いいわけざとう【言い訳座頭】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

大晦日の噺。
甚兵衛夫婦は年を越せるのか? 
座頭の舌先三寸しだいで、なんとか。

あらすじ

借金がたまってにっちもさっちも行かず、このままでは年を越せない長屋の甚兵衛じんべえ夫婦。

大晦日おおみそか

かみさんが、口のうまい座頭ざとうとみいちに頼んで、借金取りを撃退してもらうほかはないと言うので、甚兵衛はなけなしの一円を持ってさっそく頼みにいく。

富の市、初めは金でも借りに来たのかと勘違いして渋い顔をしたが、これこれこうとわけを聞くと
「米屋でも酒屋でも、決まった店から買っているのなら義理のいい借金だ。それじゃああたしが行って断ってあげよう」
と、快く引き受けてくれる。

「商人は忙しいから、あたしがおまえさんの家で待っていて断るのはむだ足をさせて気の毒だから」
と、直接、敵の城に乗り込もうという寸法。

富の市は
「万事あたしが言うから、おまえさんは一言も口をきかないように」
とくれぐれも注意して、二人はまず米屋の大和屋やまとやに出かけていく。

大和屋の主人は、有名なしみったれ。

富の市が頼み込むと、
「今日の夕方にはなんとかする、という言質げんちをとってある以上、待てない」
と突っぱねる。

富の市は居直って
「たとえそうでも、貧乏人で、逆さにしても払えないところから取ろうというのは理不尽だ。こうなったら、ウンというまで帰らねえ」
と、店先に座り込み。

他の客の手前、大和屋も困って、結局、来春まで待つことを承知させられた。

次は、薪屋の和泉屋いずみや

ここの家は、富の市が始終揉み療治に行くので懇意だから、かえってやりにくい。

しかも親父は名うての頑固一徹。

ここでは強行突破で
「どうしても待てないというなら、頼まれた甚さんに申し訳が立たないから、あたしをここで殺せ、さあ殺しゃあがれ」
と往来に向かってどなる。

挙げ句の果ては、「人殺しだ」とわめくので、周りはたちまちの人だかり。

和泉屋、外聞が悪いのでついに降参。

今度は、魚金うおきん

これはけんかっ早いから、和泉屋のような手は使えない。

「さあ殺せ」
と言えば、すぐ殺されてしまう。

こういう奴は下手に出るに限るというので、
「実は甚兵衛さんが貧乏で飢え死にしかかっているが、たった一つの冥土のさわりは、魚金の親方への借金で、これを返さなければ死んでも死にきれない」
と、うわ言のように言っている、と泣き落としで持ちかけ、これも成功。

ところが、その当の甚兵衛が目の前にいるので、魚金は
「患ってるにしちゃあ、ばかに顔色がいい」
と、きつい皮肉。

さすがの富の市もあわてて、
「熱っぽいから、ほてっている」
とシドロモドロでやっとゴマかした。

そうこうするうちに、除夜の鐘。ぼーん。

富の市は急に、
「すまないが、あたしはこれで帰るから」
と言い出す。

「富さん、まだ三軒ばかりあるよ」
「そうしちゃあいられねえんだ。これから家へ帰って自分の言い訳をしなくちゃならねえ」

底本:五代目柳家小さん

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しりたい

明治の新作落語  【RIZAP COOK】

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が明治末に創作した噺です。

三代目小さんは漱石も絶賛した名人です。

小さんは、四代目橘家円喬たちばなやえんきょう(柴田清五郎、1865-1912)から「催促座頭」という噺(内容不明)があるのを聞き、それと反対の噺を、と思いついたとか。

してみると、「催促座頭」は、文字通り借金の催促に座頭が雇われる筋だったということでしょう。

初演は、明治44年(1911)2月、日本橋常盤木倶楽部ときわぎくらぶでの第一次落語研究会の第70回高座でした。

師走の掛け取り狂騒曲  【RIZAP COOK】

借金の決算期を「節季せっき」ともいい、盆と暮れの二回ですが、特に歳末は、商家にとっては掛け売りの貸し金が回収できるか、また、貧乏人にとっては時間切れ逃げ切りで踏み倒せるかが、ともに死活問題でした。

そこで、この噺や「掛け取り万歳」に見られるような壮絶な「攻防戦」が展開されたわけです。

むろん、ふだん掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内のなじみの生活必需品(酒屋、米屋、炭屋、魚屋など)に限られます。

落語では結局、うまく逃げ切ってしまうことが多いのですが、現実はやはりキビしかったのでしょう。

大晦日の噺  【RIZAP COOK】

井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)の『世間胸算用せけんむねさんよう』が、江戸時代前半期の上方(京と大坂)の節季の悲喜劇を描いて有名ですが、落語で大晦日を扱ったものは、ほかにも「狂歌家主」「尻餅」「睨み返し」「引越しの夢」「芝浜」など多数あります。

こうした噺のマクラには、大晦日の川柳を振るのがお決まりです。

大晦日 首でも取って くる気なり
大晦日 首でよければ やる気なり

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が使っていたものも秀逸です。

大晦日 もうこれまでと 首くくり
大晦日 とうとう猫は 蹴飛ばされ

三代目小さんの作品だけあって、小さんの系統がやります。

九代目入船亭扇橋いりふねていせんきょう(橋本光永、1931-2015)の亡き後は、それでも、柳家小里こりん、柳家権太楼ごんたろうあたりとか。

炭屋  【RIZAP COOK】

子別れ」では、家を飛び出したかみさんが子供を連れ、炭屋の二階に間借りしている設定でした。

裏長屋住まいの連中は、高級品は買えないため、ふだんは「中粉」という、炭を切るときに出るカス同然の粉を量り売りで買ったり、粉に粘土を加えて練る炭団たどんを利用しました。

当然、どちらも火の着きはかなり悪かったわけです。

捨てきれない噺   【RIZAP COOK】

この噺、柳家小里ん師匠によれば、プロから見ると暗い噺なんだそうです。

柳家小さん(五代目)の持ちネタの中ではいちばんまとまっていないデキだったとも。にっちもさっちもいかない暮れの噺といえば、 「睨み返し」 のほうが笑いを取れるので、落語会で「受けなきゃならない」ときにはつい「睨み返し」をやってしまうんだそうです。だから、「言い訳座頭」はあまりやる噺家がいないんだと。

それでも、小里ん師匠は、この噺には魅力があるといいます。

僕らが子供時代に体験したような、大晦日の寒さ、情景が出ている。寒い中を歩いていると、除夜の鐘が鳴って、というのがいい。だから、噺として捨てきれない。

柳家小里ん、石井徹也(聞き手)『五代目小さん芸語録』(中央公論新社、2012年)より

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評価 :1/3。

うどんや【うどん屋】落語演目

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【どんな?】

屋台の鍋焼きうどん屋。
客がつかずさんざんな寒い夜。
もうからない噺です。

別題:風邪うどん(上方)

