「ええ」という返事のまぜ返し。
こんな具合でしょうか。
「あんた、今日は休みなのかい」
「絵は仲町切通し」
こんなどうでもよいことをわざわざことばにするのも洒落てます。さすがは江戸文化。
「絵は神明前」というバージョンもあります。こんな低レベルなら、いくらでもつくれますね。
500題超。演目ごと1000字にギュッと。深いところがよくわかる。
落語の演目に登場することばを解説します。独特の表現や転訛などでわかりにくくなっている、よく出てくることば500が対象です。
「きょろりかん」「きょろりんかん」はあっけにとられ、呆然とすること、またはなにが起きてもあっけらかん、けろりとしていること。
ことば尻の「かん」から鑵子=薬罐につなげ、さらに「お茶がわく」で、「へそが茶をわかす」の意味を効かせています。
ややニュアンスに違和感はあるものの、前者の意味で「あきれけえって物が言えねえ。お笑い草だ」となるでしょう。
別解釈では、ぼうっとしていて薬罐の茶がわいても気が付かない、とも。
鑵子は江戸では薬罐ですが、上方ではもっと大きな茶釜のこと。
どちらにせよ、意味は変わりません。
類似のむだぐちに「きょろりが味噌をなめる」「きょろりが味噌をねぶる」がありますが、こちらは第二の意味でポーカーフェイス、鉄面皮のたとえです。
「うるさい」というときのむだぐち。
ただ、それだけです。
火事場織とは、防火用として、大名などが着たラシャや革製の羽織をさします。
陣羽織ともいいます。
これは、身分のたかい人が着るものです。
羽織の種類は多岐にわたり、その羽織でどんな階層の人がわかるようになっていました。
たとえば、こんなかんじです。
袖丈よりも羽織丈の短い若衆の蝙蝠羽織。
市井の老人が着た袖無羽織=甚兵衛羽織。
袖丈と袖口が同じ長さの広袖羽織。
腰に差した刀や馬に乗る武士のための、腰から下が割れている背割羽織=打裂羽織。
幕末の洋式訓練に用いた筒袖羽織。
という具合に、使い方や階級・身分によって、その形態や素材など、さまざまでした。
「ええ、うそをつきゃあがれ」と軽く相手を突き放すときの軽口。
「うそをつく」と、江戸の地名の築地を掛け、さらに、その地にある本願寺とつなげています。
「うそを築地」と切ることも。
「門跡」は幕府が制定したもので、出家した皇族が住職を務める格式の高い寺院のこと。築地本願寺は西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)での唯一の直轄寺院です。
門跡に準じる「准門跡」の格ながら、俗にはやはり「ご門跡さま」と呼ばれます。中央区築地の場外市場には「門跡通り」があります。
江戸期にはこのあたりに寺院があったそうです。現在の建物は関東大震災(1923年)で焼失した後、昭和9年(1934)にできたもの。伊藤忠太の設計です。
ですから、旧築地市場一帯が本願寺の境内でした。地名から、このむだぐちは江戸東京限定です。
ほかに「うそを筑紫(つくし)」などとも言いました。
うそつきのむだぐちはけっこう多いもの。
「うその皮のだんぶくろ」「うそばっかり筑波山」……。ご存じ「うそつき弥次郎」などが代表例です。
「あにはからんや」は漢文体の「豈はからんや」で反語。「とうてい信じられない」「思いがけないことに」の意味です。
続く「弟醤油売り」は、幕府瓦解、廃藩置県後、プライドだけはまだ高い没落士族が、いまだに「豈はからんや」などと漢文口調で反り返っているのに、跡取りの長兄以外の次男、三男は、行商で醤油を売り歩くほど落ちぶれていると揶揄したもの。
「豈(あに)」は「兄」と掛け、後の「弟」と対比しています。したがってこれは明治初期、「士族の商法」の時代限定の言い回しですね。
江戸・東京の職人言葉で「あったりめえよ」といったところ。
「あたぼう」と同義です。
昭和の頃までは「あたりきしゃりき」まではまだ使われていましたが、「くるまひき」は聴いたことがありません。
今ではもう、ことば全部が滅亡種ですね。
「き」は単なる言葉癖で、「りき」から語呂合わせで「車力」を出しています。
車力も車曳も、もとは大八車を曳く都市部の労働者でした。
