってしまった。

二人はもうグデングデン。

「感心だねえ。このごった返している中を酒を売りにくるとは。けれど、二人とも酔っぱらってるのはどうしたわけだろう」
「なーに、このくらいいい酒だというのを見せているのさ」

なにしろ、おもしろい趣向だから買ってみようということで、客が寄ってくる。

ところが、肝心の酒が、樽を斜めにしようが、どうしようが、まるっきり空。

「いけねえ兄貴、酒は全部売り切れちまった」
「えー、お気の毒さま。またどうぞ」

またどうぞもなにもない。

客があきれて帰ってしまうと、まだ酔っぱらっている二人、売り上げの勘定をしようと、財布を樽の中にあけてみると、チャリーンと音がして十銭銀貨一枚。

「品物が三升売れちまって、売り上げが十銭しかねえというのは?」
「ばか野郎、考えてみれば当たり前だ。あすこでオレが一杯、ちょっと行っててめえが一杯。またあすこでオレが一杯買って、またあすこでてめえが一杯買った。十銭の銭が行ったり来たりしているうちに、三升の酒をみんな二人でのんじまったんだあ」
「あ、そうか。そりゃムダがねえや」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

経済破綻を予言 『花見酒の経済』   【RIZAP COOK】

昭和37年(1962)に出版され、話題になった笠信太郎(1900-67、朝日新聞、全面講和、安保改定可、CIA協力)の『“花見酒”の経済』。

当時の高度経済成長のただなか、なれ合いで銭が二人の間を行ったり来たりするだけのこの噺をひとつの寓話として、当局の手厚い保護下で資本が同じところをぐるぐるまわるだけの日本経済のもろさを指摘しました。

のちに現実となった、昭和48年(1973)のオイルショックによる経済破綻を見事に予見しました。

つまりは、この噺をこしらえた不明の作者は、遠く江戸時代から、はるか未来を見通していたダニエルのごとき大預言者だった、ということになりましょうか。

向島の桜  【RIZAP COOK】

八代将軍吉宗(1684-1751、在位1716-45)の肝いりで整備され、文化年間(1804-18)には押しも押されもせぬ江戸近郊有数の観光名所となりました。

向島は浅草から見て、隅田川の対岸一帯を指した名称です。

江戸の草創期には、文字通りいくつもの島でした。

花見は三囲神社から、桜餅で名高い長命寺までの堤が有名です。明治期には、枕橋から千住まで、約4kmに渡って、ソメイヨシノのトンネルが見られました。

復活待たれる噺  【RIZAP COOK】

八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)や六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が手がけました。

おもしろく、皮肉なオチも含めてよくできた噺なのに、とかく小ばなし、マクラ噺扱いされがちのせいか、近年ではあまり聞きません。

明治期の古い速記では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)のが残っています。二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)のものも。明治41年(1908)の円喬の速記では、酒といっしょに兄貴分がつり銭用に、強引に酒屋に十銭借りていくやり方で、二人は「辰」と「熊」のコンビです。



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みやとがわ【宮戸川】落語演目





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【どんな?】

隅田川が舞台。
お花半七なれそめの噺。
後半は悲惨ですが。
江戸の噺です。

別題:お花半七馴れ染め

あらすじ

日本橋は小網町こあみちょうの質屋、茜屋半右衛門あかねやはんえもんのせがれ、半七。

堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。

頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。

気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。

こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。

友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日頃から折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。

いつしか二人はばったり。

話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島れいがんじまのおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。

「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。

結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。

一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。

違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。

「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」

下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。

下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。

二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。

こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。

翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。

ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。

おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。

出典:三代目春風亭柳枝

五街道雲助の「宮戸川」

しりたい

実際の心中事件に取材

六代将軍家宣いえのぶが亡くなった正徳しょうとく2年(1712)。

この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が、同年、浄瑠璃「長町裏女腹切ながまちおんなのはらきり」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが芝居や音曲で大流行しました。

それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四代目鶴屋南北(勝次郎、1755-1829)が江戸・玉川座に書き下ろした「宿花千人禿やよいのはなせんにんかむろ」(茜屋半七)が大当たりしました。

落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。

すたれた後半部分

明治中期までは、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがありました。

三代目柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。

この項でのあらすじは、三代目柳枝の速記の前半部分を参照しました。

その後、古風な芝居ばなしがすたれるとともに、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。

昭和に入って、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)といった名人連が得意にしました。

ただ、いずれも前半のみで、円生一門の五代目三遊亭圓楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されていました。

三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)、柳家小満ん五街道雲助金原亭世之介古今亭圓菊柳家喬太郎などが、後半を含めてやったことがあります。

後半のあらすじ

前半から四年ほどのちの夏。

お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。

傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花はしゃくを起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。

承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。

雇った船頭もぐるとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。

三人の渡りゼリフで。

「亭主というは、うぬであったか」
「ハテ、よいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」

……というところで起こされた。

お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。

じつは夢だったという筋立ては「夢金」と同じです。オチは「鼠穴」に似ています。

宮戸川

夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名です。

隅田川の、吾妻橋から厩橋のあたり「宮戸川」と呼んだそうです。

「宮戸」は、三社権現さんじゃごんげんの参道入り口を流れていたことから、この名がついたのだとか。

この付近は、白魚や紫鯉の名産地でした。汽水なんですね。

文政年間(1818-30)、浅草駒形町の醤油酢問屋、内田屋甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になったそうです。ここは居酒屋もあきなっていたとか。

小網町

現在の東京都中央区日本橋小網町。

小網町3丁目の行徳河岸ぎょうとくがしから下総(千葉県北部)の行徳まで三里八丁(約12.9km)を、行徳船ぎょうとくぶねという、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。

ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。

霊岸島

現在の東京都中央区新川1、2丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り、島だったのでした。

船宿

舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。

柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。

【もっとしりたい 後半のあらすじ】

芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。

この噺は、前半と後半がある。

今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。

後半とは、どんな噺なのか。

霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。

実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。

半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」

結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。聴衆を弄んでる。筋の悪い同人誌を読む思い。できのよくない筋運びといえよう。オチもどこかで聞いたことのある、とってつけたようなものだし、それだけですでに凡庸でしかないう。

だからなのか、今では演じる者がいない。えんえんと長いし。

ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知れば、おのずとわかる。

宮戸川とは隅田川の別称である。おおざっぱには、駒形あたりから上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。

噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷あたりとなる。

ともに隅田川がらみの地だ。なによりも、お花が投げ捨てられたのが吾妻橋である。

隅田川は汽水の地。聖と俗、善と悪、生と死、うぶとなれが交錯し、すべてを洗い流してしまう象徴となる。

この噺は前半と後半で際立つ。「宮戸川」と題するのもそこに噺の核が隠されているからだろう。どこまでいっても隅田川まみれの噺なのである。

古木優





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評価 :1/3。

ゆめきん【夢金】落語演目

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【どんな?】

ある雪の晩。大川の船宿。
駆け込んできた素浪人は女連れ。
舟を出せと。船頭は金欲の熊だけ。
こいつとやさぐれ侍との鬼気迫るシークエンス。
どうなる。どうする。

別題:錦嚢 欲の熊蔵

あらすじ

山谷堀さんやぼりの吉田屋という船宿ふなやど

そこの船頭せんどう、熊五郎は、このところ毎晩のように超現実的な寝言をうなっている。

「金が欲しいな。二十両欲しい。だれかくれぇ」

ある夜、いつものように熊の
「金くれえ」
が始まったころ合いに、門口で大声で案内を乞う者がある。

亭主が出てみると、年のころは三十ばかり、赤羽二重あかはぶたえ黒紋くろもん羽織はおり献上博多けんじょうはかたの帯のぼろぼろになったのを着た侍が、お召し縮緬ちりめんの小袖に蝦夷錦えぞにしきの帯を締め、小紋こもんの羽織、文金高島田ぶんきんたかしまだしとやかにお高祖頭巾こそずきんをかぶった十六、七の娘を連れて、雪の中を素足で立っている。