あらすじ

ある寒い夜。

屋台の鍋焼きうどん屋が流していると、酔っぱらいが
「チンチンチン、えちごじしィ」
と唄いながら、千鳥足で寄ってくる。

屋台をガラガラと揺すぶった挙げ句、おこした火に手をかざして、ながながとからむ。

「おめえ、世間をいろいろ歩いてると付き合いも長えだろう。仕立屋の太兵衛ってのを知ってるか」
「いえ、存じません」

そんなところから始まって、
「太兵衛は付き合いがよく、かみさんは愛嬌者、一人娘の美ィ坊は歳は十八でべっぴん、今夜婿を取り、祝いに呼ばれると上座に座らされて茶が出て、変な匂いがすると思うと桜湯で、家のばあさんはあんなものをのんでも当たらないから不思議な腹で、床の間にはおれが贈ったものが飾ってあって、娘の衣装は金がかかっていて、頭に白い布を巻いて「おじさん、さてこのたびは」と立ってあいさつして、このたびはなんて、よっぽど学問がなくちゃあ言えなくて、小さいころから知っていて、おんぶしてお守りしてやって、青っぱなを垂らしてぴいぴい泣いていたのがりっぱになって、ああめでてえなあうどん屋」
というのを、二度繰り返す。

「水をくれ」
というから、
「へいオシヤです」
とうどん屋が出せば、
「水に流してというのを、オシヤに流してって言うかばか野郎
とからみ、やたらに水ばかりガブガブのむから、
「うどんはどうです」
と、うどん屋はそろそろ商売にかかると、
「タダか」
と聞きてくる。

「いえ、お代はいただきます」
「それじゃ、おれはうどんは嫌えだ。あばよッ」

今度は女が呼び止めたので、張り切りかけると
「赤ん坊が寝てるから静かにしとくれ」

「どうも今日はさんざんだ」
とくさっていると、とある大店の木戸が開いて
「うどんやさん」
とか細い声。

「ははあ、奥にないしょで奉公人がうどんの一杯も食べて暖まろうということか」
とうれしくなり、
「へい、おいくつで」
「ひとつ」

その男、いやにかすれた声であっさり言ったので、うどん屋はがっかり。

それでも、
「ことによるとこれは斥候で、うまければ代わりばんこに食べに来るかもしれない、ないしょで食べに来るんだから、こっちもお付き合いしなくては」
と、うどん屋も同じように消え入るような小声で
「へい、おまち」

客は勘定を置いて、またしわがれ声で、
「うどん屋さん、あんたも風邪をひいたのかい」

しりたい

小さん三代の十八番

上方で「風うどん」として演じられてきたものを、明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植。

その高弟の四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944)を経て、戦後は五代目小さんが磨きをかけ、他の追随を許しませんでした。

酔っ払いのからみ方、冬の夜の凍るような寒さの表現がポイントとされますが、五代目は余計なセリフや、七代目可楽のように炭を二度おこさせるなどの演出を省き、動作のみによって寒さを表現しました。

見せ場だったうどんをすするしぐさとともに、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)によって、「うどんや」はより見て楽しむ要素が強くなったわけです。

原話はマツタケ売り

安永2年(1773)江戸板『座笑産ざしょうさん』の後編「近目貫きんめぬき」中の「小ごゑ」という小ばなしが原話です。

その設定は、男はマツタケ売り、客は娘となっています。

改作「しなそば屋」

大正3年(1914)の二代目柳家つばめ(浦出祭次郎、1875-1927)の速記では、酔っ払いがいったん食わずに行きかけるのを思い直してうどんを注文したあと、さんざんイチャモンを付けたあげく、七味唐辛子を全部ぶちまけてしまいます。

これを、昭和初期に六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が応用し、軍歌を歌いながらラーメンの上にコショウを全部かけてしまう、改作「しなそば屋」としてヒットさせました。

夜泣きうどん事始

東京で夜店の鍋焼きうどん屋が現れたのは明治維新後。したがってこの噺はどうしても明治以後に設定しなければならないわけです。

読売新聞の明治14年(1881)12月26日付には、以下の記事が見えます。

「近ごろは鍋焼饂飩なべやきうどんが大流行で、夜鷹蕎麦よたかそばとてはふ人が少ないので、府下ぢうに鍋焼饂飩を売る者が八百六十三人あるが、夜鷹蕎麦を売る者はたった十一人であるといふ」

「夜鷹そば」(「時そば」参照)に代わって「夜泣きうどん」という呼び名も流行しました。三代目小さんが初めてこの噺を演じたときの題は、「鍋焼きうどん」でした。

大阪の製薬会社「うどんや風一夜薬本舗」は、ショウガと温かいうどんが解熱作用があるということで、風邪薬、しょうが飴、のど飴などを製造販売しています。

もとは、末広勝風堂という名で明治に創業しました。

「末広(いつまでも)」「勝風(風に勝つ)」と、明治らしいわかりやすい命名です。

「うどん」と「風邪」とは縁語なのですね。

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評価 :2/3。

やなぎやへいわ【柳家平和】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2007年4月、柳家獅堂
【前座】2009年7月、柳家いっぽん
【二ツ目】2013年11月、二代目柳家かゑる。19年7月、六代目柳家小さんに移門
【真打ち】2023年9月下席、二代目柳家平和
【出囃子】夫婦万歳 ニューラリーXのテーマ
【定紋】鈴 八つ矢車 舞對ひ鳩
【本名】菅野兆司
【生年月日】1990年6月13日
【出身地】埼玉県鳩ヶ谷市(川口市)
【学歴】埼玉県立川口高校
【血液型】O型
【ネタ】弥次郎 おすわどん 崇徳院 権兵衛狸
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は柔道(講道館柔道参段)、アニソン・特ソン、氣志團、岩下の新生姜。2017年7月、下丸子らくご倶楽部若手バトル。2022年4月、第1回プリモ芸術コンクール落語部門グランプリ。

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かさご【笠碁】落語演目

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【どんな?】

碁打ちの二人が「待った」で大げんか、はては絶交へ。
数日たつと二人はそわそわしてきて、そんな雨の昼下がり。
だんなが菅笠かぶってやってきて、仲直りして碁打ちを。
雨はあがったのに、盤に水が漏るのはどうしたことか。

