しゅんじゅうさしでんのことば【春秋左氏伝のことば】故事成語 ことば

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

『春秋左氏伝』はいまでもかなり楽しめる書です。紀元前722年から前481年までの古代中国、魯の国のできごとを記した『春秋』(歴史を意味します)という書の注釈本のひとつ。「なんだ、注釈書か」と思われるかもしれません。でも、これがすごい。よく読むと、素っ気ない文体に豊かな含蓄。あまた味わい深くて。酒見賢一、宮城谷昌光、安能務なんかが描く世界ですね。現代でもおなじみのことばがたくさん登場します。故事名言の宝庫です。そこで、気になることばを一覧にしてみました。
故事成語初出年意味
挙国一致隠公元年(前722)国民全体が一致して同じ態度をとる
菟裘ときゅう隠公十一年世を退いて余生を送る場所。官を辞して隠棲する地
德を度り力を量る隱公十一年為政者が人々に信頼される人格と行政能力をもっているかどうかを推し量る
大義滅親隠公十四年君主や国家のためには親子の情をもかえりみない
玉を懐いて罪あり桓公十年分不相応のものを持つとわざわいを招く
城下の盟桓公十二年城下まで敵に攻め寄せられ講和を結ぶ
ほぞを噛む荘公六年後悔する
長享荘公十年日本の元号。1487-89年
禍に臨みて憂いを忘れば憂い必ずこれに及ばん荘公二十年災禍に臨みながらもそのつらい思いを忘れてしまうようではあとでとんでもない心配ごとが起こる
酖毒閔公元年猛毒
風馬牛僖公四年自分とは関係ない
一薫一蕕いっくんいちゆう僖公四年善人が悪人にやられてわざわいが長く残る
唇亡びて歯寒し僖公五年助け合う仲の一方が滅びると他方も危なくなる
唇歯輔車僖公五年持ちつ持たれつ
善敗己に由る僖公二十年良いも悪いも自分次第
蒙塵僖公二十四年天子が都から逃げ
玉趾を挙ぐ僖公二十六年貴人が来る
東道の主僖公三十年主人として来客の世話をする
墓木已に拱す僖公三十二年この死にぞこないめ!
帰元僖公三十三年
敵愾文公四年君主の憤りをはらそうとする
愛日文公七年冬の日
畏日文公七年夏の日
言葉なお耳にあり文公七年以前に聞いたことばが今でも耳に残る
八愷はちがい文公十八年心が清く正しく徳の高い人。八元に同じ
八元文公十八年心が清く正しく徳の高い人。八愷に同じ
済美文公十八年よいことをする
董狐の筆宣公二年権力を恐れずに真実を発表する
魑魅魍魎宣公三年化け物いろいろ
かなえ軽重けいちょうを問う宣公三年その人の価値や能力を疑う→足元を見る
食指が動く宣公四年人差し指→食欲がわく
染指宣公四年ものごとを始める
野心宣公四年分不相応の大きな望み
肉袒宣公十二年降伏
七徳宣公十二年軍事の七つの徳→平和で繁栄のいいことづくめ
草を結ぶ宣公十五年恩に報いる
楚囚成公九年(前582年)囚人
二豎にじゅ成公十年(前581)病気
病膏肓やまいこうこう成公十年(前581)不治の病
勧善懲悪成公十四年悪は亡びる
菽麦しゅくばくを弁ぜず成公十八年愚かでものの区別がつかない
百年河清を襄公八年いくら待ってもむだ
杖るは信に如くはなし襄公八年たよれるのは信義だけ
安に居て危を思う襄公十一年いつでも危機に備えるのが大切だ
推輓すいばん襄公十四年おすすめ
貪らざるを以て宝となす襄公十五年無欲が自分の宝
南風競わず襄公十八年南方の勢力が弱い→威勢がない
禍福は門なし襄公二十三年幸不幸は自分が招く
慎始敬終襄公二十五年手抜きせずにやり抜く
太史の簡襄公二十五年記録
抜本塞源昭公四年根本原因を抜きとって弊害を元からなくす
興国昭公四年国の勢いを盛んにする
尾大掉わず昭公十一年上司が弱く部下が強いと仕事の発展はむり
末大必ず折る昭公十一年部下が強大になると上司は必ず滅びる
三墳五典昭公十二年古代の書
八索九丘昭公十二年こちらも、古代の書
善に従うこと流るるがごとし昭公十三年よいと思ったらすぐやる
寛政昭公二十年寛大な政治
牛耳を執る定公八年同盟の盟主となる
藩屏はんぺい定公四年垣根
三度肘を折って良医となる定公十三年苦しい体験を積んで味のある人になる
良禽択木哀公十一年賢い部下は親分を選んで仕える
心腹の疾哀公十一年強敵
獲麟かくりん哀公十四年(前481)終わり

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はんごんこう【反魂香】落語演目

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【どんな?】

妖しく艶のある降霊の夕べも、落語になると、ほらこの通りに。

別題:高尾名香(上方)

【あらすじ】

浪人島田重三郎は、吉原で全盛の花魁、高尾太夫と深く言い交わした仲だったが、その高尾に仙台の伊達綱宗公がご執心。

側女にしようと言い寄ったが、高尾は恋人に操を立ててどうしてもうんと言わない。かわいさ余って憎さが百倍、逆上した殿さまに、哀れ高尾はつるし斬りというお手討ちにあってしまう。

数年の後、今は世をはかなんだ重三郎は本所の棟割長屋に裏店住まい。

夜は香をくべて南無阿弥陀太と念仏三昧で、ひたすら高尾の菩提を弔っている。

重三郎が夜な夜なたたく鉦(かね)の音で、長屋の連中が眠れなくて困るというので、月番のガラ熊が代表で掛け合いにやってくる。

「せめて昼間だけにしておくんなさい」とすごむ熊に、「いや、それができぬわけというのは」と、重三郎が打ち明けた秘密がものすごい。

自分はこれこれこういう出自の者だが、この香は実は魂呼び寄せるという霊力を持った反魂香という天下に二つとないもので、夜半にこれをたき鉦をたたくと、まぎれもない亡き高尾の姿がスーッと現れるというのだ。

熊公、半信半疑で恐いもの見たさ、真夜中に「実演」を見せてもらうことになった。

当夜。

まさしく重三郎の言葉通り、香の煙の上に、確かに女の姿。

重三郎が「そちゃー、女房高尾じゃないか」

この世ならぬ声で唱えると、安心したようにその姿はかき消すごとく消えてしまう。

ガラ熊も三年前に女房のお梅を亡くし、今はやもめの身。

ぜひ香を分けてほしいと頼むが、重三郎は、これだけは命に代えても譲れない、と受け付けない。

しかたなく、ハンゴンコウというくらいだから、ひょっとして薬屋にでも売ってやしないか、と出かけた熊、越中富山の反魂丹とあるのを間違えて、喜んで山ほど買ってくると、さっそく、その夜「実検」に取りかかった。

