ほりのうち【堀の内】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

法華宗が噺の中心。
ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。
法華噺でもあり、粗忽噺でもあり。

別題:あわてもの 粗忽者 粗忽者一家 愛宕詣り いらちの愛宕詣り(上方)

あらすじ

粗忽者そこつものの亭主。

片方草履ぞうりで、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。

薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

しりたい

小ばなしの寄せ集め  【RIZAP COOK】

粗忽そこつ(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利かるくちふくどくり』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意ぶじしうい』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

『無事志有意』は烏亭焉馬うていえんば(中村英祝、1743-1822)の作です。

焉馬は、本所相生町あいおいちょうの大工で、和泉屋和助いずみやわすけ立川焉馬たてかわえんば立川談洲楼たてかわだんじゅうろう談洲楼焉馬だんじゅうろうえんば鑿釿言墨曲尺のみのちょうなごんすみかねなどの名を持っていました。

天明6年(1786)、向島の料亭、武蔵家権之方で「噺の会」を主宰しました。

一方の寄席の始まりといわれています。

墓所は、本所表町(墨田区東駒形1丁目)の最勝寺。天台宗の寺院で、目黄不動の通称で知られています。

門弟には、初代朝寝房夢羅久あさねぼうむらく(里見晋兵衛、1777-1831)、初代立川金馬(日吉善蔵、生没年不詳、→二代目朝寝坊むらく)、初代立川談笑(足袋屋庄八、?-1811)、初代談語楼銀馬(松塚幸太郎、生没年不詳)、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)、二代目烏亭焉馬(山崎嘗次郎、1792-1862)などがいました。

上方版「いらちの愛宕詣り」  【RIZAP COOK】

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま  【RIZAP COOK】

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗(江戸時代は法華宗と呼んでいました)の名刹です。

「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

妙法寺は、もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でした。元和年間(1615-24)に日円上人が開基して法華宗(日蓮教団)に改宗。

明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。

こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

法華宗の本気度  【RIZAP COOK】

「開帳」とは、厨子(仏像を安置するケース)のとばりを開いて、中に納められた本尊の秘仏を拝ませることです。

地方の由緒ある寺院が江戸に出向いて開帳するようなことを「出開帳」と呼びました。

今の美術館などでの展覧会のような催しです。

もちろん、「開帳」の第二義は、「女性の腰巻があらわになること」ですが、これはまた別の機会に。

法華宗(日蓮教団)の出開帳は、宝永2年(1705)の京都・本圀寺の江戸出開帳が最初だそうです。『武江年表』などで見ると、この年から明治6年(1873)までに行われた出開帳は131件だったそうです。

これは、出開帳全体の約半分だったとか。開帳の中身の約6割は、日蓮の肖像、つまり祖師像だったといいます。

これで法華宗の諸寺は何を示すかといえば、厄除け祖師といったように、厄除け、開運、火除け、延命、子安、日切り願満などを掲げました。

法華宗は他宗派と違って、期限の通例60日を延長するすることも、人寄せのため境内に見世物小屋などを設けることもせず、それでも参詣者は集うたといわれます。

法華宗(日蓮教団)を無視して、江戸の町は語れません。

参考文献:日本思想大系34『近世仏教の思想』月報所収「近世日蓮教団の祖師信仰」(高木豊)



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評価 :1/3。

そこつながや【粗忽長屋】落語演目

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 【どんな?】

「粗忽」とはあわてん坊の意。
行き倒れの主が自分!? 
粗忽者はさて、どうする。

あらすじ

長屋住まいの八五郎と熊五郎は似た者同士で、兄弟同様に仲がいい。

八五郎は不精ぶしょうでそそっかしく、熊五郎はチョコチョコしていてそそっかしいという具合で、二人とも粗忽さでは、番付がもしあれば大関を争うほど。

八の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音さまにお参りに行く。

ある日、いつもの通り雷門かみなりもんを抜け、広小路ひろこうじにさしかかると、黒山の人だかり。

行き倒れだという。

強引に死体を見せてもらうと、そいつは借りでもあって具合が悪いのか、横を向いて死んでいる。

恐ろしく長っ細い顔だが、こいつはどこかで見たような。

「こいつはおまえさんの兄弟分かい」
「ああ、今朝ね、どうも心持ちが悪くていけねえなんてね。当人はここで死んでるのを忘れてんだよ」
「当人? おまえさん、兄弟分が浅ましい最期さいごをとげたんで、取りのぼせたね。いいかい、しっかりしなさいよ」
「うるせえ。のぼせたもクソもあるもんけえ。うそじゃねえ明かしに、おっ死んだ当人をここへ連れて来らァ」

