あんまのこたつ【按摩の炬燵】落語演目

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【どんな?】

生き炬燵とは驚き。
按摩さんが炬燵代わりに。
実に奇妙な炬燵のおはなしです。

【あらすじ】

冬の寒い晩、出入りの按摩に腰を揉ませている、ある大店の番頭。

「年を取ると寒さが身にこたえる」
とこぼすので、按摩が
「近ごろは電気炬燵という、けっこうな物が出てきたのに、おたくではお使いではないんですかい」
と聞くと
「若い者はとかく火の用心が悪いから、店を預かる者として、万一を考えて使わない」
という。

番頭は下戸なので、酒で体を暖めることもできない。

按摩は同情して
「昔から生き炬燵といって、金持ちのご隠居が、十代の女の子を二人寝かしておいて、その間に入って寝たという話があるが、自分は酒は底なしの方で、酔っていい心持ちになると、からだが火のようにほてって、十分その生炬燵になるから、ひとつ私で温まってください」
と申し出た。

「いくらなんでも、それは」
と遠慮しても
「ぜひに」
と言うので、番頭も好意に甘えることにし、按摩にしこたま飲ませて、背中に足を乗せて行火代わり。

おかげで、番頭は気持ちよさそうに寝入ってしまう。

ところが、ようすを聞いた店の若い連中が、我も我もと押し寄せたから、さあ大変。

ぎゅうぎゅう詰めで、我先にむしゃぶりついたから、そのうるさいこと。

歯ぎしりする奴やら寝言を言う奴やらで、さすがの「生き炬燵」もすっかり閉口。

そのうち、十一になる丁稚の定吉が、活版屋の小僧とけんかしている夢でも見たか、大声で寝言を言ったので
「ああ、かわいいもんだ」
と、思わず
「しっかりやれ」
とハッパをかけたのが間違いのもと。

定吉、夢の中で
「なにを言ってやがる。まごまごしやがると小便をひっかけるぞ」
と叫ぶが早いか、本当にやってしまった。

おかげで「炬燵」の周りは大洪水。

番頭も目を覚まし、布団を替えたり寝巻きを着替えたりで大騒ぎ。

「せっかく温まったところを、定吉のためにまた冷えてしまった。気の毒だが、もういっぺん炬燵になっとくれ」
「もういけません。今の小便で火が消えました」

底本:三代目柳家小さん

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

この噺の原話とは?

原話は古く、寛文12年(1672)刊の笑話本『つれづれ御伽草』中の「船中の火焼」です。

大坂の豪商、鴻池が仕立てた、江戸へ伊丹の酒を運ぶ、二百石積の大型廻船の船中でのできごととなっています。

乗船している鴻池の手代が、冬の海上であまり寒いので、大酒のみの水夫を頼んでぐでんぐでんに酔わせ、、その男に抱きついて寝ることになります。

その後、元禄11年(1698)刊の『露新軽口ばなし』中の「上戸の火焼」、明和5年(1768)刊の『軽口春の山』中の「旅の火焼」、安永8年(1779)刊の『鯛味噌津』中の「乞食」と、改作されながら現行の落語に近づきました。

「乞食」では、なんと犬を炬燵代わりにします。

このやり方は落語には伝わらず、やはり酔っ払いの「人間ストーブ」に落ち着きました。

上方から伝えたのは誰?

上方噺であるこの噺、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が東京に移植したものです。

今回のあらすじは、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の円熟期、大正11年(1922)の速記をもとにしました。

大阪では、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の十八番の一つで、音源も残されています。先の大戦後、東京では、三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、三升亭小つね→代地の、せっかちの)から移された八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が得意にしていました。

八代目文楽演出は三代目小さんのものと少し変わっていて、番頭の方から按摩に頼む形を取っていました。

現在、柳家喬太郎のそれはみごとなものです。文楽流をもとに独自のアレンジで噺に深みを増しています。

噺の骨格は、①おたなの小僧たちが番頭に布団の増しを申し出て却下される、②それでも番頭が通いの按摩米市を炬燵にしようと掛けあう、③米市が酒五合をはぜの佃煮を肴にじっくり飲み干す、④炬燵になった米市が小僧に寝小便をかけられる、4つの場面に分かれています。

喬太郎のは、小僧の悲哀、按摩の心根、番頭と按摩が幼なじみだったことなどがていねいに語られて、人情噺じみたものに仕上がっています。おたなの一夜の奇妙な噺です。

ほかに、六代目笑福亭生喬、立川談春春風亭一之輔などもやります。

炬燵とは?

この噺の速記(1922年)に登場した「電気炬燵」はどんなものか。

ヒントとなるのは、大正8年(1919)12月14日付の読売新聞です。

生活改善展覧会という催しを報じる記事に、「電気炬燵」が登場しています。

「婦人用椅子は箱の装置になってゐて、内方に電熱應用の電氣炬燵が設けられ何様暖かさうな腰掛でした」とありますから、現在の仕様とは少々異なります。行火のようなものに見えます。

残念ながら、普及はしませんでした。

一般的な炬燵は、昭和の初期に至るまで、やぐらの底に板を張って、移動可能の土製の火いれを置いたもの。行火と同じく炭火を用いたものでした。

電気炬燵が普及する前は、掘り炬燵が一般的でした。

そもそも掘り炬燵なるものは、バーナード・リーチ(陶芸家、デザイナー、1887-1979)が発案したのだったとか。民藝の推進者だった柳宗悦(美術評論、1889-1961)のよき協力者です。掘り炬燵を日本と西洋の融合のようにみえてしまうのは、リーチ・ワールドのゆえんだったのですね。

毎年旧暦10月の初の亥の日を玄猪げんちょと呼び、「お厳重」とも表記します。この日から火の用心を厳重にするということです。

各戸ではこの日を「炬燵開き」とし、火鉢も出しました。

これを「の祝い」といい、客に亥の子餅(ぼた餅)を配る習慣がありました。

節約を旨とする商家では、炬燵開きを遅らせて、かなの亥の日(二度目の亥の日)としていました。

やぐら式の電気炬燵が発売されたのは、先の大戦後です。昭和32年(1957)に東芝が「電気やぐらこたつ」を発売。これが大ヒットしました。これが今日も普及している炬燵の形ですね。

ことばよみいみ
按摩あんま患部をなでたりさすったりする手技を施すことで症状を改善する療法、またはそれをする人
大店おおだな規模の大きい商店
電気炬燵でんきごたつ電熱を利用した炬燵。大正期に登場
生き炬燵いきごたつ人の体温を使って炬燵=暖房器具の代用をする
行火あんか内蔵の火入れに炭火やたどんを入れて、上に布を掛け、手足を入れて温める一人用暖房器具。寝床に入れて使う
玄猪げんちょ旧暦10月の初の亥の日。火の用心の始まる日。炬燵開き

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