きんたま火鉢に炭団をおこしてくべると、モウモウと煙。

「そちゃー、女房高尾じゃないか」
と、むせながら唱えるが、出るのは煙ばかり。

こりゃ少しずうずうしかったかと、今度は
「そちゃー、女房お梅じゃないか」

女房は二の次である。

そのうち表から
「熊さん、熊さん」
の声。

「しめた。そちゃー、女房お梅じゃないか。煙ったいから表口から回ってきたよ」

ガラッと戸を開けると隣のかみさんが
「困るよ。長屋中煙だらけじゃないか」

【しりたい】

ルーツは中国の故事  【RIZAP COOK】

白居易(白楽天)の「李夫人詩」によると、反魂香は、漢の武帝(前156-前87)が、愛妾の李夫人の魂をこの世に呼び戻そうと、方士(呪術師)に命じて作らせたもの、とされます。

この伝説自体が遠い原話になるわけです。

反魂香は返魂香ともいい、芳香を放つ「返魂樹」なる木から作られたとか。

日本の文芸作品にも、近松の浄瑠璃「傾城反魂香」、上田秋成の怪談読本『雨月物語』中の「白峰」など、さまざまな形で登場します。

反魂香を焚き、霊が現れる図は、安永9年(1780)刊の鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』に収録されています。

現在、『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)で見ることができます。

原話二題  【RIZAP COOK】

直接には、寛延4年(1751=宝暦元)刊の漢文体笑話集『開口新語』中の小咄が原型に近いものです。

これは、遊郭に入りびたって金がなくなり、見世からお出入り禁止になった青年が、花魁恋しさのあまり悶々としたあげく例の漢の武帝の故事を思い出します。

で、昔、花魁からもらった恋文を燃やし、一念によって花魁の姿を見ようとしますが、間違って債権者のリストを燃やしたので、たちまちに煙の中から借金取りが雲霞のごとく現れるというお笑いです。

どのみち、これも中国種です。

もう一つ、天明元年(1781)刊『売集御座寿』中の「はんごん香」になると、やや現行に近くなります。

死んだ女房にもう一度逢いたいと恋焦がれる男。友達の勧めで、薬屋で反魂香を買い、墓場で焚くと、アーラ不思議、墓石がガタガタ動きます。喜んで、もう百匁買って焚けば姿が見えると、家に金を取りに戻ると母親が「さっき地震があったけど、どこにおいでだえ」

そちゃ、女房可楽じゃないか  【RIZAP COOK】

もともとは上方落語です。古い上方の演題は「高尾名香」。万延2年(1861=文久元)の大坂の桂松光のネタ帳『風流昔噺』にあります。

「高尾はんごん丹間ちがい、但しはみがき売」と。

明治中期に東京に移植され、二代目柳家(禽語楼)小さん、三代目小さんによって磨かれました。昭和から戦後にかけ、八代目三笑亭可楽が得意にし、高弟の三笑亭夢楽に継承。八代目林家正蔵(彦六)も演じました。

音源は長らく可楽のものだけでしたが、最近は夢楽、古今亭志ん朝のものもあります。

「反魂香」のやり方で、声色で故人の落語家を次々に霊界から呼び出すという趣向もありました。

これをやったのは、確か夢楽だったと記憶しますが、今では当人が呼び出される方に回っているのは世の流れ、皮肉なものです。

高尾太夫は最高名跡  【RIZAP COOK】

高尾は、三浦屋だけが使える太夫の名跡です。

三浦屋は歌舞伎十八番「助六」で名高い吉原の大見世でした。いわば商標登録済み。

京・島原の吉野太夫と東西の横綱に並立します。吉原のシンボル、太夫という花魁の最高位の、そのまたトップに立つ大名跡だったわけです。

代々名妓が出て、七代または十一代まであったともいわれていますが、その実状はどうもはっきりしません。

この噺の伝説に出る、俗にいう「仙台高尾」も諸説あります。

まあ、伝説の美女は謎に包まれていた方がより想像を駆り立てられてよいものです。

というか、高尾については全くと言っていいほど史的に明らかにされていないのが現実です。

「高尾」代々の通称  【RIZAP COOK】

高尾代々については、資料によって説が違いますが、通称だけを記すと、三田村鳶魚の「高尾考」では次のように記されています。

こんなものしか知るよすがはありませんが、これも頼りない論考であることは明らかです。

妙心高尾-万治=仙台高尾-水谷高尾-浅野高尾-紺屋高尾-榊原高尾-播州高尾

七代から九代は不明、で、十一代目の奇行と不行跡により、寛保元年(1741)に高尾の名跡は断絶したとあります。

『洞房語園』では、初代、二代目は同じですが、三代目を西条高尾、四代目を水谷高尾、五代目浅野高尾、六代目駄染(=紺屋)高尾、七代目榊原高尾で、七代目で絶えたとしています。

以上は、世迷言のようなものでまったくあてにはなりません。

書いていておのれの未熟に恥ずかしくなります。

もっと詳しく世迷言をお知りになってもよいという方は、「紺屋高尾」をお読みください。

反魂丹  【RIZAP COOK】

反魂香は中国由来のもととは上に記しましたが、ならば、反魂丹とはなにか。

オカルトじみた名ですが、要するに、毒であの世に行きかけた命を、シャバに呼び戻す霊薬、という、反魂香と同じような丸薬だったようです。

木香、陳皮、大黄、黄連、熊胆などを原料にして、霍乱、癪、食傷などに効く薬で、「返魂香」とも記したそうです。

鎌倉期に宋から足利家に伝わり、足利家に組み込まれた畠山家に伝わり、江戸期には畠山の領国だった富山藩で調製して薬売りが全国に広めました。

江戸では、柳原同朋町の心敬院が調製。それを、芝の田町四丁目、堺屋が販売していました。

香具師の松井源水は、曲独楽芸の大道芸で売っていたそうです。

【語の読みと注】

花魁 おいらん
操 みさお
三昧 ざんまい
木香 もっこう
陳皮 ちんぴ
大黄 だいおう
黄連 おうれん
熊胆 ゆうたん
霍乱 かくらん:日射病、急性腸カタル
癪 しゃく:胃けいれん
食傷 しょくしょう:食あたり
松井源水 まついげんすい:曲独楽芸
独楽 こま
心敬院 しんぎょういん

