ふじまいり【富士詣り】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

山岳信仰の噺。
今では聴きません。
現代性と国際性を神仏習合に加味すれば新味。

別題:五合目 六根清浄

【あらすじ】

長屋の連中。

日ごろの煩悩を清めようというわけで、大家を先達にして、ぞろぞろと富士登山に出かけた。

五合目まで来ると、全員くたくた。

そのうちにあたりが暗くなってきた。

「これは、一行の中に五戒を犯した者がいるから、山の神さまのお怒りに触れたんだ。一人一人懺悔をしなくちゃいけねえ」
ということになって、一同、天狗に股裂きにされるのがこわくて、次々と今までの悪事を白状する。

出るわ出るわ。

留さんは湯へ行った時、自分の下駄が一番汚いので、上等なのをかっさらい、ついでに番台から釣り銭をありったけ懐に入れて逃げた、偸盗戒。

八五郎は、屋台で天ぷらを二十一食ったが、親父に「いくつ食った」と聞くと、親父は間違えて「十五だ」と答えたので、差し引き天ぷら六つ偸盗戒。

先達さんがひょいと見ると、貞坊が青くなり震えている。

聞いてみると「粋ごと戒でェ」。要は邪淫戒だとか。それも人のかみさんと。おもしろくなってきた。

貞坊の告白が始まる。

去年の六月ごろから最近までのことだ。

女湯の前を通ったら湯上がりの年増にぞっこん。跡をつけたら二丁目の新道の路地へ。その裏でまごまごしていたら、女が手桶さげてやってきた。

「井戸端の青苔に足をすべらすといけやせんから」
と、代わりに水をくんであげ、その後はお釜を焚きつけ、米を洗って、まるで権助。

そんなこんなで、お茶を飲んだり堅餠をかじったりの仲に。

このおかみさんを口説こうとしたがなかなか「うん」と言わない。

結局、今日まで「うん」と言わない。

先達「なんだ、つまらねえ。いったいどこの女だい」
貞坊「いいのかい」
先達「いいよ、言っちまいな」
貞坊「先達さん、おまえさんのだ」
先達「とんでもねえッ」

元さんも青ざめている。

大便をがまんしているという。

「半紙を五、六枚敷いてその上に用を足して、四隅を持って谷へほうるんだ」
と、先達が勧めるので、念仏を唱えながら用を足し
「もったいない、もったいない」
と、この半紙を袂に入れてしまった。

先達「自分の大便を袂に入れる奴があるか。おめえ、山に酔ったな」
元「へえ、ここが五合目でございッ」

【しりたい】

なつかしの柳朝節  【RIZAP COOK】

原話は不詳。明治34年(1901)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残っています。

昭和初期には七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、先の大戦後では三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)と、どちらかといば地味な、腕っこきの噺家が好んで演じました。

印象深いのは五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)で、独特のぶっきらぼうな口調が、間男(近年では熊五郎)の、神をも恐れぬふてぶてしさを表現して逸品でした。

オチは、現行では「先達つぁん、おまえのだ」で切ることが多く、こちらの方がシャープでしょう。

前半の懺悔の内容は、演者によってまちまちです。

富士講  【RIZAP COOK】

意外な話ですが、享保17年(1732)という年は大飢饉で、翌年には、江戸で初めての打ちこわしが起こったほど。

このさなか、江戸の油商、伊藤伊兵衛は、富士登山45回の実績にかんがみて、無為無策の武家政治を批判しました。

自らを「食行身禄」と名乗り、世直し実現を祈って富士山七合目で35日間の断食を敢行、入滅しました。

目的完遂です。

人々はこの偉業をたたえて余光にあずかろうと、19世紀前後になると、富士講がさかんになっていきました。

富士講は、先達、講元、世話人の三役で運営されます。

富士は古くから修験道の聖地で、一般人の入山は固く禁じられていました。

室町後期から民間でも富士信仰が盛んになり、男子に限り、一定の解禁期間のみ登山を許されるようになりました。

富士講の開祖といわれるのは角行という行者です。室町後期から江戸初期の人。

江戸時代には「富士講」と呼ばれる信者の講中が組織され、山開きの旧暦六月一日から七月二十六日まで約二か月間、頂上の富士浅間神社参拝の名目で登山が許可されました。

富士講は、地域などを中心に組織され、有力な富士講は富士山自体を近所に勧請して富士塚を築きました。

あらかじめ三日か七日の精進潔斎を済ませることが前提です。

隅田川などで水垢離をするのです。白衣に、首に大数珠をかけて金剛杖を突いて、先達にくっついて「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら登っていきます。

