よどごろう【淀五郎】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

実話が基に。
「四段目」「中村仲蔵」と並ぶ忠臣蔵の芝居噺。

別題:中村秀鶴

【あらすじ】

ある年の暮れ。

「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。

由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、代役を立てなければならない。

団蔵、鶴の一声で「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」

その沢村淀五郎は芝居茶屋の息子で、相中といわれる下回り役者。

判官の大役をさせられる身分ではない。そこで急遽、当人を名題に抜擢する。

淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。

いよいよ初日。

三段目のけんか場までなんとか無事に済み、見せ場の四段目・判官切腹の場になった。

淀五郎扮する判官が浅黄の裃、白の死装束で切腹の場へ。

本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、それを合図に花道からバタバタと、団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、舞台中央に来て
「御前」
「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵は
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。

幕が閉まってから、おそるおそる団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」

帰宅して工夫したが、翌日も同じ。

こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」

物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。

どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、その足で仲蔵を訪ねる。

仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。

悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。

「おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、五万三千石の大名の無念さが伝わらない。判官が刀を腹に当てるとき、膝頭から手を下ろすと品がない」
などと、心、型の両面から親切に助言し、励まして帰す。

翌日。

三段目が済むと団蔵が驚いた。

「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。おらァ、本当に斬られるかと思った」

こうなると四段目が楽しみになる。出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」

ツツツと近寄って
「御前」

淀五郎、花道を見るといないから、今日は出てもこないかと、がっかり。

それでも声がしたようだが、と見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」

【しりたい】

円生、正蔵、志ん生と百花繚乱  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。

明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は変わっていません。

オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが、芸道ものの大ネタです。

戦後では八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。

円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、微に入り細をうがって詳しいのが特色です。

正蔵の速記では省かれていますが、円生にならって判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと注意を入れる演者が多くなっています。

オチの後、正蔵は「こりゃ本当に待ちかねました」とダメを押しましたが、円生はムダとして省いています。

志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、詳細すぎる説明をカットし、人情噺のエキスを保ちながら、軽快なテンポで十八番の一つとしました。

その下の世代でも、円楽、志ん朝などが掛けていました。

今でも、小朝らベテランから中堅、若手に至るまで多くの演者に高座に掛けられています。

八代目正蔵のやり方は、門下の八光亭春輔がもっとも忠実に継承しています。

イジワル団蔵は何代目か  【RIZAP COOK】

「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵でこの異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)です。

芸がいぶし銀のように渋かったことからで、六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが、これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。

噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は四代目が正しいことになるのですが。

実録・淀五郎  【RIZAP COOK】

実在の沢村淀五郎は、初代から三代目まで数えられます。

三代目は、前記四代目団蔵が没した1か月後に襲名しているので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。

忠臣蔵評判記『古今いろは談林』の「安永8年(=1779年)森田座」の項に「塩冶判官 沢村淀五郎 大星由良之助 市川団蔵」という記録があります。

三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという記録はなく、これはフィクションでしょう。

仲蔵は東西に二人  【RIZAP COOK】

同題の芸道噺に主役で登場します。詳しくは「中村仲蔵」をお読みください。

初代仲蔵の生涯について興味のある方には、松井今朝子の小説『仲蔵狂乱』(講談社文庫)にビビッドに描かれていてます。

同時代に同名の中村仲蔵がもう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗っていました。

この人は屋号「姫路屋」で通称「白万」。実事を得意とし、寛政9年(1797)に没しています。

以来、江戸東京と上方にそれぞれ四代目までの仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは明治14年(1881)でした。

一般に、江戸の初代、三代、大坂の初代、四代が名高いと語り草です。

現在、仲蔵の名跡は空き名跡です。勘五郎から平成元年(1989)4月に襲名した五代目が、平成4年(1992)12月に没して以来、名乗りはいません。

「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」「中村仲蔵」をお読みください。

江戸三座  【RIZAP COOK】

市村座、中村座、森田座の江戸三座は天保の改革で、天保13年(1842)、猿若町(台東区浅草六丁目)に強制移転。

天保の改革の一環ででした。町名もその時に付けられました。

ことばよみいみ
相中あいちゅう

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なかむらなかぞう【中村仲蔵】落語演目

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古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック  