【RIZAP COOK】

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にじゅうしこう【二十四孝】落語演目 

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【どんな?】

『の・ようなもの』で。
志ん魚が下町女子高生のお宅でこの噺を。
ウケず。残念。

あらすじ】  

長屋の乱暴者の職人、三日にあけずにけんか騒ぎをやらかすので、差配さはい(=大家)も頭が痛い。

今日もはでな夫婦げんかを演じたので、呼びつけて問いただすと、朝、一杯やっていると折よく魚屋が来てあじを置いていったので、それを肴にしようと思ったら、隣の猫が全部くわえていったのが始まり。

「てめえんとこじゃ、オカズは猫が稼いでくるんだろッ、泥棒めッ」
とどなると、女房が
「たかが猫のしたことじゃないか」
と、いやに猫の肩を持つので、
「さてはてめえ、隣の猫とあやしいなッ」
と、ポカポカポカポカ。

見かねた母親が止めに入ると
「今度はばばあ、うぬの番だ」
と、げんこつを振り上げたが、はたと考え、改めて蹴とばした、という騒ぎ。

大家はあきれて、
「てめえみたいな親不孝者は長屋に置けないから店を空けろ」
と怒る。

嫌だと言えば、「これでも若いころには自身番に勤めて、柔の一手も習ったから」
と脅すと、さすがの乱暴者も降参。

「ぜんてえ、てめえは、親父が食う道は教えても人間の道を教えねえから、こんなベラボウができあがっちまったんだ。『孝行のしたい時には親はなし』ぐらいのことは知ってそうなもんだ。昔は青緡五貫文あおざしごかんもんといって、親孝行すると、ごほうびがいただけたもんだ」「へえ、なにかくれるんなら、あっしもその親孝行をやっつけようかな。どんなことをすりゃいいんです」

そこで大家、
「昔、唐国に二十四孝というものがあって……」
と、故事を引いて講釈を始める。

例えば、秦の王祥おうしょうは、義理の母親が寒中に鯉が食べたいと言ったが、貧乏暮らしで買う金がない。そこで氷の張った裏の沼に出かけ、着物を脱いで氷の上に突っ伏したところ、体の温かみで溶け、穴があいて鯉が二、三匹跳ね出した。

「まぬけじゃねえか。氷が融けたら、そいつの方が沼に落っこちて往生(=王祥)だ」
「てめえのような親不孝ものなら命を落としたろうが、王祥は親孝行。その威徳を天が感じて落っこちない」

もう一つ。

孟宗もうそうという方も親孝行で、寒中におっかさんがたけのこを食べたいとおっしゃる。

「唐国のばばあってものは食い意地が張ってるね。めんどう見きれねえから踏み殺せ」
「なにを言ってるんだ」

孟宗、くわを担いで裏山へ。冬でも雪が積もっていて、筍などない。一人の親へ孝行ができないと泣いていると、足元の雪が盛り上がり、地面からぬっと筍が二本。

呉孟ごもうという人は、母親が蚊に食われないように、自分の体に酒を塗って蚊を引きつけようとしたが、その孝心にまた天が感じ、まったく蚊が寄りつかなかった、などなど。

感心した親不孝男、さっそくまねしようと家に帰ったが、母親は鯉は嫌いだし、筍は歯がなくてかめないというので、それなら一つ蚊でやっつけようと、酒を買う。

ところが、
「体に塗るのはもったいねえ」
とグビリグビリやってしまい、とうとう白河夜船しらかわよふね

朝起きると蚊の食った跡がないので、喜んで
「ばあさん見ねえ。天が感ずった」
「当たり前さ。あたしが夜っぴて(一晩中)あおいでいたんだ」

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しりたい】  

二十四孝な人たち  【RIZAP COOK】

『二十四孝』は中国の書。後世の模範となり得る、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた事跡をまとめています。元代の郭居敬が編集。

日本へは室町時代に伝わり、和訳の御伽草子で広まり、その影響は大きいものでした。江戸時代に入るとさらに大きく、四字熟語、関連物品の名称として一般化したもの、仏閣の建築物、人物図などが描かれたりしました。御伽草子や寺子屋の教材にも採られていました。

幕末には草双紙の『絵本二十四孝』も出ました。これは江戸時代を通してのベストセラーとなったほど。江戸時代には、二十四孝を知らない人はいなかったといえるでしょう。

ただ、この24人の事績はどこか逸脱しており、江戸人の茶化しのタネにはおあつらえ向きとなりました。落語で笑う題材にはなるべくしてなったといえるでしょう。

マクラなどで随時採り上げられる、その他の感心な方々に、王褒おうほう郭巨かっきょ黄山谷こうざんこくなどがいます。

「王褒と雷」は、雷嫌いの母親が死んで、王褒がその墓を雷から守るという、忠犬ハチ公か忠犬ボビーのようなお話。

「郭巨の釜掘り」では、母親に嫁の乳をのませるため、子供を犠牲にして生き埋めにしようとすると、金塊を掘り当てるという猟奇的な話。

黄山谷は、父親の下の世話をするというもので、現代の介護問題の先取りのような話。名前からしてクサイものに縁がありそうな男ですが。

このうち郭巨の逸話は、戦前の日本ではかなりポピュラーで、明治の「珍芸四天王」の一人、四代目立川談志(中森定吉、生年不明-1889)がパントマイムのネタにし、「この子があっては孝行ができない、テケレッツノパ、天から金釜郭巨にあたえるテケレッツノパ」とやって大当たりしたことで有名です。人気があったことからこの人を初代談志とする向きもあります。

孟宗の筍掘りは、歌舞伎時代狂言『本朝二十四孝』の重要なプロットになっているほか、かつて、三木のり平が声の出演をしていた「桃屋」のテレビCMでも、パロディー化して使われました。魯迅ろじん(周樹人、1881-1936)はこのばかばかしさを批判的に描いてはいますが。

差配  【RIZAP COOK】

明治以後、大家が町役でなく、単なる「管理人」となってから、この名で呼ばれるようになりました。「差配する」とは、文字通り、土地や建物を管理する意です。

オチの工夫  【RIZAP COOK】

古い速記は、明治24年(1891)7月の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)、ついで同27年(1894)7月、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のものが残っています。