八五郎、脱兎だっとのごとく長屋へ駆け込むや、熊をたたき起こし、
「てめえ、浅草の広小路で死んだのも知らねえで、よくもそんなにのうのうと寝てられるな」
と息巻く。

「まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねえ」
と熊。

昨夜どうしていたかと聞くと、本所ほんじょの親類のところへ遊びに行き、しこたまのんで、吉原をヒヤカした後、田町でまた五合ばかり。その後ははっきりしないという。

「そーれ見ねえ。つまらねえものをのみ食いしやがるから、田町から虫の息で仲見世なかみせあたりにふらついてきて、それでてめえ、お陀仏だぶつになっちまったんだ」

そう言われると、熊も急に心配になった。

「兄貴、どうしよう」
「どうもこうもねえ。死んじまったものはしょうがねえから、これからてめえの死骸しがいを引き取りにいくんだ」
というわけで、連れ立ってまた広小路へ。

「あらら、また来たよ。あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。本人という人、死骸をよくごらん」

コモをまくると、いやにのっぺりした顔。

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、
「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」

しりたい

主観長屋?   【RIZAP COOK】

アイデンティティー(本人に間違いないこと)の不確かさを見事に突いた鮮やかなオチです。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は、主人公の思い込みの原因は「あまりにも強すぎる『主観』にある」という解釈で、「主観長屋」の題で演じましたが、この場合の「主人公」は八五郎の方で、いったん、こうと思い込んだが最後、刀が降ろうが槍が降ろうがお構いなし。1+1は3といったら3なのです。

対照的に相棒の熊は、自我がほぼ完璧に喪失していて、その表れがオチの言葉です。

どちらも誇張されていますが、人間の両極を象徴しています。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、「死んでいるオレは……」と言ってはならないという教訓を残していますが、なるほど、この兄ィは、自分の生死さえ上の空なのですから当然でしょう。

代々の小さんに受け継がれた噺で、脳内に霞たなびく熊五郎が抱腹絶倒ほうふくぜっとうの十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の芸風こそ、その直系を感じさせました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の貴重な音源が残っているほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、七代目談志のものが多く出ています。

自身番のこと   【RIZAP COOK】

自身番屋じしんばんやは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。

昼間は普通、町役ちょうやく(おもに地主)の代理である差配さはい(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番たなばん1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役しょやく1名と、都合3名で切り盛りします。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目です。

身元引受人が名乗り出れば確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院えこういんなどの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でした。

したがって、自身番にすれば、こういうおめでたい方々が現れてくれれば、かえって渡りに船だったかもしれません。

浅草広小路   【RIZAP COOK】

浅草寺の雷門前のあたりをいいました。雷門広小路とも。台東区浅草1丁目、2丁目。

浅草広小路には、女川菜飯めかわなめしという人気の飯屋がありました。

ここの菜飯は、東海道の石部・草津間にある目川めかわ村でつくられる菜飯の風味をまねていたそうです。

客寄せから、目川が女川に。値段は1膳12文、菜飯以外に田楽も出したそうです。



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はんたいぐるま【反対車】落語演目

 

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【どんな?】

威勢はいいのですがね。
ここまでそそっかしいのは。
どんなもんでしょうか。

別題:いらち車(上方)

あらすじ

人力車がさかんに走っていた明治の頃。

車屋といえば、金モールの縫い取りの帽子にきりりとしたパッチとくれば速そうに見えるが、さるだんなが声を掛けられた車屋は、枯れた葱の尻尾のようなパッチ、色の褪めた饅頭笠と、どうもあまり冴えない。不運。