【どんな?】

役者が主人公の噺。
法華信仰がほの見えます。
芝居と信仰の濃い関係が。

別題:蛇の目傘

あらすじ

明和3年(1766)のこと。

苦労の末、名題に昇進にした中村仲蔵は、「忠臣蔵」五段目の斧定九郎役をふられた。

あまりいい役ではない。

五万三千石の家老職、斧九太夫のせがれ定九郎が、縞の平袖、丸ぐけの帯を締め、山刀を差し、ひもつきの股引をはいて五枚草鞋。

山岡頭巾をかぶって出てくるので、どう見たって山賊の風体。

これでは、だれも見てくれない。

そこで仲蔵、
「こしらえに工夫ができますように」
と、柳島の妙見さまに日参した。

満願の日。

参詣後、雨に降られて法恩寺橋あたりのそば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできた。

年のころは三十二、三。月代が森のように生えており、黒羽二重の袷の裏をとったもの、これに茶献上(献上博多)の帯。

艶消し大小を落とし差しに尻はしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰にはさみ、破れた蛇の目をポーンとそこへほうりだす。

月代をぐっと手で押さえると、たらたらとしずくが流れるさま。

この姿に案を得た仲蔵は、拝領の着物が古くなった感じを出すべく、黒羽二重を羊羹色にし、帯は茶ではなく白献上、大小は艶消しではなく舞台映えするように朱鞘、山崎街道に出る泥棒が雪駄ではおかしいので福草履に変えて、こしらえが完成。

初日は、出番になる直前に手桶で水を頭からかけ、水のたれるなりで見得を切った。

初日の客は、あまりの出来にわれを忘れ、ただ息をのむばかり。

場内は水を打ったような静けさ。

これを悪落ちしたと勘違いした仲蔵は葭町の家に戻り、
「もう江戸にはいられない。上方に行くぜ」
と、女房のおきしに旅支度をととのえさせる始末。

そこへ、師匠の中村伝九郎から呼ばれる。

行ってみると、師匠は仲蔵の工夫をほめたばかりか、仲蔵の定九郎の評判で客をさばくのに表方がてんてこまいしたとのこと。

これをきっかけに芸道精進した中村仲蔵は、名優として後世に名を残したという話。

めでたし、めでたし。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

初代中村仲蔵   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

1736-90年。江戸中期の名優です。

屋号は栄屋、俳号は秀鶴しゅうかく。長唄の太夫、中山小十郎の女房に認められて養子に。

器量がよかったので、役者の中村伝九郎の弟子になり、三味線弾きの六代目杵屋喜三郎きねやきさぶろうの娘おきしと結婚。

努力の末、四代目市川団十郎に認められ、厳しい梨園りえんの身分制度、門閥の壁を乗り越えて名題となりました。

実録では、立作者の金井三笑かないさんしょうに憎まれたのが定九郎役を振られた原因とか。

初代中村仲蔵

定九郎の扮装   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

定九郎の、扮装を含む演出は、仲蔵の刷新によって一変したわけではありません。

仲蔵以後、かなりの期間、旧来のものが並行して演じられていたようです。

特に、定九郎の出で、与一兵衛の後ろのかけ藁に隠れていて白刃を突き出し、無言で惨殺するやり方は、明らかにずっと後世のもので、それまでは後ろから「オーイオーイ」と呼びながら現れる従来の演出がずっと残っていたわけです。

その切り替わりの時期、誰が工夫したのか、仲蔵の工夫は本当に噺通りだったのかは諸説あります。

タネ本   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

国立劇場編『名優芸談集』所収の「東の花勝見」(文化12=1815年11月刊、永下堂波静編)に、ほとんど同じ逸話が、仲蔵本人から西川鈍通(伝未詳)への直話として書かれています。

つまり、仲蔵が鈍通に語った話をそのまま、予(=永下堂)が直接聞いた通りに記した、とあります。

参詣した場所に関しては王子稲荷、浪人を見た場所は、その帰りの道灌山下どうかんやました通り稲荷森とうかもり(とうかもり)とあります。

仲蔵本人の直話とあれば、記憶違いや伝聞に伴う誤記でなければ、こちらが正しいのでしょう。

衣装の工夫については、今日の演者が誰でも説明する通り、大縞の木綿広袖に丸ぐけ帯、狩人のかぶる麻苧あさお山岡頭巾やまおかずきん脚絆草鞋きゃはんわらじの従来の形から、「今は誰にても黒小袖に傘となりしは、此時このときより始る」とあるので、少なくともこの出で立ちに関しては文化年間にはもう定着していたようです。

仲蔵のこの逸話については、落語以外にもさまざまにあることないこと脚色され、まことしやかに書かれています。

戸板康二の短編小説「夕立と浪人」は、小説の形を取りながら、当時の劇壇の事情やヒエラルキー、仲蔵の出自や幼時の虐待の回想、初代菊五郎や五世團十郎だんじゅうろうとの人間関係などを織り交ぜ、ただの芸道苦心譚には終わらない優れた人間ドラマとなっています。

