山号寺号

 さんごうじごう 落語あらすじ事典 千字寄席

これぞ醍醐味、軽口の応酬。だじゃれなんかじゃありません。

別題:恵方詣り

【あらすじ】

若だんなが丁稚の丁松をお供に、おやじの代参で新年の恵方(えほう)参りに出かけた。

途中、上野広小路あたりでひいきの幇間の一八に出会うと、例によって下らないヨイショを並べた後、どちらへと聞くので、「うん、成田山だ」「へえ、新勝寺でげすか」「わからねえ男だな。成田山だってえのに」「だから新勝寺でげしょう。成田山は新勝寺、東叡山寛永寺、金龍山浅草寺、一縁山妙法寺、どこでも山号に寺号がつきます」「そうかい、きっとどこにでもあるな?」正面切ってそう言われると、さしもの一八もシドロモドロ。

ところが若だんな、粋なもので、「どうだい、寺でなくても山号寺号を出してみな。一つ言うごとに半助(五十銭)やろうじゃないか」

金と聞いては見逃せない一八、さあ張り切って、あらん限り絞り出す。

「按摩さん揉み療治、漬物屋さん金山寺、時計屋さん今十時、お乳母さん子大事、お巡りさん棒大事」と大分取られた。

若だんな、「今度はオレがやろう。今やった祝儀を全部ここィ出しな」「へえ、こう出しまして」「これをオレが懐へ入れて」「入れまして」「一目散随徳寺」

ひどい奴があるもの。風を食らって逃げだした。

「あっ、南無三、し損じ」
と悔しがると丁稚が
「だんなさんよい感じ」

底本:初代三遊亭円遊

【しりたい】

由緒ある噺

原話は古く、初代露の五郎兵衛の遺稿集『露休置土産』(宝永2=1705年刊)中の「はやる物は山号寺号」です。この人は京都辻噺のパイオニアにして、落語家のもっとも重要な始祖の一人です。

それから一世紀以上を経た文政4年(1821)刊の松浦静山(1760-1841)の随筆『甲子夜話』には現行の落語により近い小咄が紹介されていて「一目散随徳寺」「南無三し損じ」の洒落もあります。

いくらでも新しいシャレが加えられるため、演者によって融通無碍、自由自在の噺です。

初代三遊亭円遊は「小秀(明治の痴情殺人犯の芸者時代の名)さん暴療治」「おまわりさん棒大事」など、明治の新風俗も織り込みました。

前座噺の扱いですが、昭和以後では八代目春風亭柳枝が得意で、柳枝は大阪のオチにならって「南無三し損じ」で切っていました。

山号寺号

古くからある言葉遊びです。原話の『露休置土産』所載の小咄では、琵琶湖から大津までの乗合船である矢橋(やばせ)船に乗り合わせた江戸、大坂、京都の人間がお国自慢する趣向の中に織り込まれます。

この中に、江戸で名高い医者のあだ名を「医王山薬師寺」などとシャレるくだりがありますが、これは薬師如来が医療の守護神であったところから来ています。

そこからも、古くは「山号寺号」が単なるダジャレでなく俳句の付け合いの趣向を採った見立て遊びであったことがうかがえます。

オチで、京者が「京の島原には、『みなさんご存じ』と申す太夫がござる」と、これはダジャレでしめていて、こうしたたわいないダジャレの部分だけ落語の「山号寺号」に残ったといえるでしょう。

ズイッと随徳寺

「ずいっ」と逃げ出すので、寺の名に引っ掛けただけです。

わき目も振らずに逃げ出す意味の「一目散」を山号にして前に付け、「一目散(山)随徳寺」。これは、戦前まではごくふつうの日常語でした。

一説には、昔あった随徳寺という寺の和尚が夜逃げしたことからきたともいいますが、さて、どうでしょう。

「山号」は、初期の仏教では多くの寺が山中に建てられたところから付いたものです。

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