「上野の停車場までやってくれ」
「言い値じゃ乗りますまい」
「言い値でいいよ」
「じゃ十五円」

十五円あれば、吉原で一晩豪遊できた時分。

「馬鹿野郎、神田から上野まで十五円で乗る奴がどこにいる」

勝手に値切ってくれと言うから、「三十銭」「ようがしょう」といきなり下げた。

それにしても車の汚いこと。

臭いと思ったら、「昨日まで豚を運搬していて、人を乗せるのはお客さんが始めてだ」と抜かす。

座布団はないわ、梶棒を上げすぎて客を落っことしそうになるわ。

おまけに提灯はお稲荷さまの奉納提灯をかっぱらってきたもの。

どうでもいいが、やけに遅い。

若い車屋ばかりか、年寄りの車にも抜かれる始末。

「あたしは心臓病で、走ると心臓が破裂するって医者に言われてますんで。もし破裂したら、死骸を引き取っておくんなさい」

そう言い出したから、だんなはあきれ返った。

「二十銭やるからここでいい」
「決めだから三十銭おくんなさい」

ずうずうしい。

「まだ万世橋も渡っていないぞ」
「それじゃ上野まで行きますが、明後日の夕方には着くでしょう」

だんなはとうとう降参して、三十銭でお引き取り願う。

次に見つけた車屋は、人間には抜かれたことがないと威勢がいい。

それはいいが、乗らないうちに「アラヨッ」と走りだす。

飛ばしすぎてこっちの首が落っこちそう。

しょっちゅうジャンプするので、生きた心地がない。

走りだしたら止まらないと言うから、観念して目をつぶると、どこかの土手へ出てやっとストップ。

見慣れないので、「どこだ」と聞いたら埼玉県の川口。

「冗談じゃねえ。上野まで行くのに、こんなとこへ来てどうするんだ」

しかたなく引き返させると、また超特急。

腹が減って目がくらむので、川があったら教えてくれと言う。

汽車を追い抜いてようやく止まったので、命拾いしたと、値を聞くと十円。

最初に決めなかったのが悪かったと、渋々出した。

「見慣れない停車場だな」
「へい、川崎で」

また通り越した。

ようやく上野に戻ったら午前三時。

「それじゃ、終列車は出ちまった」
「なあに、一番列車には間に合います」

しりたい

人力車あれこれ

1870年(明治3)、和泉要助ら三人が製造の官許を得て、初お目見えしたのは1875年(明治8)でした。

車輪は当初は木製でしたが、後には鉄製、さらにゴム製になりました。

登場間もない明治初年には、運賃は一里につき一朱。車引きは駕籠屋からの転向組がほとんど。

ただし、雲助のように酒手をせびることは明治政府により禁止されました。

明治10年代までは、二人乗りの「相乗車」もあったようです。

落語家も売れっ子や大看板になると、それぞれお抱えの車引きを雇い、人気者だった初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の抱え車引きが、あまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードもあります。

全盛時は全国で3万台以上を数え、東南アジアにも「リキシャ」の名で輸出されました。

1923年(大正12)の関東大震災以後、自動車の時代の到来とともに、急激にその姿を消しました。

車屋の談志

この噺の本家は大阪落語の「いらち車」です。

大正初期には、六代目立川談志(1888-1952)が「反対車」で売れに売れました。

住んでいた駒込辺りで「人力車の……」と言いかければ、すぐ家が知れたほど。

そこで、ついた異名がそのものずばり「車屋の談志」。その談志も、人力車の衰退後は不遇な晩年だったといいます。

昭和初期には、七代目林家正蔵(海老名竹三郎、1894-1949)の十八番でした。

八代目橘家円蔵(大山武雄、1934-2015)のも、若い頃の月の家円鏡だった時代から、漫画的なナンセンスで定評がありました。

客が二人目の車屋に連れて行かれる先は、演者によって大森、赤羽などさまざまで、「青森」というのもありました。

人力車の噺いろいろ

人力車は明治の文明開化の象徴。

それを当て込んでか、勘当された若だんなが車引きになる「素人人力」、貧しい車屋さんの悲喜劇を描く「大豆粉のぼた餅」、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)の古い速記が残る怪談「幽霊車」などがありました。

そういった多くの新作がものされはしたのですが、今では「反対車」のほか、すべてすたれました。

 

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そこつのくぎ【粗忽の釘】落語演目



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【どんな?】

これまた滑稽噺の極北。
のんきであわてん坊。
憎めません。

別題:我忘れ 宿がえ(上方)

【あらすじ】

粗忽者の亭主。

引っ越しのときは、おれに任せろと、家財道具一切合切背負ってしまって動けない。

おまけに、あわてて荷物といっしょに家の柱まで縛ってしまう始末。

結局、ツヅラだけ背負って、先に家を出たはいいが、いつまでたっても帰らない。

かみさんが先に着いて気をもんでいると、朝早く出たのが、げんなりした顔でやっと現れたのが夕方。

なんでも、大通りへ出て四つ角へ来ると、大家の赤犬とどこかの黒犬がけんかしているので、義理上
「ウシウシ」
と声を掛けると、赤の方が勢いづき、ぴょいと立ち上がった拍子に自分が引っくり返った。

