おせつとくさぶろう【おせつ徳三郎】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

日本橋の大店の娘と手代が相思相愛。
二人で木場まで逃げて、身投げして……。
オチは「鰍沢」と同型。「おのみ」の型は付会。

 別題:隅田馴染め(改作、または中のみ) 花見小僧(上のみ) 刀屋(下のみ)

あらすじ

日本橋横山町の大店おおだなの娘おせつ。

評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。

だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。

これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつのお供をして向島まで花見に行った小僧の定吉を脅した。

案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。

そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。

なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという話が流れ、徳三郎はカッときた。

しかも、蔵前辺のご大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにした、という。

「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに。かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。

老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。

徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。

親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えはやめてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思いとどまったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。

おせつが婚礼の席から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎だっとのごとく飛び出して、両国橋へ。

お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。

追っ手が迫っている。

切羽つまった二人。

深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。

ところが、木場だから下はいかだが一面にもやってある。

その上に落っこちた。

「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(=題目)で助かった」

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しりたい

なりたちと演者など  【RIZAP COOK】

もとは、初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)がつくった人情噺です。

長い噺なので、古くから上下、または上中下に分けて演じられることが多いです。

小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。

この部分を、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、「隅田馴染め」としてくすぐりを付け加えて、改作しました。

その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。

それに続いて、徳三郎が叔父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされます。

普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。

後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題して、しばしば独立して演じられています。

明治期の古い速記としては、以下のものが残っています。

原作にもっとも忠実なのは、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)。

「上」のみでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のもの(「恋の仮名文」明治23年)、初代円遊のもの(「隅田の馴染め」明治22年)。

「下」のみでは、二代目三遊亭新朝(山田岩吉、?-1892)のもの(明治23年)、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)のもの、など。

オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木で助かった」は父親のセリフになっています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)も、「刀屋」でこれを踏襲しました。

「刀屋」で、おやじが自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型です。

現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。

先の大戦後では、六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も得意にしていました。

円生と志ん生は「下」のみを演じました。

その次の世代では、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものなどが、傑出していました。

馬生の「おせつ徳三郎」では、筏に落ちたおせつが、これじゃ死ねないから水を飲めば死ねるとばかりに、水をすくい「徳や、おまえもおのみ」と終わっていました。

これはこれで、妙におかしい。現在は、この終わり方の師匠も少なからずいます。

柳家喬太郎の「おせつ徳三郎」では、本当に心中させています。「お材木で」のオチが流布され尽くしたことへのはねっかえりでしょうか。予定調和で聴いている方は裏切られます。2人の愛の昇華は心中なのでしょうし。本当に死んじゃうのもたまにはおもしろい、というかんじですかね。

現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多いようです。「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外ではあまり単独口演されません。

村松町の刀屋  【RIZAP COOK】

この噺のとおり、日本橋の村松町むらまつちょう(中央区東日本橋1丁目など)と、向かいの久松町ひさまつちょう(中央区日本橋久松町)には刀剣商が軒を並べていました。

喜田川守貞きたがわもりさだの『守貞漫稿もりさだまんこう』には
「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」
とあります。

喜田川守貞きたがわもりさだ(1810-?)は、大坂生まれ、江戸で活躍した商人。

江戸との往来でその差異に興味を抱き、風俗考証に専心しました。砂糖商の北川家を継ぎ、深川に寓居をいとなみました。

『守貞漫稿』は上方(京と大坂)と江戸との風俗や民間諸事の差異を見聞で収集分類した珍書。江戸期ならではといえます。

明治41年(1908)に『類聚るいじゅう近世風俗志』という題で刊行されました。岩波文庫(全5冊)でも『近世風俗志』で、まだかろうじて手に入ります。

明治41年となると、江戸の風情がものすごいスピードで東京から消え去っていた頃です。人は消えいるものをあたたかくいつくしむのですね。

徳三郎が買おうとしたのは、2分と200文の脇差わきざしです。

深川・木場の川並  【RIZAP COOK】

木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。

その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。大小の材木問屋が軒を並べました。

掘割ほりわりに貯材所として常時木材を貯え、それを「川並かわなみ」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて、いかだに組んで運んだものです。