現在でも、多くの落語家が手掛けていますが、「道灌」と同様、前座噺の扱いで、どこでも切れるため演者によってオチが異なります。

たとえば、呉孟をまねるくだりでも「オレなら、二階の壁に酒を吹っかけて、蚊が集まったところで梯子をはずす」というもの、母親が「甘酒がのみたい」と言うのを「二十四孝に酒はねえ」とオチるものなど、さまざまです。

孟宗のくだりで切って、母親が筍のおかわりを求めるので、「もう、そうはねえ」と地口で落とす場合もあります。

現行は、今回あらすじに記載した形が、もっとも一般的です。

八代目林家正蔵(=彦六、岡本義、1895-1982)は、大家が「孟宗の親孝行を」と言いかけたのを「おっと、天が感じたね」と先取りしてオチにし、時代を明治初期としていました。

中国の説話から構成  【RIZAP COOK】

原話は、安永9年(1780)刊の笑話本『初登はつのぼり』中の「親不孝」。これは、先述の通り、中国・元代(1271-1368)にまとめられた儒教臭ぷんぷんの教訓的説話をもとにしたものです。王祥や孟宗の逸話を採ったものを主にして、それらに呉孟のくだりなどいくつかの話を付け加えて、新たにつくられました。



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そうかん【宗漢】演目

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【どんな?】

古代中国が舞台のバレ噺。
戦国七雄を題材にしても所詮はね。

別題:薬籠持ち

あらすじ

中国は、魏の国の宗漢という医者。

この先生、名医だが大変に貧乏で、日本でいうと裏長屋住まい。

ある雨の日、玄関先で
「お頼み申します」
という声がするので出てみると、
「楚の国からはるばるやってきたものだが、主家のお嬢さまが長い病で難渋しているので、先生にぜひお見舞いを願いたい」
と言う。

先生大喜びで、二つ返事で引き受けたものの、金がないのでお供の者も雇えない。

そこで、やむなく細君を連れていくことにしたが、医者が女の供を連れていては外聞が悪いので、細君を男装させ、長旅をして楚までやってきた。

先方に着くと、下へも置かない大歓迎。

お茶を出されても、細君の方は返事をするとバレるので、おっかなびっくり下を向いているばかり。

見舞ってみると、さほどたいしたことはないので、薬を与えて帰ろうとすると、日はとっぷりと暮れなずみ、折しも大雨が降りり出した。

いくら待っても、やむ気配がない。

恐縮した主人が、一晩泊まっていくようにすすめるので、宗漢先生もその気になったものの、この家ではあいにく、夜具を洗濯に出してしまって余分なものが今ない、という。

そこで、
「まことに申し訳ないことながら、先生は十一歳になる息子と寝ていただき、お供の方は、手前の家の下男とかじりついて、肌と肌とを押しつけて寝ていただくと温かでございます」
ときたので、先生は仰天した。

今さら自分の女房だと言うわけにもいかず、とうとうその晩は心配のあまり、まんじりともせず夜を明かした。

翌朝。

宗漢夫婦が帰ったあと、例の十一歳の息子が
「お父さん、昨夜ボク、あのお医者さんと寝たでしょ。あのオジサン、貧乏だね」
「なぜ」
「フンドシしてなかったよ」

それを聞いていた下男が
「そりゃそうだろう。あのお供なんか、金玉がなかったからな」

うんちく

戦国七雄 【RIZAP COOK】

魏、楚ともに、紀元前4-3世紀に割拠した戦国七雄。

魏は山西省南部から河南の北部一帯にかけて、楚は揚子江中流一帯を占めていました。隣国とはいえ、日帰りなどとてもできませんが、時空間をものともしないのが落語の落語たるところです。

細君に男装 【RIZAP COOK】

なんのことはなく、かんざしを抜かせただけです。

昔、中国では男女とも、服装から髪型からまったく同じで、これでは困るというので、女には目印として簪を付けさせたというのがこの噺の前提ですが、もちろん、噺家のヨタを真に受けられては困ります。

少年愛も隠れている噺 【RIZAP COOK】

原話は不詳。四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が明治28年(1895)8月、『百花園』に寄せた速記以後、内容が内容だけに演者の記録はもちろんありません。

薬籠やくろう持ち」と題して、バレ小咄として演じるときは、宗漢を日本の医者で、前田宗漢とかなんとかもっともらしい名前にし、薬籠(薬箱)持ちの下男をクビにしたばかりなので、しかたなくかみさんを男装させて出かけることにしています。

その場合、中国のようにはいかないので、ちゃんと男の着物を着せ、頭には頭巾ずきんをかぶせて、下男に化けさせています。

往診先は山向こうの村の金持ちで、医者は診察したばかりの子供といっしょに寝かされます。

オチは、貧乏医者で「金がない」というダジャレを含んでいますが、勘ぐれば少年愛のにおいまでする噺ではあります。

【語の読みと注】
魏 ぎ
楚 そ



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てっかい【鉄拐】落語演目

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【どんな?】

北京の上海屋での宴会芸。
仙人がものすごい技を。
こいつの人生が一変。
中国大陸が舞台の噺。
底抜けに奇天烈で壮大。

別題:張果老

あらすじ

北京の横町に、上海屋唐左衛門という大貿易商がいた。

中国はもちろんのこと、ロンドンやニューヨークにも支店を持つという大金持ち。

毎年正月には世界中から知人、友人、幹部社員などを集めて大宴会を催し、珍しい芸人を集めて余興をやらせることにしていた。

毎年のこととて、余興の種が尽き、いい芸人が集められなくなった。

そこで、番頭の金兵衛が各地を巡り、募ることにした。

金兵衛は山また山を越え、とある山中で道に迷っていると、大きな岩の上にボロボロの着物を着て杖をつき、ヒゲぼうぼうの老人がぼんやり座っている。

聞いてみると、鉄拐と名乗る仙人。

何か変わったことができるかと尋ねると、腹の中からもう一人の自分を吐き出してみせたから、これは使えると金兵衛は大喜び。

渋るのを無理に承知させ、鉄拐の雲に便乗して北京に帰った。

鉄拐の芸は大受けで大評判となり、お座敷や寄席の出演依頼がどっと押し寄せた。

今では当人もすっかりその気になり、上海屋に豪邸をもらい、厄貝、モッ貝、シジミッ貝という三人の弟子を取り、近ごろは女を物色するというありさま。

評判がよくなると、ねたむ者も出る。

「このごろ昔のおんぼろななりを忘れてぜいたく三昧、お高くとまってやたらに寄席を抜きゃあがる。どうでえ、あの野郎をへこますために、鉄拐の向こうを張るような仙人を連れてこようじゃねえか」