別題:雨の将棋

あらすじ

碁がたきのだんなが二人。

両方ともザル碁で、下手同士だが、ウマがあって毎日のように石を並べあっている。

仲がいいとつい馴れ合うから、いつもお互いに待った、待ったの繰り返し。

そんなことでは上達しないからと、今後一切待ったはなしということにしようと取り決めたのはいいが、言い出しっ屁がついいつもの癖で
「そこ、ちょいと待っとくれ」

「おまえさんが待ったなしを言いだしたんだからダメだ」
と断ると、
「それはそうだが、そこは親切づくで一回ぐらいいいじゃあないか」
と、しつこい。

自分で作ったルールを破るのは身勝手だと「正論」を吐けば、おまえは不親切だ、理屈っぽすぎると、だんだん雲行きが怪しくなる。

しまいにはかんしゃくのあまり、昔金を貸したことまで持ち出すので、売り言葉に買い言葉。

「その恩義があるから大晦日には手伝いに行ってやれば蕎麦一杯出しゃがらねえ、このしみったれのヘボ碁め」
「帰れ」
「二度と来るもんか」

……という次第で決裂したが、意地を張っているものの、そこは「碁がたきは憎さも憎しなつかしし」。

雨の二、三日も降り続くと、退屈も手伝って、
「あの野郎、意地ィ張らずに早く来りゃあいいのに」
と、そぞろ気になって落ちつかない。

女房に鉄瓶の湯を沸かさせ、碁盤も用意させて、外ばかり見ながらソワソワ。

一方、相方も同じこと。

どうにもがまんができなくなり、こっそり出かけてようすを見てやろうと思うが、あいにく一本しか傘がないので、かみさんが、
「持っていかれると買い物にも行けない」
と苦情を言うから、しかたなく大山詣りの時の菅笠をかぶり、敵の家の前をウロウロと行ったり来たり。

それを見つけて、待ったのだんなは大喜び。

「やいやい、ヘボ」
「なに、どっちがヘボだ」
「ヘボかヘボでねえか、一番くるか」

めでたく仲直りして碁盤を囲んだのはいいが、なぜか盤に雨漏り。

それもそのはず、まだ菅笠をかぶったまま。

しりたい

碁敵

ごがたき。碁打ちのライバルをいいます。

この噺の原話は古く、初代露の五郎兵衛(1643-1703)作の笑話本で元禄4年(1691)刊『露がはなし』中の「この碁は手みせ金」です。「唖の釣り」をお読みください。

マクラに「碁敵は憎さも憎しなつかしし」という句を振るのがこの噺のお約束ですが、この句の出典は明和2年(1765)刊の川柳集『俳風柳多留』初編で、「なつかしし」は「なつかしさ」の誤伝です。

円朝をうならせた三代目小さんの至芸

明治に入ると、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、碁好きの緻密な心理描写と、いぶし銀のような話芸の妙で、十八番中の十八番としました。いまでは、柳家系の噺となったゆえんです。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も、はるか後輩の小さんの芸に舌を巻き、「もう決して自分は『笠碁』は演じない」と宣言したといいます。

三代目小さんは、円朝の存在をつねに敵視していました。円朝はそうでもなかったようなのですが、小さんだけが、です。

円朝のこの宣言は、三代目小さんには「ざまあみろ」といったところでしょうか。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)も、もちろん得意にしました。五代目の「笠碁」は、大師匠の三代目の直系ではなく、三代目柳亭燕枝(進藤勝利、1894-1955)に教わったものです。

従来は、待ったのだんなが家の中から碁敵を目で追うしぐさだけで表現したのを、笠をかぶって雨中をうろうろするところを描写するのが特徴でした。

「待った」はタブー

西洋のチェスでは、待った(Take Back)は即負け。「将棋の殿さま」では、殿さまが家来に待ったを強制する場面がありますが、碁盤、もしくは将棋盤の裏側のくぼんだところは、待ったをした者の首を乗せるためのものとか。

碁も、「いったん石を下ろしたら、もう手をつけることはできない」と「笠碁」のだんなの一人が言っていますが、これもチェスのTouch and move&quot(触れたら動かせ!)の原則と共通して、勝負事は洋の東西を問わず、厳しいものという証でしょう。

とはいえ、そう豪語した当人がすぐ臆面もなく「待った」するところが、落語の、人間の弱さに対する観察の行き届いたところです。

囲碁の出てくる噺は、ほかに「碁泥」「柳田格之進」があります。

志ん生の「雨の将棋」

楽屋内でも将棋マニアで知られ、素人離れしてかなり強かったという五代目古今亭志ん生。彼は「笠碁」を改作して碁を将棋に代え、「雨の将棋」と題して、より笑いの多いものに仕立てました。

オチは、奮戦しているうちに片方の王様が消え、あとで股ぐらから出てきたので、「かなわないから、金の後ろへ逃げた」という珍品です。

小里ん語り、小さんの芸談

「笠碁」の「笠」は、かならず「雨」をイメージさせるものなのですね。弟子の小里んが記憶の底から掘り出した、五代目小さんの芸談です。

師匠に言われたのは「これは秋の雨だぞ」ということです。「秋は人恋しくなるから、じっとしていると、出ていきたくなる。梅雨は鬱陶しいから、碁を打とうという気分とは違う。シトシトシトシトした、大降りじゃない、物悲しいような雨だ」と教わりました。「大山詣りの菅笠で凌げる程度の降りだから」ってね。(中略)「やっぱり、この噺は雨の音が聞こえるようじゃないとダメだ」とも言ってましたよ。喧嘩のあとの物悲しさが、雨で増すというかな。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん+石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年



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れいれいしゃばふう【鈴々舎馬風】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会 落語協会元会長、同会最高顧問
【入門】五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1956年12月、柳家小光
【二ツ目】1960年3月、柳家かゑる
【真打ち】1973年3月。76年5月、十代目鈴々舎馬風
【出囃子】本調子のっと
【定紋】鈴、裏梅
【本名】寺田輝雄
【生年月日】1939年12月19日
【出身地】千葉県野田市
【学歴】国際文化美容学校
【血液型】AB型
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】

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さんだいめこさんのえんちょうかん【三代目小さんの円朝観】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

尾崎秀樹おざきほつき(1928-99)。

尾崎秀実おざきほつみ(1901-44)の実弟です。こちらはゾルゲ事件で帰らぬ人となった朝日新聞のエリート記者。今では歴史上の人物でしかありません。

弟の秀樹はといえば、「国賊の家族」として冷遇されつつ、台北帝国大学の医学専門部を中退。先の大戦後も苦労は続き、大衆文学の評論家として名を馳せるようになりました。チャンバラ小説と言えば尾崎秀樹がダントツでしたが、いまは亡き人、もう忘れ去られた存在です。

ゾルゲ事件では、尾崎秀樹は自著『生きているユダ』(八雲書店、1959年)で、伊藤律(1913-89)を事件の「ユダ」として糾弾しました。しかしその後、さまざまな新研究の結果、「伊藤=ユダ」説がほぼ覆されています。そんなこともあってか、尾崎秀樹が語られる場面も少なくなっているのでしょう。

日本では、文芸評論家という立ち位置は、小説家とは異なります。生きている間はすさまじく席巻し影響を及ぼすのですが、死んでしまうとそれっきり。他人の褌で相撲を取る風情、文壇のダニみたいな気配が敬遠されるのでしょうか。「うるさい奴が消えた」くらいのもので、没後は顧みられることがあまりありません。

