あけがらす【明烏】落語演目



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 【どんな?】

堅物がもてるという、廓が育む理想形の物語。
ビギナーズラックでしょうか、はたまた普遍の成功譚。
こんな放蕩なら、一度は経験してみたいものです。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼あいかたに振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(→八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が台頭するまで、先の大戦後は、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中頃とし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原玉屋の遊女美吉野と、呉服屋の若だんな伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈りゅうていりじょう為永春水ためながしゅんすいが「明烏後正夢あけがらすのちのまさゆめ」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木門かぶきもん。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。

吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町2丁目。

日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7年=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

八代目桂文楽のおはこ。文楽存命の間はだれもやらずにいた。のちに、馬生がやった。志ん朝がやった。小三治がやった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。これが宮戸川心中事件といわれるもの。

江戸時代、「呉服」は絹織物のこと、「太物」は綿や麻織物でつくった普段着のこと。呉服商と太物商は扱う品物が違ったため、区別されていたものです。

事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生されていった。

うぶな男がもてて半可通が振られるという型は、江戸の遊里を描いた洒落本にはありがちなもの。もてるもてないはどこか才のかげんで、修行しても始まらないようである。

この噺のすごい魅力は、まるごと「吉原入門」はたまた「吉原指南」になっているところ。吉原での遊び方のおおかたがわかるのだ。便利であるなあ。

(古木優)

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)

 



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評価 :3/3。

ここんていしんきょう【古今亭志ん橋】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1969年1月、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に
【前座】1972年10月、志ん太
【二ツ目】1975年5月
【真打ち】1982年12月、六代目古今亭志ん橋
【出囃子】大拍子
【定紋】鬼蔦
【本名】小椋おぐら幸彦ゆきひこ
【生年月日】1944年8月17日-2023年10月8日午前5時43分(大腸がんで、79歳)
【出身地】東京都墨田区江東橋
【学歴】東京都立第四商業高校→ガソリンスタンド
【血液型】A型
【ネタ】藪入り 無精床 鰻の幇間 柳田格之進 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は三道楽、ゴルフ、スキー、観劇、新内。特技は獅子舞。1979年、国立劇場新人演芸会銀賞。1985年、浅草芸能大賞新人賞。1986年、文化庁芸術祭優秀賞(「若手花形落語会」)。映画『の・ようなもの のようなもの』(杉下泰一監督、2015年)に日暮雄一役で出演。2023年1月5日、浅草演芸ホールでの高座が最後の寄席出演に。



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かつらさいが【桂才賀】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【前座】1972年7月、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)に、桂文太で
【二ツ目】1977年3月。78年3月、師没後、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)門下、古今亭朝次
【真打ち】1985年9月、七代目桂才賀
【出囃子】野毛山
【定紋】鬼蔦
【本名】谷富夫
【生年月日】1950年7月12日
【出身地】東京都大田区
【学歴】自由ヶ丘学園高校→海上自衛隊
【血液型】O型
【ネタ】孝行糖 禁酒番屋 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】刑務所等を慰問。「笑点」大喜利メンバー(1980年11月-88年3月、朝次→才賀)



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きんげんていここま【金原亭小駒】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2013年9月、十一代目金原亭馬生
【前座】2015年1月、金原亭小駒
【二ツ目】2018年11月
【真打ち】
【出囃子】まっくろけ節
【定紋】鬼蔦
【本名】美濃部清貴
【生年月日】1995年9月6日
【出身地】東京都荒川区西日暮里
【学歴】子役山田清隆→東京都立大江戸高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】チャノマ(落語協会二ツ目の木曜勉強会)。若旦那の会。曽祖父は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)。祖父は十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)。大叔父は三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)。母は十代目金原亭馬生の次女。



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ここんていしんよう【古今亭志ん陽】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1998年12月、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に入門
【前座】1999年11月、朝松。2001年10月、初代古今亭志ん五(篠崎進、1949-2010)門下に                                     
【二ツ目】2003年5月、朝太。2010年9月、六代目古今亭志ん橋門下に
【真打ち】2012年9月、志ん陽
【出囃子】越後獅子
【定紋】鬼蔦
【本名】殖栗不二雄ふえくりふじお
【生年月日】1974年10月24日
【出身地】東京都北区
【学歴】農大一高→拓殖大学
【血液型】AB型
【ネタ】
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】RAKUGOもんすたぁず(古今亭志ん陽、柳家小傳次、柳家燕弥、春風亭三朝)



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かつらひなたろう【桂ひな太郎】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1976年3月、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に
【前座】1977年3月、古今亭志ん坊
【二ツ目】1981年9月、古今亭志ん上
【真打ち】1993年9月。2001年夏、休業。03年春、復帰。九代目桂文楽に再入門し、桂ひな太郎で
【出囃子】越後獅子
【定紋】三ツ割桔梗
【本名】武藤幸男
【生年月日】1952年9月8日
【出身地】群馬県安中市
【学歴】東京農大第二高校
【血液型】A型
【ネタ】幾代餅 締め込み 船徳 酢豆腐 化物使い 三枚起請 小言幸兵衛
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味は卓球。落語界初の相続診断士。

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ここんていしんすけ【古今亭志ん輔】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会 理事→相談役
【前座】1972年3月、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)に、古今亭朝助で
【二ツ目】1977年3月、古今亭朝太
【真打ち】1985年9月、古今亭志ん輔
【出囃子】越後獅子
【定紋】鬼蔦
【本名】大塚英夫
【生年月日】1953年9月25日
【出身地】東京都品川区
【学歴】中央大学附属高校
【血液型】O型
【ネタ】愛宕山 替わり目 夕立勘五郎 お見立て お若伊之助 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】趣味はスポーツ観戦、清元、笛、義太夫、新内。著書に『噺家パラダイス』(2007年、ビジネス社)、『師匠は針弟子は糸』(2011年、講談社)。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」(1984年4月-99年4月5日)。