そんなわけで引っ張ってきてのが、張果老という仙人。

こちらは、徳利から馬を出す。

新し物好きの世間のこと、鉄拐はあっと言う間に飽きられ、お座敷ひとつかからない。

逆に張果老は大人気。

面白くない鉄拐、どんな芸か見てやろうと、ある晩ライバルの家に潜入してみると、張果老は大酒をのんで高いびき。

この徳利からどうやって馬が出るのかしらんと、口に当てて息を吸い込んだから、たちまち中の馬は徳利から鉄拐の腹の中へ。

虎の子の馬が盗まれて、今度は張果老があっと言う間に落ち目に。

しかし悪いことはできないもので、いつの間にか、犯人は鉄拐だという噂が立った。

「先生、あんたが馬泥棒てえ評判ですが」
「とんでもねえ、ヒヒーン」

腹の馬がいなないて、あっさりバレた。

「それならそれで、今度はあんたの分身を馬に乗せて吐き出すという新趣向を出したらどうだ」

そんな悪知恵を授けた者がいる。

ところが、鉄拐は馬を吐き出せないので、客を腹の中に入れて見物させる。

これが大当たりで、たちまち満員札を口と肛門に張る騒ぎに。

そのうち、酔っぱらった客二人が大げんかを始め、さすがの鉄拐もたまらず吐き出す。

それがなんと、李白と陶淵明。

スヴェンソンの増毛ネット

しりたい

原話は慈悲成本

原話は、桜川慈悲成さくらがわじひなり(八尾大助、1762-1833)が作成した『落噺常々草おとしばなしつねつねぐさ』の中の「腹曲馬はらのきょくば」といわれています。

『落噺常々草』は文化年間(1804-18)に刊行された笑話本です。

江戸後期の戯作者げさくしゃ。親の慈悲成、芝楽亭しばらくてい暫亭しばらくていなどとも号しました。

本業は芝宇田川町に住んだといわれている鞘師さやしで、杉浦如泉すぎうらじょせん門の金工でした。陶器の販売もしていたようです。

ちなみに、杉浦如泉は金工で、杉浦如竹じょちくの高弟でした。

師にならった高彫りに加え、平象嵌ひらぞうがんを得意としたそうです。

慈悲成は、桜川杜芳とほう(岸田杜芳)に師事して、戯作を始めました。

杜芳は、寛政年間に活躍した狂歌師、戯作者です。

慈悲成の残した作品には、黄表紙きびょうし天筆阿房楽てんひつあほうらく』『作者根元江戸錦さくしゃこんげんえどにしき』、噺本はなしぼん滑稽好こっけいこう』『軽口噺かるくちはなし』などがあります。

滑稽本こっけいぼん合巻ごうかんにも挑んだそうですが、現在の評価としては、長い作者生活のわりには佳作に乏しい、とされています。

どうでしょうか。いずれ、見直される日が来るかもしれません。

慈悲成はまた、多芸でも知られています。

茶道、狂歌、絵画など。噺家でもありました。

烏亭焉馬うていえんばとともに、落語中興の祖とされています。

焉馬は同好者を集めて噺の会を催しました。

慈悲成は、おはこの茶道や茶番狂言などを利用して富裕層の屋敷に出入りし、噺芸や幇間のような座敷芸を行っていました。

慈悲成のこのような芸風は、後世の落語界に少なからぬ影響を与えています。

慈悲成の座敷芸は他方で、幇間をも育成しました。

慈悲成の門下には、桜川甚好じんこう、桜川善好ぜんこうらの幇間が輩出しています。

古今亭志ん生もマクラで、この二人の系統を例に出して幇間芸をたたえていました。

現在も引き継がれる幇間の名代「桜川」が、雄弁に物語っています。

「腹曲馬」 国立国会図書館所蔵

鉄拐仙人

道教の八仙の一人で、李鉄拐といいます。

伝説によると、自宅に肉体を置いたまま魂で華山まで飛び、太上老君(道教の神・老子)に会いましたが、帰ってみると、弟子が肉体を火葬してしまった後で、戻るべきところがなくなり、困りました。

そこで、近所に行き倒れの物乞いがいたのを幸い、その屍骸を乗っ取って蘇生したとか。

鉄拐がボロをまとった姿で登場するのは、この故事に由来します。

李鉄拐

張果老

同じく、八仙の一人。

白いロバに乗っているのが特徴です。

このロバ、用のないときは紙のように折りたたんで行李に納められ、水を吹きかけると、たちまち、一日何万里も歩くロバになります。

噺の中の馬は、このロバのことでしょう。

北京の大富豪の「番頭」が金兵衛というのが笑わせるじゃないですか。

この噺が得意だった立川談志は、「上海は新横町2の2上海屋唐右衛門」で演じていました。

談志なりのリアリティーなのでしょうが、目くそ鼻くそを笑うがごときこざかしさ。リアリティーもへったくれもない設定です。

ま、そこがいいのですがね。

李白と陶淵明が最後に出てきますが、両者とも酔いどれ詩人で有名です。

だからこそ、オチの意味がああるわけで。

談志は、大島渚と野坂昭如に代えたりもしています。

だからといって、まあ、さしたるおかしさがかもしだされるわけでもないでしょう。

張果老

【鉄拐 立川談志】

スヴェンソンの増毛ネット

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かんしょうばくや【干将莫邪】故事成語 ことば

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中国春秋時代(BC771-BC403)につくられた、二振りの名剣。

そこには説教もたとえ話もありません。

剣にまつわるどろどろの物語があるだけです。

ふつう、中国の故事とか名言とかは、説教や教訓に包んでありがたみを無理やり感じさせるものですが、「干将莫耶」にはそれがまったくありません。

神秘と妖気がただよっているだけです。

「干将」も「莫邪(鏌鋣とも)」も人の名前ですが、ややこしいことに、二振りの剣にそれぞれ付けられた名前でもあります。

「干将莫邪」が長いので「干鏌」とも呼びます。

刀剣といいますが、「刀」は片方だけが刃になっているもの。

「剣」は両端が刃になっているものです。

刀は日本で、剣は中国で多く使われました。

なのに、刀鍛冶、剣道と、日本では腑に落ちない使われ方をしているものです。

さて。

「干将」は呉の刀鍛冶、「莫邪(鏌鋣とも)」はその妻。干将は「欧冶子」の弟子、欧冶子の娘が莫邪、という関係。莫邪も刀鍛冶をします。

楚王が、剣の鑑定士である風胡子に鋳剣を命じます。風胡子は、欧冶子と干将に「龍淵(龍泉とも)」「泰阿(太阿とも)」「工布(工市とも)」という三振りの鉄剣をつくらせています。

