【佃祭】つくだまつり 落語演目 あらすじ

 

【どんな?】

実録をもとにした奇談です。志ん生や志ん朝のでよく聴きますね。

成城石井

あらすじ

夏が巡ってきて、今年も佃の祭りの当日。

祭り好きな神田お玉ヶ池の小間物屋次郎兵衛、朝からソワソワ。

焼き餅焼きの女房から
「祭りが白粉つけて待ってるでしょ」
などと嫌みを言われてもいっこうに平気で、白薩摩しろざつま茶献上ちゃけんじょうの帯という涼しいなりで、いそいそと出かけていく。

一日見物して、気がつくと、もう暮れ六ツ。渡し舟の最終便は満員。

これに乗り遅れると返れないから次郎兵衛、船頭になんとか頼んで乗せてもらおうとしていると、
「あの、もし……」
と袖を引っ張る女がいる。

「あたしゃ急ぐんだ」
「そうでもございましょうが」
とやりとりしている間に、舟は出てしまう。

「どうしてくれる」
と怒ると、女はわびて、
「実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、申し訳に本所一ツ目の橋から身を投げるところをあなたさまに助けられ、五両恵まれました」
と言う。

名前を聞かなかったので、それ以来、なんとかお礼をと捜し回っていたが、今日この渡し場で偶然姿を見かけ、夢中で引き止めた、という。

そう言われれば、覚えがある。

女は、今では船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも帰りの舟は出せるから、ぜひ家に来てほしいと、願う。

喜んで言葉に甘えることにして、女の家で一杯やっていると、外が騒がしい。

若い者をつかまえて聞くと、さっきの渡し舟が人を詰め込みすぎ、あえなく転覆。

浜辺に土左衛門が続々とうち上がり、辰五郎も救難作業に追われている、とのこと。

次郎兵衛は仰天。

もし三年前に女を助けなければ、自分は今ごろ間違いなく仏さまだったと、胸をなで下ろす。

やがて帰った辰五郎、事情を聞くと熱く礼を述べ、今すぐは舟を出せないから、夜明けまでゆっくりしていってくれと、言う。

一方、こちらは次郎兵衛の長屋。

沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしい、というので大騒ぎ。

女房は大いに乱れて、長屋の衆に
「日ごろ、おまえさんたちがあたしを焼き餅焼きだと言いふらすから、亭主が意地になって祭りに出かけたんだ。うちの人を殺したのはおまえさんたちだ」
とえらい剣幕。

ともかく、白薩摩しろざつまを着ているからすぐに身元は知れようから、死骸は後で引き取ることにし、月番の与太郎の尻をたたいて、折れ口だから一同悔やみの後、坊さんを呼んで仮通夜かりつや

やがて夜が白々明けで、辰五郎に送られた次郎兵衛、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。

読経どきょうの声を聞いて、
「はて、おかしい」
と家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。

「幽霊だぁ」
と勘違いして大騒ぎ。

事情がわかると坊さんは感心し、人を助けると仏法ぶっぽうでいう因果応報いんがおうほう、めぐりめぐって自分の身を助けることになると、一同に説教。

これを聞いた与太郎、
「それならオレも誰か助けてやろう」
と、身投げを探して永代橋へ。

おあつらえ向きに、一人の女がたもとに石を入れ、目に涙をためて端の上から手を合わせている。

「待ってくれッ。三両やるから助かれッ」
「冗談言っちゃいけないよ。あたしは歯が痛いから、戸隠とがくしさまへ願をかけてるんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」

成城石井

しりたい

佃島渡船が転覆

明和6年(1769)3月4日のこと。

佃島住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆、沈没。乗客三十余人が溺死する大惨事に。

翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押し込みなど、町役にも相応の罰が課されました。

噺は、この事件の実話をを元にできたものと思われます。

佃の渡しは古く、正保年間(1644-48)以前にはもうあったといわれます。佃島の対岸、鉄砲洲てっぽうず船松町一丁目(中央区湊町3)が起点でした。

千住汐入せんじゅしおいりの渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、300年以上も存続しましたが、昭和39年(1964)8月、佃大橋完成とともに廃されました。

成城石井

さかのぼれば実話

中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「飛雲の渡し」を町奉行としても知られた根岸鎮衛やすもり(肥前守、1737-1815)が著書『耳嚢みみぶくろ』(文化11年=1814年刊)巻六の「陰徳危難をのがれし事」として翻案したものが原話です。

オチの部分の梨のくだりは、式亭三馬しきていさんば(1776-1822)作の滑稽本『浮世床うきよどこ』(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたものです。

中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋。「ちきり伊勢屋」の原話です。

『耳嚢』の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。

筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに前記の佃渡船の惨事を前提にしています。

ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあります。

『老いの長咄ながばなし』という随筆(筆者不明)です。ちょっと怪しいのですが。

主人の金を落として身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという、実話が紹介されています。

成城石井

円喬、志ん生、金馬

明治28年(1895)7月、『百花園』には、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

円喬に私淑したという五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)。

先の大戦後、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ上げ、十八番にしました。

もう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)です。

こちらは、円喬→三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)へと継承された、人情噺の色濃い演出でした。

成城石井

竜神さまは梨が好き

戸隠とがくし神社に梨を奉納する風習は古くからありました。江戸の戸隠神社は、湯島天神社の本殿後方の石段脇にあり、正式には戸隠大権現社だいごんげんしゃ。湯島天神と区別されて湯島神社とも呼ばれ、土地の神とされます。

信濃しなの戸隠明神とがくしみょうじん(長野市)を江戸に勧請かんじょう(分霊)したもので、祭神は本社と同じ、戸隠九頭龍くずりゅう大神です。ありの実(梨の忌みことば)を奉納すると歯痛が治るという俗信は、信濃の本社の伝承をそのまま受け継いだものです。

江戸後期の歌人、津村正恭まさやす(淙庵そうあん、?-1806)は随筆『譚海たんかい』(寛政7年=1795年上梓)巻二の中で、この伝承について記しています。

それによると、戸隠明神の祭神は大蛇の化身で、歯痛に悩む者は、三年間梨を断って願をかければ、痛みがきれいに治るとのこと。

その御礼に、戸隠神社の奥の院に梨を奉納します。

神主がそれを折敷おりしきに載せ、後ろ手に捧げ持って、岩窟の前に備えると、十歩も行かないうちに、確かに後ろで梨の実をかじる音が聞こえるそうです。

梨と竜神(大蛇?)と歯痛の関係は、よくわかりません。

でも、戸隠の神が、江戸に来ても信州名物の梨が好物なことだけは確かなようです。

虫歯の「虫」も、梨の実に巣食った虫といっしょに、竜神が平らげてくれるのかもしれません。

成城石井

佃祭

佃住吉神社(中央区佃1)の祭礼です。

旧暦で6月28日、現在は8月4日。

天保年間(1830-44)にはすでに、神輿みこしの海中渡御で有名でした。

歌川広重「江戸名所佃まつり」  成城石井

佃住吉神社の現在 成城石井

本所一ツ目橋

墨田区両国3丁目の、堅川たてかわ掘割ほりわりから数えて一つ目の橋を「本所一ツ目の橋」、その通りを「一ツ目通り」と呼びました。

橋は現在の「一之橋」です。

このあたりは、御家人が多く住んでいました。

「鬼平」こと長谷川平蔵(宣以のぶため、1745-95)、勝海舟(安芳やすよし、1823-99)の生誕地でもあります。

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