【皇天親なくただ徳をこれ輔く】こうてんしんなくただとくあるをこれたすく 故事成語 ことば 落語 あらすじ
天は人柄を見てる
成城石井
【いみは?】
この故事成語が注目されているのは、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)でのシークエンスにあります。
ことばの意味は、こんなかんじです。
天は、誰かに偏ることなく、ひたすら徳をもった人にだけ援助するものだ。
「皇天」は広い天の意味で、天に敬称をつけた表現です。
「皇」には「おおらかな」「広い」のニュアンスがあります。
日本の「天皇」につながる語感です。
中国の「天」は、神のような意思をもちながらも茫漠とした存在です。
天の仕業は人間には結果しか見えません。
愛とか救済とかはないのです。
人間の行いをたまに手伝うくらい(愚公山を移す、とか)。
初出は『書経(尚書とも)』から。孔子が編纂したとされる史書で五経の一。中国最古の書です。
ちなみに。
「天」で思い出すエピソードがあります。
昭和47年(1972)9月、田中角栄首相が電撃訪中したときのこと。
29日に日中国交回復を果たした田中は、中国の当時の首脳である毛沢東と周恩来に向けて、以下の七言絶句を送ったのでした。
国交途絶幾星霜 国交途絶して幾星霜
修好再開秋將到 修好再開して秋まさに到らんとす
隣人眼温吾人迎 隣人眼温かくして吾人迎ふ
北京空晴秋気深 北京空晴れて秋気深し
田中はコワモテ風なのに漢詩をつくるなんてすごいなあ、と私は感心したものですが、よく読むと漢字を組み合わせただけの文字列でした。
押韻もないし。平仄もむちゃくちゃだし。
「吾人迎」は「隣人が自分を迎えてくれる」ということなら「迎吾人」がよいでしょう。
「秋」が二回登場するのも詩心の欠如を感じます。
「北京の空」と言いたいのなら、「北京空」ではなく「北京天」がよいはずです。
「空」は「むなしい」の意味にしか使いません。
「天」にはおおざっぱに、①空と②造物主の意味があります。
田中の詩は①、「皇天親なく……」は②の意味となります。
田中の詩は、漢詩を愛好する人たち、インテリたちにはぼろくそでした。
慶応中文出の柴田錬三郎(齋藤錬三郎、1917-78)なんかは、すさまじく憤ってましたねえ。
今太閤だった田中なら専門家に代作させることだってたやすかったはず。
一人でがんばってつくったわけです。
その心意気は見上げたものです。すばらしい。
叩き上げの田中が見よう見まねでつくった漢詩。
その稚拙かつ無知のあけっぴろげに、毛沢東も周恩来も逆に感激したのではないでしょうか。
執務室で毛は『楚辞集注』を田中にプレゼントしました。有名なシーンです。
『楚辞集注』とは、朱熹(1130-1200、南宋)による『楚辞』の注釈書ですね。
そのせいで、72年度の大学入試には『楚辞集注』からの出題がありました。
いまでも、中国の要人は訪日のたびに田中真紀子氏に挨拶しにくるといわれています。
ホントのところは、この一件に由来しているのかもしれません。
もうひとつ。
毛沢東が『楚辞集注』を田中に贈った真意は、どこにあったのでしょうか。
『楚辞集注』の著者は朱熹ですが、もとの『楚辞』は屈原(前348-278)が編者とされています。
屈原は楚の要職にありましたが、佞臣の讒言にあって、王からはうとまれっぱなしでした。
親秦派が主流となっていた楚にあって、屈原は秦をどうしも信用できず、楚の生き残るべき道は古い大国の斉に寄るべしと唱えました。親斉派です。
親斉派は反主流でした。だから屈原も。
悶々とした日々のその結果、屈原は世をはかなんで汨羅の淵に身を投じてしまいました。
有名な故事です。
いまでは屈原の実在そのものもあやしいとされていますが、ここでは、そんなことはどうでもよい。
要は、毛沢東が『楚辞集注』を田中角栄にプレゼントした真意は奈辺にありや、です。
ならば、田中政権の特徴は?