これを知った晋王は剣を所望しましたが、楚王に断られます。怒った晋王は楚を攻めます。都城を囲んで三年。楚は食糧が尽きます。やけのやんぱち、楚王は城楼に上って泰阿剣を掲げるや、あーらふしぎ、晋軍は混乱して敗走しました。

楚王が「これは宝剣の威力なのか、わしの力なのか」と問えば、風胡子は「宝剣の威力です。でも、少しは王の差配も影響しています」と忖度を。

欧冶子も干将も、とんでもない武器を製造する技術者だったのでした。

以上は、『越絶書』(袁康、呉平、後漢)に出ている話です。

ほかにも、『荀子』『呉越春秋』『漢書』などにも干将莫邪の話は登場します。干将莫邪に鋳剣を命じる王は呉王闔閭です。でも、『捜神記』では楚王となっています。呉も越も楚も、揚子江流域にあった国です。

福光光司によれば、、古代中国での剣に関する神秘化し神霊化する思想は、そのほとんどが呉越の地域が舞台だとのこと(『道教思想史研究』岩波書店、1987)。興味深い考察です。

ですから、干将莫邪にまつわる話では、呉でも越でも楚でもかまわないのです。江南地方ならOKということですね。

話としてはいちばんおもしろい『捜神記』に沿って、干将莫邪の物語を記します。ただ、前段には『呉越春秋』にだけある物語があるので、まずはそれを。

楚王の夫人が、暑さしのぎに、鉄の棒に体を添えて寝ていた。そしたら、たちまち懐妊となり、十か月後には出産。それも黒い鉄の固まりを。楚王は、これは神霊の威が宿るものと、干将と莫邪に鋳剣を命じた。

奇妙な話ですが、「眉間尺」ではこのくだりもしっかり入っています。興味のある方はそちらもお読みください。

では、『捜神記』の物語に入りましょう。

干将と莫邪は協力し合い、三年がかりで類例の及ばない二振りの剣をつくった。陽の剣を「干将」と、陰の剣を「莫邪」と名づけた。なんで自分のをわざわざ付けるのか。意味不明。その頃、莫邪は身重だった。楚王は剣の出来上がりが遅いので怒っていた。しかも、このような優れた剣を他者のためにつくられることにも恐れた。干将は王に剣を献上する日が来た。出かける前、干将は莫邪に「私は陰の剣だけを王に差し出す。王は怒って私を殺すだろう。生まれてくる子が男だったら、南山麓の木の下に隠してある陽の剣を見つけ出して、その剣で仇を討ってもらいたい」と告げた。王は干将を殺した。莫邪が産んだのは男児で、「赤比」と名づけられた。眉間が1尺(15.8cm)もあるため「眉間尺」ともあだ名された。少年となった赤比は父親のいないわけを莫邪から打ち明けられた。赤比は仇討ちのため、木の下から剣を見つけ出し、修行に旅立った。その頃、王は夢を見た。眉間尺の少年が自分を討とうとする夢だった。恐れた王は眉間尺少年に懸賞付きで探させる。赤比は山に隠れたが、父の仇を討てないもどかしさで日々泣いて暮らしていた。そこを通りかかった旅の男が泣く理由を尋ねる。赤比はわけを語った。うーん。なみの方法では王には近づけない。ならばいっそ。男はとんでもないことを提案する。赤比の首と剣を持っていけば王に会えるだろうから、その機に私が王の首を刎ねよう、と。赤比は大いに賛成して、すぐに剣でおのれの首を刎ねた。え、そんなに早く。首と剣を携えた男は、王に面会がかなった。王は喜び「これは勇者の首だから釜ゆでにしよう」と。赤比の首は三日三晩ゆでられるが、とろけずくずれず。目なんかいからせたまま。どうしたことか。男は「王よ、釜の中をご覧ください。王の威厳で必ずや勇者の首はとろけくずれるでしょう」と。王は言われたままに釜を覗いた。その瞬間、男は王の首を斬り落とした。釜の中へ。男も自身の首を斬り落として釜の中へ。三人の首がぐらぐらととろけくずれていった。三つ巴のどろどろ。もう区別がつかなくなったので、家臣は三人まとめて墓に入れた。それが「三王墓」。汝南県にいまも残る。

これが、だいたい一般的な干将莫邪のストーリーです。

日本に渡ると、少し変わってきますが、剣の神秘と、剣に魅せられた王の権力、仇討ちの潔癖は、変わらず伝わります。

まずは『今昔物語集』巻九「震旦の莫邪、剣を造りて王に献じたるに子の眉間尺を殺される語」を見てみましょう。

震旦(中国)に莫邪という刀鍛冶がいた。この話には莫邪だけ。しかも男。王の妃は夏の暑さにがまんがならず、鉄の柱を抱いて寝ていた。冷えて気持ちがいいので。ほどなく妃は懐妊。王は「そんなわけない」といぶかしんだが、やがて妃は鉄の塊を出産した。「こ、これは」とあやしんでも後の祭り。王は莫邪を呼んで、この鉄で鋳剣を命じた。莫邪は二振りの剣をつくり、一振りは隠した。剣を受け取った王だが、その剣はつねに音を立てている。尋ねられた大臣は苦し紛れに「この剣は陰陽二振りあって、もう一方を恋い慕っているのではないでしょうか」と。王は怒り、莫邪を捕まえてくるように命じた。莫邪は妻に「凶なる夢を見た。だから、王の使いが来て、私は王に殺される。おまえのおなかの子が男だったら、南の山の松の中を見よと告げ、私の仇を討つよう」と。莫邪は北の門から出て南の山に入り、大きな木のほこらに隠れて死んだ。妻は男子を産んだ。眉間の幅が1尺もあり、眉間尺とあだ名されるほどだった。十五歳の眉間尺は南の山の松のもとに行けば、一振りの剣があった。その剣を握ると、復讐への思いが湧いてきた。王は、眉間の広い男が自分を殺そうとする夢を見た。王は恐れた。眉間尺は手配の身となった。眉間尺は山に逃げた。探索する連中の一人が、山中で眉間尺を見つけた。「眉間尺か」「そうだ」「王命でおまえの首と剣を差し出すことになっている」。眉間尺は自らの首を斬り落とした。刺客は首と剣を携えて王に差し出した。王は喜び、首を釜でゆでて形なきものにするよう命じた。七日たっても首は変わらなかった。王はいぶかしんで釜の中を覗き込んだ。そのとき、王の首が体から離れて釜に落ちた。釜の中で二つの首は噛み合った。それを見ていた刺客は剣を釜の中に投じた。剣の霊力か、二首は煮とろけた。その変化を見ているうち、刺客の首も自然に斬り落ちて釜に入った。三首がどろどろとなった。区別もつかないので、一つの墓に三つの首を葬った。これが三王墓で、宜春県に残る。