ツヅラを背負っているので起き上がれず、もがいているのを通りがかりの人に助けてもらったとたん、自転車とはち合わせ。

勢いで自転車が卵屋に飛び込み、卵を二百ばかり踏みつぶす、という騒動。

警官が来て取り調べのため、ずっと交番に行っていたという次第。

ようやく解放されたが、自分が探してきた家なのに、今度は新居を忘れた。

しかたがないから引っ返して、
「大家に頼んで連れて来てもらった」
というわけ。

かみさんはあきれ果てたが、
「とにかく箒を掛ける釘を打ってもらわなければ」
と亭主に金槌を渡す。

亭主は
「大工で専門家なので、これくらいは大丈夫だろう」
と安心していたら、場所を間違え、瓦釘という長いやつを壁に打ち込んでしまった。

長屋は棟続きなので、
「隣に突き抜けて物を壊したかもしれない」
とかみさんが心配し
「おまえさん、落ちつけば一人前なんだから」
と言い含めて聞きに行かせると、亭主、向かいの家に入ってしまい、いきなり
「やい、半人前なんて人間があるか」
と、どなってしまう。

すったもんだでようやく隣に行けば行ったで、隣のかみさんに、
「お宅は仲人があって一緒になったのか、それともくっつき合いか」
などと、聞いた挙げ句、
「実はあっしどもは……」
と、ノロケかたがたなれそめ話。

「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出す。

調べてもらうと、仏壇の阿弥陀さまの頭の上に釘。

「お宅じゃ、ここに箒をかけますか?」
と、トンチンカンなことを言うので、
「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家内は何人で?」
「へえ、女房と七十八になるおやじと……いけねえ、中気で寝てるんで、もとの二階へ忘れてきた」
「親を忘れてくる人がありますか」
「いえ、酔っぱらうと、ときどき我を忘れます」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

江戸の引っ越し事情

「小言幸兵衛」「お化け長屋」でも、新しく店(たな=長屋のひと間)を借りに来るようすが描かれますが、だいたいは、たとえば大工なら棟梁か兄貴分が請け人(身元引受人、保証人)になります。

夜逃げでもないかぎり、元の大家にきちんと店賃を皆済した上、保証人になってもらう場合も当然ありました。

大家は町役を兼ね、町内の治安維持に携わっていましたから、店子がなにかやらかすと責任を取らされます。

そこで、入居者や保証人の身元調査は厳重でした。

この噺のように、新居まで付き添ってくれるというのはよほど親切な大家でしょうが、違う町に移る場合は、新しい大家が当人の名前、職業、年齢、家族構成などすべてを町名主に届け、名主が人別帳にんべつちょう(戸籍簿)に記載して、奉行所に届ける仕組みになっていました。

店賃

たなちん。この噺のあらすじは、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)の速記を参考にしましたが、自転車が登場することでわかる通り、明治末から大正初期という設定です。

この当時はインフレで物価騰貴が激しかったようです。

『値段の風俗史』(朝日文庫)で見ると、二部屋、台所・便所付きの貸家または長屋で、明治32年(1899)で75銭、同40年(1907)で2円80銭、大正3年(1914)で5円20銭と、7-8年ごとに倍倍ゲームではねあがっています。

さかのぼって江戸期を見ると、長屋の店賃は文化・文政期(1804-30)で、通りに面した表店(おもてだな)で月1分程度、二部屋・九尺二間の裏店うらだなで400文ほど。幕末の慶応年間(1865-68)で六百文ですから、まっとうにやっていれば、十分暮らしていけたでしょう。

自転車の価格、卵のねだん

自転車は明治22年(1889)ごろから輸入されました。国産品は明治40年代からで、50-150円しました。

前記の店賃でいうと、なんと最低1年半分に相当します。

卵は大正2年(1912)ごろで1個20銭。昔はけっこう贅沢品でした。

200個ぶっつぶせば、都合40円の損害です。

粗忽噺の代表格

江戸時代から口演されてきた古い噺。文化4年(1807)にはすでに記録があります。

粗忽長屋」「粗忽の使者」「松曳き」「堀の内」「つるつる」などと並んで代表的な粗忽噺ですが、伸縮自在なため古くからさまざまなくすぐりやオチが考えられました。

最近では、このあらすじのように明治・大正の設定で演じられることが多くなっています。

明治期では、円朝門下の初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が、前の家との距離を、視線の角度と指で示すなどの工夫を加えました。

オチはくだらないので、現行では「ここに箒をかけますか?」で切る場合が多くなっています。

「ここまで箒をかけに来なくちゃならない」などとする場合もあります。

故人では六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)がよく演じ、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も小円朝直伝で得意にしていました。