あくまで信仰が目的。命がけの神聖な行事なので、大山参りのような物見遊山半分とはわけが違い、五戒(妄語戒、殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、飲酒戒)を保つのは当然。

したがって、この噺のようなお茶らけた連中は論外で、必ずや神罰がくだったことでしょう。

江戸の富士信仰  【RIZAP COOK】

富士登山は大変な行事で、それこそ一生に何度もないというほど。

江戸からは往復十日の日程がかかり、費用もばかになりません。

山伏でもない一般市民が、近代的登山装備もなく、富士山頂上に登ろうというのですから、それこそ生還すら保障されません。

そこで、江戸にいながらお手軽に、危険もなく金もヒマも要らず、富士登山の疑似体験をしたいという熱望に応え、こしらえたのがミニ富士山。

富士塚、お富士さんと呼ばれたこの小ピラミッド、高いものでも標高わずか十メートル程度ながら、どうして、形は本格的な「ミニチュア」でした。

頂上には当然、富士浅間神社を勧請(分霊を迎える)。

はるばる本物の富士から溶岩を運んで築き、一合目から始まって、つづら折りの「登山道」までこしらえる凝りようでした。

富士開きの旧暦6月1日(7月10日頃)に同時に解禁。

富士講の連中が金欠で本物に登れないとき、富士塚に「代参」で済ませることも多く、登山のしきたりは「女人禁制」を含め、本物とほとんど同じタテマエ。

富士塚  【RIZAP COOK】

最初のニセ富士=富士塚は、安永8年(1779)に築かれた高田富士。現在の早稲田大学構内あたりにあったといいます。水稲荷内です。

次は、千駄ヶ谷村(渋谷区千駄ヶ谷)の鎮守、鳩森八幡の境内に造られた富士塚で、寛政元年(1789)です。

都の有形民俗文化財に指定されています。

国指定重要民俗文化財として、以下の三基が現存しています。

坂本富士 文政11年(1829)、台東区下谷二丁目
高松富士 文久2年(1862)、豊島区高松二丁目
江古田富士 天保10年(1839)、練馬区小竹町

次の二基は広重の「江戸名所百景」にも描かれています。

目黒の元富士 文化9年(1812)
新富士 文政2年(1819)

