いのこりさへいじ【居残り佐平次】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

映画『幕末太陽傳』の元ネタ。
痛快無比な廓噺。
佐平次は佐平治とも記します。
嫌がられ役の代名詞。

別題:おこわ

                 落語映画の最高峰!☞

あらすじ

仲間が集まり、今夜は品川遊廓で大見世遊びをして散財しようということになったが、みんな金がない。

そこで一座の兄貴分の佐平次が、俺にまかせろと胸をたたく。

大見世では一晩十五円はかかるが、のみ放題食い放題で一円で済まそうという。

一同半信半疑だが、ともかく繰り込んだのが「土蔵相模」という有名な見世。

その晩は芸者総揚げで乱痴気騒ぎ。

さて寝る段になると、佐平次は仲間を集めて割り前をもらい、この金をお袋に届けてほしい、と頼んだ。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「どうせ胸を患っていて、医者にも転地療養を勧められている矢先当分品川でのんびりするつもりなので、おまえたちは朝立ちして先に帰ってくれ」と言う。

翌朝若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次、早速舌先三寸で煙にまき始める。

まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。

心配になってまた催促すると、帰った四人が夜、裏を返しにきて、そろって二日連続で騒ぐから、きれいに明朝に精算すると言う。

いっこうに仲間など現れないから、三日目の朝またせっつくと、しゃあしゃあと「金はねえ」。

帳場はパニックになるが、当人少しも騒がず、蒲団部屋に籠城して居残りを決め込む。

だけでなく、夜になり見世が忙しくなると、お運びから客の取り持ちまで、チョコマカ手伝いだした。

無銭飲食の分働くというのだから、文句も言えない。

器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい気持ちにさせた上、幇間顔負けの座敷芸まで披露するのだから、たちまちどの部屋からも「居残りはまだか」と引っ張りだこ。

面白くないのが他の若い衆で、「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだからたたき出せ」と主人に直談判する。

だんなも放ってはおけず、佐平次を呼び、勘定は待つからひとまず帰れと言う。

ところがこの男、自分は悪事に悪事を重ね、お上に捕まると、三尺高い木の空でドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれととんでもないことを言いだし、だんなは仰天。

金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いしたが、それでも心配で、あいつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじり。

驚いて問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次てんだ、よく覚えておけ」と捨てぜりふ。

聞いただんな、
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、あなたのおツムがごま塩です」

底本:五代目古今亭志ん生

古今亭志ん朝

しりたい

居残り  【RIZAP COOK】

「居残り」は遊興費に足が出て、一人が人質として残ることです。もとより、そんな商売があるわけではありません。

「佐平次」ももともとは普通名詞だったのです。古くから芸界で「図々しい人間」を意味する隠語でした。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)では、「居残り佐平次」を中心に、「品川心中」「三枚起請」「お見立て」などが挿入されています。

こんなすばらしい作品が生まれた日本は、これだけで世界に誇れます。

品川遊郭  【RIZAP COOK】

品川は、いわゆる四宿ししゅく(=品川、新宿、千住、板橋)の筆頭。

吉原のように公許の遊廓ではないものの、海の近くで魚はうまいし、佐平次が噺の中で言うように、労咳ろうがい(結核)患者の転地療養に最適の地でした。

おこわ  【RIZAP COOK】

オチの「おこわにかける」は古い江戸ことばで、すでに明治末年には死後になっていたでしょう。

語源は「おおこわい」で、人を陥れる意味でした。

それを赤飯のおこわと掛けたものですが、もちろん今では通じないため、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)が「あんな奴にウラを返されたら、あとがこわい」とするなど、各師匠が工夫しています。

昔から多くの名人・上手が手がけましたが、戦後ではやはり六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)のものだったでしょう。