この中では、定九郎役を仲蔵に振るように、親友の団十郎がボスの菊五郎に使嗾しそうする(けしかける)設定で、浪人への遭遇はやはり柳島妙見願掛け満願の帰り、地内のそば屋のできごととしてあります。

芝居者のいじめ   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

以下は、前掲「夕立と浪人」の中で、初代中村仲蔵が後輩に語る、自らが幼時に受けたすさまじいいじめの実状です。もちろんフィクションの形ですが、なかなか真に迫っています。以下、引用です。

子役の時によくやられたのは、長持を背負わされる折檻だ。小道具の刀だの鏡だのがらくたをみんながおもしろそうに入れて、うんと重くなったやつを、連尺れんじゃく(背につけて物を担ぐ道具)で背負わされ、ここから向うに飛べと、板の間の板を、あいだ八枚はずして、いうのだ。

(飛べなければ)あいだに長持を背負ったまま、落っこちるのだ。(中略)義経の八艘飛びというのだ。

十五の声がわりになってからのでは、編笠責めというのがある。三階の連中の草履をからげて、頭にかぶらせるのだ。それから撞木責めというのがある。梁に吊り下げられて、みず(ぞ)おちを小づかれるんだ。こっちが釣鐘になっているんだ。

人間、いつの時代もトラウマと恨みつらみを背負って、駆け上がっていくのでしょうか。

手前味噌   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

この噺は、江戸末期-明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809-85)の自伝的随筆『手前味噌』の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものでしょう。

悟道軒円玉ごどうけんえんぎょく(浪上義三郎、1866-1944)の「名人中村仲蔵」と」題する速記も残っていて、落語と同内容ですが、仲蔵の伝記がさらに詳しくなっています。円玉は明治の講釈師で速記講談のパイオニアでもある人物です。

近年では、松井今朝子の伝記小説『仲蔵狂乱』(講談社、1998年)が、仲蔵の苦悩の半生を描くとともに、当時の歌舞伎社会のいじめや差別、被差別のすさまじさ、役者の売色の生々しい実態などをリアルに活写した好著です。

役者の身分   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

当時の役者は、下立役したたちやく/rt>(=稲荷町いなりまち)→中通り→相中あいちゅう相中上分あいちゅうかみぶん名題下なだいした名題なだいと、かなり細かく身分が分かれ、芝居系統のない者は、才能や実力にかかわらず、相中に上がれれば御の字。名題はおろか、並び大名役がせいぜいの名題下にすらまず一生なれないのが普通でした。

五段目   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

「仮名手本忠臣蔵」五段目、通称「鉄砲渡し」の場の後半で、元塩冶判官(浅野内匠頭)家来で今は駆け落ちした妻・お軽の在所・山崎で猟師をしている早野勘平が、山崎街道で猪と間違え、斧定九郎を射殺する有名な場面です。

定九郎の懐には、前の場でお軽の父・与市兵衛を殺して奪った五十両が入っており、それは、婿の勘平に主君の仇討ち本懐を遂げさせるためお軽が祇園に身を売って作った金。何も知らない勘平はその金を死骸から奪い……。

というわけで、次幕・六段目、勘平切腹の悲劇の伏線になりますが、噺の中で説明される通り、かってはダレ場で、客は芝居を見ずに昼食をとるところから「弁当幕」と呼ばれていたほど軽い幕でした。

柳島の妙見さま   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

日蓮宗の寺院、法性寺の別称。墨田区業平にあります。役者・芸者など、芸能者や浮き草稼業の者の信仰が厚いことで知られました。妙見は北極星の化身とされます。

正蔵と円生   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

戦後では、八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生という江戸人情噺の二大巨匠がともに得意としました。

円生は、役者の身分制度などをマクラで細かく、緻密に説明し、芝居噺の「家元」でもあった正蔵は、滋味溢れる語り口で、芝居場面を忠実に再現しました。

最近では、五街道雲助のが光ります。

正蔵のオチ   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

もともと、この噺は人情噺なのでオチはありません。ただ、正蔵の付けたものがあります。

師匠からたばこ入れをもらって帰宅した仲蔵に女房おきしが、「なんだね、おまえさん。いやですねえ。あたしを拝んだりして。けむに巻かれるよう」と言うと仲蔵が「けむに巻かれる? ……ああ、もらったのァ、たばこ入れだった」