河上徹太郎かわかみてつたろう(1902-80)も、亀井勝一郎かめいかついちろう(1907-66)も、平野謙ひらのけん(平野朗、1907-78)も、十返肇とがえりはじめ(十返一、1914-63)も、保昌正夫ほしょうまさお(1925-2002)も、浅見淵あさみふかし(1899-1973)も、あるいは荻昌弘おぎまさひろ(1925-88)も、はたまた淀川長治よどがわながはる(1909-98)でさえも例外ではなかったかもしれません。

例外は小林秀雄(1902-83)でしょうか。小林の書いたものはクリティークとして残されているように、私には映るのです。

それはともかく。

尾崎秀樹の仕事はチャンバラ評論ばかりかと思っていましたら、初期の頃には落語、それも円朝について記した作品があったのです。

「三遊亭円朝」という、一冊の刊行物にするにはちょいと寸足らずではありますが、薄っぺらな書きなぐった雑文とは異なる味わい、重厚で濃密で、しかも、円朝と仏教とのかかわりについて言及しているのは、おそらく、ほかには関山和夫せきやまかずお(1929-2013)くらいかもしれません。

その中で、円朝より少し下った世代は円朝をどう見ていたのか、というくだりがありました。三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の円朝観を、小さんの『明治の落語』から引用している箇所を見つけました。

たいへんおもしろい内容なので、孫引きで載せさせていただきます。

「円朝は狂言作者を抱えて飼い殺しにしていた。芸は拙いし採る処はないが、作者がついていて常に新しいものを出した。一口に云えば山勘で興行師のような処がありました。年に春秋二回、十五日間位しかやらなくて高いお金をとっていたが、芸は拙い人でした。そこへいったら燕枝は円朝とは訳が違う。燕枝は人物が出来て居た。伯猿という人も、大した評判でしたが、講釈のまずさ加減というものは、無茶苦茶でまるで素人のようなものでした。伯猿と円朝は何故そんなに評判になったかというと、それは番付によい処に出すものですから、あんなになったのです。……(略)話が下手でも、狂言作者が附いていたので、次から次へと新しく行った。それだけのもので円朝は頭の悪い人でした」

以上が三代目小さんの弁。

いやあ、ひどい言いようです。でも、見ようによってはこんなところも円朝にはあったのかもしれませんね。

燕枝とは初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)のこと。柳派における円朝のような存在です。小さんの立場からすれば自陣の人です。

円朝が逝った明治33年(1900)、燕枝も半年ほど早めに没しました。

燕枝も新作をものしています。

円朝と違って自ら書き残したものが多いため、今後、格好の研究対象として発掘されていってもよいのですが、円朝研究ほどの成果は上がっていません。

伯猿とは二代目松林伯円(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905)のこと。

当時の講談界の親分です。

明治政府からは、円朝と並んで「教導職」に任ぜられました。まあ、円朝と同列視される巨頭です。

「狂言作者を抱えて」のくだり、これは尾崎も触れていますが、仮名垣魯文かながきろぶん(野崎文蔵、1829-94)、条野採菊じょうのさいぎく(条野伝平、1832-1902)、三代目瀬川如皐せがわじょこう(六三郎、1806-81)、梅素亭玄魚ばいそていげんぎょ(宮城喜三郎、1817-80)、河竹黙阿弥かわたけもくあみ(吉村芳三郎、1816-93)などとのつきあいを皮肉っているのでしょう。

この方々は、幕末に盛り上がった「粋興連すいきょうれん」と称する同好の仲間でした。

条野採菊は、江戸期には山々亭有人さんさんていありんどという名の戯作者で、明治期には「警察新聞」を買い取って「やまと新聞」を創刊した新聞経営者に。鏑木清方(条野健一、1878-1972)の実父でもあります。

その変わり身ぶりは円朝にもいえることでしょう。

円朝は、江戸期には道具噺で歌舞伎もどきのにぎやかな芸風でしたが、明治5年(1872)には道具を弟子に譲り、わが身は扇子一本の枯れた素噺に変身したのですから。

三代目小さんと言えば、夏目漱石(夏目金之助、1867-1916)が「三四郎」などで絶賛した希代の話芸の名人でした。尾崎の言葉を借りれば、小さんとはこんな具合です。

三代目小さんは、頭の方はお留守だが腕はいい「与太郎」の登場する「大工調」とか、「笠碁」などをやらすと絶品で鈍重で邪気のない性格が、そのまま作中人物の性格になったといわれたはなしかだった。それだけに、才人で時代を見抜く眼のある円朝の動きは、ムシズが走るくらい嫌だったらしい。

「頭の方はお留守」なのは与太郎であって、小さんではありません。 誤読しそうです。日本語はややこしいです。

ここまで来たなら、ついでに、二派の違いを四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)からの引用でちょこっと。これも尾崎論文からの孫引きですが、まあ、お読みください。

柳派と三遊派のちがいについて四代目小さんはうまいことをいっている。「総じて柳の方は地味で、三遊は華やか、柳は隠居やお医者が巧く、三遊は若旦那や幇間、つまり天災や猫久が柳なら、湯屋番や干物箱は三遊といったわけ」(「小さん聞書」参照)これでもわかるように柳派はどちらかといえば地味、三遊派は派手で、小さんのこのみに円朝があわないのはあたりまえかもしれない。

ここらへんにくれば、落語通の方々は「そんなもんだろう」と納得されることでしょう。定着化された評価です。

三代目小さんが円朝をくさすのは、こんなところからきているのかもしれませんね。

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なつどろ【夏どろ】落語演目

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【どんな?】

お人よし泥棒から金を巻き上げる、長屋住まいのしたたか男。
痛快無比のあべこべ模様。
上方噺。

別題:置きどろ(上方) 打飼盗人(上方)

あらすじ

ある夏の夜。

路地裏の貧乏長屋にコソ泥が侵入した。

目をつけたのは、蚊燻しを焚きっ放しにしている家。

小汚いが、灯を点けずに寝ているからは、食うものも食わないで金を溜め込んでいるに違いないと、当たりをつけた。

火の用心が悪いと、お節介を言いながら中に入ると、男が一人で寝ている。

起こして
「さあ、金を出せ」
とすごんでも、男は、
「ああ、泥棒か。なら、安心だ」
と、全く動じない。

男は日雇いの仕事人で、昨日の明け方まで五円あったが、博打で巻き上げられて、今は一文なし。

取られるものなど、なにもないという。

「しらばっくれるな。これでも一軒の家を構えていて、なにもないはずがねえ。銀貨かなにかボロッきれにでも包んで隠してあるだろう。オレが消してやらなかったら、てめえは今ごろ蚊燻しが燃え上がって焼け死んじまったんだ。いわば命の恩人だ」
「余計なことをしやがる」

二尺八寸のだんびらは伊達には差さないと脅しても
「てめえ、なにも差してねえじゃねえか」

このところ雨が続いて稼業に出られず、食うものもないので水ばかりのんで寝ているという。

「いっそ、おめえの弟子にしてくれ」
と頼まれ、泥棒は閉口。

その上
「縁あって上がってきたんだ。すまねえが三十銭貸してくれ」
と、逆に金をせびられた。

「どうせ、ただ取る商売だ。貸したっていいだろう。かわいそうだと思って」
「ばか言え。盗人にかわいそうもあるか」
「どうしても貸さねえな。路地を閉めれば一本道だ。オレが泥棒ッてどなれば、長屋中三十六人残らず飛んでくる。相撲取りだって三人いるんだ」

