せきぜんのよけい【積善余慶】故事成語 ことば

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よいことをし続けた家ではその余徳がその子孫にふりそそがれる、という意味。

「積善の家に余慶あり」を省略したことばです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)が演じる「ちきり伊勢屋」での最後のキメ台詞が「ちきりの暖簾をかけて、りっぱに家を再興するという、積善の家に余慶あり、ちきり伊勢屋でございます」です。

柳家さん喬師も長い「ちきり伊勢屋」を演じていますが、こちらにはこのことばは出てきません。ただし、こちらはこちらで独特のすばらしい世界を展開しているもので、一聴の価値はあふれるほど。

「積善余慶」の反対語は「積悪余殃」です。

易経えききょう坤卦文言こんかぶんげん伝には「積善の家にはかならず余慶あり。積不善の家には余殃あり」とあります。なんだか、難しいです。

それから約500年後の『説苑ぜいえん』一六には変容しています。「積善の家、かならず余慶あり。積悪の家、かならず余殃あり」となりました。善と悪との対比で、だいぶわかりやすくなっていますね。

『易経』は孔子(前551-前479)が一部手を加えており、『説苑』は前漢(前206-8)の劉向りゅうきょう(前77-6)の作品。二書は約500年の時間差があります。『説苑』は君主向けの訓戒書。説話集の類です。この手は読みやすさがいちばん。ですから、上記のような文体差があらわれます。ちなみに、ちなみに、春秋戦国時代という呼び方は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなんでつけられています。

「殃」はわざわい。積悪=積不善。よいことをすれば必ず報われるかで、悪いことしていると必ずろくなことがない、という呪いめいた考えです。

仏教には「善因善果」という考え方があります。よい行いをすれば必ず果報がその人にもたらされる、という考えです。仏教では、あくまでも人それぞれが説教の対象です。

ところが、「積善余慶」「積悪余殃」をうたった古代中国では、人ではなく、家がその対象となります。家、先祖、代々、家族、子孫といった単位が考え方の対象となるのですね。個人ではなく、家なのです。

ということは、「ちきり伊勢屋」の伝二郎。

親父の代には「乞食伊勢屋」と唾棄されるほどの家だったのを、人生と財産すべてを懸けた伝二郎自身の行為が、天に「積善」と認められ、噺の最後に触れられた「再興したちきり伊勢屋」はまさに余慶に報われた、ということなのですね。

伝次郎個人には報われないところが、このことばが噺の芯となっている由縁なのでしょう。



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ちんちん【ちんちん】ことば

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鉄瓶がかっかと熱くなる擬音語から、嫉妬に胸を焦がす意味です。

これは男の場合にも言いますが、ほとんどは女のヤキモチ。

「熱い」の意味から、まったく反対の嫉妬される側、すなわち熱々の恋人同士を指すことも。

この場合には次項の「ちんちんかもかも」として使われた場合が大半です。

花魁の方じゃ、いやな芸者じゃあないかってんで、ちんちんを起こして、あっしを夜っぴて花魁が寝かさない。 

                                ちきり伊勢屋

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