法華の信者  【RIZAP COOK】

「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。

こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。

一般には、商家や下級武家に多かったと言われています。刀剣商、甲冑商、刀鍛冶、鋳物師などのだんびら商売、芸妓、芸人、音曲、絵師などの芸道稼業、札差(両替)や質商などの金融業では、法華の信心者がとりわけ多かったのも事実でした。

身延山や小室山などのキーワードがあらかじめ出てきて法華の信心をにおわせている「鰍沢」と同様、「おせつ徳三郎」では日本橋の大店や刀屋が登場することで、当時の聴衆は法華をたやすく連想できたことでしょう。

「お材木で助かった」のオチにも無理はなく、自然な流れで受け入れられたのです。現代のわれわれとはやや異なる感覚ですね。

江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず、「法華」という呼び名の方が一般的でした。日蓮が宗祖となる宗派は、「法華経」を唯一最高の経典と尊重したからです。

天台宗も「法華経」を尊崇していましたから、「天台法華宗」とも呼ばれていました。その呼称にならって、日蓮の法華宗のほうは「日蓮法華宗」とも呼ばれていました。

「日蓮宗」という宗派名が初めて使われるようになるのは、新井日薩が法華の各宗務に大同団結の声をかけた、明治5年(1872)に入ってからです。その後、紆余曲折はありましたが、今日まで「日蓮宗」でひとくくりとなっています。

それにしても、宗祖の名が宗派の名になったのは日蓮宗のみ。親鸞宗も道元宗も一遍宗もないわけですから、思えば奇妙です。江戸時代には浄土宗とは因縁の対立(営業上の競合ともいえます)が続いていました。題目(法華系)と念仏(浄土系)との競合や対立は、落語や川柳でのお約束のひとつです。

【おことわり】「おせつ徳三郎」の別題に「隅田馴染め」があります。この題の素直な読み方は誰が読んでも「すみだのなれそめ」に決まっていいるかもしれません。本サイトが底本に使っている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)で、当該頁(第1巻54頁下段)には「隅田馴染め」の「隅田」部分に「すだ」とルビが振られてあります。その真意はわかりません。たんなる誤植ならすべては解決しますが、明治期のぞっきな落語集とは異なり、しっかりした校訂を経て刊行されている本シリーズではたんなる誤植とも考えにくいのです。同様に、「隅田の花見」(「長屋の花見」の別題)でも「隅田」は「すだ」とルビが振られてあり(第7巻296頁下段)、決して「すみだ」ではないのです。古代から中世には「隅田」を「須田」と記して「すだ」とも呼んでいました。近世でも古雅な呼称として「すだ」は残っていました。とまれ、われわれは、確認が取れるまでは「隅田馴染め」の読み方を「すだのなれそめ」「すみだのなれそめ」と、「隅田の花見」も「すだのはなみ」「すみだのはなみ」と併記しておきます。思い込みや強説採用は排すべきものと心得ます。

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評価 :3/3。

しんじゅうのしんじゅう【心中の心中】落語演目

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【どんな?】

悲劇の温床「心中」。
これも落語の手にかかっては……。

別題:情死の情死 花見心中

あらすじ

明治元年、夏。

京から江戸に出て呉服の行商をしている善次郎。

土地慣れないから得意先もつかず、七月の暑い最中で、母親と二人暮らしだから、どうにも立ちいかない。

京へ帰ろうにも路銀もないありさまなので、恥を忍んで借金に行った先でも、すげなく断られたばかりか、
「生きていたって甲斐性がない奴は豆腐の角へ頭をぶつけて死んでしまった方がいい」
と、ののしられる。

とぼとぼと向島の土手に来かかり、いっそ首をくくろうと桜の枝に帯を結んで手を掛けると、枕橋の方からバタバタと足音。

見とがめられてはと、あわてて桜の木に登って隠れていると、若い男と女。

親の許さぬ仲とかで、しょせん生きてはいられないと話がまとまり、男の方が、死骸の始末金にと家から持ち出してきたという百両の金を桜の木の下に置くと
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
と、刀をスパッと引き抜く。