ウケやすい噺なので、若手もよくやります。



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えいたいばし【永代橋】落語演目



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【どんな?】

実際にあった永代橋崩落の事故。
文化4年(1807)8月19日、死者730人超。
その事故に材を取ったくだらない噺です。

別題:多勢に無勢

【あらすじ】

下谷車坂町に住む露店古着商の太兵衛と、同居人の小間物屋、武兵衛。

兄弟同様のつきあいだが、そろって粗忽者。

今日は深川八幡の祭礼の日。

武兵衛はこのところ実入りがいいので、久しぶりに散財しようと、太兵衛夫婦に留守番を頼み、いそいそと出かけていく。

太兵衛が、自分のことは棚に上げて、おまえはそそっかしいから気をつけろと言っても、うわの空。

永代橋に来かかると大変な人込み。

押すな押すなで、身動きができずにいると、突然、胸にどんとぶつかってきた者がいる。

「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」

胸をさすりながらふと懐に手を入れると、金がたんまり入った紙入れが、きれいにすられている。

追いかけようときょろきょろしても、後の祭り。

いまいましいが帰るほかなく、とぼとぼ引き返す途中、ぱったり会ったのが贔屓のだんな。

今度、両国米沢町に待合を開いたので、ぜひ寄ってほしいという。

だんなの家でしこたま酔っぱらい、すっかりご機嫌になったころ、表で何やら人の叫ぶ声。

女中を聞きにやると、たった今、永代橋が人の重みで落ち、たいそう人が溺れ死んで大騒ぎだという。

あのままスリにやられなかったらオレも今ごろはと、さすがに能天気な武兵衛も真っ青。

話変わって、こちらは太兵衛。

武兵衛が帰らないので心配していると、永代橋が落ちたという知らせ。

さてはと、翌朝探しに出ようとする矢先、番所から、武兵衛が橋から落ちて溺れ死んだので、死骸を引き取りにこいとのお達し。

あわてて家を飛び出したとたんに、一杯機嫌の武兵衛とぱったり。

「言わねえこっちゃねえ。おめえは昨夜溺れ死んだんだから、今すぐ一緒に死骸を引き取りに行くんだ」
「こりゃ大変だ」

どっちもどっち。

連れ立って番所に乗り込んだから、話がトンチンカンになる。

武兵衛が死骸を見て、
「これはあたしじゃない」
と言い出したので、太兵衛はいらいらして、武兵衛の背中をポカリ。

もめていると役人が見かねて、これに見覚えがあるかと出したのが昨夜すられた紙入れ。

どうやらスリが身代わりに溺れたのを、武兵衛の書きつけから、お上で本人と勘違いしたらしい。

「それ見ろ。オレでもないものを早合点して、背中をぶちやがって、腹の虫が納まらねえ。お役人さま、どっちが悪いか、お裁きをねがいます」
「うーん、いくら言ってもおまえは勝てん」
「なぜ」
「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

永代橋崩落

文化4年8月19日(1807年9月20日)。数日来の長雨がやっと止み、江戸の空はからりと晴れ、蒸し暑い朝でした。

この日は、天明5年(1785)以来22年ぶりに、社殿修復記念を兼ねた深川八幡祭礼が行われるというので、前景気は過熱気味でした。

そのうえ身延山が便乗イベントで、深川霊巌寺で出開帳を催したので、朝から江戸中の人出は永代橋を目ざし、一時に深川に集まっていました。

午前10時過ぎ、橋向こうに一番山車が見えたので、雨で四日間、祭りが順延してイライラが募っていた数十万の群集が、橋に向かって殺到。

たちまち東の橋詰から12間余りが墜落、あとは地獄絵図が展開。

死者は行方不明者を含めると、1500人を超えたといわれる、大惨事になりました。

深川の 底は八幡 地獄にて 落ちて永代 浮ぶ瀬もなし
永代と 架けたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

惨事には付きもので、不吉な予兆があったこと、偶然助かった者のエピソードなどが残っています。

東西橋詰の死体置場では、死骸の着物で絹の部、木綿の部に分け、年齢からも老人、中年、子供と分類して、引き取り人に捜させたとか。

当時、両国橋を除いて、永代も吾妻も仮普請で橋幅も狭く、惨事が起こらない方が不思議な状態でした。

珍しい実録噺

「佃祭」と同様、実際に起こったカタストロフィーを題材にしたもので、落語では数少ない実録ものです。

成立の詳細は不明ですが、実際に祭礼に行く途中で二両二分掏られたため、偶然命が助かった本郷の麹屋の体験を脚色したともいわれます。

根岸鎮衛の『耳嚢』巻六の「陰徳危難を遁れし事」という「佃祭り」の原話も、何らかの下敷きとなっていると思われます。

古くは、「多勢に無勢」と題した明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の速記が残ります。

先の大戦後は、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が高座にかけ、特に正蔵は得意にしていました五代目三遊亭円楽も好んで演じていました。

