しゅんじゅうさしでんのことば【春秋左氏伝のことば】故事成語 ことば

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『春秋左氏伝』はいまでもかなり楽しめる書です。紀元前722年から前481年までの古代中国、魯の国のできごとを記した『春秋』(歴史を意味します)という書の注釈本のひとつ。「なんだ、注釈書か」と思われるかもしれません。でも、これがすごい。よく読むと、素っ気ない文体に豊かな含蓄。あまた味わい深くて。酒見賢一、宮城谷昌光、安能務なんかが描く世界ですね。現代でもおなじみのことばがたくさん登場します。故事名言の宝庫です。そこで、気になることばを一覧にしてみました。
故事成語初出年意味
挙国一致隠公元年(前722)国民全体が一致して同じ態度をとる
菟裘ときゅう隠公十一年世を退いて余生を送る場所。官を辞して隠棲する地
德を度り力を量る隱公十一年為政者が人々に信頼される人格と行政能力をもっているかどうかを推し量る
大義滅親隠公十四年君主や国家のためには親子の情をもかえりみない
玉を懐いて罪あり桓公十年分不相応のものを持つとわざわいを招く
城下の盟桓公十二年城下まで敵に攻め寄せられ講和を結ぶ
ほぞを噛む荘公六年後悔する
長享荘公十年日本の元号。1487-89年
禍に臨みて憂いを忘れば憂い必ずこれに及ばん荘公二十年災禍に臨みながらもそのつらい思いを忘れてしまうようではあとでとんでもない心配ごとが起こる
酖毒閔公元年猛毒
風馬牛僖公四年自分とは関係ない
一薫一蕕いっくんいちゆう僖公四年善人が悪人にやられてわざわいが長く残る
唇亡びて歯寒し僖公五年助け合う仲の一方が滅びると他方も危なくなる
唇歯輔車僖公五年持ちつ持たれつ
善敗己に由る僖公二十年良いも悪いも自分次第
蒙塵僖公二十四年天子が都から逃げ
玉趾を挙ぐ僖公二十六年貴人が来る
東道の主僖公三十年主人として来客の世話をする
墓木已に拱す僖公三十二年この死にぞこないめ!
帰元僖公三十三年
敵愾文公四年君主の憤りをはらそうとする
愛日文公七年冬の日
畏日文公七年夏の日
言葉なお耳にあり文公七年以前に聞いたことばが今でも耳に残る
八愷はちがい文公十八年心が清く正しく徳の高い人。八元に同じ
八元文公十八年心が清く正しく徳の高い人。八愷に同じ
済美文公十八年よいことをする
董狐の筆宣公二年権力を恐れずに真実を発表する
魑魅魍魎宣公三年化け物いろいろ
かなえ軽重けいちょうを問う宣公三年その人の価値や能力を疑う→足元を見る
食指が動く宣公四年人差し指→食欲がわく
染指宣公四年ものごとを始める
野心宣公四年分不相応の大きな望み
肉袒宣公十二年降伏
七徳宣公十二年軍事の七つの徳→平和で繁栄のいいことづくめ
草を結ぶ宣公十五年恩に報いる
楚囚成公九年(前582年)囚人
二豎にじゅ成公十年(前581)病気
病膏肓やまいこうこう成公十年(前581)不治の病
勧善懲悪成公十四年悪は亡びる
菽麦しゅくばくを弁ぜず成公十八年愚かでものの区別がつかない
百年河清を襄公八年いくら待ってもむだ
杖るは信に如くはなし襄公八年たよれるのは信義だけ
安に居て危を思う襄公十一年いつでも危機に備えるのが大切だ
推輓すいばん襄公十四年おすすめ
貪らざるを以て宝となす襄公十五年無欲が自分の宝
南風競わず襄公十八年南方の勢力が弱い→威勢がない
禍福は門なし襄公二十三年幸不幸は自分が招く
慎始敬終襄公二十五年手抜きせずにやり抜く
太史の簡襄公二十五年記録
抜本塞源昭公四年根本原因を抜きとって弊害を元からなくす
興国昭公四年国の勢いを盛んにする
尾大掉わず昭公十一年上司が弱く部下が強いと仕事の発展はむり
末大必ず折る昭公十一年部下が強大になると上司は必ず滅びる
三墳五典昭公十二年古代の書
八索九丘昭公十二年こちらも、古代の書
善に従うこと流るるがごとし昭公十三年よいと思ったらすぐやる
寛政昭公二十年寛大な政治
牛耳を執る定公八年同盟の盟主となる
藩屏はんぺい定公四年垣根
三度肘を折って良医となる定公十三年苦しい体験を積んで味のある人になる
良禽択木哀公十一年賢い部下は親分を選んで仕える
心腹の疾哀公十一年強敵
獲麟かくりん哀公十四年(前481)終わり

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こうこうのしつ【膏肓の疾】故事成語 ことば

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不治の病気。転じて、物事に夢中になってやめられないこと。

よい意味では使われません。

病膏肓やまいこうこうる」というフレーズのほうが有名でしょうか。

「肓」を「盲」と間違えて「こうもうにいる」と読む人もいますが、まだ「こうこう」が正解です。「こうもう」と読む人がもっと増えれば、国語辞典も「こうもう」を許容するかもしれません。

「入る」は古語では「いる」と読みます。「はいる」は現代語です。

出典は『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん成公せいこう十年。紀元前581年ですから、相当古い時代の話です。

