けんじてんのうあきのたの【献じ天皇秋の田の】むだぐち ことば

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「けんじ」は同音異義語で、出典により「見じ」=拝見する、「献じ」=さしあげる、の二通りの意味になります。

どちらにしても「天智天皇てんじてんのう」と掛けるしゃれは同じです。そこから、「百人一首」で第一番、天智天皇の歌「秋の田の かりほのいほの とまをあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」を出しています。この歌は『後撰和歌集ごせんわかしゅう』収録です。

「見じ」では「どれどれ拝見」、「献じ」では「一献さしあげましょう」の意味の、気取ったむだぐちになります。通常は「秋の田の」はただの付けたりであることも多いですが、さらに「あき」でしゃれを付け加え、見ていたらあきれた、とする例もあります。

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さるまるだゆう【猿丸太夫】落語演目



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【どんな?】

「太夫」は「だゆう」と読みます。
俳句に凝っている馬子。
乗り合わせた江戸っ子はひとつからかってやろうと。
俳句や和歌が飛び出る道中舞台の都鄙ものの滑稽噺。

【あらすじ】

昔の旅は命がけ。

友達と泣きの涙で水杯を交わし、東海道を西に向かった男、原宿の手前で雇った馬子が、俳句に凝っているというので、江戸っ子ぶりを見せびらかしてやろうと、
「オレは『今芭蕉』という俳句の宗匠だ」
とホラを吹く。

そこで馬子が、
「この間、立場の運座で『鉢たたき』という題が出て閉口したので、ひとつやって見せてくれ」
と言い出す。

先生、出まかせに
「鉢たたき カッポレ一座の 大陽気」
とやってケムに巻いたが、今度は「くちなし」では、と、しつこい。

「くちなしや 鼻から下が すぐにあご」

だんだん怪しくなる。

すると、また馬子が今度は難題。

「『春雨』という題だが、中仙道から板橋という結びで、板か橋の字を詠み込まなくてはならない」
と言うと、やっこさん、すまし顔で
「船板へ くらいつきけり 春の鮫」

「それはいかねえ。雨のことだ」
「雨が降ると、鮫がよく出てくる」

。そうこうしているうちに、馬子の被っている汚い手拭いがプンプンにおってくるのに閉口した今芭蕉先生、新しいのを祝儀代わりにやると、馬子は喜んで
「もうそろそろ馬を止めるだから、最後に紅葉で一句詠んでおくんなせえ」
と頼む。

しかたがないので
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は来にけり」
と聞いたような歌でごまかす。

そこへ向こうから朋輩の馬子が空馬を引いてきて
「作、どうした。新しい手拭いおっ被って。アマっ子にでももらったのか」
「なに、馬の上にいる猿丸太夫にもらった」

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【しりたい】

江戸っ子、じつは「猿」

原話は、宝暦5年(1755)刊、京都で刊行の笑話本『口合恵宝袋』中の「高尾の歌」です。

これは、京の高尾へ紅葉狩りに行った男の話。

帰りに雇った駕籠かきに、歌を詠んだかと聞かれ、「奥山の……」の歌でごまかす筋は、まったく同じで、オチも同一です。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、箱根で「猿丸太夫」をめぐる、そっくり同じようなやりとりがあり、これをタネ本にしたことがわかります。

江戸や京大坂の人が、旅先で、在所の人を無知と侮り、手痛い目にあう実話は、けっこうありました。

オチは、馬子が「奥山」の歌を知っていて皮肉ったわけです。

深読みをすれば、知ったかぶりの江戸っ子を、「猿」と嘲る、痛烈な風刺ともとれます。

円朝も演じた噺

この噺の、江戸を出発するところ、俳句の問答を除いた馬子とのくだりは、「三人旅」にそっくりなので、これを改作したものと思われます。

小咄だったのを、「三人旅」から流用した発端を付け、一席に独立させたものなのでしょう。

古くは、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が「道中の馬子」の題で速記を残しています。

大正13年(1924)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記も残っていますが、今はすたれた噺です。

猿丸太夫

正体不明の歌人です。生没年、伝記は一切不明。

「猿丸太夫集」なる歌集はありますが、そこに採られている歌は、当人の作と確認されたものが一首もありません。

「小倉百人一首」に「奥山に」が選ばれていますが、これが実は『古今和歌集』の「よみ人しらず」の歌であることから、平安時代の歌人といわれます。

別に、柿本人麻呂説もあります。

運座

うんざ。各人各題、あるいは一つの題について俳句を作り、互選しあう会です。

座には宗匠、執筆(=記録係)、連衆(句の作り手)で成り立ちます。

18世紀末の安永・天明期以後、俳諧(俳句)人口は全国的に広がり、同時に高尚さが薄れて遊芸化しました。

したがって、この噺のような馬子が俳句に凝ることも、十分考えられたのです。

江戸後期の日本人の教養レベルは、われわれが想像するよりはるかに高かったわけです。われわれ現代人の教養は劣化しています。

馬子などの多くは非識字者であるはず、と思われていました。それが字を知っているばかりか、江戸っ子なんかよりもはるかに博識であるという、落語的な逆転の発想がみられます。