上にいる善次郎、驚いた拍子に、二人の頭の上にドサッと落っこちた。

びっくりした二人は、金をそのまま置いて逃げてしまう。

しかたなくその金を持って、大家の所に相談に行ったが、頃はご維新のさ中。

奉行所も解体同然だから、
「どうでもしたらよかろう」
と取りあってくれない。

善次郎はためらいながらもその金で借金を返し、残りを元手に懸命に働いた甲斐あって、数年後には蔵付きの立派な呉服屋を開店することができた。

月日は流れて、明治7年。

善次郎が帳場に座っていると、年の頃、三十四、五、黒の山高帽子に南部の糸織のお召しという、りっぱななりの紳士が、似合いの奥方といっしょに店先で反物を見ている。

その顔を見て善次郎は、はっと驚く。

それもそのはず、その夫婦はあの時の心中者。

飛び出して行ってあの時の話をし
「そういうわけで、あんたはんらは私にとっては命の親。あのお金は利息を添えてお返しせななりまへん」
と言うと、だんなの方も、
「実はあの時、人が上から降ってきたのに仰天し、二人で枕橋まで逃げたが、親戚の者の取りなしで無事夫婦になり、今では子供もいる身」
と語る。

「それではあなたが、あの時の。よく落ちてくだすった。私たちの命の親」
「あほらしい。あんたの方が親や」
「いいや、おまえさん親」
「なに、あんた親」
とやっていると、奥から母親が
「してみると、あたしのためには継子かしらん」

底本:四代目橘家円喬

生きてるうちが花スヴェンソンの増毛ネット

うんちく

明治の名人が創作 【RIZAP COOK】

別題「花見心中」。四代目橘家円喬がものした新作とみられます。明治29年(1996)2月の『百花園』に速記が掲載されましたが、原題表記は「情死の情死」となっています。

榎本滋民が指摘しているとおり、速記をよく読むと、細かい年代のミスが多いのですが、そこは落語で、言うだけヤボでしょう。

わかりにくいオチ

現在ではすたれ、高座にかかることはありません。明治維新前後の世相がよく描写されていて、今となっては貴重な資料です。

オチは、「命の恩人」という意味で「命の親」と言ったのを、ばあさんが取り違え、「客がせがれの親なら、あたしはママハハか」と頭をひねるマヌケオチ。

最後の「-のためには」は、「-にとっては」という意味の、古風な江戸ことばです。

奉行所も解体同然 【RIZAP COOK】

二人が大家に相談に行き、世が世なら、さっそくお白洲で、名奉行のお裁きという場面ですが、あいにくもう幕府は崩壊。奉行所もあってなきがごとしという、情けない無政府状態です。

最後の江戸町奉行は、北が石川河内守、南が佐久間ばん(ばんは金偏に番)五郎。南北両奉行所を官軍に引き渡したのは、慶応4年(1868)5月22日で、明治改元はこの年の10月23日。折しも江戸は、彰義隊騒ぎで大混乱の最中。この一週間前、5月17日に上野の戦争が勃発し、5日前に片づいたばかり。

円喬は「明治元年夏」と説明していますが、実際はまだ慶応4年。町人みな小さくなって家に隠れ住み、多くの者が大八車に家財を積んで江戸を逃げ出そうとして時に、心中騒ぎを起こすとはのんきな野郎があったものです。

このころの奉行所与力や同心の乱れぶりは相当なもの。幕府も、万一、彰義隊に駆け込む者があっては大変と気を使ったものの、そんな心配は無用。『戊辰物語』(岩波文庫)によると、満足に馬に乗れる者などほとんどなく、十手を振って、房が顔の前で、いかにかっこよく開くかのコンクールをやっていたというテイタラク。こりゃあ、負けるわな。

