【淀五郎】よどごろう 落語演目 あらすじ
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【どんな?】
実話が基に。
「四段目」「中村仲蔵」と並ぶ忠臣蔵の芝居噺。
別題:中村秀鶴
【あらすじ】
ある年の暮れ。
「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。
由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、代役を立てなければならない。
団蔵、鶴の一声で「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」
その沢村淀五郎は芝居茶屋の息子で、相中といわれる下回り役者。
判官の大役をさせられる身分ではない。そこで急遽、当人を名題に抜擢する。
淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。
いよいよ初日。
三段目のけんか場までなんとか無事に済み、見せ場の四段目・判官切腹の場になった。
淀五郎扮する判官が浅黄の裃、白の死装束で切腹の場へ。
本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、それを合図に花道からバタバタと、団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、舞台中央に来て
「御前」
「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵は
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。
幕が閉まってから、おそるおそる団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」
帰宅して工夫したが、翌日も同じ。
こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」
物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。
どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、その足で仲蔵を訪ねる。
仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。
悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。
「おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、五万三千石の大名の無念さが伝わらない。判官が刀を腹に当てるとき、膝頭から手を下ろすと品がない」
などと、心、型の両面から親切に助言し、励まして帰す。
翌日。
三段目が済むと団蔵が驚いた。
「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。おらァ、本当に斬られるかと思った」
こうなると四段目が楽しみになる。出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」
ツツツと近寄って
「御前」
淀五郎、花道を見るといないから、今日は出てもこないかと、がっかり。
それでも声がしたようだが、と見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」
【しりたい】
円生、正蔵、志ん生と百花繚乱 【RIZAP COOK】
原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。
明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は変わっていません。
オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが、芸道ものの大ネタです。
戦後では八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。
円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、微に入り細をうがって詳しいのが特色です。
正蔵の速記では省かれていますが、円生にならって判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと注意を入れる演者が多くなっています。
オチの後、正蔵は「こりゃ本当に待ちかねました」とダメを押しましたが、円生はムダとして省いています。
志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、詳細すぎる説明をカットし、人情噺のエキスを保ちながら、軽快なテンポで十八番の一つとしました。
その下の世代でも、円楽、志ん朝などが掛けていました。
今でも、小朝らベテランから中堅、若手に至るまで多くの演者に高座に掛けられています。
八代目正蔵のやり方は、門下の八光亭春輔がもっとも忠実に継承しています。
イジワル団蔵は何代目か 【RIZAP COOK】
「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵でこの異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)です。
芸がいぶし銀のように渋かったことからで、六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが、これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。
噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は四代目が正しいことになるのですが。
実録・淀五郎 【RIZAP COOK】
実在の沢村淀五郎は、初代から三代目まで数えられます。
三代目は、前記四代目団蔵が没した1か月後に襲名しているので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。
忠臣蔵評判記『古今いろは談林』の「安永8年(=1779年)森田座」の項に「塩冶判官 沢村淀五郎 大星由良之助 市川団蔵」という記録があります。
三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという記録はなく、これはフィクションでしょう。
仲蔵は東西に二人 【RIZAP COOK】
同題の芸道噺に主役で登場します。詳しくは「中村仲蔵」をお読みください。
初代仲蔵の生涯について興味のある方には、松井今朝子の小説『仲蔵狂乱』(講談社文庫)にビビッドに描かれていてます。
同時代に同名の中村仲蔵がもう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗っていました。
この人は屋号「姫路屋」で通称「白万」。実事を得意とし、寛政9年(1797)に没しています。
以来、江戸東京と上方にそれぞれ四代目までの仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは明治14年(1881)でした。
一般に、江戸の初代、三代、大坂の初代、四代が名高いと語り草です。
現在、仲蔵の名跡は空き名跡です。勘五郎から平成元年(1989)4月に襲名した五代目が、平成4年(1992)12月に没して以来、名乗りはいません。
「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」「中村仲蔵」をお読みください。
江戸三座 【RIZAP COOK】
市村座、中村座、森田座の江戸三座は天保の改革で、天保13年(1842)、猿若町(台東区浅草六丁目)に強制移転。
天保の改革の一環ででした。町名もその時に付けられました。
ことば | よみ | いみ |
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