話はスマートになっているようにも見えます。『捜神記』での莫邪はあまり活躍の場面もありませんでした。『今昔物語集』では名前のない妻になっています。王の首が斬り落ちるのが不可解ですが、ここはもう剣の霊力によるものと解釈すれば、刺客の首ポトンも同じでしょう。つまり、この物語の大半は剣の霊力がストーリーを突き動かしているのです。

では、もうひとつ。『太平記』巻十三の「眉間尺釬鏌剣の事」に見える干将莫邪の話を見てみましょう。

舞台は建武2年(1335)7月23日の鎌倉。北条時行が鎌倉を攻めた中先代の乱で、その混乱に紛れて、幽閉されていた護良親王が謀殺されます。この日、親王の首を斬り落としたのは淵野辺義博ですが、義博はその首を藪に投げ捨てて戻ります。なぜか。その理由が、干将莫邪の故事を通して語られるのです。

ところで、淵野辺甲斐守(義博)が兵部卿(護良親王)の首を左馬頭(足利直義)に見せることなく藪に捨てた理由は、義博自身が少々考えるところあってこのようにふるまった。その理由は。春秋時代の楚王の物語である。甫湿夫人なる楚王の后は鉄の柱に寄りかかって涼んでいたが、ただならぬ心持ちとなって、たちまち懐妊。鉄の玉を出産した。楚王は、この玉は金鉄の精霊だろうからと、干将という鍛冶に鋳剣を命じた。鉄を拝領した干将は呉山に入り、竜泉の水で鍛えて三年がかりで雌雄二振りの剣を仕上げた。献上する前に、妻の莫邪は干将に「この二振りの剣は精霊がひそかに備わっていて、いながらにして仇敵を滅ぼせるほどです。生まれてくるのは勇ましい男子でしょう。それなら、一振りは隠しておいてわが子にお与えください」と言った。干将はもっともだと、雄剣のみを楚王に献上した。王が剣を箱の中に納めると剣が泣いた。毎晩と。王は家臣に尋ねると、ある知恵者が「きっと雌雄二振りの剣で、同じところにいないことを悲しんで泣くのでしょう」と奏上した。王は怒った。干将に問いただしたが、干将は答えない。王は干将を獄に投じ首を刎ねた。莫邪は男児を出産。眉と眉の間が1尺あったので眉間尺と名づけられた。眉間尺が十五歳になると、莫邪は父の遺書を読ませた。そこには「太陽が北向きの窓から射す南山に松の木がある。松は石のはざまで成長する。剣はその中にある」と記されてあった。眉間尺は「ならば、剣は北向きの窓の柱の中にあるのだな」と言って柱を割って中を見ると、剣があった。眉間尺は喜び、「この剣で父の仇を討とう」という気持ちが骨の髄までしみ込んだ。眉間尺が怒っていることを知った王は、数万の兵をやって眉間尺を攻めた。眉間尺一人の強い力に打ち砕かれて、剣の刃先に死ぬ者や負傷する者が数え切れないほどだった。王は困り果てた。甑山からの旅人が眉間尺のもとにやって来た。干将と交わりを結んだことのある人だった。旅人は「おまえの父親と結んだ友情は金を断ち切るほどの強いものだ。友の恩に謝するために楚王を討とうとしたが、できなかった。おまえがともに仇を晴らそうと思うのなら、剣の切っ先を三寸食い切って口に含んで死ぬがよい。わたしはおまえ首を持って王に献上しよう。おまえはそのとき口に含んだ剣の切っ先を王に吹きかけて相討ちにしろ」と申し出た。眉間尺は喜んで、すぐさま剣の切っ先を三寸食い切って口に含み、自ら首を斬り落とし、旅人に差し出した。旅人も首を持って王に目通りを。王は喜び、首を獄門にかけさせた。首は三か月たってもただれず、目は見開き歯を食いしばって歯ぎしりしていた。王は恐れ、首を鼎で煮るよう命じた。あまりにも念入りに煮られたので、首も目を閉じた。王は恐れることなく鼎をご覧になった。眉間尺の首は王に向かって剣の切っ先を吹きかけた。切っ先は正確に王の首の骨を貫いたので、首は鼎の中に落ちた。王も荒々しく気が強かったので、煮えたぎる鼎の中で双首は上になり下になりからりひしりと食い合っていた。眉間尺の首が負けそうな気配に見えたので、旅人はおのれの首を斬り落とし、鼎の中に投げ入れた。眉間尺と協力し合って王の首を食い破り粉砕した。眉間尺の首が「死んでから父の仇を晴らした」と言えば、旅人の首も「死んであの世から友の恩に感謝する」と喜んだ。一度にどっと笑う声が聞こえ、首はは煮ただれて形をなくした。眉間尺が口に含んだ三寸の剣の切っ先はその後、燕国に残され、太子丹の宝物となった。太子丹が荊軻と秦舞陽を使って始皇帝を殺そうとしたとき、この剣の切っ先は地図を入れた箱からひとりでに飛び出し、始皇帝を追いかけた。が、侍医に薬袋を投げつけられたため、さしわたし六尺の銅の柱を半分ほど切って、三つに折れてそのまま行方不明になった短剣がこれだった。干将の鋳した雌雄二振りの剣の残りは、干将莫邪の剣といわれて、代々天子の宝物となっていたが、陳の時代に行方不明となった。あるとき、彗星が現れ、災いの前兆となるできごとが怒った。臣下の張花と雷煥が高殿に昇って彗星を見るや、古い獄門のあたりから剣の形の光が天空に昇って、彗星と戦っている気配だった。張花は不思議に思い、光が射す場所を掘ってみた。干将莫邪の剣が地下五尺の地点に埋もれていたのだった。二人は喜んで、剣を掘り出し、天子に献上するために自身で腰に差して延平津という船着き場を通った。天子の宝物になってはいけないいわれでもあったのか、二振りの剣はひとりでに抜け落ちて水中に入ってしまった。それが雌雄二頭の竜となって、はるか遠い波間に沈んでいった。以来、剣は行方不明である。淵野辺甲斐守(義博)は、このような奇譚を思い出したからか、兵部卿(護良親王)が刀の切っ先を食い切ってお口に含みなされたのを見て、首を左馬頭(足利直義)に近づけることをせず、遠い先を見通して藪に捨てたという判断はりっぱなことだったと、この故事を知る者たちは感心したものだ。