逆に脅かされ、しかたなく三十銭出すと、今度はおかず代にもう二十銭貸せと、言う。

「とんでもねえ」
と断ると
「どうしても貸さねえな。路地を閉めれば一本道だ」

また始まったから、しぶしぶ二十銭。

すると、またまた今度は
「蚊帳を受け出す金三十銭頼む。質にへえってるんだ。貸さねえと、路地を閉めたら一本道……」

泥棒はもうお手上げ。合計八十銭ふんだくられた。

「ありがてえ。これは借りたんだ。今度来たときに」
「誰が来るもんか」
「そう言わずにちょいちょいおいで。オレは身内がねえから、親類になってくれ」
「ばかあ言え。どなると聞かねえぞ」

泥棒がげんなりして引き上げると、アワを食ったのか煙草入れを置いていった。

男は煙草を吸わないので、もらってもしかたがないと後を追いかけて
「おーい、泥棒ォ」
「こんちくしょう。まぬけめ。泥棒ってえやつがあるか」
「でも、おめえの名前知らねえから」

底本:三代目柳家小さん

しりたい

上方から東京へ

原話は安永8年(1779)刊『気の薬』中の小咄「貧乏者」です。

原話では、「出張先」のあまりの悲惨な現状に泥棒がいたく同情、現行の落語と逆に金子二百疋を恵んでくれる筋です。

オチは「おたばこ入れが落ちておりました」。

上方噺の「打飼盗人」を大正末期に初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が東京に移したと言われますが、はっきりしません。

上方の題名は、オチが「カラの打飼忘れたある」となっていることからきています。

打飼

うちかえ。布を袋状に縫い合わせた旅行用の胴巻きのことです。

胴巻きとは、腹巻きのことです。ややこしいです。

いろいろなオチ

昭和に入ってからは、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)が得意にしました。

小円朝は「忍び込んでからの泥棒の目の動きが難しい噺」と、芸談を残していますが、同師は家のあるじをを大工とし、暑いのでフンドシ一本で寝ている設定にしました。

そのオチは、泥棒が引き上げるところで切り、「陽気の変わり目に、もういっぺん来てくんねえ」としていました。

同世代では三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)も演じましたが、そのほかオチは、演者によってかなり異なります。

たばこ入れが落ちていた説明を略した上で「おーい」「どなるやつがあるか」「たばこ入れが落ちてた」と、意表をついた上、原話通りに落とすもの。

「あとの家賃(用の金)はいつ持ってきてくれる?」と、さらにずうずうしいもの。

「また質入れしたころ来てくんねえ」とするものなど。

さまざまに工夫されています。

ここでのあらすじの「おめえの名前を知らねえから」は、小はんの師匠、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の作ったものです。

このオチが東京ではもっとも一般的でしょう。

だんびら

一般には「段平」と記します。刀で、刃が幅広いもの。たんに刀をもさします。「だびら」とも言ったりします。

「だびらひろ」となると、刀の身の幅が広いこと、「だびらせば」は刀の身の幅が狭いことをさします。

「徒広」が語源とされています。

セリフの「二尺八寸……」は芝居の泥棒の常套句です。

「転宅」の泥棒が、この大仰なセリフのフルバージョンをまくしたてています。

これから「出動予定」で商売用に丸暗記したい方はその項を参照してください。

ダンビラを振りかざして見得を切る芝居の泥棒。『100年前の東京』(マール社)より

煙草入れ

安永年間(1772-81)から普及し、幕末に近づくにつれしだいに贅沢なものが好まれるようになりました。

落語に登場の飯炊き男、権助が持っているのは熊の革の煙草入れと相場が決まっていて、これはいかにもぴったりな感じです。

【語の読みと注】
二百疋 にひゃっぴき:二千文=二分=一両の二分の一
打飼盗人 うちがえぬすっと
胴巻き どうまき:腹巻き
徒広 ただびろ

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ごどろ【碁泥】落語演目

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【どんな?】

典型的な滑稽噺。昔はマクラに使われていたそうです。

別題:碁盗人 碁打ち盗人(上方)

【あらすじ】

碁仇のだんな二人。

両方とも、それ以上に好きなのが煙草で、毎晩のように夜遅くまでスパスパやりながら熱戦を展開するうち、畳に焼け焦げを作っても、いっこうにに気づかない。

火の用心が悪いと、かみさんから苦情が出たので、どうせ二人ともザル碁だし、一局に十五分くらいしかかからないのだから、碁は火の気のない座敷で打って、終わるごとに別室で頭がクラクラするほどのんでのんでのみまくろう、と話を決める。

ところが、いざ盤を囲んでみると、夢中になってそんな約束はどこへやら。

「マッチがないぞ」
「たばこを持ってこい」

閉口したかみさん。

一計を案じ、マクワウリを小さく切って運ばせた。

二人とも全く気がづかないので、かみさんは安心して湯に出かける。

そのすきに入り込んだのが、この二人に輪をかけて碁好きの泥棒。

誰もいないようなので安心してひと仕事済ませ、大きな風呂敷包みを背負って失礼しようとした。

すると、聞こえてきたのがパチリパチリと碁石を打つ音。

矢も楯もたまらくなり、音のする奥の座敷の方に忍び足。

風呂敷包みを背負ったままノッソリ中に入り込むと、観戦だけでは物足らず、いつしか口出しを始める。

「うーん、ふっくりしたいい碁石だな。互先ですな。こうっと、ここは切れ目と、あーた、その黒はあぶない。それは継ぐ一手だ」
「うるさいな。傍目八目、助言はご無用、と。おや、あんまり見たことのない人だ、と。大きな包みを背負ってますねッと」
「おまは誰だい、と、一つ打ってみろ」
「それでは私も、おまえは誰だい、と」
「へえ、泥棒で、と」
「ふーん、泥棒。泥棒さん、よくおいでだねッ、と」

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【しりたい】

おじさん、そこおかしいよ!

原話は不詳です。上方落語「碁打ち盗人」を三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、大阪の四代目桂文吾(鈴永幸次郎、1865-1915)に教わり、大正2年(1913)ごろ、東京に移しました。

小さんは、はじめは「芝居道楽」などのマクラとして演じていましたが、後に独立させました。

大正2年と、晩年の13年(1924)の速記が残っていますが、最初の演題は上方にならって「碁盗人」でした。

両国の立花家でこの噺を演じたところ、十五、六の少年に、碁を打つ手の行き方が、碁盤に対して高すぎると注意され、その後きちんと碁盤の高さを計ってやるようになったと、大正13年の方のマクラで述べています。

生意気なガキですが、前世の談志だったかも?