駒込富士権現分社、浅草富士権現分社、深川八幡、神田明神、茅場町薬師、高田水稲荷などの境内に築かれたものが、いまも親しまれています。

高田富士  【RIZAP COOK】

高田稲荷社は、戸塚村の鎮守でした。

元禄15年(1702)に境内榎の中から水が湧き出し、これを霊泉として、眼病が治るという評判でした。それで、水稲荷ともいいます。

ここにある高田富士が最古の富士塚とされています。

富士の五合目以上を模した高台の全体を富士山の溶岩で覆い、富士山らしく見せ、奥宮、登山道標石、胎内、経ヶ岳題目碑、石尊碑などを設けるという、設置様式がありました。

高田富士は高さ五メートルながら、延べ数千人の講者が無償協力(ボランティア)で築造したものです。

朱楽管江が『大抵御覧』で紹介したことで、有名になり、さまざまな理由で実際の富士まいりができない人々が疑似体験するようになりました。

これを口火に、江戸府内に多くの富士塚がつくられていきます。

朱楽菅江  【RIZAP COOK】

元文3年(1837)生まれ。狂歌師、戯作者。幕臣。山崎景基(のちに景貫)。

市谷二十騎町に住みました。

内山椿軒に和歌を学びました。

同門には太田南畝がいます。

ともに、安永年間あたりから狂歌を始めました。

妻女は狂歌作者の節松嫁々です。寛政10年(1798)没。富士塚を取り上げた『大抵御覧』は安永8年(1879)の刊行です。

もちろん、「太平御覧」ももじった命名ですね。

これは北宋の類書(百科事典)で、983年に成りました。「御覧」と略されます。

そもそもの富士信仰

富士山への信仰は、縄文中期から見いだせます。

静岡県富士宮市上条の千居遺跡には、富士山を遥拝したまつりの場所があったといわれています。

日本の神社で、石や岩がご神体というところは、もとは縄文時代からの信仰を引き継ぐ古い形態の信仰やまつりをうかかがれるものといわれています。

富士信仰はその典型です。

富士神は浅間神と呼ばれます。富士信仰は浅間神社が取り仕切っています。

富士山頂に奥宮を持つ富士山本宮浅間神社は、全国の浅間神社の総本宮で、富士信仰の中心です。

富士宮市にある「人穴ひとあな」は、浅間大菩薩御在所であるとされ、その後、人穴信仰もさかんになっていきました。

浅間の「あさま」は火山の古語といわれます。

古代では、富士山も浅間山も火を噴く山として同じものとみていたようです。

食行身禄  【RIZAP COOK】

寛文11年1月17日(1671年2月26日)-享保18年7月13日(1733年8月22日)。本名は伊藤伊兵衛。食行身禄じきぎょうみろくは富士講修行者としての名前です。

伊藤食行身禄、伊藤食行などとも呼ばれます。

伊勢国一志郡美杉村川上(三重県津市)出身です。

生家には身禄の産湯が残り、子孫によって石碑が建てられているそうです。

元禄元年(1688)、江戸に入って、角行の四世(五世とも)弟子である富士行者月行に弟子入りし、油商を営みながら修行を積みました。

「身禄」とは、弥勒菩薩から取ったといわれます。

弥勒菩薩は、釈迦が入滅して56億7千万年たってから出現して世直しをするという神です。

もう一方の富士講の指導者、村上光清が私財をなげうって、荒廃していた北口本宮冨士浅間神社を復興させて「大名光清」と呼ばれたのに対して、食行身禄は貧しい庶民に教線を広げ「乞食身禄」と呼ばれました。

対照的ですね。

享保18年(1733)6月10日、駒込の自宅を出て富士山七合五勺目(現在は吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定しました。

63歳でした。

ここまでの逸話は『食行身禄御由緒伝記』に記されています。

板橋の宿で、身禄との別れを惜しむ妻子や弟子との、涙なしでは読めない逸話、縁切り榎の由来の逸話も、この本に載っています。

江戸時代には感動ものの一書として読まれました。

身禄が死んだ後、身禄の娘や門人が枝講(派生した講集団)を次々と増やし、「江戸八百八講」と呼ばれるまでになりました。

身禄は開祖角行といっしょに富士講の信者の崇敬を集めました。

身禄は救世主、教祖的な存在として、現世に不満を抱く人々から熱狂的に迎え入れられ、新宗教団体としての「富士講」が誕生することになりました。

身禄の教えを受け継いだ各派富士講の一つに、身禄の三女・伊藤一行(お花)の系統を受け継いだ、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(埼玉県川口市)の小谷三志の「不二道」があります。

教派神道の「実行教」となって今日に至っています。

教派神道十三派中、「扶桑教」「丸山教」には身禄の教えが受け継がれています。

墓所は東京都文京区の海蔵寺。区の指定文化財に指定されています。

身禄は呪術による加持祈祷を否定しました。

正直と慈悲をもって勤労に励むことを信仰の原点としたのです。

米を菩薩と称し、最も大切にすべきものと説きました。

陰陽思想から来る男女の和合、身分差別の現実を認めたうえでの武士、百姓、町人の協調と和合、「世のおふりかわり」という世直しにつながる考え方など、江戸時代を生き抜くための独自の倫理観を説いています。

身禄の教えは、その後の富士講の流行を生みました。

庶民が徒党を組むことを嫌った江戸幕府から再三の禁止令を受けましたが、その教えは江戸の人々に静かに広がっていきました。

六根清浄  【RIZAP COOK】

ろっこんしょうじょう。聖なる場所を汚さないよう心身を清浄にして見えないものに接する、という意味が込められています。

「六根」とは、仏教で説く、認識作用を起こす六つの器官をさします。

眼、耳、鼻、舌、身、意。これを「げん、にー、びー、ぜーつ、しん、にい」と一気に繰り返し唱えます。

富士信仰のような山岳信仰では、山の精霊に告げることばとされています。

富士登山では、「懺悔懺悔、六根清浄、お山は晴天」と唱えます。

「懺悔」は「さんげ」と読み、気合の入った掛け声のようなもの。

山の霊地で過去の罪障を懺悔する意味であり、実際にそのような行為もあったそうです。

自分の罪障をことばに発しなければ、富士山に棲息するという、富士太郎(陀羅尼坊)や小御嶽正真坊といった天狗に身体を八つ裂きにされないよう、「懺悔懺悔、六根罪障、大峰八大おしめにはったい、金剛童子、大山大正不動明王、石尊大権現せきそんだいごんげん、大天狗、小天狗」と唱えます。

