ありがたやまのとびからす【ありがた山の鳶烏】むだぐち ことば

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照れを含んだ感謝の意で「ありがたや」の言葉遊び。語尾の「や」から語呂合わせで「やま」、そこから連想で「鳶」「烏」を出しただけです。

「鳶烏」の最初の形は「時鳥ほととぎす」。

「ありがた山」も最初は「ただ取る山」→「待ちかね山」だったのを、ニュアンスを変えて謝礼の言葉になってから、爆発的に流行。

「山の」の後付け部分だけでも「桜」「二軒茶屋」「猫」、「呑込山」「出来兼山」と、さまざまなバリエーションができました。

しまいには、現代の子供のおふざけの「蟻が十匹」まで、この系譜は続いています。

「ありがた山」は「有難山」と記すこともあります。

蛇足ですが。

大昔、大学の体育祭でのこと。

講堂のステージでは、ウェイトリフティングの競技が行われていました。誰がどれだけ重いバーベルを持ち上げられるかいう、あれです。

体重150kgもあろうかという肥満型の男子学生がのっそり登壇し、100kgのバーベルをうんとこやっとこ持ち上げたのです。

割れんばかりの拍手喝采。と同時に、「いいぞー、肉山くーん!」の声援が湧きました。会場は大爆笑。ウケた。

肥満学生の名前が「肉山」だったわけでもないし、肉屋のせがれでもなかったはずです。

贅肉ぷりぷりの、およそスポーツとは無縁そうな男が130kgを持ち上げたことからの、その意外な状況と、ふいに頭をよぎった語感が結びつけられた、野次馬の安直な連想だったのでしょう。

わかりやすい発想です。

むだぐちが生まれる場面は、およそ、とっさのひらめきが突き上げるものなのですね、きっと。

この「ありがた山の鳶烏」もそんなところから生まれた、唐突な瞬間芸だったといえます。

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いただきやまのとびからす【頂き山の鳶烏】むだぐち ことば

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「ありがた山の鳶烏」とまったく同じパターンで、「いただきます」を洒落て言葉遊びにしただけです。

詳細はその項を参照。ただ、「ありがた山」と併せて補足すると、なんでもかんでも語尾に「山」を付けて「○○山」とするのは、安永年間(1772-81)に流行した通人言葉です。

ただ洒落けを付けるためのもので、「山」自体にあまり意味はありませんが、あるいは「さま」を気取って符牒化したのかも知れません。

「頂き……」自体も変形が多く、「頂き笠の緒」「頂き女郎衆」「頂きの渡せる橋」などがあります。

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さんまいぎしょう【三枚起請】落語演目

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どんな?

性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原のお女郎に入れ揚げた町内の半公。

家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

品川から吉原に住み替えてきた女だった。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

年季ねんが明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の牛王ごおうの宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模どぞうさがみ(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉晋作(石原裕次郎)ご本人。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

                   日本の至宝『幕末太陽傳』☞

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。

「住み替え」とは、芸者、遊女、奉公人などが主家を替えることをいいます。

明治5年(1872)の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

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