【語の読み】
名題 なだい
定九郎 さだくろう
釜九太夫 おのくだゆう
縞の平袖 しまのどてら
丸ぐけの帯
山刀 やまがたな
股引 ももひき
草鞋 わらじ
山岡頭巾 やまおかずきん
風体 ふうてい
法恩寺橋 ほうおんじばし
月代 さかやき
黒羽二重 くろはぶたえ
袷 あわせ
茶献上 ちゃけんじょう
雪駄 せった
蛇の目 じゃのめ
拝領 はいりょう
羊羹色 ようかんいろ
朱鞘 しゅざや
山崎街道 やまざきかいどう
福草履 ふくぞうり
手桶 ておけ
見得 みえ
悪落ち あくおち
葭町 よしちょう
中村伝九郎 なかむらでんくろう
稲荷森 とうかもり

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】

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よだんめ【四段目】落語演目

  【RIZAP COOK】  

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【どんな?】

『忠臣蔵』四段目、判官切腹の場が題材。
芝居好きのおかしさ爆発。

別題:芝居道楽 野球小僧 蔵丁稚(上方)

あらすじ

小僧の定吉は芝居好き。

今日もお使いに出たきり戻らないので、だんなはカンカン。

この前、だんなが後をつけて、芝居小屋に入るのを見届けているので、言い訳はきかない。

「今日こそはみっちり小言を言います」
と、だんなが待ち構えているのも知らず、定吉、ご機嫌でご帰還。

問いただされると、
「日本橋の加賀屋さんへ伺っておりまして、『今日は伺いかねる用がありますから、両三日中に伺いますのでよろしく』と、おっしゃいました」
と言い訳するが、当の加賀屋のだんながつい先刻まで来ていたのだから、とうにバレている。

それでもめげずに、
「あたしは芝居なんて嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、実に、この、けしからんもんで」

往生際が悪いので、だんなは一計を案じ、
「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、おまえは留守番だ」
と言い渡す。

定吉が焦り出すのを見て、
「今度の歌舞伎座の『忠臣蔵』は、歌右衛門の師直と勘三郎の与市兵衛の評判がいいそうだ」
とカマをかけると、たちまち罠にかかった。

「女方の歌右衛門が敵役の師直なんぞ、やるわけがねえ。あたしは今見てきました」
「この野郎ッ。こういうやつだ。今日という今日は勘弁なりません」

二、三日蔵へ。

「出してはなりません」
と、だんなの厳命で、定吉はとうとう幽閉の身。

しかたなく、今日見てきた『忠臣蔵』四段目・判官切腹の場を一人芝居で演じて気を紛らわしているうち、車輪になって熱が入り、
「御前ッ」
「由良之助かァ、待ちかねたァ」
とやったところで、腹が減ってどうしようもなくなった。

番頭が握り飯をこっそり差し入れてくれると約束したのに、忘れてしまったらしく、いっこうに届かない。

こうなれば、本格的に芝居をして空腹を忘れようと、蔵の箪笥を探すと、うまい具合に裃とお膳が出てきた。          

その上、ご先祖が差した九寸五分の短刀まであったから、定吉、大喜びで、お膳を三宝代わりに
「力弥、由良之助は」
「いまだ参上、つかまつりませぬ」
「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」
と九寸五分を腹へ。

そこへ女中がようすを見にきて、定吉が切腹すると勘違い。

あわててご注進すると、だんなも仰天。

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだ、間違いがあってはならない」
と、自分で鉢を抱えて、蔵の前にバタバタバタ。

戸前をガラリと開けると
「ご膳(御前)ッ」
「蔵のうちで(由良之助)かァ」
「ははッ」
「待ちかねたァ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

日本一の猪?  【RIZAP COOK】

天明8年(1788)刊江戸板『千年草』中の「忠信蔵」が原話で、上方落語「蔵丁稚」が東京に移されたものです。

原話の小咄では、商家の若だんなが丁稚を連れてお呼ばれに行き、早く着きすぎたので二人とも腹ペコ。そこで声色で忠臣蔵ごっこをして気をまぎらわそうとし、熱が入って「いまだ参上……」のセリフになったとき二階で「もし、御膳をあげましょう」の声。若だんなが「まま(飯)待ちかねたわやい」というもの。

上方の「蔵丁稚」は、船場の商家が舞台で、筋は同じですが、桂米朝では、だんなが「雁治郎と仁左衛門が五段目の猪をやる。日本一のイノシシや」とだまします。

東京のやり方  【RIZAP COOK】

明治32年(1899)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の速記では「碁泥」につなげて演じられています。六代目文治は芝居好きで知られます。

定吉が芝居小屋で赤ん坊の尻をこっそりつねって泣かせ、そのたびにあやそうと乳母が差し出す食べ物を失敬するという場面が前についていますが、この部分は現在は省かれます。