小さん相伝の噺

小さんのうまさは、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)をして「もうあたしは『碁泥』はやらない」と言わしめたほどだったといいます。

ただ、同じようなことを「笠碁」に対して三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が言ったという話もあるので、あるいは混同されて伝わった逸話かもしれません。

門弟の四代目小さん(大野菊松、1888-1947)、孫弟子の五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)と継承され、代々の小さん、柳派伝統の噺となりました。

先の大戦後には、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)も得意にしていましたが、小円朝は、最初の泥棒の助言に対して、主人が言葉で答えず、石を持った右手を耳の辺りで振ってみせるやり方でした。「本家」の上方では、現在はあまり演じられないようです。

煙草盆

たばこぼん。炭火を灰で埋めた小型の火鉢と、吸殻を捨てる竹筒(灰吹き)を入れた四角の灰皿です。

歌舞伎の小道具として、よく舞台で見られますね。

現代は灰吹がほとんど見られなくなりました。

かつて、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやった、「畳に火玉が落ちたよ」「ハイ、フキましょう」というくすぐりも、理解されにくくなっています。

泥棒の語源

泥棒にもピンからキリまであります。

おかめ団子」の主人公のように、本当に出来心でフラリと入ってしまうのが「空き巣ねらい」です。

計画的に侵入する盗賊より罪が軽く、盗んだ金額にもよりますが、江戸時代には初犯なら百たたきで勘弁してもらえることが多かったようです。

「どろ」は「どら」「のら」と同義語で、もともと怠け者の意。怠惰で、まともに働く意欲がないから盗みに入るという解釈から。

古くは「泥た棒」「泥たん棒」「泥つく」とも呼び、イカサマ師やペテン師、スリなども合わせて「泥棒」ということがありました。

泥棒伯円と教導職

幕末から明治にかけて白浪(=盗賊)ものを得意にした講釈師、二代目松林伯円(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905)は「泥棒伯円」とあだ名され、お上から「副業」にやっているのではないかと疑われたほどでした。

ところが、後に明治政府の肝いりで教導職となって「忠君愛国講談」に転向、明治天皇御前口演までやってのけました。

彼が手掛けた泥棒は、鼠小僧、稲葉小僧はじめ大物ばかりで、コソ泥などいません。

このことからも講談と落語の違いが明白です。

ちなみに、噺家のほうで教導職を命じられたのは、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)でした。

明治3年(1870)に、天皇の意思ということで神祇官が「大教宣布の詔」を発布しました。

神道を利用して日本国民の心をひとつにしようという運動です。

大教宣布運動と称したこの運動は、明治5年(1872)には、教部省の下に大教院(研修所の本部)が設けられました。

芝の増上寺境内に大教院が建てられ、地方都市には中教院がつくられました。

大教院や中教院では、宣教使(布教する人)や教導職(国民を教化する人)が研修を受けました。

教導職は日本中の神官と僧侶が任命されたのですが、それ以外にも、人々の生活や心情に影響を及ぼす演芸界からも教導職が任命されました。

講談からは伯円、落語からは円朝でした。

円朝が、陰惨な仇討ちものをつくりながらも、「塩原多助一代記」のようなありがたいような噺をつくったのは、そのような趨勢とかかわっていました。

この流れは、明治維新とともに始まった廃仏毀釈が、極端な神道優先の世に変容しました。

あまりにも極端なためにさまざまな不具合が生じて、やがては失速し、明治8年(1875)には大教院が廃されました。

浄土真宗の島地黙雷たちが政府内に入り込んで急速に巻き返したことが主因でした。

明治17年(1884)には教導職も廃されました。

極端思想の国学者と洋行帰りの僧侶との文化闘争だったともいえるでしょう。

円朝と伯円の「教導職」は10年余でしたが、その間、彼らの内外に吹き及んだ出来事は、少なからぬ影響を残しています。

互先

実力の同じレベルの二人が、交互に白を持って先番になる取り決めです。

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やなぎやこえんじ【柳家小袁治】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1967年2月、柳家マコト
【二ツ目】1972年11月、柳家さん治
【真打ち】1981年9月、柳家小袁治
【出囃子】おはん
【定紋】陰剣片喰
【本名】関根誠
【生年月日】1948年10月12日
【出身地】東京都千代田区
【学歴】東京都立三田高校
【血液型】A型
【ネタ】金明竹 井戸の茶碗
【出典】落語芸術協会 公式 Twitter FB
【蛇足】

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やなぎやさんぱち【柳家さん八】噺家



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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1966年6月、七代目立川談志に
【前座】1968年5月、五代目柳家小さん門下で、柳家そう助
【二ツ目】1971年11月、二代目柳家さん八
【真打ち】1981年9月
【出囃子】東雲節
【定紋】蔦
【本名】清水聰吉
【生年月日】1944年10月3日
【出身地】東京都江戸川区平井
【学歴】東京都立江東工業高校
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】落語協会相談役 東京大空襲夜話



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やなぎやごんたろう【柳家権太楼】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会 相談役
【入門】五代目柳家つばめ(木村栄次郎、1928-74)に
【前座】1970年4月、柳家ほたる。74年9月、師の没後、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下に
【二ツ目】1975年11月、柳家さん光
【真打ち】1982年9月、三代目柳家権太楼
【出囃子】金毘羅舟々
【定紋】丸にくくり猿
【本名】梅原健治
【生年月日】1947年1月24日
【出身地】東京都北区滝野川
【学歴】明治学院大学法学部
【血液型】A型
【ネタ】代書屋 長短 不動坊 火焔太鼓 三枚起請 言い訳座頭 試し酒 など
【出典】公式 落語協会 Wiki Twitter
【蛇足】①1982年5月23日、快晴の代々木公園。はやりの「ダイ・イン」をしたくてむらくもはせ参じた夜勤労働者や日勤工員(私もその一人)を前に、マイク握っていた男女の司会者。そのかたわれが権太楼に羽化する直前のさん光さんでした。クルーカット(今も)、紺ブレにチノパン、スリッポンといった出で立ちで、なんだかスマートでカッコよかったなあ。まるで『の・ようなもの』から飛び出してきたような。あの紺ブレもKENTだったのかな。あれから40年余。工員矢のごとし。②じつは「昔昔亭桃太郎」の名跡が本命だったんだとか(本人の弁)。③倍賞美津子さんと滝野川第一小学校→紅葉中学校で同学年だったという話は有名ですね。ちなみに、滝野川第一小学校と滝野川第七小学校は統合されて、平成26年(2014)から田端小学校となりました。「タキイチ」と「タキシチ」、両校とも聞き違いや言い違いが多かったのです。「タバタ」で解消されました。さらに、紅葉中学校も滝野川中学校と統合されて、平成21年度(2009)から滝野川紅葉中学校となりました。 江戸東京落語まつり2023(2023年6月30日-7月5日、総勢36人)。