懺悔の内容は、たいていは、間男したとか、借金踏み倒したとかのようですが。

ことばよみいみ
先達 せんだつ引率者
懺悔さんげ気合の入った掛け声のようなもの
勧請 かんじょう 神仏の分霊を請じ迎えまつること 
食行身禄 じきぎょうみろく富士講の指導者。本名は伊藤 伊兵衛。1671-1733
人穴 ひとあな

【RIZAP COOK】


六根清浄👆

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

きょうかいえぬし【狂歌家主】落語演目

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【どんな?】

江戸前の噺。
これは狂歌噺。
全編に洒落がたっぷり。

別題:三百餅

【あらすじ】

ある年の大晦日。

正月用の餅きを頼む金がないので、朝からもめている長屋の夫婦。

隣から分けてもらうのもきまりが悪いので、大声を出して餅をついているように見せかけた挙げ句、三銭(三百文)分。

つまり、たった三枚だけお供え用に買うことにした。

それはいいのだが、たまりにたまった家賃を、今日こそは払わなくてはならない。

もとより金の当てはないから、大家が狂歌に凝っているのに目を付けた。

夫婦は、それを言い訳の種にすることで、相談がまとまった。

「いいかい、『私も狂歌に懲りまして、ここのところあそこの会ここの会と入っておりまして、ついついごぶさたになりました。いずれ一夜明けまして、松でも取れたら目鼻の明くように致します』というんだよ」

女房に知恵を授けられて、言い訳に出向いたものの、亭主、さあ言葉が出てこない。

「狂歌を忘れたら、千住の先の草加か、金毘羅さまの縁日(十日=とうか)で思い出すんだよ」
と教えられてきたので、試してみた。

「えー、大家さん、千住の先は?」
「ばあさん、どうかしやがったな、こいつは。竹の塚か」
「そんなんじゃねえんで、金毘羅さまは、いつでした?」
「十日だろう」
「そう、そのトウカに凝って、大家さんは世間で十日家主って」
「ばか野郎、オレのは狂歌だ」

大家は、
「うそでも狂歌に凝ったてえのは感心だ。こんなのはどうだ」
と、詠んでみた。

「玉子屋の 娘切られて 気味悪く 魂飛んで 宙をふわふわ」

「永き屁の とほの眠りの 皆目覚め 並の屁よりも 音のよきかな」

「おまえも詠んでみろ」
と、言われた。

「へえ、大家さんが屁ならあっしは大便」
「汚いな、どうも。どういうんだ」

「尻の穴 曲がりし者は ぜひもなし 直なる者は 中へ垂れべし」

これは、総後架そうごうか(共同便所)に大家が張った注意書きそのまま。

「それだから、返歌しました」
「どう」
「心では 中へたれよと 思えども 赤痢病なら ぜひに及ばん」

だんだん汚くなってきた。

「どうだい、あたしが上をやるから、おまえが後をつけな」
と言うと、
「右の手に 巻き納めたる 古暦」
と言って
「どうだい?」
ときた。

「餅を三百 買って食うなり」
「搗かないから、三百買いました」

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【しりたい】

原話は元禄ケチ噺

最古の原話は、元禄5年(1692)刊の大坂笑話本『かるくちはなし』巻五中の「買もちはいかい」です。

これは、金持ちなのに正月、自分で餅をかず、餅屋で買って済ますケチおやじが、元旦に「立春の 世をゆずり葉の 今年かな」という句をひねると、せがれが、「毎年餅を 買うて食ふなり」と付け句をします。