昭和に入ってからは、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)がよく演じましたが、現在はそれほど演じられていないようです。

仮名手本忠臣蔵  【RIZAP COOK】

人形浄瑠璃としては赤穂浪士の討ち入りから半世紀ほどを経た寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演されました。

二世竹田出雲(1691-1756、浄瑠璃作者、千前軒、外記)、並木宗輔(1695-1751、浄瑠璃作者、初代並木千柳)、三好松洛(?-1771、浄瑠璃作者)の合作で、歌舞伎では翌寛延2年2月、江戸森田座の上演が僅差でもっとも早いようです。記念すべき初代の大星由良之助役は山木京四郎、塩冶判官役は花井才三郎と、記録にあります。

四段目・判官切腹の場は、前段の高師直(=吉良上野介)への刃傷で切腹を命じられた塩冶判官(=浅野内匠頭)が九寸五分の短刀を腹に突き立てたとたん、花道からバタバタと大星由良之助(=大石内蔵助)が駆けつける名場面です。

江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用しました。

ちなみに、二世竹田出雲、並木宗輔、三好松洛の3人は、義太夫狂言の三大名作とされる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』とを作り上げた竹本座の作者です。

改作と類話  【RIZAP COOK】

二代目三遊亭円歌が芝居を現代風に野球に代え、「野球小僧」と改作したものを演じていました。

上方では、発端は「蔵丁稚」と同じですが、番頭が店の金を使い込んで女と芝居を見ていることを丁稚がだんなにバラし、番頭がクビになる「足あがり」があります。

忠臣蔵の噺  【RIZAP COOK】

「忠臣蔵」を題材とした噺は多くあります。「二段目」「五段目」「六段目」「七段目」「九段目」についても同題の噺があるほか、十段目についても艶笑小咄「天河屋義平」があります。現在演じられるのは「四段目」と「七段目」くらいで、たまに別題「吐血」の「五段目」が「蛙茶番」ほか、芝居を扱った噺のマクラに振られます。

ことばよみいみ
蔵丁稚くらでっち
師直もろなお
高師直 こうのもろなお
与市兵衛 よいちべえ
箪笥 たんす
裃 かみしも
塩冶判官 えんやはんがん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ

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しじみうり【蜆売り】落語演目

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【どんな?】

白浪物(盗賊の物語)。
鼠小僧がふとしたことでの一件。
かつての因果がわかった。
その侠気から自首する噺。

【あらすじ】

ご存じ、義賊ぎぞく鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきち

表向きの顔は、茅場町かやばちょうの和泉屋次郎吉という魚屋。

ある年の暮れ、芝白金の大名屋敷の中間部屋ちゅうげんべやで三日間博奕三昧ばくちざんまいの末、スッテンテンにむしられて、外に出ると大雪。

藍微塵あいみじん結城ゆうきあわせの下に、弁慶縞べんけいじま浴衣ゆかたを重ね、古渡こわたりの半纏はんてんをひっかけ、素足に銀杏歯いちょうば下駄げた、尻をはしょって、濃い浅黄あさぎ手拭たぬぐいでほおっかぶりし、番傘ばんがさをさして新橋の汐留しおどめまでやってきた。

なじみの伊豆屋という船宿で、一杯やって冷えた体を温めていると、船頭の竹蔵がやはり博奕で負けてくさっているというので、なけなしの一両をくれてやるなどしているうち、雪の中を、年のころはやっと十ばかりの男の子が、汚い手拭いの頬かぶり、ボロボロの印半纏しるしばんてん、素足に草鞋わらじばきで、赤ぎれで真っ赤になった小さな手にざるを持ち、「しじみィー、えー、しじみよォー」

渡る世間は雪よりも冷たく、誰も買ってやらず、あちこちでじゃまにされているので、次郎吉が全部買ってやり、しじみを川に放してやれと言う。

喜んで戻ってきた子供にそれとなく身の上を聞くと、名は与吉といい、おっかァと二十三になる姉さんが両方患っていて、自分が稼がなければならないと言う。

その姉さんというのが新橋は金春の板新道じんみちで全盛を誇った、紀伊国屋の小春という芸者だった。

三田の松本屋という質屋の若だんなといい仲になったが、おかげで若だんなは勘当。

二人して江戸を去る。

姉さんは旅芸者に、若だんなの庄之助は碁が強かったから、碁打ちになって、箱根の湯治場とうじばまではるばると流れてきた。

亀屋という家で若だんなが悪質なイカサマ碁に引っ掛かり、借金の形にあわや姉さんが自由にされかかるところを、年のころは二十五、六、苦み走った男前のだんながぽんと百両出して助けてくれた上、あべこべにチョボイチで一味の金をすっかり巻き上げて追っ払い、その上、五十両恵んでくれて、この金で伊勢詣りでもして江戸へ帰り、両親に詫びをするよう言い聞かせて、そのまま消えてしまったのだという。