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やなぎやさんぷく【柳家さん福】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1980年11月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1982年2月、柳家小富
【二ツ目】1986年2月、柳家さん弥
【真打ち】1996年3月、柳家さん福
【出囃子】小鍛冶
【定紋】陰剣片喰
【本名】野本富夫
【生年月日】1959年11月29日
【出身地】埼玉県羽生市
【学歴】埼玉県立狭山高校
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は将棋(アマ四段)、麻雀など。古今亭菊太楼と二人会

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かつらせんしょう【桂扇生】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会→落語協会
【入門】1974年3月、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)に、三笑亭小夢
【前座】1975年4月
【二ツ目】1980年2月。84年1月、三代目桂文生門下で桂きん治。85年1月、師に従い落語協会に移籍
【真打ち】1995年3月、桂扇生
【出囃子】藤娘
【定紋】釜敷桜
【本名】合田雅一
【生年月日】1956年3月17日
【出身地】福岡県北九州市
【学歴】東京都立大泉高校
【血液型】O型
【ネタ】ねずみ 井戸の茶碗 青菜 やんま久次 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】

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やなぎやこさんた【柳家小三太】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1978年10月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1980年2月、柳家小たか
【二ツ目】1982年4月、柳家小三太
【真打ち】1995年3月
【出囃子】雀踊り
【定紋】剣片喰
【本名】館田隆たてだたかし
【生年月日】1953年4月26日
【出身地】青森県弘前市
【学歴】弘前工業高校→電気工事会社
【血液型】A型
【ネタ】佐野山 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は相撲、旅行。『まんが 柳家小三太噺』。

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やなぎやかろく【柳家花緑】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1987年3月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に、柳家九太郎で
【二ツ目】1989年9月、柳家小緑
【真打ち】1995年3月、柳家花緑
【出囃子】お兼ざらし
【定紋】剣片喰
【本名】小林九
【生年月日】1971年8月2日
【出身地】東京都豊島区
【学歴】豊島区立高田中学校
【血液型】A型
【ネタ】初天神 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は読書、映画・演劇鑑賞、ピアノ演奏など。特技はムーンウォーク。五代目柳家小さんは祖父、六代目柳家小さんは叔父。真打ち昇進は戦後最年少の22歳で。江戸東京落語まつり2023(2023年6月30日-7月5日、総勢36人)。

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りゅうていいちば【柳亭市馬】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会 会長
【入門】1980年3月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1981年4月、柳家小幸こゆき
【二ツ目】1984年5月、柳家さん好
【真打ち】1993年9月、四代目柳亭市馬
【出囃子】吾妻八景
【定紋】丸に花菱 桔梗
【本名】右藤泰幸うとうやすゆき
【生年月日】1961年12月6日
【出身地】大分県豊後大野市
【学歴】大分県立竹田高校
【血液型】B型
【ネタ】高砂や 青菜 堪忍袋 味噌蔵 御慶 掛取美智也(掛け取り万歳の変形) など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は歌舞伎見物、流行歌(聴いて歌いつづける)、剣道。江戸東京落語まつり2023(2023年6月30日-7月5日、総勢36人)。



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むげつていきよまろ【夢月亭清麿】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1973年3月、五代目柳家つばめ(木村 栄次郎、1928-74)に、柳家雪之丞で。74年9月、師の没後、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下
【二ツ目】1978年3月、夢月亭歌麿
【真打ち】1989年3月、夢月亭清麿
【出囃子】串本節
【定紋】立チ沢瀉
【本名】池谷実
【生年月日】1950年5月16日
【出身地】東京都渋谷区
【学歴】早稲田大学第一文学部
【血液型】B型
【ネタ】新作が主
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】落語協会監事。趣味は映画、プロレス、町歩き。

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やなぎやこえん【柳家小ゑん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1975年2月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に、柳家みのるで
【前座】1975年12月。76年、みの助
【二ツ目】1979年5月、柳家小ゑん
【真打ち】1985年9月
【出囃子】ぎっちょんちょん
【定紋】剣片喰 軍配 月木菟みみずく
【本名】富田実
【生年月日】1953年9月15日
【出身地】東京都目黒区
【学歴】東京都立玉川高校→武蔵工業大学(→東京都市大学)中退
【血液型】A型
【ネタ】ぐつぐつ 銀河の恋の物語 鉄の男 お血脈 アキバぞめき など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は電気工作、平日大工、星、カメラ、鉄道模型、雑俳、はんだ付け、鳥撮影とすこぶる多彩。共著『鉄道落語』(古今亭駒次、桂しん吉、桂梅団治、2013年、交通新聞社)は傑作。

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やなぎやこりん【柳家小里ん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1969年1月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1972年、柳家小多けで
【二ツ目】1974年5月、柳家小里ん
【真打ち】1983年9月
【出囃子】春雨
【定紋】剣片喰
【本名】安田雅行
【生年月日】1948年1月22日
【出身地】東京都台東区浅草
【学歴】東京都立江北高校
【血液型】A型
【ネタ】廓噺 言い訳座頭 など
【出典】辻屋本店 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は観劇、映画鑑賞、スキー、パチンコなど。石井徹也氏との共著『五代目小さん芸語録』(中央公論新社、2012年5月)は数ある落語本中、不世出の最高傑作。引き受けた編集者の豪胆と繊細に喝采。



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やなぎやさんきょう【柳家さん喬】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会 常任理事
【入門】1967年3月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)に
【前座】1967年4月、小稲
【二ツ目】1972年11月、さん喬
【真打ち】1981年3月
【出囃子】鞍馬獅子
【定紋】丸に三ツ柏
【本名】稲葉稔
【生年月日】1948年8月4日
【出身地】東京都墨田区本所
【学歴】中央大学附属高校
【血液型】O型
【ネタ】うどん屋 井戸の茶碗 笠碁 猫の災難 野ざらし 片棒 そば清 百川 棒鱈 幾代餅 天狗裁き 柳田格之進 芝浜 締め込み 初天神 真田小僧 千両みかん  お若伊之助 など
【出典】Wiki 落語協会
【蛇足】藤間流名取(藤間一寿生)。趣味は創作料理、演劇鑑賞。江戸東京落語まつり2023(2023年6月30日-7月5日、総勢36人)。

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やなぎやさんゆう【柳家さん遊】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1965年3月、五代目柳家小さんに入門
【前座】1965年9月、小よしで
【二ツ目】1970年4月、小三太
【真打ち】1980年4月、六代目柳亭小燕枝。2020年7月、柳家さん遊
【出囃子】三社祭
【定紋】剣片喰
【本名】中義夫なかよしお
【生年月日】1945年1月28日
【出身地】東京都練馬区
【学歴】東京工業高校(日本工業大学駒場中・高校)
【血液型】O型
【ネタ】強情灸 時そば 猫の災難 らくだ など
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】1972年、第1回NHK新人落語コンクール最優秀賞受賞

