ひつけとうぞくあらため【火付盗賊改】ことば 江戸覗き



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いまや町奉行よりも有名となった火付盗賊改。
池波正太郎『鬼平犯科帳』シリーズでは
「火盗改」とも。
この項では火付盗賊改について記します。
落語には出てきませんが、江戸覗きの一環で。

江戸の治安  【RIZAP COOK】

町奉行」や「与力、同心」の項目で記したように、江戸の町方は南北の与力、同心を合わせても300人にも満たない数で100万都市の治安と行政を受け持っていたのですから、行き届きませんでした。

それを補う警察組織として、放火犯や盗賊団を取り締まる凶悪犯罪専門を受け持つのが火付盗賊改でした。

池波は小説では長谷川平蔵を「長官」と記したりしていますが、こんなことばは当時はあるわけもなく、「おかしら」「かしら」と呼ばれていたことでしょう。

旗本から任命される「御先手頭」の中から火付盗賊改を別に任命していたのです。

御先手組  【RIZAP COOK】

若年寄の支配(管轄)に属し、江戸城本丸の各門の警備、将軍が城外出かける際の警固(警護)を任務と「御先手組おさきてぐみ」の長を「御先手頭おさきてがしら」といいました。

「先手物頭」とも。

このような職務を江戸時代には「御先手」と呼んでいました。

わりと小禄の旗本から成っています。

この人たちは戦時では歩兵大隊として最前線で白兵戦の働きをするはずなのですが、平和な時代には使いようもなく、一部は犯罪捜査を受け持ったわけです。

自衛隊が災害救助しているようなものでしょうか。

御先手組は先手弓組と先手鉄砲組の二分構成でしたが、それとは別に「火付盗賊改」のグループがあり、江戸市中の重犯罪取り締まりに当たっていました。

成り立ちと変遷  【RIZAP COOK】

はじまりは寛文5年(1665)で、幕府が先手頭の水野守正みずのもりまさに関東の各地にはびこる強盗一味の捕縛を命じたことからです。

天和3年(1683)、火付改が新設され、先手頭の中山勘解由なかやまかげゆが兼務を命じられました。

元禄12年(1699)には火付改も盗賊改も廃止となりましたが、3年後の元禄15年(1702)、火付改が、翌16年(1703)には盗賊改がまたも設けられました。

宝永6年(1709)には、両改方が統合されて、火付盗賊改が生まれました。

享保3年(1718)には博奕改も兼職となり、こうして、火付盗賊改は火付、盗賊、博奕の犯罪をまとめて取り締まることになりました。

これでうまくいくかと思いきや、享保10年(1725)には博奕犯は町奉行の管轄となり、火付盗賊改はまたも火付と盗賊だけを管轄することになりました。

この組織は、慶応2年(1866)に廃止となるまで江戸の治安を受け持ちました。

実際の活動  【RIZAP COOK】

火付盗賊改は、与力10騎、同心50人ほどで構成されていました。

その下に岡引きと下引きが組み込まれているのは町奉行と同じです。

幕末には、岡っ引きが400人、下っ引きが1000人いたそうです。

岡引っきと下っ引きは親分子分の関係です。

犯罪捜査は彼らに支えられていましたが、無給の彼らは博奕場を開いたり、商家に難癖をつけて金銭を出させたりと、ろくでもないのが常でした。

奉行所は捕り物に差しさわりがないよう、甘い監視でした。

火付盗賊改は町奉行所に比べると、安手で粗いのが特徴です。

町奉行の役宅は天保期までありませんでした。

それまでは自邸が役宅を兼ねていたといいます。

その取り締まりも荒っぽくて、江戸の人々は恐れていました。

町奉行所とも権限が交差するため、衝突や対立がひんぱんに起こりました。

たとえば、江戸近在で盗まれて物が江戸で換金されることが増えたため、火付盗賊改の活動範囲は江戸周辺にまで及びました。

文化期以降には、関東取締出役かんとうとりしまりしゅつやく(八州廻はっしゅうまわり)が無宿や浪人の取り締まりをするようになったため、火付盗賊改と係争するケースが増えました。

火付盗賊改は町奉行所や関東取締出役と対立することが多くなりました。

職務の縄張り争いです。

ここでいう「関東」とは、上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)、上総(千葉県)、下総(千葉県、茨城県)、安房(千葉県)、武蔵(神奈川県、東京都、埼玉県)、相模(神奈川県)をさします。

関八州ともいいます。今の関東地方ですね。

中山勘解由  【RIZAP COOK】

中山勘解由直守なかやまかげゆなおもりといいます。

鬼勘解由と呼ばれるほど、犯罪捜査には凄腕だったそうです。

中山家は武蔵七党の一、丹党加治氏たんとうかじし(略して丹治たんじ)の流れをくみます。

飯能周辺を領有し、秩父鉄を工夫して、武士団を構成していきました。

小田原北条氏の配下となり、小田原征伐では中山家範いえのり、その息子である照守てるもり信吉のぶよしは八王子城に籠城して死守しましたが、やがて敗北。家範は討ち死に。享年43。

残った2人の息子は、その勇猛ぶりを徳川家康に評価され、徳川家臣団に組み入れられました。直参旗本となったのです。

関ヶ原の戦いや大坂の陣などで紆余曲折はありましたが、馬術を得意とした兄の照守は秀忠の指南役を務めるなどして、家は3500石の大身旗本に収まりました。

子孫からは町奉行や火付盗賊改の頭などが現れ、武勇家系の評価が受け継がれたのです。直守は照守の孫です。

一方、弟の信吉は水戸藩の附家老つけがろう(幕府直属の家老)となりました。

代々は水戸藩領内の松岡領(茨城県高萩市全域、日立市と北茨城市の一部)を有し、立藩をうかがっていましたが、立藩できたのは明治2年(1869)でした。

松岡藩2万5000石、藩庁は陣屋です。

参考文献:平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社、1988年)、服藤弘司『火附盗賊改の研究史料編』(創文社、1998年)、高橋義夫『火付盗賊改』(中公新書、2019年)、高萩市『高萩市史』(高萩市、1969年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
御先手頭 おさきてがしら
勘解由 かげゆ
附家老 つけがろう:幕府直属の家老
関東取締出役 かんとうとりしまりしゅつやく:八州廻り



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