このオチを利用した「梅の春」という音曲噺が、後年作られました。

梅の春

もとは清元です。

天明の頃(1781-89)、長州藩の分家、長門府中藩主の毛利元義が途中まで造り、後を狂歌の王様、大田蜀山人が付けて、清元名人の太兵衛が節付けしたものです。

その冒頭の詞章は、

四方にめぐる
あふぎ巴や文車の
ゆるしの色もきのふけふ
心ばかりははる霞
引くもはづかし爪じるし

というもので、この後、「わかめ刈るてふ春景色」までこしらえ、元義が行き詰ったのを、蜀山人が受けて、「浮いて- かもめ)のひい、ふう、みい、よう……」 と付けたというエピソードがあります。

これを基にに作られた同題の音曲噺は、清元「梅の春」の語り初めの会に招かれた絵師の喜多武清が、名人の太兵衛に「お天道様」と声が掛かるのを嫉妬して、「自分はいくら努力してもお天道さまとは呼ばれない。もう絵を描くのが嫌になった」と愚痴ると弟子が、「太兵衛 =多勢)に武清(=無勢)はかないません」と、「永代橋」と同じオチになるものです。

永代橋

現在の橋は、江東区深川永代一丁目から中央区新川2丁目の間に架けられていますが、もともとは、その1町(約109m)上流の、佐賀1丁目から、日本橋箱崎町3丁目にわたって架橋されていました。

架橋は元禄11年(1698)とされ、それ以前は「深川大渡し」と呼ばれた渡し場がありました。

享保4年(1719)に洪水で破損し、そのまま取り壊されるところを付近の町人の誓願で、経費はすべて町の負担、さらに橋銭2文を通行人から徴収し、維持費に当てる条件で補修・存続が決まりました。この橋銭は、文化4年の崩落事件後、廃止されています。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
贔屓 ひいき
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:町奉行、『耳嚢』著者 1747-1815
耳嚢 みみぶくろ
遁れし のがれし
喜多武清 きたぶせい
四方 よも
文車 ふぐるま



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そこつのししゃ【粗忽の使者】落語演目

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【どんな?】

「そこつ」とは、さりげなく使ってみると意外によい語感かも。

あらすじ

杉平すぎだいら柾目正まさめのしょうという大名の家臣、地武太治部右衛門じぶたじぶえもんという、まぬけな名の侍。 驚異的な粗忽者そこつものだが、そこがおもしろいというので、殿さまのお気に入り。 ある日、大切な使者をおおせつかり、殿さまのご親類の赤井御門守あかいごもんのかみの屋敷におもむかねばならない。 家を出る時が、また大変。 あわてるあまり、猫と馬をまちがえたり、馬にうしろ向きで乗ってしまい、 「かまわぬから、馬の首を斬ってうしろに付けろ」 と言ってみたりで、大騒ぎ。 先方に着くと、きれいに口上を忘れてしまう。 腹や膝をつねって必死に思い出そうとするが、どうしてもダメ。 「かくなる上は……その、あれをいたす。それ、あれ……プクをいたす」 「ははあ、腹に手をやられるところを見るとセッップクでござるか」 「そう、そのプク」 応対の田中三太夫たなかさんだゆう、気の毒になって、 「何か思い出せる手だてはござらぬか」 と聞くと、治部じぶザムライ、幼少のころから、もの忘れをした時には、尻をつねられると思い出す、ということをようやく思い出したので、三太夫がさっそく試したが、今まであまりつねられ過ぎて尻肌がタコになっているため、いっこうに効かない。 「ご家中にどなたか指先に力のあるご仁はござらぬか」 とたずねても、みな腹を抱えて笑うだけで、だれも助けてくれない。 これを小耳にはさんだのが、屋敷で普請中ふしんちゅうの大工の留っこ。 そんなに固い尻なら、一つ釘抜くぎぬきでひねってやろうと、作事場さくじばに申し出た。 三太夫はわらにもすがる思いでやらせることにしたが、大工を使ったとあっては当家の名にかかわるので、留っこを臨時に武士に仕立て、中田留五郎なかたとめごろうということにし、治部右衛門の前に連れていく。 あいさつはていねいに、頭に「お」、しまいに「たてまつる」と付けるのだと言い含められた留、初めは 「えー、おわたくしが、おあなたさまのおケツさまをおひねりでござりたてまつる」 などとシャッチョコばっていた。 治部右衛門と二人になると、とたんに地を出し、 「さあ、早くケツを出せ。……きたねえ尻だね。いいか、どんなことがあっても後ろを向くなよ。さもねえと張り倒すからな」 えいとばかりに、釘抜きで尻をねじり上げる。 「ウーン、いたたた、思い出してござる」 「して、使者の口上こうじょうは?」 「聞くのを忘れた」