これが明治維新後、人力車を走らせる俥曳きの意味に転じました。
類似の言い回しとして、「車曳き」のところが「穴馬力」(荷馬車の意)「あんまの眼玉」などと変えられた例があります。
「緡」というのは 小銭が散らばらないように銭の穴に差し通した細い紐のことです。
藁や紙を縒ったものでできています。
両端に小さなこぶを作って止めて、百文や二百文単位にして、通して数えやすくしました。
お奉行さまからの下されるものは、紺に染めた麻縄で作られたもので、特製品でした。
この特製の緡には五貫(一両一分)の銭が通してあります。
町内で評判の高い孝行者や忠義者などに与えられました。
幕府からの褒賞金はこんな形で授けれたのです。
これをいただく人が出れば、町内の名誉となりました。
一両一分は、現在の約10万円に相当します。
お奉行さまのおっしゃるには、与太郎は愚かしき者なるが、親孝行のよし、かみに聞こえ、青緡五貫文のほうびをつかわす。以後、町役人五人組でいたわり面倒をみてとらせろ、というわけだ。
「味に」は「巧みに」で、「おつに」と似たニュアンス。「すげる」は継ぎ足す意味で、併せて、うまく言いつくろってごまかすこと。
「肥柄杓」は、調子を整えるために加えたもので、元の柄杓の柄に、また余計な柄(=屁理屈)をくっつけやがって、という非難。
肥は汚物の象徴なので、それだけ嫌悪感も増す勘定です。
歌舞伎では黙阿弥の世話狂言『髪結新三』の「永代橋の場」で「柄のねえところに柄をすげて、べらべら御託を抜かしゃがりゃ」とあります。
肥柄杓は、江戸では「こいびしゃく」と発音します。
この形はどちらかといえば、言葉遊び、むだぐちというより、なぞなぞを含んだしゃれ言葉、隠し言葉です。
たとえば、先代円楽が声を入れていたCMで「うでた(茹でた)卵で→かえりゃせぬ(=帰りゃせぬ)」の類。
この場合、謎解きは麻布、六本木の地名由来。昔麻布に六本の大木があったが、その所在はもう知れないことから「木」と「気」を掛け、麻布というだけで「気が知れない」=本心が解らない意味と言うわけ。
謎かけの兄弟分で、用例は無数。
江戸人の洒落っ気横溢で、日常で使う場合、答えをすぐ付けるのが普通です。
「いげ」は湯気で、古い江戸訛。
東京の下町では「う(u)」「ゆ(yu)」は「い」に近い発音に音韻変化して聞こえます。
「湯気にあがる」は、熱湯、長湯で湯にあたってのぼせる意。
したがって、「いつまで湯にへえってやがる。呆れ果てて物が言えねえ。こっちの方が焦れてのぼせてしっくりけえっちまう」という風に意訳できます。
「呆れ」に掛けた言葉遊びは、「呆れ蛙の頬被り」「呆れが御礼」「呆れが過ぎたらお正月」「呆れもは(果て)あいそ(愛想)もつ(尽きた)」「呆れ切幕トントン拍子」など多数あります。
「飽き」と「秋」を掛け、秋風が吹く頃、冷気が身にしみるように、男女の情愛がすっかり冷めきってしまうこと。
それに地名の「安芸(広島県)」をさらに掛けた、和歌では紋切り型のパターンです。
「安芸の宮島……」は、宮島(厳島)三島めぐりの有名な民謡そのままで、「浦は七浦七恵比寿」と続きます。
厳島神社の祭神は「宗像三女神」と呼ばれる田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命の女神三柱なので、この戯言の「飽き」が色事の結果なのは明(=安芸)らかですね。
江戸ではこの後に「気がもめ(=駒込)のお富士さん」と付けてダメを押します。
宗像大社は三つの神社で成り立つ複合神社です。宗像氏は安曇氏とともに海の民でした。
安曇氏は出雲族と手をむすんだため、出雲王国が崩壊する際、海の民を捨てて信州の山間にこもりました。
一方の宗像氏は天皇家と手をむすび、今日まで栄えたのです。
交通、商売、交流、繁栄をつかさどる人々です。大陸との橋渡しもしてきました。
宗像大社は以下の三つの社の総称です。
沖津宮 田心姫神(タゴリヒメ)
中津宮 湍津姫神(タギツヒメ)
辺津宮 市杵島姫神(イチキシマヒメ)
反抗期に掛かった子供(特に男子)が親に用事を言いつけられ、万国共通の「アカンベー」で拒絶反応を示すとき、例の仕種と同時に付け加える悪態。