【RIZAP COOK】

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評価 :3/3。

ししゅくのへ【四宿の屁】落語演目

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【どんな?】

尾籠な小噺の寄せ集め。
これだけ集めりゃあね。
におってきそうです。

【あらすじ】

江戸時代、品川、新宿、千住、板橋の四つの岡場所(非公認の遊廓)を四宿といった。

吉原についでにぎわったわけだ。

これは、それぞれの女郎の特徴を、屁で表した小噺。

まず、品川。

昼遊びで、女郎が同衾中に布団のすそを足で持ち上げ、スーッとすかし屁。

客が
「寒い」
と文句を言うと
「あそこの帆かけ舟をごらんなさいよ」
と、ごまかす。

そろそろ大丈夫と足を下ろすと、とたんにプーンとにおう。

「うーん、今のは肥舟か」

次は、新宿。

これも、女郎が布団の中で一発。

ごまかそうと
「今、地震じゃなかった?」

今度は、千住。

女郎が客に酌をしようとしている時に、不慮の一発。

そばにいた若い衆が、自分が被ってやると、客は正直さに免じて祝儀をくれる。

女郎があわてて
「今のは私」

最後に、板橋。

ここは田舎出の女が多く、粗野で乱暴。

客が女郎に
「屁をしたな」
と文句を言うと、女は居直って客の胸ぐらをつかみ
「屁をしたがどうした。もししゃばりやがったらタダはおかねえ」
と脅す。

仰天して
「言わないからご勘弁を」
「きっと言わねえな」
と言うと
「それじゃ、もう一発。ブーッ」

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

四宿

四宿と呼ばれた新宿、品川、千住、板橋。

それぞれ、街道の親宿(=起点)で、吉原のように公許ではないものの、飯盛女の名目で遊女を置くことが許された四大「岡場所」でした。

以下、そのうち、新宿、板橋の沿革をひとくさり。

ほかの二宿については、「居残り佐平次」「品川心中」(以上が品川)、「藁人形」「今戸の狐」(以上が千住)を、それぞれお読みください。

内藤新宿

新宿は、正式名称は内藤新宿。

落語では「文違い」「五人廻し」(演者によって吉原)などに登場します。

地名の起こりは、家康公江戸入府直後、高遠城主・内藤信濃守に、現在の新宿御苑の地に屋敷を賜ったことからというのが定説です。

ほかにも諸説あって、確定しませんが。

甲州街道の起点で、宿場設立は元禄11(1698)年。

浅草阿部川町の名主・喜兵衛ら有志六人が設立を請願、その際、飯盛を置くことを許可されたものです。

当初は田んぼの中にあったとか。

遊女の客引きが目に余るというので、宿場そのものが享保3(1718)年にお取りつぶしに。

54年後の明和9年(1772)に復興しました。

その後、新宿追分(新宿一、二丁目)を中心に栄えました。

旗本・鈴木主水と遊女・白糸の情話もここが舞台。

遊女の投げ込み寺(死体遺棄所)として成覚寺がありました。

新宿の有名な郭は「豊倉」「新金」など。

中でも新金は、明治時代には、娼妓の扱いが過酷なところから「鬼の新金」の異名がありました。

現在の伊勢丹向かい、マルイのあたりにあった見世です。

板橋

板橋は中山道の起点。

上宿、中宿、平尾宿の三つに分けられていました。

宿場の起源ははっきりしません。

幕府が中山道の宿駅をを正式に定めた寛永7年(1630)当時からある、古い宿場です。

板橋の地名は、室町時代初期の成立とされる「義経記」にも記載されています。

上宿と中宿の境を流れる、石神井川に掛かっていた木橋から起こったとされます。

郭は、四宿の中では最も格下です。

飯盛もこの噺に登場するように粗野で田舎じみていると評されました。

板橋を舞台とする噺は、ほかには「阿武松」くらいです。

演者によっては、「三人旅」の出発を中山道回りとする場合に板橋を見送りの場に設定することもありますが。

名人たちの逃げ噺

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)が「客がセコな時にやったネタ」として有名です。この言い回しは、立川談志(松岡克由、1935-2011)によりますが。

六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)には、これをトリで毎日演じてて席亭に文句を言われた、というエピソードも。

円生の師匠、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)もしばしば演じたといいます。明治大正を代表する名人です。