南部の糸織 【RIZAP COOK】

かつての心中者が、維新の騒ぎを切り抜け、7年後、さっそうと登場。南部の糸織は、南部紬のお召しで、『壬生義士伝』(浅田次郎)で主人公の故郷、旧南部藩領(岩手県)特産の、よった絹糸で作る織物です。「お召し」は、その中で練り糸で表面にしわを寄せた最高級品で、お召し縮緬とも呼びます。

枕橋 【RIZAP COOK】

旧名は源森橋。墨田区吾妻橋1丁目から向島1丁目の墨田公園までを渡しています。源森川(のち北十軒堀)を寛文3年(1663)に掘削する際、関東奉行伊奈半十郎の監督で架けられました。

のちに、橋向こうに水戸藩下屋敷まで新橋が架かり、源森橋の名を譲って枕橋と改名。その「新・源森橋」の方は、その後、新小梅橋と改称されましたが、二つ合わせて枕橋と呼ぶ習慣もあったとか。なにやらややこしい話です。対岸の山の宿から、枕橋詰の桟橋まで、渡し舟が出ていました。



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しながわしんじゅう【品川心中】落語演目

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【どんな?】

品川宿のお染も寄る年波には勝てず。
いっそ、客の誰かと心中しちまえ、と。
落語中の最高傑作。長いので「上」と「下」に。
たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(=だます)から、比丘びく(=魚籠びくに)されたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。

先の大戦後も、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在も、よく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)は皮肉を含んで「下」のみを演じていました。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していました。

でも、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようです。

昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。

新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。

宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれていました。

目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は、享保年間(1716-36)です。

飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは、万治2年(1659)のことでした。

宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり

自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん花和尚(なまぐさ坊主)が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を、吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

蛇足ながら。

岡場所の「岡」とは脇の意味です。吉原に対する脇なのですね。

「岡惚れ」「岡焼き」「岡目八目」の「岡」も同じ使われ方です。この場合の「岡」は傍と同意です。「傍惚れ」「傍焼き」「傍目八目」と記されたりもします。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。

五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(今よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代には、一軒構えの本屋はありませんでした。

もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、廓や大店などの得意先を回ったものです。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としていたころの品川、それも土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、世界の喜劇映画史に残る最高傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳(結核)病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でした。

「品川心中」のくだりでは、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る、小沢昭一(小澤昭一、1929-2012)が演じる「あばたの金造(あば金)」が絶品です。

映画では「金造」でした。

小沢は当時29歳だったそうです。とても見えませんが。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑う、小沢のあば金を見るだけでも、この作品は一見の価値あり。

並みの落語家では遠く及びません。

         幕末太陽傳を見ずして落語ファンと言うなかれ!☞

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。

よく考えると単純で、「釣る(だます)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあります。

品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原の異称
徒歩新宿:かちしんしゅく:品川
八朔 はっさく:8月1日。徳川家康が入ってきた日とか
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく:釣った魚を入れておく容器
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧



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たつみのつじうら【辰巳の辻占】落語演目



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【どんな?】

心中噺。
落語のは歌舞伎や文楽と違います。
本性丸出しで小気味よく。
辰巳とは東南。深川のことです。

別題:辻占 辻占茶屋(上方)

【あらすじ】

道楽者の猪之助が、おじさんのところに金の無心に来る。

辰巳(深川)の静というお女郎に首ったけで、どうしても身請けをして女房にしたいが、三百円の金が要るという。

つい今し方、猪之助の母親が来て、さんざん泣いて帰ったばかりなので、その手前、説教はしてみたものの、このおじさん、若いころ少しはその道に覚えのある身で、言って聞かせても当人がのぼせていて、どうにもならないと見て取ると、
「金を出す前に女の料簡を試してみろ」
と、一計を授ける。

翌日、猪之助がいやに深刻な顔で見世に現れた。

「どうしたの」
「実は借金が返せねえので、おじさんの判をちょろまかして金を融通したのがバレて、赤い着物を着なくちゃならねえ。この上は、死ぬよりほかないので、別れに来た」
「まあ、おまはんが死ぬなら、あたしも一緒に」