ところが、この金が刻印を打った不浄金(盗まれた金)であったことで、若だんなは入牢、姉さんは江戸に帰されて家主預けとなったが、若だんなを心配するあまり、気の病になったとのこと。

話を聞いて、次郎吉は愕然がくぜんとなる。

たしかに覚えがあるのも当然、その金を恵んだ男は自分で、幼い子供が雪の中、しじみを売って歩かなければならないのも、もとはといえばすべて自分のせい。

親切心が仇となり、人を不幸に陥れたと聞いては、うっちゃってはおかれねえと、それからすぐに、兇状持きょうじょうもちの素走すばしりの熊を身代わりに、おおそれながらと名乗って出て、若だんなを自由の身にしたという、鼠小僧侠気きょうきの一席。

【しりたい】

白浪講談を脚色

幕末から明治にかけての世話講談の名手で、盗賊ものが得意なところから、異名を泥棒伯円といった二代目松林伯円しょうりんはくえん(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905、新聞伯円、泥棒伯円)が、鼠小僧次郎吉の伝説をもとに創作した長編白浪(=盗賊)講談の一部を落語化したものです。

戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意にしました。

ほかに上方演出で、大阪から東京に移住した二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が音曲入りで演じました。

大阪のオチは、

「親のシジメ(しじみ=死に目)に会いたい」

と地口(=ダジャレ)で落とします。また、二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)は主人公を鼠小僧でなく、市村三五郎という大坂の侠客で演じていました。

実録・鼠小僧次郎吉

天保3年(1832)旧暦5月8日、浜町の松平宮内少輔まつだいらくないしょうゆうさま(松平忠恵ただしげ)の上野小幡藩こうずけおばた藩中屋敷で「仕事」中、持病の喘息ぜんそくの発作が起きてついに悪運尽き、北町奉行・榊原主計頭さかきばらかずえのかみさま(榊原忠之)のお手下に御用となりました。

その生涯の記録は、出撃回数122回うち、大名屋敷95か所、奪った金額3,085両3分(判明分のみ)、という不滅の金字塔です。おそらく、被害総額は実際には4,000両近くにのぼるでしょう。

お上のお取り調べでは、そのうち3,121両2分をきれいに使い果たし、窮民になどに一文も施していません。

鼠小僧次郎吉の最期

お縄(逮捕)になったときは、深川富岡門前山本町ふかがわとみおかもんぜんやまもとちょう(江東区門前仲町、俗称で表櫓おもてやぐら裏櫓うらやぐら裾継すそつぎに区分け)の水茶屋主人、半次郎方に居候いそうろうしていました。

同年天保3年旧暦8月7日、市中引き回しの上、鈴が森で磔刑たっけい(はりつけ)。享年35、離婚暦3回でした。墓は本所回向院えこういんにあります。

歌舞伎の鼠小僧

黙阿弥が、ほぼ講談の筋通りに脚色、安政4年(1857)正月の市村座に「鼠小紋春君新形ねずみこもんはるのしんかた」として書き下ろし、上演しました。

芝居では、お上をはばかり、鼠小僧は稲葉幸蔵。

四代目市川小団次(栄太また栄次郎、1812-1866、高島屋)が扮しました。末の世話狂言の名人です。

蜆売りの少年は芝居では三吉。演じたのは五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903、音羽屋)で、当時満12歳。のちの明治の名優です。

後見人の中村鴻蔵と浅草蛤河岸まで出かけ、実際の蜆売りの少年をスカウトして、家に呼んで実演してもらったという逸話があります。

その子の六代目尾上菊五郎(寺島幸三、1885-1949、音羽屋)も、やはり子役の三吉役のとき、雪の冷たさを思い知らせるため、父親に裸足で雪の庭に突き落とされてしごかれたそうです。今なら完全にドメスティックバイオレンスですが。