屁の小咄

短い小咄の寄せ集めなので、演者によって異なったものを挿入することがよくあります。

以下、そのいくつかをご紹介。

花魁が、客の前でスーッ。

ごまかそうと、母親の病気を治すため願掛けして月に一度恥をかいていると言いつくろう。

客が感心して「えらいねえ」と言ったとたん、また一発。

「ほい、これは来月分」。

これは五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)のもの。

江戸城の大広間に、諸大名が集まっているところで、将軍が一発。

水戸さまが鼻を押さえて
「草木(=臭き)もなびく君の御威勢」
紀州さまが
「天下泰平(=屁)」
と続けると、諸大名が
「へーへーへー」

禿が客に酌をしながら一発。

花魁がしかって、下に降りろと言ったとたんに自分も一発。

「えー、早く降りないかい。あたしも行くから」

……まことにどうも、罪のないというか、あほらしいというか。

原話

千住の小咄の原話のみ分かっています。

明和9年(1772)刊の笑話本『鹿の子餅』中の「屁」です。

ただ、オチの部分は異なっています。

あとで、女郎がご祝儀をもらった若い衆にそっと「あたしのおかげだよ」とささやき、恩に着せるというもの。

現行のようなシャープさはありません。

これはこれで、その恩義が「屁」であるという、ばかばかしいおかしみがあります。

【語の読みと注】
岡場所 おかばしょ:非公認の遊廓
禿 かむろ



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さんまいぎしょう【三枚起請】落語演目

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どんな?

性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原のお女郎に入れ揚げた町内の半公。

家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

品川から吉原に住み替えてきた女だった。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

年季ねんが明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の牛王ごおうの宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模どぞうさがみ(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉晋作(石原裕次郎)ご本人。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

                   日本の至宝『幕末太陽傳』☞

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。

「住み替え」とは、芸者、遊女、奉公人などが主家を替えることをいいます。

明治5年(1872)の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

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しながわしんじゅう【品川心中】落語演目

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【どんな?】

品川宿のお染も寄る年波には勝てず。
いっそ、客の誰かと心中しちまえ、と。
落語中の最高傑作。長いので「上」と「下」に。
たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(=だます)から、比丘びく(=魚籠びくに)されたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。

先の大戦後も、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在も、よく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)は皮肉を含んで「下」のみを演じていました。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していました。

でも、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようです。

昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。

新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。

宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれていました。

目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は、享保年間(1716-36)です。

飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは、万治2年(1659)のことでした。

宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり

自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん花和尚(なまぐさ坊主)が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を、吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

蛇足ながら。

岡場所の「岡」とは脇の意味です。吉原に対する脇なのですね。

「岡惚れ」「岡焼き」「岡目八目」の「岡」も同じ使われ方です。この場合の「岡」は傍と同意です。「傍惚れ」「傍焼き」「傍目八目」と記されたりもします。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。

五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(今よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代には、一軒構えの本屋はありませんでした。

もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、廓や大店などの得意先を回ったものです。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としていたころの品川、それも土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、世界の喜劇映画史に残る最高傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳(結核)病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でした。

「品川心中」のくだりでは、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る、小沢昭一(小澤昭一、1929-2012)が演じる「あばたの金造(あば金)」が絶品です。

映画では「金造」でした。

小沢は当時29歳だったそうです。とても見えませんが。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑う、小沢のあば金を見るだけでも、この作品は一見の価値あり。

並みの落語家では遠く及びません。

         幕末太陽傳を見ずして落語ファンと言うなかれ!☞

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。

よく考えると単純で、「釣る(だます)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあります。

品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原の異称
徒歩新宿:かちしんしゅく:品川
八朔 はっさく:8月1日。徳川家康が入ってきた日とか
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく:釣った魚を入れておく容器
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧



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あかいぬ【赤犬】川柳 ことば

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

赤犬が紛失したと芝で言い  明五鶴03

「赤犬」と「芝」とをかませた連想から、この句の舞台は薩摩上屋敷(港区芝5丁目)あたりであることがわかります。芝では赤犬がいなくなるといわれる、当時の都市伝説があります。赤犬は薩摩屋敷のへんで忽然と消えるのだと。

江戸の人が嫌う肉食を、薩摩侍は好むからだ、という噂がまことしやかに信じられていました。その噂はあらかたまことだったのでしょう。それを江戸の人々は気味悪がっていたのですね。赤犬は美味だというのも通り相場。

そもそも赤犬とは、べつにそういう種類の犬がいるわけではありません。茶毛の犬を赤犬と称するだけのこと。

とすれば、日本古来の犬はおおよそが赤犬となります。柴犬なんかですね。そうか、柴犬ならぬ芝犬となる。ということだったのですね。

赤犬は食いなんなよと女郎言い  明八義06

この句の「女郎」は品川遊郭の、ということになりますね。芝の近所の遊郭です。

赤犬を食って精力みなぎったまんま来られたんじゃ、威勢よく突かれてアタシのカラダがどうにかなっちまうからさ、てなぐあい。

麹町芝の屋敷へ丸で売れ  拾20

川柳で「芝」とセットに語られる「麹町」は、入り口にあった山奥屋という獣肉店をさします。

ここの獣肉店に「芝の屋敷」(薩摩屋敷)から注文が入った、しかも「丸」で。「丸」は一匹丸ごとのことですから、上得意さんだったという詠みです。

いまでも「駒形どぜう」などで「丸」と注文すれば、割いていないまんまのどじょうが皿にどっさり盛られてきますよね。こっちのほうが「さき」よりお得です。

いのししの口は国分でさっぱりし  明六智04

薩摩産の「国分」は高級煙草で、肉食のあとには煙草で口内をさっぱりさせる、と。国分煙草は「国府煙草」とも記され、元禄年間(1688-1704)あたりから嗜まれていました。薩摩地方の食風習に「えのころ飯」というのがありました。

「えのころ」とは犬ころの意。皮を削いだ犬体からはらわたを取り、そこに米を詰めて蒸し焼きにして、その米を食べるというもの。

大田南畝(覃、直次郎、1749-1823)が『一話一言補遺』に記しています。美味なんだとか。

家畜のはらわたに米などを詰めて蒸し焼きにする食風習は太平洋全体に散見されます。珍しくはありません。

ハワイのカルアピッグも祝祭用の豚の丸焼き料理で、同類といえます。

犬食文化は、中国(とりわけ玉林市)、朝鮮半島、台湾、沖縄など広域にわたり、日本も例外ではありません。古代からほそぼそながらも連綿と続いてきた食文化でした。

なにも、薩摩だけのものではなかったのです。現代のわれわれが犬食を毛嫌いする感覚は、明治に入ってきた西洋風価値観が、旧来の価値観に上塗りされたからです。ご先祖さまはけっこうつまんでいたのでした。

よかものさなどと壷からはさみ出し  明五信06

「よかものさ」と薩摩訛りで「上物だ」と、自慢げに壷漬けの獣肉を箸でつまんでいる薩摩武士の奇矯な食道楽ぶり。江戸ではこのように詠まれていたのですね。

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しながわのまめ【品川の豆】落語演目

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【どんな?】

バレ噺。
こんなにあざとい物語とは。
寄席では聴けっこありません。

別題:馬の豆 返し馬 左馬

【あらすじ】

町内の若い衆がそろって品川の穴守稲荷に参拝して、帰りにお女郎買いに繰り込もうということになった。

ところが一人、新婚がいて、かみさんにまだ遠慮があるから行きたくないが、こういうのに限ってやっかみ半分、強制的に誘われるから、やつも断れない。

そこでかみさんに
「つきあいで品川に行くけど、見世には上がっても女とは遊ばない」
と誓い、後日の証拠に、自分の道具の先に左馬を書いてもらった。

遊ばなければ消えないワケだが、ものの勢いというか、自分だけ花魁を買わない、ということはできない。

女房の手前、背を向けてじっとしてると、花魁が、
「あたしが嫌いかえ」
となじる。

実はこうこうと話すと、
「かわいいねえ。そういうかわいい男にゃ、なお遊ばせたいよ。心配せずにお遊びよ」
「だけど、左馬が消えちまう」
「そんなもの、後であたしが書き直してあげるよ」

