【道具屋】どうぐや 落語演目 あらすじ
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【どんな?】
ご存じ、与太郎の商売。
屑物売りで抱腹絶倒の噺が生まれます。
別題:道具の開業 露天の道具屋
【あらすじ】
神田三河町の大家、杢兵衛の甥の与太郎。
三十六にもなるが頭は少し鯉のぼりで、ろくに仕事もしないで年中ぶらぶらしている。
この間、珍しくも商売気を出し、伝書鳩を売ったら、自分の所に帰ってくるから丸もうけだとうまいことを考えたが、鳥屋に帰ってしまってパー、という具合。
心配したおじさん、自分が副業に屑物を売る道具屋をやっているので、商売のコツを言い聞かせ、商売道具一切を持たせて送り出す。
その品物がまたひどくて、おひなさまの首が抜けたのだの、火事場で拾った真っ赤に錆びた鋸だの、はいてひょろっとよろけると、たちまちビリッと破れる「ヒョロビリの股引き」だので、ろくなものがない。
「元帳があるからそれを見て、倍にふっかけて後で値引きしても二、三銭のもうけは出るから、それで好きなものでも食いな」
と言われたので、与太郎、早くも舌なめずり。
やってきたのが蔵前の質屋、伊勢屋の脇。
煉瓦塀の前に、日向ぼっこしている間に売れるという、昼店の天道干しの露天商が店を並べている。
いきなり
「おい、道具屋」
「へい、なにか差し上げますか」
「おもしれえな。そこになる石をさしあげてみろい」
道具屋のおやじ、度肝を抜かれたが、ああ、あの話にきいている杢兵衛さんの甥で、少し馬……と言いかけて口を押さえ、品物にはたきをかけておくなど、商売のやり方を教えてくれる。
当の与太郎、そばのてんぶら屋ばかり見ていて、上の空。
最初の客は、大工の棟梁。
釘抜きを閻魔だの、ノコが甘いのと、符丁で言うからわからない。
火事場で拾った鋸と聞き、棟梁は怒って行ってしまう。
「見ろ、小便されたじゃねえか」
つまり、買わずに逃げられたこと。
次の客は隠居。
「唐詩選」の本を見れば表紙だけ、万年青だと思ったらシルクハットの縁の取れたのと、ろくな代物がないので渋い顔。
毛抜きを見つけて髭を抜きはじめ、
「ああ、さっぱりした。伸びた時分にまた来る」
その次は車屋。
股引きを見せろと言う。
「あなた、断っときますが、小便はだめですよ」
「だって、割れてるじゃねえか」
「割れてたってダメです」
これでまた失敗。
お次は田舎出の壮士風。
「おい、その短刀を見せんか」
刃を見ようとするが、錆びついているのか、なかなか抜けない。
与太郎も手伝って、両方からヒノフノミィ。
「抜けないな」
「抜けません」
「どうしてだ」
「木刀です」
しかたがないので、鉄砲を手に取って
「これはなんぼか」
「一本です」
「鉄砲の代じゃ」
「樫です」
「金じゃ」
「鉄です」
「ばかだな、きさま。値じゃ」
「音はズドーン」
底本:五代目柳家小さん
【しりたい】
円朝もやった 【RIZAP COOK】
古くからある小咄を集めてできたものです。
前座の修行用の噺とされますが、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の速記も残っています。
大円朝がどんな顔でアホの与太郎を演じたのか、ぜひ聴いてみたかったところです。
切り張り自在 【RIZAP COOK】
小咄の寄せ集めでどこで切ってもよく、また、新しい人物(客)も登場させられるため、寄席の高座の時間調整には重宝がられます。
したがって、オチは数多くあります。
初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のは、小刀の先が切れないので負けてくれと言われ、「これ以上負けると、先だけでなく元が切れない(=原価割れ)」というものです。
そのほか、隠居の部分で切ったり、小便されたくだりで切ることもあります。
侍の指が笛から抜けなくなり、ここぞと値をふっかけるので「足元を見るな」「手元を見ました」というもの、その続きで、指が抜けたので与太郎があわてて「負けます」と言うと、「抜けたらタダでもいやだ」とすることも。
八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は、侍の家まで金を取りに行き、格子に首をはさんで抜けなくなったので、「そちの首と、身どもの指で差っ引きだ」としていました。
天道干し 【RIZAP COOK】