ちなみに、本所回向院の鼠小僧の墓はむろん本物ではなく、供養墓です。

明治9年(1876)6月、市川団升なる小芝居の役者が、鼠小僧の狂言が当った御礼に、永代供養料十円を添え、「次郎太夫墳墓」の碑銘で建立したものです。

磔の重罪人は屍骸取り捨てが当たり前で、まともな墓など建てられなかったのです。



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はつねのつづみ【初音の鼓】落語演目 

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【どんな?】

歌舞伎『義経千本桜』中。
有名な「狐忠信」のパロディーです。

別題:ぽんこん

【あらすじ】

骨董好きの殿さまのところに、出入りの道具屋・金兵衛が怪しげな鼓を売り込みに来る。

側用人の三太夫に、これは下駄の歯入れ屋のじいさんが雨乞いに使っていた鼓で、通称「初音の鼓」という。

「じいさんが今度娘夫婦に引き取られて廃業するので形見にもらった」と説明。

これを殿さまに百両でお買い上げ願いたいと言うから、三太夫はあきれた。

なにしろこの金兵衛、先日も真っ黒けの天ぷら屋の看板を、慶長ごろの額と称して、三十両で売りつけた「実績」の持ち主。

金兵衛、殿さまの身になれば、「狐忠信」の芝居で名高い「初音の鼓」が百両で手に入れば安いもので、一度買って蔵にしまってしまえば、生涯本物で通ると平然。

「もし殿が、本物の証拠があるかと言われたら、どうする」
「この鼓を殿さまがお調べになりますと、その音を慕って狐がお側の方に必ず乗り移り、泣き声を発します、とこう申し上げます」
「乗り移るかい」
「殿さまがそこでポンとやったら、あなたがコンと鳴きゃ造作もないことで」

三太夫、
「仮にも武士に狐の鳴きまねをさせようとは」
と怒ったが、結局、一鳴き一両で買収工作がまとまる。

殿さまポンの三太夫コンで一両。

ポンポンのコンコンで二両、というわけ。

早速、金兵衛を御前に召し連れる。

話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。

「これこれ、そちはただ今こんと申したが、いかがいたした」
「はあ、前後忘却を致しまして、いっこうにわきまえません」

「ポンポン」
「コンコン」
「また鳴いたぞ」
「前後忘却つかまつりまして、いっこうに」
「ポンポンポン」
「コンコンコン」
「ポンポン」
「コンコンコンコン」
「これ、鼓はとうにやめておる」
「はずみがつきました」

「次の間で休息せよ」
というので、二人が対策会議。

いくつ鳴いたか忘れたので、結局、折半の五十両ずつに決めたが、三太夫、鳴き疲れて眠ってしまい、ゆすっても起きない。

そこへ殿さまのお呼び出し。

一人で御前へ通ると、殿さまが
「今度はそちが調べてみい」

さあ困ったが、今さらどうしようもない。

どうなるものかと金兵衛が「ポン」とたたくと、殿さまが「コン」。

「殿さま、ただ今お鳴きに」
「何であるか、前後忘却して覚えがない」
「ありがとうさまで。ポンポンポン、スコポンポン」
「コンコンコン、スココンコン」
「ポンポン」
「コンコン……。ああ、もうよい。本物に相違ない。金子をとらすぞ」

「へい、ありがとうさまで」

金包みを手に取ると、えらく軽い。

「心配するな。三太夫の五十両と、今、身が鳴いたのをさっ引いてある」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

歌舞伎のパロディー 【RIZAP COOK】

古風な噺で、歌舞伎や文楽のファンにはなじみ深い『義経千本桜』の「狐忠信」のくだりのパロディーです。

「初音の鼓」はその前の場「吉野山」で、落ち行く義経が愛妾の静御前に形見に与える狐革の鼓をさします。

義経は、逃避行に足手まといとなるだろうと、静御前を吉野の山中に置き去りにします。

その際、初音の銘のある鼓を形見の品として静に与えました。

紫檀の胴に羊の皮を張った中国渡来の名器です。とは、『義経記』に載っています。

狐忠信とのかかわり   【RIZAP COOK】

『義経記』記載から転じて『義経千本桜』では、鼠退治に功労あった狐の皮でつくったその鼓を、親への愛惜の情を抱く子狐が、義経の忠臣、佐藤忠信に化けて静(初音の鼓を所持している)を守りながらにお供をするという筋立てに変えています。

鼓を奪おうとしますが、見破られ、静の打つ鼓の音で正体を現すのです。

子狐が涙ながらに述懐するくだりこそ、「狐忠信」の通称で知られる名場面でしょう。

「初音」の意味は、その浄瑠璃の詞章に「狐は陰の獣ゆえ、雲を起こして降る雨の、民百姓が喜びの声を初めてあげしより」に由来します。

噺の中で下駄屋の爺さんが雨乞いをしたのは、天気だと皆わらじばかり履き、下駄の歯がすりきれないから。

林家彦六がよく演じましたが、立川談志も持ちネタにしていました。

殿さま、金兵衛、三太夫みんな仲良しで、誰もがうそを承知で遊び戯れているような、ほのぼのと捨てがたい味わいが。別話の「継信」も、別題が「初音の鼓」なので、区別してこの噺は「ぽんこん」とも呼ばれています。