話を聞くと、今日妹を連れて芝居見物に行ったが、遅くなり、この雪の中を難渋しているので、大橋おおはしまで屋根舟を一艘いっそう仕立ててもらいたいという。

今、船頭は相変わらず
「二十両くれえ」
とやっている熊五郎しかいない。

「大変に欲張りなやつですから、酒手さかて(チップ)の無心でもするとお気の毒ですので」
と断っても
「かまわない」
と言うので、急いで熊を起こして支度をさせる。

舟はまもなく大川の中へ。

酒手の約束につられてしぶしぶ起き出した熊五郎、出がけにグイっとあおってきたものの、雪の中。寒さにブルブル震えながら漕いでいる。

娘の顔をちらちら見て
「こいつら兄妹じゃねえな」
と踏んだが、まあなんにしろ
「早くゼニをくれればいい、酒手をくれ、早く一分くれ」
と独り言を言っていると、侍が舟の障子をガラリと開け
「おい、船頭。ちょっともやえ(止めろ)。きさまに話がある」

女は寝入っている。

「この娘は実は妹ではなく、今日、吉原土手よしわらどてのところで犬に取り巻かれて難儀していたのを助けてやったもの。介抱しながら懐に手を入れると、大枚二百両を持っていたから、これからこの女をさんざんなぐさんだ上、金をとってぶち殺すので手伝え」
という。

熊が仰天して断ると、侍は
「大事を明かした上は命はもらう」
とすごむ。

「それじゃあ、いくらおくんなさいます」
「さすがは欲深いその方。震えながらも値を決めるのは感心だ。二両でどうだ」
「冗談言っちゃいけねえ。二両ばかりの目くされ金で、大事な首がかけられるけえ。山分け、百両でどうでやす。イヤなら舟を引っくり返してやる」

とにかく話がまとまった。

舟中でやるのは証拠が残るからと言って中洲なかすまで漕ぎつけ、侍が先に上がったところをいっぱいにさおを突っ張り、舟を出す。

「ざまあみろ。土左衛門どざえもんになりゃあがれ」

これから娘を親元である本町ほんちょう三丁目の糸屋林蔵に届け、二十両の礼金をせしめる。

思わず金を握りしめた瞬間
「あちいッ」

夢から覚めると熊、おのれの熱いキンを握っていた。

しりたい

六代目円生の芸談

先の大戦後、稠密ちょうみつな人物描写の妙で、この噺には定評のあった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、「これは初めから終わりまで夢……まことにたあいのない噺ですが、出てくる人物の表現、言葉のやりとり、そういったものを形から何からととのえてやれば面白く聞けるというのが、むずかしいところでもあるわけです。(中略)とりわけこの『夢金』なぞは、まずくやったら聞いちゃいられないという噺でございます」と語り残しています。

「芝浜」などと同じく、最後まで夢であると客に悟らせず、緊密な構成と描写力で噺を運ぶ力量が必要とされる、大真打の出し物でしょう。

我欲の浅ましさ

古くは別題を「欲の熊蔵」ともいいました。その通り、熊に代表される人間の金銭欲のすさまじさ、浅ましさが中心になります。

ただ、その場合も落語のよいところで、その欲望を誰もが持っている業として、苦笑とともに認めることで、この熊五郎も実に愛すべき、今でもどこにでもいそうな人間に思えてきます。

円生は、金銭欲の深さを説明するのに、マクラで「百万円やるからおまえさんをぶち殺させろ」と持ちかけられた男が、「半分の五十万円でいいから、半殺しにしてくれ」という小ばなしを振っています。