いやあ、えらい長い物語でした。

お読みになっておわかりの通り、『捜神記』や『呉越春秋』などよりも細部が行き届いてあます。

人の心の動きも見えてきています。

この故事は、「擬宝珠」「眉間尺」などで下敷きに使われています。

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こうこうのしつ【膏肓の疾】故事成語 ことば

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不治の病気。転じて、物事に夢中になってやめられないこと。

よい意味では使われません。

病膏肓やまいこうこうる」というフレーズのほうが有名でしょうか。

「肓」を「盲」と間違えて「こうもうにいる」と読む人もいますが、まだ「こうこう」が正解です。「こうもう」と読む人がもっと増えれば、国語辞典も「こうもう」を許容するかもしれません。

「入る」は古語では「いる」と読みます。「はいる」は現代語です。

出典は『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん成公せいこう十年。紀元前581年ですから、相当古い時代の話です。

ところで、この四字熟語にはどんな故事来歴があるのでしょうか。

一般には、こんな話が伝わっています。

しん景公けいこうが病気になった。病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた。そんな夢を景公は見た。医者の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公はこの医者を「名医」と称賛し、礼物を尽くして帰させた。

せっかく名医にみてもらったのに、見放されてしまったとは。晋の景公は死が迫りながらも治せない医者を名医と称賛するなんて、なかなかの大人たいじんぶりです。夢と見立てがぴったりだったので驚愕きょうがくしたのかもしれません。

もう少し詳しい解説本になると、こんな具合に記されています。

晋の景公が病気になった。みこに自分の寿命を占わせたところ「公は新麦をお召しになる前に亡くなられます」とのことだった。景公は、病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた夢を見た。名医がやってきた。彼の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦が収穫された。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹具合が悪くなった。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。

え、なに。大人たいじんの風だと思われた晋の景公、占いが「当たらなかった」として巫を斬ってしまうとは。ずいぶんな暴君ぶりではありませんか。

原典の『春秋左氏伝』成公十年には、さらに詳しい物語が記されています。こんな具合です。まずはお読みください。

晋の景公は夢を見た。背の高い亡霊が長い髪を振り乱し、胸をたたいて踊りながら「わしの子孫を殺すとは不埒な奴」と公を殺そうと迫ってきた。目を覚ました公は桑田そうでん(晋の地名)から巫を呼んだ。巫は夢をそっくり言い当てた。公が「どうなるのか」と聞けば、巫は「今年の新麦を召し上がれないでしょう」。まもなく景公は病気になった。公は隣国のしんに医者を求めた。秦からかんという医者が来ることになった。緩が着く前、景公は、病気が二人の子どもとなり「緩は名医だから、膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)の上に隠れよう」と話す夢を見た。緩がやってきた。「膏肓の間に病があるので残念ながら私には治せません」という見立てだった。夢とぴったり。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦収穫の季節が来た。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹が張ってきた。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。その日の明け方、公を背負って天に昇る夢を見た宦官かんがんがいた。昼になって、その宦官は公を背負って便所から担ぎ出すことになった。宦官は殉死をさせられた。

「膏肓之疾」にはこんなにも込み入った物語があったとは。知りませんでした。

晋の景公が見た最初の夢。そこに登場した亡霊は、ちょう一族の先祖のようです。『春秋左氏伝』成公八年は、公が趙一族を皆殺しにさせたことを記してます。なかでも趙同ちょうどう趙括ちょうかつという大夫たいふ(領地を持った貴族)の兄弟の名はしっかりと載っています。

夢に出てきた二人の子どもは、この兄弟を暗示しているのでしょう。景公にとって、趙一族皆殺しは慙愧ざんきえない黒歴史だったはずです。

景公は、緩には名医だと称賛し礼を与えて帰させたのに、桑田そうでんみこには占いが当たらなかったとして、新麦を食べる直前に殺させています。二人は同じことをしているのに。どういうことでしょうか。

医者のかんは隣国の秦から派遣されてきているので、殺すわけにはいきません。感情の赴くままに殺してしまったら、秦は攻めてくるに違いありませんし。緩はお客さんだったのです。だから、腹いせは自国の巫で、ということでしょうか。景公はやはり、おのれに迫る死にがまんならなかったのですね。大人でも名君でもありませんでした。

夢に登場した二人の子どもが趙同と趙括の化身で、いまそこにある病はこの二人によるもの、いやいや、この病は趙一族による復讐なのだという気づきが、景公の心には彷彿ほうふつとしたのでしょう。自分はいずれあいつらに殺される。そういう悟りです。

晋の景公は二度、夢を見ます。夢の中でのできごとをまともにとらえているのです。だからでしょうか。「膏肓之疾」には、なにかに夢中になることを戒める思いが込められているようですね。夢中はよくない、ということでしょうか。

糞まみれだったであろう、景公の亡骸なきがらを担いだ宦官。公の夢を見たことを漏らしたばっかりに殉死を強いられてしまった彼。とんだとばっちりかと思うのですが、この時代、殉死は名誉なことでしょうから、いちおう、そと見的には、彼は喜んで道連れになってくれたのでしょう。この噺の、ちょっとしたオチなのかもしれません。

これは、衰退してやがては消えていく運命の晋と、いずれは統一国家を実現する上り調子の秦との噺です。「膏肓之疾」が意味する「不治」とは、滅亡する晋の運命なのだと思います。

余談ですが、趙一族には生き残った者が一人いました。趙武ちょうぶです。成長した彼が仇討ちを果たした物語は、元代の紀君祥きくんしょうによる雑劇ざつげき「趙氏孤児」で有名になりました。そのおかげで、これまでにさまざまな脚色作品が流布されてきたのです。例をあげてみましょう。

日本では『孟夏の太陽』(宮城谷昌光、文藝春秋、1991年)、『洛陽の姉妹』(安西篤子、講談社、1999年)所収の「趙氏春秋」などで。フランスでは戯曲『中国の孤児』(ヴォルテール、1755年)、現代中国では映画『運命の子』(原題:趙氏孤児、チェン・カイコー監督、2011年)などの作品で、広く知られています。

敵役かたきやくとなる屠岸賈とがんこは『春秋左氏伝』には登場せず、『史記』に出てきます。屠が趙を憎むにはそれなりの理由があり、こちらのエピソードがまた、さらに複雑になっていきます。

「膏肓之疾」という四字熟語に、こんな物語があるなんて。四字熟語、軽んずべからず。

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