米国の忠告も聞かず中国訪問を果たしたり、バカ高い米産ウラニウムを買わずに、ロシアやブラジルなどから安く確保しようとしたり。
独自路線を歩こうとしたのが、田中政権でした。
こんなんでは、米国はカンカンです。
田中が屈原ほどに思慮深く剛直だったかはわかりません。
屈原は秦を信用せずに斉に寄ろうとしました。
田中は米国に距離を置いて中国に接近しました。
似てますね。
毛沢東は田中のここを評価したのでしょう。
ついでに、毛の意図は「屈原みたいに失脚しなさんな」という忠告も含めていたのかもしれません。
事実、その後の田中はあっという間に失脚しました。
漢詩が下手だからもっと勉強しろよ、という意味で『楚辞集注』を贈ったのではないことは明らかでしょう。
そんなトンマでは、チャイナウォッチャーにはなれても、シノロジストにはなれますまい。
毛沢東が『楚辞集注』に含めたメッセージ。思慮深くて怖いほど冷徹です。
話が逸れ過ぎてしまいました。
閑話休題。
では、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)での、このことばが登場したシークエンスについてお話ししましょう。
実子の乃木憂助(堺雅人)に倒されたノゴーンベキ(役所広司)。
彼を葬るにあたって、バルカの次男ノコル(二宮和也)が電話で「墓はバルカに建てさせてほしいが、かまわないか」と、日本にいる長男の憂助に尋ねます。
憂助はすかさず「皇天親なく、ただ徳をこれ輔く。花を手向けるのはまだ先にするよ」と返しました。
これを聴いたノコルの表情は、少々険しかったように見えました。
じつはこのことば、故事成語の中では上級の部類です。
現在、日本での中型漢和辞典の代表格は『漢辞海』(三省堂)、『漢字源』(学研)、『新字源』(KADOKAWA)あたり。
そのいずれにも載っていません。
読売新聞の過去40年間の記事にも一度も使われていません。新聞記者程度の学力や教養では、ちょっと無理でしょう。
われわれの生活では、まず使うことはない。
知ることなしに人生を閉じてもどうってことないことば。
志ん生がよく言う「シャツの三つ目のボタン」というやつ。
あってもなくてもよい。
そんなかんじのことばなんですね。
知っていれば、人生豊かになるかもしれませんが、言ってみたところで相手に通じないなら、無意味です。これでは会話が成り立ちませんからね。
ノコルも意味がわからなかったのでしょう。「花を手向けるのはまだ先にするよ」にいたってはじめて、憂助の真意を解したかんじです。
ベキらが上原史郎(橋爪功)の自宅で憂助に倒されたにもかかわらず、その後、上原宅が全焼し、焼け跡から三つの焼死体が。
「スス同然で発見されました」と公安の野崎(阿部寛)が上原に報告し、上原は「そんなウソがまかり通るのか」とぼやいています。
公安、ではなく、別班の仕業ですかね。
現場に居合わせた上原なのに、その件については言及を避けます。
ベキが上原を狙ったのは40年前の私怨によるものだったことがわかり、うしろめたさが噴出したからなのでしょう。
ベキを倒した憂助。別班の任務。
でも、しっかり親殺し。
ベキの「死」をみとったのは憂助だけでした。
ベキは死んだのか、生きているのか。
「VIVANT」のこれまでの流れから見れば、そうとうにあやしい。
ベキは生きている。ならば、配下のピヨ(吉原光夫)も、バトラカ(林泰文)も。
ということは、このドラマは続編がある、ということです。
ベキは十二分に徳を抱いた人です。この成語にふさわしい人物でしょう。殺人集団の親玉でありながらも、その徳は「天」も黙っちゃいられないほどなのです。
われわれは、「VIVANTの最終回は?」でドラマの結末を予想しました。
テントの壊滅(→実は解体)、ベキの死(→実は生きている?)、ノコルの死(→たしかに生きている)、ピヨの死(→実は生きている?)、バトラカの生存(→実は生きている?)、ベキと憂助の親子の絆(→かたく結ばれたかんじ)、憂助の除隊(→実は辞めていない)……というぐあいに。
大筋では当ててますが、細部は予想外も。まあ、60点程度でしたかねえ。
テントの派手な爆死がなかったのは、最終回にいたって、制作費が枯渇したからでしょうか。
最終回は動的描写があまりにもなかった。
企業と政府の買収劇など、半沢直樹もどきがメインで。バルカくんだりでこんな屋内劇を見せられてもねえ。
意外にしょぼかった。
「復讐して」。明美が放った断末魔のささやきは、ベキの心に40年間たゆとうていました。
ただ、復讐すべき相手が、かつて乃木卓(→ベキ)の上司である上原史郎(警視庁公安部外事課課長→内閣官房副長官)だった、という、このオチ。
これも正直、しょぼかったです。
上原が内閣総理大臣に出世していたなら、大いに復讐し甲斐もあって、おもしろかろうものを。
官僚出の官房副長官では、ちょっとねえ。
ここまで引っ張ってきて、土壇場のダウンサイジングはなんたること。ぽかーん。
最後に。
丸菱商事財務部の太田梨歩(飯沼愛)の正体。
じつは、世界で暗躍する天才的な凄腕ハッカー、ブルーウォーカー(blue@walker)でした。
第4回では、太田が送金プログラムを改竄していたのが明るみになりました。
警視庁公安部が踏み込んだ太田の自宅からの押収品の中には、なんと、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の『文楽全集』(小学館)や『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)などがあったのです。
そのCD群の一枚に隠されていたハッキング記録を、野崎が発見。
あの刹那、この子(太田梨歩=飯沼愛)はホントに落語ファンなのかい、と落語ファンの視聴者はいぶかしんだものです。
でも。
最終回では、彼女の作業部屋から「一丁入り」がまたも流れていました。
これにはビックリ。
言わずと知れた、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の出囃子です。気が緩みます。
彼女はやはり、モノホンの落語ファン、それも本寸法のしんぶんマニア(志ん生と文楽のファン)とお見受けしました。
上原のしょっぱい肩透かしは、むしろ太田のたっぷり好みに救われたかんじでしたね。
ウルトラセブンといい、ハリポタといい、「VIVANT」全編を通じての、この手の小物アソビは雲に御す喜びでした。
続編では何が出てくるのでしょう。待ち遠しいですね。