行きがかり上、そう言うしかしかたがない。

「それでいつ?」
「今晩」
「あら、ちょいと早過ぎるワ。日延べはできないの」
「できない」

……しまったと思ってももう遅く、その夜二人で大川にドカンボコンと身を投げることになってしまった。

静の方はいやいやながらなので、のろのろ歩いているうちに石につまづいて、
「あー、痛。この石がもっけの幸い」
とばかり、「南無阿弥陀仏」と声だけはやたら大きく、身代わりに石を川へドボーン。

男の方は、その音を聞いててっきり静が飛び込んだと思い込み、大変なことをしでかしたと青くなる。

「どのみち、オレは泳げねえ、でえいち、仕組んだおじさんが全部悪いんだから……どうしようか」
と迷ううち、こちらも石に蹴っつまづいて、
「……えい、そうだ。静、オレも行くからな……。悪く思うなよ」

やっぱり同じように身代わりに、石をドボーン。

静はこれを聞いて、
「あーら、飛び込んだわ。あのばかが。あー寒い。帰ろうっと」

両方がそろそろっと、寒さに震えながら戻ってくると、地獄宿の看板の行燈の前で、バッタリ。

「あっ、てめえ、静」
「あーら、猪之はん。ごきげんよう」
「ばか野郎。太ェアマだ」
「娑婆(しゃば=この世)で会って以来ねェ」

底本:四代目橘家円喬

【しりたい】

原話は男色の心中

最古の原話は、寛永13年(1636)刊の笑話集『きのふはけふのものがたり』」の一編です。

これは若衆と念者、つまり男同士の心中騒ぎです。衆道(男同士の性愛)です。

衆道は当時、一部の社会では一般的だったので、そこでは男同士の心中も珍しくありませんでした。

これが男女に変わったのは、宝永2年(1705)刊の初代露の五郎兵衛著『露休置土産』中の「心中の大筈者」です。

いやいやながらの心中行で、両人ともいざとなって逃げ出すという結末は、最初から一貫して同じです。

大阪では「辻占茶屋」と題し、音曲仕立てでにぎやかに演じます。

東京には明治中期に移植され、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後は三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)の十八番で、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)も得意としていました。

現在では、ほとんど手掛ける人がいなくなりました。滅びるには惜しい、なかなか小味で粋な噺なのですがね。

辻占

もとは、往来の人の言葉で吉凶を占うことです。ここでは、「辻占菓子」を指します。

せんべい、饅頭などの中に、恋占いのおみくじを入れたもので、遊里の茶屋などのサービス品でした。

噺の中で、主人公・猪之助が女を待つ間、退屈しのぎに菓子の辻占をひいてみる場面があることから、女の心を試すという展開とかけて、この題名がつけられました。

江戸時代には、町々を流し、おみくじを売り歩く「辻占売り」もいました。

辰巳

深川の岡場所(幕府非公認の遊郭)のこと。

深川は江戸の辰巳の方角(東南)にあたるので、こう呼ばれたのです。

元は洲崎すさきともいい、承応2年(1653)に富岡門前町が開かれて以来、「七場所」と称する深川遊郭が発展しました。

地獄宿

素人女性を使った、非合法の隠し売春宿のこと。地獄図を描いた絵看板が目印で、そこで「営業」する女を「地獄娘じごくむす」と呼びました。『東海道四谷怪談』にも出てきます。

オチで女が発する「娑婆しゃばで会って以来」というのは、遊里の通言で「お久しぶり」の意味です。

もとは、吉原を極楽に見立てて、その外の俗世間を「娑婆」と呼んだものです。



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ほしのや【星野屋】落語演目



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【どんな?】

心中を切り札に、だんなと水茶屋女とその他の駆け引きやだましあいが絶妙。

【あらすじ】

星野屋平蔵という、金持ちのだんな。

近頃、水茶屋の女お花に入れあげ囲っていることを、女房付きのお京にかぎつけられてしまった。

お京は飯炊きの清蔵をうまく釣って囲い宅まで白状させたあげく、奥方をあおるので、焼き餠に火が付き騒動に。

平蔵は養子の身で、こうなると立場が弱い。

やむなく、五十両の金をお花にやって手切れにすることを約束させられてしまう。

お花に因果を含めようとするが、女の方は
「だんなに捨てられたら生きている甲斐がない」
と剃刀で自殺しようとする騒ぎ。

困った平蔵、しばらく考えた末
「そんならおまえ、どうでも死ぬ気か。実はおれも今度悪いことがあって、お上のご用にならなけりゃならない。そうなれば家も離縁になり、とても生きてはいられない」
と意外な打ち明け話。