おやじが、「おまえのは付け句になっていない」と言うと、せがれは「付かない(=搗かない)から買って食うんだろ」

ここではまだ、現行のオチにある「(狂歌が)付く」=「(餅を)搗く」のダジャレが一致するだけです。

狂歌

狂歌は、滑稽味や風刺を織り込んだ和歌です。

詩歌で滑稽味を含ませていることを「狂体」と呼びます。

狂歌とは、狂体の和歌の意味です。

起源は『万葉集』巻十六の「戯咲歌ぎしょうか」まで遡れます。大伴家持おおとものやかもちが詠んだ、遊戯と笑いを含んだ歌です。

平安時代には「狂歌」という言葉がありました。

『古今和歌集』の俳諧歌はいかいかも狂歌の一種でしょう。

とはいえ、古い記録があまり残っていません。

日本人の歌への姿勢には、歌道神聖が根底に漂っていたからです。

まじめな歌は歌集に残るのですが、遊戯と笑いの歌は、詠んだその場でひとしきり笑えばそれで終わりにしていたからです。

歌壇をはばかって「言い捨て」(=記録しない)にされることが多かったわけです。

歌に笑いを求めなかったのです。

日本人は、笑いの感情を一段低く見ていたのかもしれません。

中世になると、落首や落書などの機知や滑稽を前面に表現した文芸が登場しました。

ただ、これも、たぶんに匿名性がセットになっていました。

うしろめたさがついてまわっていました。

ここでも、滑稽や風刺を含んだ笑いは、歌への冒瀆ととらえていました。

豊臣秀吉などは出身とのかかわりもあるのか、狂歌を楽しんだといいます。

人情の機微、認識の矛盾、世相の混乱といった人の心の摩擦を、皮肉や風刺で卑俗化する手法を獲得しました。

その導線に、京都で松永貞徳まつながていとく(1571-1653)によって創始された貞門俳諧ていもんはいかいがありました。

この一派が、江戸時代に花咲く狂歌の基本を形作ったのでした。

江戸の狂歌

狂歌が江戸で人気を得るまでには少々時間がかかりました。

明和6年(1769)、唐衣橘洲からごろもきっしゅう(1743-1802、幕臣、四谷忍原横丁)が自宅で狂歌の会を催したのが始まりとされます。

初期の狂歌は、古歌のパロディーが主だったので、まずは、歌の素質のある御家人や上層町人の間に広まりました。

その後、狂歌合わせなどが、安永・天明期(1772-89)にかけて盛んに催されました。

狂歌合わせとは、左右に分かれて狂歌の優劣を競う遊びです。

なかでも、太田南畝おおたなんぽ(1749-1823、幕臣、牛込生まれ)は「狂歌の神さま」的存在でした。

この方は、四方赤良よものあから、のちに蜀山人しょくさんじんとも称しました。

ほかには、朱楽菅江あけらかんこう(1738-99、幕臣、市谷二十騎町)、大屋裏住おおやのうらずみ(1734-1810、更紗屋→貸家業、日本橋金吹町)、元木網(1724-1811、京橋北紺屋町で湯屋→芝西久保土器町で落栗庵)、智恵内子ちえのないし(1745-1807、元木網の妻、芝西久保土器町で落栗庵)、宿屋飯盛やどやのめしもり(1753-1830、日本橋小伝馬町で旅籠、石川雅望)、鹿都部真顔しかつべまがお(1753-1829、数寄屋橋門外で汁粉屋、恋川好町)などが、狂歌師(作者)として名を馳せました。

幕末が迫ってくると、この噺にも見られるようにきわめて卑俗化し、川柳とともに大いに支持されていきました。

狂歌噺としては、ほかに「紫壇楼古木」「蜀山人」「狂歌合わせ」などがあり、「掛け取り万歳」の前半でも狂歌で家賃を断るくだりがあります。

古くから親しまれた噺

原話は上方のものですが、噺としては純粋な江戸落語です。

古い噺で、文化年間(1804-18)に初めにはもう狂歌噺として口演されていたようです。

明治期の速記もけっこう残っています。

「三百餅」または「狂歌家主」の題で、四代目橘家円喬(明治29年)、初代春風亭小柳枝(同31年)、三代目蝶花楼馬楽(同41年)のものがあります。

初代小柳枝の速記はかなり長く、大家が「踏み出す山の 横根よこね(性病)を眺むれば うみ(=海と膿)いっぱいに はれ渡るなり」とやれば、亭主が「『淋病で 難儀の者が あるならば 尋ねてござれ 神田鍛冶町かんだかじちょう』、これは薬屋の広告で」と返します。

大家が蜀山人先生の逸話を、長々と披露する場面もあります。

別題の「三百餅」はもちろんオチからきた演題です。

ここでの「三百」は餅代の三百文のこと。最近は餅の部分までいかず、滑稽な狂歌の応酬で短く切る場合もあります。

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