てんとうぼし。
露天の古道具商で、昼店でむしろの上に古道具、古書、荒物などを敷き並べただけの零細な商売です。
実態もこの噺に近く、ほとんどゴミ同然でロクなものがなかったらしく、お天道さまで虫干しするも同様なのでこの名がつきました。
品物は、古金買いなどの廃品回収業者から仕入れるのが普通です。
こうした露天商に比べれば、「火焔太鼓」の甚兵衛などはちゃんとした店舗を構えているだけ、ずっとましです。
くすぐりあれこれ 【RIZAP COOK】
与太郎が伯父さんに、ねずみの捕り方を教える。
「わさびおろしにオマンマ粒を練りつけてね、ねずみがこう、夜中にかじるでしょ。土台がわさびおろしだからねずみがすり減って、朝には尻尾だけ。これがねずみおろしといって」
三脚を買いに来た客に。
「これがね、二つ脚なんで」
「それじゃ、立つめえ」
「だから、石の塀に立てかけてあるんです。この家に話して、塀ごとお買いなさい」
五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)では、隠居が髭を剃りながら与太郎の身の上を
「おやじの墓はどこだ」
まで長々聞く。
これを二回繰り返し、与太郎がそっくり覚えて先に言ってしまうという、「うどんや」の酔っ払いのくだりと同パターンのリピートくすぐり。
弓と太鼓で「どんかちり」 【RIZAP COOK】
意外なことですが、落語には「弓矢」があまり出てきません。
刀剣と違って弓矢は、町民には縁遠いものだったのでしょうか。
ところが、浅草などの盛り場には「土弓場」という店がありました。土を盛ったあづちに掛けた的を「楊弓」で射る遊びを客にさせる店です。
土弓場は、寛政年間(1789-1801)には「楊弓場」と混同していました。
土弓場は「矢場」ともいいます。客を接待する店の女はときに売春もしました。
男たちは弓よりもこっちが目的だったのですね。
この女たちを「矢場女」「土弓むす」「矢取り女」などと呼びました。
店はおしなべて、寺社仏閣の境内に設けた「葭簀張り」にあったそうです。
葭簀張りというのは「ヒラキ」といわれていた、簡易な遊芸施設です。葭簀張りというのがその施設名だったのです。
明治中頃まで栄えていました。
土弓場は「どんかちり」とも呼ばれていました。
店でつるした的の後ろに太鼓をつるし、弓が的に当たると後ろの太鼓が「かちり」と鳴り、はずれると「どん」と鳴るため、二つ合わせて「どんかちり」と。転じて、歌舞伎囃子でも「どんかちり」と呼びました。
弓と太鼓は性的な連想をたやすく膨らませてくれます。
土弓場へけふも太鼓を打ちに行き 十三30
江戸人はこうも暇だったのでしょうか。
今なら駅前のパチンコ店に繰り出すようなものでしょう。
もうそれもないか。
吉原に行くには少々覚悟がいるような手合いが、安直に出入りできる遊び場だったと想像できます。
楊弓について 【RIZAP COOK】
混同された「楊弓」についても記しておきます。
こちらは、長さ2尺8寸(約85cm)の遊び用の小弓のことです。
古くは楊柳、つまりはやなぎの木でつくっていたからだそうです。
雀を射ることもあったため、雀弓とも呼ばれていました。
唐の玄宗が楊貴妃と楊弓をたのしんだ故事があります。
そこで江戸の人は、楊弓は中国から渡来したものと思っていました。
いずれにしても、9寸(約27cm)の矢を、直径3寸(約9cm)の的に向けて、7間半(約13.5m)離れて座ったまま射る遊びです。
その歴史は古く、平安時代には子供や女房の遊び道具でした。
室町時代でも公家の遊び道具で、七夕行事にも使われたそうです。
江戸時代になると、広く伝わって各所で競技会も開かれました。
寛政年間(1789-1801)には、寺社の境内や盛り場に「楊弓場」が登場。これは主に上方での呼称だったようです。
江戸ではこの頃になると「土弓場」と混同されていきます。
江戸では「矢場」とも呼ばれて、土弓場とごちゃごちゃに。
金紙張りの1寸の的、銀紙張りの2寸の的などを使って、賭け的遊びもしたそうですが、賭博までは発達しなかったといいます。
理由は安易に想像できます。モノの出来具合がヤワで粗末だったからでしょうね。
それよりも、矢場は矢取り女という名の私娼の表看板になっていきました。
男たちの主眼はこっちに移ったのです。
江戸の遊び人は女性の陰部を的にたとえてにんまりしたわけです。
となると、上の川柳も意味深です。