オチの改訂

昔からそのものずばり、夢うつつで金玉を握り、その痛さで目覚めるというのが本当で、これでこそ「カネ」と「キン」の洒落でオチが成立するのです。

やはり下品だというので、そのあたりをぼやかす演者も少なくありません。

たとえば、「錦嚢」と題した明治23年(1890)の二代目古今亭今輔の速記では、熱いと思ったらきんたま火鉢(火鉢を股間に挟んで温まる)をして寝ていた、と苦肉の改訂をしていますし、七代目立川談志は、金玉の部分をまったくカットして、「静にしろッ、熊公ッ」と初めの寝言の場面に戻り、親方にどなられて目覚める幕切れにしていました。

明治の珍演出

『落語鑑賞』(安藤鶴夫、苦楽社、1949年)には「小さん・聞書」と題された四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の芸談が収められています。これによると、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)は、「夢金」を演ずるとき、始めから終わりまで、人物のセリフも地の語りもすべて、人気役者や故人の落語家、講釈師の声色(声帯模写)で通したということです。

これは「夢金」だけに限られたといいますから、それだけこの噺は、芝居がかったセリフが目立つということなのでしょう。

お召し縮緬と蝦夷錦

お召し縮緬は、横に強い撚りをかけた糸を織り込み、織ったあと、ぬるま湯に入れてしぼり立てた絹織物です。しま、無地、紋、錦紗きんしゃなどの種類があります。

「お召し」とは貴人が着用したことから付いた名称です。

蝦夷錦えぞにしきは、繻子地しゅすじに金糸、銀糸と染め糸で雲竜の紋を織り出した錦。

清国でつくられたものが、満洲(中国東北部)→樺太→蝦夷(北海道)経由で入ってきたため、この名があります。

清朝の役人がアイヌと交易していたのです。

このような密交易は清朝では禁じられていました。

密輸ですね。

アイヌの族長が蝦夷錦を羽織って得意顔の絵の数々は、蠣崎波響かきざきはきょうの作品群の中でも特徴的です。

夷酋列像「チョウサマ(超殺麻)ウラヤスベツ乙名」蠣崎波響・筆

文金高島田

日本髪で、島田髷しまだまげの根を高く上げ、油で固めて結ったものです。高尚、優美な髪型で、江戸時代には御殿女中、明治維新後は花嫁の正装となりました。

これに似せた「文金風」は男の髪型で、髷の根を上げて前に出し、月代さかやきに向かって急傾斜させた形です。

お高祖頭巾

おこそずきん。四角な切地に紐を付けた頭巾で、頭、面、耳を隠し、目だけを出します。

婦人の防寒用で、袖頭巾ともいいます。時代劇で、ワケありの女がお忍びで夜出歩くときに、よく紫地のものをかぶっていますね。

お高祖とは日蓮をさします。

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えいたいばし【永代橋】落語演目



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【どんな?】

実際にあった永代橋崩落の事故。
文化4年(1807)8月19日、死者730人超。
その事故に材を取ったくだらない噺です。

別題:多勢に無勢

【あらすじ】

下谷車坂町に住む露店古着商の太兵衛と、同居人の小間物屋、武兵衛。

兄弟同様のつきあいだが、そろって粗忽者。

今日は深川八幡の祭礼の日。

武兵衛はこのところ実入りがいいので、久しぶりに散財しようと、太兵衛夫婦に留守番を頼み、いそいそと出かけていく。

太兵衛が、自分のことは棚に上げて、おまえはそそっかしいから気をつけろと言っても、うわの空。

永代橋に来かかると大変な人込み。

押すな押すなで、身動きができずにいると、突然、胸にどんとぶつかってきた者がいる。

「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」

胸をさすりながらふと懐に手を入れると、金がたんまり入った紙入れが、きれいにすられている。