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やなぎやこだんじ【柳家小団治】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1965年3月、柳家武助で
【二ツ目】1970年4月、六代目柳家小団治
【真打ち】1979年9月
【出囃子】小団治ばやし
【定紋】剣片喰
【本名】吉田武脩たけひさ
【生年月日】1944年11月23日
【出身地】東京都新宿区
【学歴】中央大学附属高校→中央大学経済学部
【血液型】O型
【ネタ】阿武松 一分茶番 抜け雀 ねずみ 茶の湯 千両みかん 星野屋 鹿政談 井戸の茶碗 ガマの油 鼓が滝 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】前座時代に大学を卒業。剣道七段。『落語亭』(エイベックス)。『入門落語の楽しみ方』(PHP研究所、2005年)。

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りゅうていふうし【柳亭風枝】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】二代目三遊亭百生(小河真之助、1895-1964)に入門
【前座】1963年6月、三遊亭百助で。1964年百生逝去に伴い、五代目柳家つばめ(木村 栄次郎、1928-1974)門下、柳家とんぼ
【二ツ目】1967年5月。つばめ逝去に伴い、74年9月五代目柳家小さん門下
【真打ち】1979年3月、初代柳亭風枝
【出囃子】男はつらいよらしき曲
【定紋】風神 ※オリジナル
【本名】佐藤治
【生年月日】1945年7月27日
【出身地】東京都葛飾区生まれ、浅草育ち
【学歴】東京都立葛󠄀飾野高校
【血液型】A型
【ネタ】竹の水仙 宗論 など
【出典】落語協会HP 柳亭風枝Wiki
【蛇足】口上芸、居合抜き。すさまじい芸達者

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かつらなんきょう【桂南喬】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会→落語協会
【入門】三代目三遊亭金馬に入門
【前座】1963年1月、三遊亭ゆたかで。金馬死去に伴い、1965年、二代目桂小南門下、桂ゆたか
【二ツ目】1967年10月、桂南笑
【真打ち】1977年4月、桂南喬。85年1月、落語芸術協会から落語協会に移籍。五代目柳家小さん門下に
【出囃子】吉原雀
【定紋】丸に剣片喰
【本名】末吉豊比古
【生年月日】1947年8月7日
【出身地】東京都中野区
【学歴】中野区立中野第三中学校
【血液型】AB型
【持ちネタ】牛ほめ 大工調べ 粗忽長屋 など
【出典】公式 落語協会 Wiki 
【蛇足】1984年、桂文朝(田上孝明、1942-2005)、桂文生らと落語芸術協会を脱退。その後、落語協会の五代目柳家小さん門下へ移籍。自転車が趣味。三遊亭円窓、柳家つば女らと落車会を結成

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かつらぶんしょう【桂文生】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会→落語協会
【入門】二代目桂枝太郎(池田芳次郎、1895-1978)に入門
【前座】1962年9月、桂枝平
【二ツ目】1966年4月、桂欣治
【真打ち】1974年10月、三代目桂文生
【出囃子】あほだら経
【定紋】違い鷹の羽
【本名】平稔
【生年月日】1939年8月23日
【出身地】宮城県石巻市
【学歴】宮城県立小牛田こごた農林高校
【血液型】O型
【持ちネタ】本膳 ずっこけ 馬の田楽 権助提灯 佐の山 お見立て 猿後家 民謡家主 王子の狐 位牌屋 棒鱈 蒟蒻問答 など
【出典】落語協会HP 桂文生Wiki
【蛇足】1984年、桂文朝(田上孝明、1942-2005)、桂南喬、弟子の桂きん治(→桂扇生)と落語芸術協会を脱退。その後、落語協会の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下へ移籍。84年は落語芸術協会と上野鈴本演芸場とが軋轢を生じさせていた頃でした。2006年、文化庁芸術祭優秀賞受賞。都々逸しぐれ吟社同人。過去に7人の「文生」がいたといわれますが、当代は三代目を称しています。上方に同音の桂文昇がいます。

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りゅうていきんしゃ【柳亭金車】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1964年6月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に入門。柳家小丸で
【前座】1964年9月
【二ツ目】1968年5月
【真打ち】1978年3月、柳亭金車
【出囃子】鶴亀
【定紋】陰の花菱
【本名】宮崎悦男
【生年月日】1941年9月14日
【出身地】東京都江東区
【学歴】法政大学経済学部
【血液型】A型
【持ちネタ】
【出典】落語協会HP 柳亭金車Wiki
【蛇足】1975年、「たがや」でNHK新人演芸コンクール落語部門最優秀賞を受賞。キックボクシングのリングアナウンサーも務める。

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やなぎやこさん【柳家小さん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1963年4月、五代目柳家小さん五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に入門、柳家小太郎で
【前座】1963年9月
【二ツ目】1967年3月、小ゑん
【真打ち】1976年9月、三代目柳家三語楼。2002年、小さんの死去に伴い、四代目鈴々舎馬風門下に。2006年9月、六代目柳家小さん
【出囃子】楠公
【定紋】八ツ車
【本名】小堀義弘
【生年月日】1947年7月21日
【出身地】東京都豊島区
【学歴】豊島区立高田中学校
【血液型】B型
【ネタ】真二つ(山田洋次) 頓馬の使者 目玉 ひとり酒盛 紺屋高尾
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】五代目柳家小さん(小林則夫、1915-2002)は父、柳家花緑と小林十市は甥

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やなぎやこまん【柳家小満ん】噺家



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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)に入門
【前座】1961年5月、小勇で
【二ツ目】1965年3月。71年12月、文楽死去に伴い、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)門下に
【真打ち】1975年9月、三代目柳家小満ん
【出囃子】酔猩猩
【定紋】三ツ割桔梗
【本名】栗原理
【生年月日】1942年2月17日
【出身地】神奈川県横浜市
【学歴】横浜市立金沢高校→東京農工大学繊維工学部中退
【血液型】A型
【ネタ】居残り佐平次 本膳 宮戸川 など
【出典】落語協会 Wiki 柳家小満ん口演用「てきすと」
【蛇足】1973年、NHK新人演芸コンクール最優秀賞受賞。著書多数。『べけんや わが師、桂文楽』 (河出文庫、2005年)が参考になる。川田順造『人類学者の落語論』(青土社、2020年)に登場する。



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やなぎやこのぶ【柳家小のぶ】噺家



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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1956年5月、小延で
【二ツ目】1958年9月、小のぶ
【真打ち】1973年3月
【出囃子】元禄花見踊
【定紋】花菱
【本名】本田延吉
【生年月日】
【出身地】東京都港区芝
【学歴】
【血液型】
【持ちネタ】味噌蔵 芝浜 寝床 強情灸 品川心中 たがや 山崎屋 勘定板 火焔太鼓 高田の馬場 佃祭 小言念仏 宿屋の富 蛙茶番 妾馬 厩火事 粗忽長屋 幇間腹 野ざらし 宮戸川 こんにゃく問答 風呂敷 青菜 子はかすがい 三枚起請 寄合酒 明烏 あわびのし 薮入り 長短 抜け雀 景清 文七元結 宿屋の仇討 甲府い とうなすや 猫久 富久 時そば
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】寄席に出ない「幻の噺家」で通っている



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