この場合、「あかんべい」は「あく(灰汁)の灰(はい、へえ)」のダジャレを含んでいて、そこから「百杯なめろ」が出るわけです。
この悪態のパターンは「あかん弁慶屁でも景清」「赤弁天さん尻観音さん」ほか多数あります。
「あかんべい」自体も「あかんべん」「あべかこ」「あかべい」「あかめん」など、各地の方言によって変化しますが、語源はすべて「赤目」から。「あかんべえひゃっぱいなめろ」「あかんべいえ百杯なめろ」も同じ。
くぎの一種。
二本の木材をつなぎとめるための両端の曲がった大きなくぎ。
両親をつなぐ子供の存在をいうこともあります。
え、あたいが鎹。それでおっかさん、げんのうでぶつって言ったんだね。
子別れ
輪王寺宮家の家紋は鎹が山型に見えるので、輪王寺宮家をさして「かすがい」「かすがいやま」と呼んだりします。
鎹はふたつのものをつなぐところから、一挙両得の意味で使われることもあります。
それを「鎹儲け」などといいます。
いかにも日本人的な言い回しです。
「口に出して言わない方が奥ゆかしい」ということで、美学として称賛されるものですね。
世阿弥の「秘すれば花」から派生したものでしょうか、おもむきがちょっと異なるかもしれません。
花の盛りを限って楽しむことから、その場かぎりでいちばんよいことのたとえです。
「見るが仏、聞かぬが花」「待つが花」などの類似表現もあります。
小唄の「お互いに 知れぬが花よ」はダブル不倫の対処法です。
「花」から桜の名所を出していますが、当然「吉野」と「良し」も掛けています。
歌舞伎では、芝居小屋で旗本の狼藉の留め男(仲裁)に入った侠客の幡随院長兵衛が「何事も言わぬが花の花道を」とそっくり返って嬉しそうに言います。
裏返せば「空気を読め」という口封じ。
ビアスの『悪魔の辞典』風に解釈すれば、「口は災いの元」と同義です。
「あい」は主に幼児語で、返事や同意を示す感動詞。これに染料の「藍」を掛け、さらにそこから紺屋を出したまぜっかえしの言葉です。
子供同士の他愛ない言い合いでよく聞かれ、雑俳にも「おちゃっぴい あいは紺屋に…」とあります。
「あい」は関東、「はい」は関西起源とされますが、英語でも挨拶の”Hi”が訛って”Ai”となったりするので、そのあたりは人類共通のものがあるようです。
「藍」に掛けた用例は「藍は紺屋の使い物」など。変形で「鮎(あい)」を使った例も、「鮎が高けりゃ鰯を買え」など、多数流布しています。
「上がったり」は、「商売上がったり」などと、現代でもよくボヤキとして使われます。
職人や商人の仕事が行き詰まり、にっちもさっちもという状態。
「たり」は完了形なので、完全にダウン、再起不能という惨状。
「上がる」はあごが上がるから来ているのでしょうが、むしろ「干上がる」の方がぴったりでしょう。
それに神号の「大明神」を付けて、窮状も神様級。
普通、○○大明神といえば、大げさなほめ言葉ですが、ここでは明らかにやけくその自嘲。
神様は神様でも、根こそぎむしり取る貧乏神としか思えません。
食事や碁将棋に付き合ってくれる相手が欲しいときに言います。
「あいてほしさ」は「開いて欲しさ」の洒落でもあり、これが「玉手箱」につながります。
同時にこれは、浦島伝説に由来の「開けてくやしき玉手箱」のもじりともなっています。
つまり、悲劇的な結末となった浦島とは正反対に、「玉手箱」(宝石箱)に掛けて、何か心楽しい成り行きを期待する心でしょう。
用例としては、「東海道中膝栗毛」七編下、京見物のくだりに「まだ飯が食ひたらんさかい、あい手ほしさの玉手箱ぢゃわいな」とあります。
この後「うまくなくともたんとお上がり」と続きます。
「ああ」という気のない生返事を受け、後に語呂合わせを重ねたものです。
古語で「多い」という意味の「あわに」という副詞があり、それに「ああに」と掛け、さらに、いくら食べても満腹にならない粟飯と茶漬けを出して「いくらでも言っていろ」とからかったわけです。
「ああに」は確証はありませんが、「あわびに」と掛ける駄洒落も入っているかも知れません。
こう見るとなかなか一筋縄ではいかず、これを最初に考えた人間は、只者でなかったかも知れません。