赤ん坊が大男を投げ飛ばすような、小気味いい構図です。



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こうやちがい【高野違い】落語演目



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【どんな?】

ところどころで古典の知識が試される、ペダンチックな噺です。

【あらすじ】

出入りの鳶頭が店に年始に行くと、だんなが子供たち相手にカルタをやっている。

鳶頭はカルタなど見たことがないので珍しく、あれこれトンチンカンなことを言うので、だんながウンチクをひけらかして、ご説明。

洗い髪で、たいそうごてごてと着物を着ている女がいると言うと、それは下げ髪、着物は十二単で、百人一首の中の右近と教えられる。

同じような女が二人いるが、赤染衛門に、紫式部。

赤に紫に黄色(鬱金色=右近)で、まるで紺屋の色見本のよう。

紫とやらいう女の歌が
「巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」

誰かに逢いたいと神に願掛けしている歌だと聞いて
「そりゃ、合羽屋の庄太ですよ。借金を返しゃあがらねえ」
「おまえの話じゃないよ」

太田道灌が
「急がずば 濡れざらましを 旅人の跡 より晴るる 野路の村雨」

弘法大師の歌が
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 高野の奥の たま川の水」

これは六玉川のうち、紀州は高野山の玉川の水は毒があるため、のまないよう戒めた歌だというので、鳶頭、親分が大和巡りに行くから知らせてくると飛び出す。

「それで、その歌はなんだ」
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 跡より晴るる 野路の村雨」
「それじゃ尻取りだ。下は『たかのの奥の 玉川の水』というんだろ」

鳶頭、先に言われたので、しゃくなので揚げ足を取ろうと
「親分、タカノじゃなくてコウヤでしょう」
「同じことだ。仏説にはタカノとある」

またへこまされたので、それではと
「ごまかしたって、こっちにゃ洗い髪の女がついてるんだ。じゃ、こんなのはどうです。『巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな』。さあ驚いたろう」
「驚くもんか。それは誰の歌だ」
「ナニ、着物であったな、鳶色式部だ」
「鳶色式部てえのはない。紫だろ」
「紫と鳶色は昔は同じだったんで。これは仏説だ」
「そんな仏説があるか。大変に違わあ」
「へえ、そうですか。それじゃ、紺屋が間違えたんでしょう」

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【しりたい】

現代人にはわからない

古風な噺で、和歌の教養がないと、今ではよくわからないでしょう。江戸時代には「小倉百人一首」がごく一般に普及していて、これくらいの和歌はわかりあっていたのです。明治にいたっても同様です。共有の文化でした。

原話は、文化8年(1811)ごろ刊行された、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)作の噺本『種が島』中の「源氏物語」です。

無知な男が、和歌の解釈を聞きかじって、トンチンカンなひけらかしで失敗するパターンは現行通りです。

原話では紫式部の歌でなく、謡曲「源氏供養」にある、式部が石山寺の観音の化身だという伝説から、「鳶色式部」を出しています。

オチは、弘法大師(高野山)と太田道灌の歌の上下をとり違えたのと、「紫(色)」と「鳶(色)」の間違いを掛け、色→紺屋の連想から、紺屋=高野のダジャレオチとしています。

原話のオチは、「ナアニ、おれがそそっかしいのじゃアねえ。ぜんてえ、せんに(=だいたい、前に)高野で間違った」というものです。こちらの方がわかりやすいかもしれません。

紺屋の色見本

紺屋形ともいいます。今でもある、服地のサンプルまたはカタログです。

紺屋は、初期は藍で紺色を染めるだけだったのが、のちに染料の進歩により、様々な色の染物ができるようになりました。

特に紺屋の女房になった、吉原の六代目高尾太夫考案の、浅黄色の早染め(かめのぞき)は評判になりました。

かめのぞき」については「紺屋高尾」をお読みください。

オチは、高野山弘法大師の歌の間違いに、そそっかしい紺屋が、色見本を見ても紛らわしい紫と鳶色を染め間違えたことを掛けてあるわけです。

六玉川

むたまがわ。歌枕に詠まれる全国の六つの玉川のこと。

山城の井出の玉川
摂津の卯の花の玉川
近江の野路の玉川
陸奥の野田の玉川
武蔵の調布の玉川
紀伊の高野の玉川

高野の玉川は、高野山奥の院弘法大師廟のそばを流れる川です。

川水の毒については、噺の中でだんなの解釈する通り、弘法大師のこの歌が載っている『風雅和歌集』の詞書に「高野奥院へまいる道に玉川という河のみなかみ(=上流)に毒虫の多かりければ、この流れを飲むまじき(飲んではならない)由を示しおきて後よみはべりける」とあって、実際に中毒の危険を示唆しています。

高野山には女人禁制であったため、
「毒水を 飲む気づかひは 女なし」
という川柳もありました。

別の説では、名水をいたずらに酌むなという教訓がのちに「毒水」と誤伝されたものともいわれますが。

鳶色式部

鳶色は、鳶の羽色の茶褐色のこと。

布地では「鳶八丈」を指します。

鳶八丈とは、鳶色の地に、黒または黄の格子縞の着物です。

明治中期に、袴の色から、女学生の異名に用いられたこともあり、あるいは、それもかけられているかもしれません。

円喬のオハコ

古くから口演された江戸落語で、明治28年(1895)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

円喬はこの噺を好み、よく高座に掛けたようです。

名人の名を後世に残しながら、ややキザで教養をひけらかす臭みがあったという、この人が好みそうな噺かもしれませんね。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)という、兄弟弟子だった二人が、ともに手掛けました。

「やかん先生」の金馬はファンに愛されながらも、そのペダンチックが嫌われもしました。

このような古ぼけたうんちく噺は、円喬や金馬のように、才気ばしった落語家でないと衒学趣味だけが鼻につき、さまにならないのかもしれません。

現在は、ほとんど演じられていません。

【語の読みと注】
鳶頭 とびのかしら
十二単 じゅうにひとえ
右近 うこん
赤染衛門 あかぞめえもん
紺屋 こうや
六玉川 むたまがわ



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