ところで、この四字熟語にはどんな故事来歴があるのでしょうか。

一般には、こんな話が伝わっています。

しん景公けいこうが病気になった。病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた。そんな夢を景公は見た。医者の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公はこの医者を「名医」と称賛し、礼物を尽くして帰させた。

せっかく名医にみてもらったのに、見放されてしまったとは。晋の景公は死が迫りながらも治せない医者を名医と称賛するなんて、なかなかの大人たいじんぶりです。夢と見立てがぴったりだったので驚愕きょうがくしたのかもしれません。

もう少し詳しい解説本になると、こんな具合に記されています。

晋の景公が病気になった。みこに自分の寿命を占わせたところ「公は新麦をお召しになる前に亡くなられます」とのことだった。景公は、病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた夢を見た。名医がやってきた。彼の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦が収穫された。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹具合が悪くなった。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。

え、なに。大人たいじんの風だと思われた晋の景公、占いが「当たらなかった」として巫を斬ってしまうとは。ずいぶんな暴君ぶりではありませんか。

原典の『春秋左氏伝』成公十年には、さらに詳しい物語が記されています。こんな具合です。まずはお読みください。

晋の景公は夢を見た。背の高い亡霊が長い髪を振り乱し、胸をたたいて踊りながら「わしの子孫を殺すとは不埒な奴」と公を殺そうと迫ってきた。目を覚ました公は桑田そうでん(晋の地名)から巫を呼んだ。巫は夢をそっくり言い当てた。公が「どうなるのか」と聞けば、巫は「今年の新麦を召し上がれないでしょう」。まもなく景公は病気になった。公は隣国のしんに医者を求めた。秦からかんという医者が来ることになった。緩が着く前、景公は、病気が二人の子どもとなり「緩は名医だから、膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)の上に隠れよう」と話す夢を見た。緩がやってきた。「膏肓の間に病があるので残念ながら私には治せません」という見立てだった。夢とぴったり。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦収穫の季節が来た。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹が張ってきた。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。その日の明け方、公を背負って天に昇る夢を見た宦官かんがんがいた。昼になって、その宦官は公を背負って便所から担ぎ出すことになった。宦官は殉死をさせられた。

「膏肓之疾」にはこんなにも込み入った物語があったとは。知りませんでした。

晋の景公が見た最初の夢。そこに登場した亡霊は、ちょう一族の先祖のようです。『春秋左氏伝』成公八年は、公が趙一族を皆殺しにさせたことを記してます。なかでも趙同ちょうどう趙括ちょうかつという大夫たいふ(領地を持った貴族)の兄弟の名はしっかりと載っています。

夢に出てきた二人の子どもは、この兄弟を暗示しているのでしょう。景公にとって、趙一族皆殺しは慙愧ざんきえない黒歴史だったはずです。

景公は、緩には名医だと称賛し礼を与えて帰させたのに、桑田そうでんみこには占いが当たらなかったとして、新麦を食べる直前に殺させています。二人は同じことをしているのに。どういうことでしょうか。

医者のかんは隣国の秦から派遣されてきているので、殺すわけにはいきません。感情の赴くままに殺してしまったら、秦は攻めてくるに違いありませんし。緩はお客さんだったのです。だから、腹いせは自国の巫で、ということでしょうか。景公はやはり、おのれに迫る死にがまんならなかったのですね。大人でも名君でもありませんでした。

夢に登場した二人の子どもが趙同と趙括の化身で、いまそこにある病はこの二人によるもの、いやいや、この病は趙一族による復讐なのだという気づきが、景公の心には彷彿ほうふつとしたのでしょう。自分はいずれあいつらに殺される。そういう悟りです。

晋の景公は二度、夢を見ます。夢の中でのできごとをまともにとらえているのです。だからでしょうか。「膏肓之疾」には、なにかに夢中になることを戒める思いが込められているようですね。夢中はよくない、ということでしょうか。

糞まみれだったであろう、景公の亡骸なきがらを担いだ宦官。公の夢を見たことを漏らしたばっかりに殉死を強いられてしまった彼。とんだとばっちりかと思うのですが、この時代、殉死は名誉なことでしょうから、いちおう、そと見的には、彼は喜んで道連れになってくれたのでしょう。この噺の、ちょっとしたオチなのかもしれません。

これは、衰退してやがては消えていく運命の晋と、いずれは統一国家を実現する上り調子の秦との噺です。「膏肓之疾」が意味する「不治」とは、滅亡する晋の運命なのだと思います。

余談ですが、趙一族には生き残った者が一人いました。趙武ちょうぶです。成長した彼が仇討ちを果たした物語は、元代の紀君祥きくんしょうによる雑劇ざつげき「趙氏孤児」で有名になりました。そのおかげで、これまでにさまざまな脚色作品が流布されてきたのです。例をあげてみましょう。

日本では『孟夏の太陽』(宮城谷昌光、文藝春秋、1991年)、『洛陽の姉妹』(安西篤子、講談社、1999年)所収の「趙氏春秋」などで。フランスでは戯曲『中国の孤児』(ヴォルテール、1755年)、現代中国では映画『運命の子』(原題:趙氏孤児、チェン・カイコー監督、2011年)などの作品で、広く知られています。

敵役かたきやくとなる屠岸賈とがんこは『春秋左氏伝』には登場せず、『史記』に出てきます。屠が趙を憎むにはそれなりの理由があり、こちらのエピソードがまた、さらに複雑になっていきます。

「膏肓之疾」という四字熟語に、こんな物語があるなんて。四字熟語、軽んずべからず。

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