ただで大枚をふんだくるというのを、ただどり=ただのり(薩摩守忠度)と、「平家物語」の悲劇のキャラクターに引っ掛けただけの地口。
逆に巻き上げられた方の立場から「只取り山のの歩泣き石(ほととぎす)」といった類似表現もあります。
このうち「歩泣き石」は、東海道怪談伝説の「小夜の中山夜泣き石」に掛けたものですが、「薩摩守」を含め、もとは縁台将棋から広まったものでしょう。
それにつけても平忠度というご仁、首を取られた上、何百年も無賃乗車や横領の代名詞呼ばわりされ続けるとは、よくよく悲運の人物ですね。
古くから日本全国に広く流布した、児童の遊び歌の代表的なもの。
さよなら→三角→四角という語呂合わせは、落語「一目上がり」の「讃→詩→語」という数字のしゃれに通じるものです。
遊び惚けた子供たちが日没前に別れるときに、名残惜し気に掛け合う挨拶にも使われていました。
山田典吾監督作品「はだしのゲン」(1976年)では、子供たちの別れの場面でこれが歌われています。
この時のメロディーは「からす、なぜ泣くの」の替え歌になっていて、「あばよ さようなら さよならまたきてしかく しかくは とうふで とうふはしろい」と、さらに連想の要素が加わっていました。
水天宮に願掛けライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ
「どうで」は「どのみち」「どっちみち」という意味の強調語。「有馬」は地名と「有り」を掛けた駄洒落で、煎じ詰めればただ「ある」という肯定を大げさに洒落のめしただけ。
「有馬の水天宮」は、文政元年(1818)、久留米藩主有馬頼徳が芝赤羽橋外の同藩上屋敷内に久留米から勧請した水難の守り神。以後、江戸の庶民にも広く信仰されました。明治になってからは蠣殻町に引っ越して、今の水天宮となりました。この洒落が広まったのは文政年間以後です。
同じ意味で「どうで有馬の大入道」とも。こちらは言葉遊びで「大あり、大あり」。「どうで有馬の」の方は、使われ方の状況次第で微妙にニュアンスが変わることがあります。例えば、飲兵衛が目の前でいい酒をなみなみと注がれた時は「おっと、ありがたい」の意味にもなるわけですね。
榎本健一の一座には「有馬是馬」という芸名の役者がいました。「あれまこれま」の洒落のつもりでしょう。
つばのない短刀。ひしゅ、くすんごぶ(九寸五分)とも。短刀。よろいどおし(鎧通し)。切腹に使います。
九寸五分は、長さからの名称。25cmほど。
この刀を使う時、おもしろいことに、歌舞伎でも文楽でも富本節でも「キリキリ」という擬音が必ずついてまわります。キリ=斬り、とでも言いたいのでしょうか。
ひしゅとは匕首の読みです。
落語では、遊客の相手、つまり、相手の遊女をさします。でも、一般には、相手のこと。
歌舞伎では、役者のせりふや動きなどに合わせてつまびく下座の三味線をいいます。
急に産気づくこと。広義では、腹痛、時には歯痛全般を指します。
かつては、腹痛はすべて、腹中に入り込んだ悪い虫が暴れるからだと考えられたためで、志ん生の「疝気の虫」などもその同類です。
いくらなんでも、陣痛は「虫」の仕業ではないのですが、妊婦の苦悶の症状から、そう言われたのでしょう。「かぶる」は「齧る」で「かじる」の意味。
「ばかだね、こいつァ。お産婆さんが女郎買いに行くかい」
「女郎買いには行かないよ。虫がかぶったてえことを聞くとすぐきます」
羽織(六代目三遊亭円生)
お女郎屋の二階のこと。
吉原や岡場所などの遊郭で、普通は二階が客と女郎の対面、逢い引きに使われたのでこう呼ばれました。「二階の間男」「二階ぞめき」などは、これを当て込んでいます。
「二階をまわす」というのはやり手や若い衆の仕事のことで、二階に案内した客を取り持ち、世話をすることです。
「まわす」は運営する、取り仕切ること。
ついでに、古い東京言葉の「こどりまわし(小取り廻し)が悪い」というのは、仕事のやり方が下手で気が利かないという悪口で、遊郭の用語でした。
明治期、男女が簡易に密会するのは、「蕎麦屋の二階」が通り相場でした。
「おや、嫌ですよ。私は二階をまわす者で」
「なに、二階をまわす? この二階を?」
敵討札所霊験(三遊亭円朝)