さらに猫忠も   【RIZAP COOK】

「初音の鼓」はここまでの筋立てですが、三味線に張った皮の猫の子と変えたのが「猫の忠信」(猫忠)となります。

酒を「ただ飲む」猫の忠信、駿河屋の次郎吉で駿河次郎、亀屋の六兵衛で亀井六兵衛、弁慶橋に住む吉野屋の常兄いで義経、常磐津文字静で静御前というふうに、登場人物も「義経記」や「義経千本桜」に沿ってあります。

猫忠

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おそかりしゆらのすけ【遅かりし由良之助】むだぐち ことば



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「由良之助か、遅かったァ」という絶句のしゃれ。それだけ。

遅刻をたしなめることばとして、歌舞伎ファンでなくてもたまに使われています。

戦前までの東京では、生活の至るところに歌舞伎のにおいがあったようです。

日常会話の端々に芝居の名セリフや、そのもじりがごく普通に使われていたわけです。

なかでも『仮名手本忠臣蔵』となると、どんなワキのセリフでも、骨の髄までしゃぶり尽くされていました。

これもその一つ。

「四段目」、塩冶判官が腹に九寸五分を突き立てたところで、花道から家老の大星由良之助がバタバタ。

そこで「由良之助か、遅かったァ」となるわけです。

もっともこれは実際の判官のセリフではなく、客席の嘆きの声なのですが。

これが遅刻をたしなめることばとして定着。

といっても本気ではなく、相手をからかうしゃれことばとなったものです。

逆に、遅刻した側のわびごとは、その前の「三段目」喧嘩場での判官のセリフ「遅なわりしは拙者の不調法」。

バレ小咄では、由良之助が髪を下ろした瑤泉院にお慰み用張り形(女性用婬具)を献上。そのサイズが合わず「細かりし由良之助」。



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いいまのふり【いい間の振り】ことば

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徹底的に否定的なニュアンスで「気取って」「きざったらしく」「半可通に」という悪口。

「いい間」というのはやはり、歌舞伎から来ているのでしょう。

役者が絶妙の間(タイミング)で見栄を切るのをまねて、オツに気取って見栄を張り、上から目線で鼻持ちならない粋人気取りのことです。

勘違いでおのれに酔いしれているような人間は、今の世にも掃いて捨てるほどいますね。

おれもいい間のふりをして、ああ、弥助でもいれな、なんて高慢なつらをしたんだが。    

   五人廻し

【語の読みと注】
弥助 弥助:すし

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ごかいどうくもすけ【五街道雲助】噺家




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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1968年2月、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)に
【前座】1969年、金原亭駒七
【二ツ目】1972年11月、六代目五街道雲助
【真打ち】1981年3月
【出囃子】箱根八里
【定紋】剣片喰、裏梅
【本名】若林恒夫
【生年月日】1948年3月2日
【出身地】東京都墨田区本所
【学歴】明治大学商学部中退
【血液型】B型
【ネタ】円朝噺 猫定 宮戸川 など
【出典】公式 Wiki 落語協会 Twitter
【蛇足】趣味はトライクでツーリング、自宅で映画鑑賞、シュノーケリング。現在望み得る最高の噺家。重要無形文化財保持者(人間国宝)の見通し(2023年7月21日付)。歴代4人目。





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きんかくではいけんならばいいつてがある【金角で拝見ならばいい伝手がある】むだぐち ことば

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金閣寺と金角のしゃれ。

毎度おなじみ、将棋のむだぐち。

金と角で攻めている(または攻められている)ときのものか、あるいは「拝見」から、手駒を見せてくれと言われた場合の反応か、具体的に詳しい状況は不明です。

元は『仮名手本忠臣蔵』九段目「山科閑居の場」の、大星の女房お石のセリフそのまま。

娘の小浪を、婚約中の大星の嫡男力弥と祝言させる談判に、はるばる鎌倉から訪ねてきた加古川本蔵の後妻、戸無瀬。

応対に出たお石はもとよりその気はなし。

はぐらかすように親切ごかしに「祇園清水知恩院、大仏様ご覧じたか。金閣寺拝見ならば、よい伝手があるぞえ」。

ということで、戸無瀬ともどもお疲れさま。

金角のむだぐちはほかに「金閣寺の和尚さま」「金角寺の和尚さま」などがあります。

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