帰って、亭主が
「ほら、この通り」
と前をまくって見せると、なるほどまだ馬の字が書いてあるにはあるが、なんだか変。

「少し大きくなってるねえ」
「そりゃそうだ。ゆんべ豆をくわせた」

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【うんちく】

原話は「うどん粉騒動」

「馬の豆」「返し馬」「左馬」など、いろいろ別題がありますが、原話は寛政10年(1798)刊の漢文体笑話本『善謔随訳続編』中の「麪(饂)塵異味」です。

これは現行よりもっとすさまじい話です。

かみさんが亭主のエテモノにうどん粉を塗りつけて送り出します。向こうで妙なことに使って、帰ったとき、「毛の一筋分でもはがれていてごらん。あたしゃ、恨み死にして七生まで祟ってやるからねッ。覚悟おしッ」。亭主もさるもの、予定通り妙なことに使ってお楽しみ。コトが済むと新しいうどん粉を塗り直し、何食わぬ顔でご帰還。ところが女房、粉まみれのアレをべろりとなめるや、目をむいて「違うよこれはッ! あたしのは塩を混ぜといたんだよッ」これでは、早いとこ恨み死にしていただいた方がよろしいようで。

実はこれのさらに原型が、鎌倉時代後期に成立した説話集『沙石集』巻七「嫉妬の心無き人の事」にすでにあり、こちらは、あまりの嫉妬深さに、亭主はとうとう女房を離縁するという結末になっています。

豆にもいろいろ

「豆」はもちろん、ご婦人の持ちものの隠語です。転じて、女性そのものの意味ともなりました。

小学校の教室などで、女の子と仲良くしていると「男と女とマーメイリ」などとはやされた経験をお持ちの人もいるかもしれませんが、あの「マーメイリ」は実は「豆入り」で、男の中に女が一人まじっていること(または逆)の意味です。

古くはお女郎屋を「豆商売」、間男を「豆泥棒」などと呼びました。その「豆泥棒」の意味を聞きに来た八五郎に、隠居がさまざまな「豆」の種類を教える「豆づくし」という小咄があります。

人の女房は素人だから白豆。芸者は玄人で黒豆。大年増はナタ豆で、小娘はおしゃらく豆。「それじゃご隠居さん、天女は?」「うん、ありゃ、ソラ豆だ」

穴守稲荷のご利益

穴守稲荷は東京都大田区羽田三丁目で、羽田空港の裏手。昔の羽田は、品川宿のはずれで、文政年間(1818-30)に大津波が羽田を襲ったあと、名主鈴木弥五右衛門が堤防を作り、松を植樹して後難に備えました。その際、堤防の上に五穀豊穣と、土地の安全を祈願して、稲荷社を勧請。

「穴守」の名の由来は不明ですが、商売繁盛の祈願と共に、花柳界や郭関係の信仰が厚かったところから、ほぼ見当はつきます。

江戸時代は、社殿から70mほどのところに、羽田の渡し場があり、参道は奉納の赤鳥居が並び、茶店や土産物屋が軒を並べてたいそう繁盛したといいます。

左馬

左馬は廓独特の鏡文字で、精力増強のまじない。馬の桁外れの精力にあやかろうとしたものでしょう。左馬の由来には諸説ありますが、有名な山形・天童の左駒護符のいわれによると、馬の逆字で「まう」と読み、「まう」→「舞う」で、舞はめでたい席で催されるので縁起がよい、また、左馬の文字の下部がきんちゃく型をしていて、富を招くとされる、などとあります。いずれにしても縁起物として、全国の神社で左馬の護符が売られるほか、花柳界でも、芸者の三味線の胴裏に書かれるなどしました。

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