【松曳き】まつひき 落語演目 あらすじ
【あらすじ】
粗忽噺。
殿さま、三太夫、八五郎が珍妙なやりとりを。
別題:粗忽大名(上方)
【あらすじ】
ある大名の江戸屋敷。
殿さまがそそっかしく、家老の田中三太夫がこれに輪をかけて粗忽者。
同気相求めるで、これが殿さまの大のお気に入り。
ある日、殿さまが、
「庭の築山の脇にある赤松の大木が月見のじゃまになるので、泉水の脇に曳きたいが、どうであるか」
と三太夫にご下問。
三太夫が
「あれはご先代さまご秘蔵の松でございますので、もし枯らすようなことがありますと、ご先代さまを枯らすようなものではないかと心得ます」
と諌める。
殿さまは、
「枯れるか枯れないかわからないから、いま屋敷に入っている植木屋に直接聞いてみたい」
と言い張る。
そこで呼ばれたのが、代表者の八五郎。
「さっそく御前へまかりはじけろ(もっと前に出ろ)」
と言うんで、八五郎がまかりはじけたら、三太夫が側でうるさい。
「あー、もっとはじけろ」
「頭が高い。これ、じかに申し上げることはならん。手前が取り次いで申し上げる」
「それには及ばん。直接申せ」
「はっ。こ、これ、八五郎。ていねいに申し上げろ」
頭に「お」、終わりに「たてまつる」をつければよいと言われた八五郎、
「えー、お申し上げたてまつります。お築山のお松さまを、手前どもでお太いところへは、おするめさまをお巻き申したてまつりまして、おひきたてまつれば、お枯れたてまつりません。恐惶謹言、お稲荷さんでござんす」
よくわからないが、殿さまは、枯れないらしいと知って、大喜び。
植木屋に無礼講で酒をふるまっていると、三太夫に家から急な迎え。
国元から書状が来ているというので、見ると字が書いていない。
「旦那さま、そりゃ裏で」
「道理でわからんと思った。なになに、国表において、殿さま姉上さまご死去あそばし……」
これは容易ならぬと、あわてて御前へ。
殿さま、
「なに? 姉上ご死去? 知らぬこととは言いながら、酒宴など催して済まぬことをいたした。して、ご死去はいつ、なんどきであった?」
「ははっ……、とり急ぎまして」
「そそっかしいやつ。すぐ見てまいれ」
アワを食って、家にトンボ返り。
動転して、書状が自分の懐に入っているのも気がつかない。
やっと落ち着いて読みなおすと
「……お国表において、ご貴殿姉上さま……?」
自分の姉が死んだのを殿と読み間違えた。
三太夫、いまさら申し訳が立たないので、いさぎよく切腹してお詫びしようとする。
家来が、殿に正直に申し上げれば、百日の蟄居ぐらいで済むかもしれないのに、あわてて切腹しては犬死にになると止めたので、それもそうだと三太夫、しおしお御前へまかり出た。
これこれでと報告すると、殿さまは
「ナンジャ? 間違いじゃ? けしからんやつ。いかに粗忽とは申せ、武士がそのようなことを取り違えて、相済むと思うか」
「うへえ、恐れ入りました。この上はお手討ちなり、切腹なり、存分に仰せつけられましょう」
「手討ちにはいたさん。切腹申しつけたぞ」
「へへー、ありがたき幸せ」
「余の面前で切腹いたせ」
三太夫が腹を切ろうとすると、しばらく考えていた殿さま、
「これ、切腹には及ばん。考えたら、余に姉はなかった」
底本:初代三遊亭金馬=二代目三遊亭小円朝
【しりたい】
使いまわしのくすぐりでも
「粗忽の使者」とよく似た、侍の粗忽噺です。
特に、職人がていねいな言葉遣いを強要され、「おったてまつる」を連発するくすぐりは「粗忽の使者」のほか、「妾馬」でも登場します。
ただ、基本形は同じでも、それぞれの噺で状況も八五郎(「粗忽の使者」では留五郎)の職業もまったく違うわけです。
この「松曳き」では殿さまの前でひたすらかしこまるおかしみ、「粗忽の使者」では後で地が出て態度がなれなれしくなる対照のおかしさと、それぞれ細部は違い、演者の工夫もあって、同じくすぐりを用いても、まったく陳腐さを感じさせないところが、落語のすぐれた点だと思います。
殿さまの正体
御前に出た八五郎に、三太夫が叱咤して「まかりはじけろ」と言います。「もっと前に出ろ」という意味ですが、実は、これは仙台地方の方言だそうです。
とすれば、このマヌケな殿さまは、恐れ多くも仙台59万5千石の藩主、伊達宰相にあらせられる、ということになりますが。
小里ん語り、小さんの芸談
この噺は、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)あたりがやっていました。その流れで、柳家喜多八(林寬史、1949-2016)や桃月庵白酒(馬生の孫弟子)も。
あまり聴かない噺ですが、以下は小さんが弟子の小里んに語った芸談です。芸の奥行きをしみじみ感じさせます。
語りの芸は演じきっちゃいけないだなァ。
それと師匠は「昔は大名が職人と酒盛りなんかするわけがない。それは噺のウソだってことは腹に入れとかなくちゃいけない」と言ってました。ありえないことだけれど、それを愉しく演じなきゃいけない。かといって、無理に拵えた理屈をつけてはいけない。「ウソだと分かって演るなら、ウソでいいんだ」と言ってたのは、「噺のウソを、ウソのまま取っておく大らかさが落語にはあった方がいい」という教えですね。無理に辻褄合わせで理屈をつけると解説になって理屈っぽくなっちゃうでしょ。
五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年