【RIZAP COOK】

しりたい

この続き   【RIZAP COOK】

今では演じられませんが、この後、治部右衛門が使者に失敗した申し訳に腹を切ろうとし、九寸五分の腹切り刀と扇子を間違えているところに殿さまが現れ、「ゆるせ。御門守殿には何も用がなかった」と、ハッピーエンドで終わります。

使者にも格がある  【RIZAP COOK】

治部右衛門は直参じきさんではなく、殿さまじきじきの家来である陪臣ばいしん、それも下級藩士ですから、じかに門内に馬を乗り入れることは許されません。必ず門前で下馬げばし、くぐり戸から入ります。

作事場とは?   【RIZAP COOK】

大名屋敷に出入りする職人、特に大工の仕事場です。 作事とは、建物を建築したり修理したりすることをいいます。「作事小屋さくじごや」「普請小屋ふしんごや」ともいい、庭内に小屋を建てることもありました。大大名では、作事奉行さくじぶぎょう作事役人さくじやくにんが指揮することもあります。 「太閤記たいこうき」では、木下藤吉郎きのしたとうきちろうが作事奉行で実績をあげ、出世の糸口としています。

赤井御門守  【RIZAP COOK】

赤井御門守あかいごもんのかみとは、ふざけた名前です。もちろん架空の殿さまです。 あるいは、赤い門からの連想で「赤門あかもん」、加賀かが百万石の前田家をきかせたのかもしれませんが、どう見ても、そんな大大名には思えません。 「妾馬」での六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)によると、ご先祖は公卿くぎょうだった、算盤数得表玉成卿そろばんかずえのひょうたまなりきょうで、任官にんかんして「八三九九守やつみっつくくのかみ」となった人とか。石高こくだかは12万3千456石7斗8升9合半と伝わっています。 どうも、江戸の庶民は、高貴な人たちの官位という制度と聞きなれない名称の音の響きに奇妙な好奇心を抱いていたようなふしがうかがえます。 高貴な世界に関心とあこがれがあった、ということなのでしょう。 「火焔太鼓」では太鼓、「妾馬」では女と、やたらと物を欲しがるのも特徴です。落語に登場する殿さまには、この噺に最初に登場した、根引駿河守ねびきするがのかみ吝坂慾之守やぶさかよくのかみ治部右衛門の主君である、杉平柾目正すぎだいらまさめのしょうもいます。 赤井の殿さまほど有名ではありませんが。

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まつひき【松曳き】落語演目

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あらすじ

粗忽噺。
殿さま、三太夫、八五郎が珍妙なやりとりを。

別題:粗忽大名(上方)

あらすじ

ある大名の江戸屋敷。

殿さまがそそっかしく、家老の田中三太夫がこれに輪をかけて粗忽者そこつもの

同気相求どうきあいもとめるで、これが殿さまの大のお気に入り。

ある日、殿さまが、
「庭の築山つきやまの脇にある赤松の大木たいぼくが月見のじゃまになるので、泉水せんすいの脇にきたいが、どうであるか」
と三太夫にご下問。

三太夫が
「あれはご先代さまご秘蔵の松でございますので、もし枯らすようなことがありますと、ご先代さまを枯らすようなものではないかと心得ます」
いさめる。

殿さまは、
「枯れるか枯れないかわからないから、いま屋敷に入っている植木屋に直接聞いてみたい」
と言い張る。

そこで呼ばれたのが、代表者の八五郎。

「さっそく御前おんまえへまかりはじけろ(もっと前に出ろ)」
と言うんで、八五郎がまかりはじけたら、三太夫が側でうるさい。

「あー、もっとはじけろ」
「頭が高い。これ、じかに申し上げることはならん。手前が取り次いで申し上げる」
「それには及ばん。直接申せ」
「はっ。こ、これ、八五郎。ていねいに申し上げろ」