追いかけようときょろきょろしても、後の祭り。

いまいましいが帰るほかなく、とぼとぼ引き返す途中、ぱったり会ったのが贔屓のだんな。

今度、両国米沢町に待合を開いたので、ぜひ寄ってほしいという。

だんなの家でしこたま酔っぱらい、すっかりご機嫌になったころ、表で何やら人の叫ぶ声。

女中を聞きにやると、たった今、永代橋が人の重みで落ち、たいそう人が溺れ死んで大騒ぎだという。

あのままスリにやられなかったらオレも今ごろはと、さすがに能天気な武兵衛も真っ青。

話変わって、こちらは太兵衛。

武兵衛が帰らないので心配していると、永代橋が落ちたという知らせ。

さてはと、翌朝探しに出ようとする矢先、番所から、武兵衛が橋から落ちて溺れ死んだので、死骸を引き取りにこいとのお達し。

あわてて家を飛び出したとたんに、一杯機嫌の武兵衛とぱったり。

「言わねえこっちゃねえ。おめえは昨夜溺れ死んだんだから、今すぐ一緒に死骸を引き取りに行くんだ」
「こりゃ大変だ」

どっちもどっち。

連れ立って番所に乗り込んだから、話がトンチンカンになる。

武兵衛が死骸を見て、
「これはあたしじゃない」
と言い出したので、太兵衛はいらいらして、武兵衛の背中をポカリ。

もめていると役人が見かねて、これに見覚えがあるかと出したのが昨夜すられた紙入れ。

どうやらスリが身代わりに溺れたのを、武兵衛の書きつけから、お上で本人と勘違いしたらしい。

「それ見ろ。オレでもないものを早合点して、背中をぶちやがって、腹の虫が納まらねえ。お役人さま、どっちが悪いか、お裁きをねがいます」
「うーん、いくら言ってもおまえは勝てん」
「なぜ」
「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

永代橋崩落

文化4年8月19日(1807年9月20日)。数日来の長雨がやっと止み、江戸の空はからりと晴れ、蒸し暑い朝でした。

この日は、天明5年(1785)以来22年ぶりに、社殿修復記念を兼ねた深川八幡祭礼が行われるというので、前景気は過熱気味でした。

そのうえ身延山が便乗イベントで、深川霊巌寺で出開帳を催したので、朝から江戸中の人出は永代橋を目ざし、一時に深川に集まっていました。

午前10時過ぎ、橋向こうに一番山車が見えたので、雨で四日間、祭りが順延してイライラが募っていた数十万の群集が、橋に向かって殺到。

たちまち東の橋詰から12間余りが墜落、あとは地獄絵図が展開。

死者は行方不明者を含めると、1500人を超えたといわれる、大惨事になりました。

深川の 底は八幡 地獄にて 落ちて永代 浮ぶ瀬もなし
永代と 架けたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

惨事には付きもので、不吉な予兆があったこと、偶然助かった者のエピソードなどが残っています。

東西橋詰の死体置場では、死骸の着物で絹の部、木綿の部に分け、年齢からも老人、中年、子供と分類して、引き取り人に捜させたとか。

当時、両国橋を除いて、永代も吾妻も仮普請で橋幅も狭く、惨事が起こらない方が不思議な状態でした。

珍しい実録噺

「佃祭」と同様、実際に起こったカタストロフィーを題材にしたもので、落語では数少ない実録ものです。

成立の詳細は不明ですが、実際に祭礼に行く途中で二両二分掏られたため、偶然命が助かった本郷の麹屋の体験を脚色したともいわれます。

根岸鎮衛の『耳嚢』巻六の「陰徳危難を遁れし事」という「佃祭り」の原話も、何らかの下敷きとなっていると思われます。

古くは、「多勢に無勢」と題した明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の速記が残ります。

先の大戦後は、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が高座にかけ、特に正蔵は得意にしていました五代目三遊亭円楽も好んで演じていました。