「それならいっそのことおまえと心中したいが、どうだ、いっしょに死んでくれるか」
と言われると、お花も嫌とは言えない。

母親に書き置きして、その夜、二人が手に手を取って行く先は、身投げの名所、吾妻橋あずまばし

だんなが先に飛び込むと、大川(墨田川)に浮かぶ屋根船から
「さりとは狭いご料簡、死んで花実が咲くかいなァ」
一中節いっちゅうぶしの「小春こはる」のひとふしが聞こえてきた。

お花、とたんに死ぬのが嫌になってしまった。

「もし、だんな、お気の毒。はい、さようなら」

ひどい奴があるもので、さっさと家に帰ってしまう。

そこへ鳶頭とびのかしらの忠七が現れ
「たった今、星野屋のだんなが血だらけで夢枕に立ち、『お花に殺されたから、これからあの女を取り殺す』と言いなすったので告げに来やした」
と脅かす。

お花は恐ろしくなって、心中くずれの一件を白状してしまう。

忠七が
「だんなを成仏させるには、てめえが尼になって詫びるほかねえ」
と言うので、しかたなくみどりの黒髪をブッツリ切って渡したとたん、入ってきたのはほかならぬ星野屋平蔵。

この心中は、お花の心底を試すための芝居だったのだ。

ちなみに平蔵は川育ちで、泳ぎは河童流。

「ざまあ見やがれ。てめえともこれで縁切りだ。坊主になって当分見世へも出られやしめえ」
「おあいにく。かもじを切っただけさ」
「ちくしょう、だんな、ふてえ女でございます。やい、さっきてめえがもらった五十両はな、贋金にせがねだ。後ろに手が回るぜ」

お花がびっくりして返すと、
「まただまされやがったな。だんなが贋金を使うか。本物だい」
「えー、くやしい」

そばでおふくろが
「あー、三枚くすねておいてよかった」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

女を坊主にする噺  【RIZAP COOK】

剃刀」「大山詣り」「品川心中」の下、「三年目」とあります。もっとも、この噺のお花はしたたかですから、かもじまでしか切っていませんが。

かもじ  【RIZAP COOK】

かもじは「そえ髪」で、日本髪に結うとき、地髪が薄い人が補いに植える、自然毛の鬘です。江戸後期、特に安永年間(1772-81)に専門店ができるなど、大流行しました。

水茶屋  【RIZAP COOK】

表向きは、道端で湯茶などを提供する茶屋ですが、実は酒も出し、美女の茶酌女は、今でいうコンパニオンで、心づけしだいで売春もすれば、月いくらで囲われ者にもなります。

笠森お仙、湊屋おろくなど、後世に名を残す美女は、浮世絵の一枚絵や美人番付の「役力士」になりました。

桜木のお花もその一人で、実在しました。芝居でも黙阿弥が「加賀鳶」に登場させています。

一中節  【RIZAP COOK】

初世都一中が創始した、京浄瑠璃の一派です。上方では元禄期、江戸ではずっと遅れて文化年間以後に流行・定着しました。「小春」は通称「黒髪」で、「小春髪結の段」のことです。

この部分、ほとんどの演者を入れますが、戦後、この「星野屋」を得意とした八代目春風亭柳枝の節回しが、ことによかったそうです。

屋根船  【RIZAP COOK】

屋形船より小さく、一人ないし二人でこぎました。日よけのため、すだれや障子で仕切っています。就航数は文化年間(1804-18)には500-600艘にのぼったそうです。

もちろん、障子を締め切って、中でしっぽりと……という用途もありました。



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