頭に「お」、終わりに「たてまつる」をつければよいと言われた八五郎、
「えー、お申し上げたてまつります。お築山のお松さまを、手前どもでお太いところへは、おするめさまをお巻き申したてまつりまして、おひきたてまつれば、お枯れたてまつりません。恐惶謹言きょうこうきんげん、お稲荷いなりさんでござんす」

よくわからないが、殿さまは、枯れないらしいと知って、大喜び。

植木屋に無礼講ぶれいこうで酒をふるまっていると、三太夫に家から急な迎え。

国元くにもとから書状が来ているというので、見ると字が書いていない。

「旦那さま、そりゃ裏で」
「道理でわからんと思った。なになに、国表くにおもてにおいて、殿さま姉上さまご死去あそばし……」

これは容易ならぬと、あわてて御前へ。

殿さま、
「なに? 姉上ご死去? 知らぬこととは言いながら、酒宴など催して済まぬことをいたした。して、ご死去はいつ、なんどきであった?」
「ははっ……、とり急ぎまして」
「そそっかしいやつ。すぐ見てまいれ」

アワを食って、家にトンボ返り。

動転して、書状が自分のふところに入っているのも気がつかない。

やっと落ち着いて読みなおすと
「……お国表において、ご貴殿姉上さま……?」

自分の姉が死んだのを殿と読み間違えた。

三太夫、いまさら申し訳が立たないので、いさぎよく切腹してお詫びしようとする。

家来が、殿に正直に申し上げれば、百日の蟄居ちっきょぐらいで済むかもしれないのに、あわてて切腹しては犬死いぬじにになると止めたので、それもそうだと三太夫、しおしお御前へまかり出た。

これこれでと報告すると、殿さまは
「ナンジャ? 間違いじゃ? けしからんやつ。いかに粗忽とは申せ、武士がそのようなことを取り違えて、相済むと思うか」
「うへえ、恐れ入りました。この上はお手討ちなり、切腹なり、存分に仰せつけられましょう」
「手討ちにはいたさん。切腹申しつけたぞ」
「へへー、ありがたき幸せ」
「余の面前で切腹いたせ」

三太夫が腹を切ろうとすると、しばらく考えていた殿さま、
「これ、切腹には及ばん。考えたら、余に姉はなかった」

底本:初代三遊亭金馬=二代目三遊亭小円朝

しりたい

使いまわしのくすぐりでも

粗忽の使者」とよく似た、侍の粗忽噺です。

特に、職人がていねいな言葉遣いを強要され、「おったてまつる」を連発するくすぐりは「粗忽の使者」のほか、「妾馬」でも登場します。

ただ、基本形は同じでも、それぞれの噺で状況も八五郎(「粗忽の使者」では留五郎)の職業もまったく違うわけです。

この「松曳き」では殿さまの前でひたすらかしこまるおかしみ、「粗忽の使者」では後で地が出て態度がなれなれしくなる対照のおかしさと、それぞれ細部は違い、演者の工夫もあって、同じくすぐりを用いても、まったく陳腐さを感じさせないところが、落語のすぐれた点だと思います。

殿さまの正体

御前に出た八五郎に、三太夫が叱咤しったして「まかりはじけろ」と言います。「もっと前に出ろ」という意味ですが、実は、これは仙台地方の方言だそうです。

とすれば、このマヌケな殿さまは、恐れ多くも仙台59万5千石の藩主、伊達宰相にあらせられる、ということになりますが。

小里ん語り、小さんの芸談

この噺は、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)あたりがやっていました。その流れで、柳家喜多八(林寬史、1949-2016)や桃月庵白酒(馬生の孫弟子)も。

あまり聴かない噺ですが、以下は小さんが弟子の小里んに語った芸談です。芸の奥行きをしみじみ感じさせます。

語りの芸は演じきっちゃいけないだなァ。
それと師匠は「昔は大名が職人と酒盛りなんかするわけがない。それは噺のウソだってことは腹に入れとかなくちゃいけない」と言ってました。ありえないことだけれど、それを愉しく演じなきゃいけない。かといって、無理に拵えた理屈をつけてはいけない。「ウソだと分かって演るなら、ウソでいいんだ」と言ってたのは、「噺のウソを、ウソのまま取っておく大らかさが落語にはあった方がいい」という教えですね。無理に辻褄合わせで理屈をつけると解説になって理屈っぽくなっちゃうでしょ。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

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