このオチを利用した「梅の春」という音曲噺が、後年作られました。

梅の春

もとは清元です。

天明の頃(1781-89)、長州藩の分家、長門府中藩主の毛利元義が途中まで造り、後を狂歌の王様、大田蜀山人が付けて、清元名人の太兵衛が節付けしたものです。

その冒頭の詞章は、

四方にめぐる
あふぎ巴や文車の
ゆるしの色もきのふけふ
心ばかりははる霞
引くもはづかし爪じるし

というもので、この後、「わかめ刈るてふ春景色」までこしらえ、元義が行き詰ったのを、蜀山人が受けて、「浮いて- かもめ)のひい、ふう、みい、よう……」 と付けたというエピソードがあります。

これを基にに作られた同題の音曲噺は、清元「梅の春」の語り初めの会に招かれた絵師の喜多武清が、名人の太兵衛に「お天道様」と声が掛かるのを嫉妬して、「自分はいくら努力してもお天道さまとは呼ばれない。もう絵を描くのが嫌になった」と愚痴ると弟子が、「太兵衛 =多勢)に武清(=無勢)はかないません」と、「永代橋」と同じオチになるものです。

永代橋

現在の橋は、江東区深川永代一丁目から中央区新川2丁目の間に架けられていますが、もともとは、その1町(約109m)上流の、佐賀1丁目から、日本橋箱崎町3丁目にわたって架橋されていました。

架橋は元禄11年(1698)とされ、それ以前は「深川大渡し」と呼ばれた渡し場がありました。

享保4年(1719)に洪水で破損し、そのまま取り壊されるところを付近の町人の誓願で、経費はすべて町の負担、さらに橋銭2文を通行人から徴収し、維持費に当てる条件で補修・存続が決まりました。この橋銭は、文化4年の崩落事件後、廃止されています。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
贔屓 ひいき
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:町奉行、『耳嚢』著者 1747-1815
耳嚢 みみぶくろ
遁れし のがれし
喜多武清 きたぶせい
四方 よも
文車 ふぐるま



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もやう【舫う】ことば



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船を岸につなぎとめておくこと。

おい、なにやってんだよ。船がまだ舫ってあるじゃねえか。

船徳

「舫い」という名詞の場合は、「船と船、船と岸をつなぐ綱」をいいます。

そこから、「舫い遣い」ということばが生じて、「二人で一人をつかう」、「共用する」意味に。となると、「舫う」も「共用する」意に。「船縄」を「もやい」と読んだりもします。



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どざえもん【土左衛門】ことば



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水死人。川や海などでの溺死者。

大川(隅田川)から、南無阿弥陀仏、ドカンボコンとはでにダイビングし、あえなくなった人々が以後、改名してこう呼ばれます。

江戸では、吾妻橋がそちらの方の「名所」で、落語「唐茄子屋政談」の若だんなも、あやうくここから三途の川に直行するところでした。

語源としては、享保9年(1724)6月、深川八幡の相撲で前頭上位にいた、成瀬川(一説に黒船)土左衛門という力士が、超アンコ型でぶくぶく肥大していたのを、水ぶくれの水死人にたとえたのが初めと言われます(『近世奇跡考』)。

そのほかにも、水に飛び込む音「ドブン」を擬人化したなど、諸説あります。

芝居では、河竹黙阿弥の代表的世話狂言「三人吉三」で、主役の一人、和尚吉三の父親が「土左衛門爺伝吉」と呼ばれます。

三人吉三

この異名の由来は、女房が生まれたばかりの赤子を抱えて、川へ身投げをしたのをはかなみ、罪業消滅のために大川端へ流れ着いた水死体を引き揚げては葬っていたことから。

実際に、こうした奉仕をしていた人々が、多くいたのですね。

【噺例 佃祭】

舟を断ってよかった。行きゃあ、俺だって一緒に土左衛門になってらあ。

【語の読みと注】
三途の川  さんずのかわ
成瀬川土左衛門 なるせがわどざえもん
三人吉三 さんにんきちさ
土左衛門爺伝吉 どざえもんじいでんきち



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