もんざぶろういなり【紋三郎稲荷】落語演目

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【どんな?】

紋三郎稲荷とは笠間稲荷のことなんですね。
茨城県が江戸落語に登場するとはビックリ。

【あらすじ】

常陸国ひたちのくに(茨城県)笠間かさま八万石、牧野越中守まきのえっちゅうのかみの家臣、山崎平馬やまざきへいま

参勤交代で江戸勤番に決まったが、風邪をひき、朋輩より二、三日遅れて国元を出発した。

もう初冬の旧暦十一月で、病み上がりだから、かなり厚着をしての道中。

取手とりでの渡しを渡ると、往来に駕籠舁かごかきが二人。

病後でもあり、風も強いので乗ることにし、駕籠舁きが八百文欲しいと言うのを、気前よく酒手さかて(チップ)込みで一貫文はずんだ。

途中、心地よくうとうとしているうち、駕籠舁きの後棒が先棒に、この節は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえかと話しているのが、耳に入った。

はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えると、寒いので背割羽織せわりばおりの下に、胴服どうぶくといって狐の毛皮を着込んでいる。

その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ているから、稲荷の化身の狐と間違われたことに気づく。

洒落気がある平馬、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠舁きは仰天。

そこで、「わしは紋三郎(稲荷)の眷属けんぞく(親類)だ」と出まかせを言ったから、駕籠舁きはすっかり信じ込む。

その上、途中の立て場でべらべら吹聴ふいちょうするので、ニセ稲荷はすっかり閉口。

松戸まつどの本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれる。

下りて駕籠賃を渡すと駕籠舁き、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐やこのすることだ」

主人の清左衛門、駕籠舁きから話を聞いて大喜び。

羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加みょうがに余る次第にございます。中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
とあいさつしたから、平馬は
「駕籠舁きのやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
と思ったが、いっそしばらく化け込もうと決める。

清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言い出すので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになるとなんでも食うから、酒のよいのと、ここの名物の鯰鍋なまずなべこいこくもよい」

えらくぜいたくな狐だと思いながら、粗相そそうがあってはと、主人みずから給仕する歓待ぶり。

平馬、酔っぱらって調子に乗り、「この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をした」などと吹きまくる。

そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊まりと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、平馬、
「それは奇特なことである。もし供物くもつ賽銭さいせんなどあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」

喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ。

もうかったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切り戸を開けると一目散。

ほこらの下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

円生十八番、若手が復活  【RIZAP COOK】

原話は、寛政10年(1798)刊『無事志有意ぶじしうい』中の「玉」。

明治から大正にかけ、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)が得意にした噺です。

これを門下の三遊亭円玉(1866-1921)が受け継ぎ、当時若手の、のちの二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)に伝えました。

円歌のレコードも残っていますが、その没(1964年)後は円生の独壇場で、CD「円生百席」収録の音源が現在、唯一のスタンダードとなっています。

その円生も「実は私は師匠のは一度も聞いたことがありません」と述べているので円蔵もめったにやる噺ではなかったのでしょう。

円生は、それまで笠間藩主を「牧さま」としていたのを史実通りに改めています。「牧野さま」で。

円生没後、継承者がありませんでした。

円生の弟子でありながら円歌から「紋三郎稲荷」を習った三遊亭好生(長坂静樹、1935.10.21-81.7.9、→三代目春風亭一柳)の例もありましたが、この因縁話は別の項目で。

2003年1月、TBS落語研究会で柳家一琴が演じ、その後、入船亭扇辰柳家小せんなどが手掛けるようになりました。

紋三郎稲荷  【RIZAP COOK】

茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。「胡桃下くるみがしたの稲荷」ともいいます。

「紋三郎」の通称の由来は、常陸国笠間藩(譜代)、牧野家初代藩主の牧野貞通まきのさだみち(1707-49、日向延岡藩主→)の一族・牧野紋三郎(門三郎とも)にちなむものとされます。紋三郎自身が信心篤かったことによるのだそうです。

祭神は宇迦之御魂神うかのみたまのかみ(=お稲荷さん)で、創建は白雉はくち年間(650-654)。稲荷神は秦氏が連れてきた外来の神で、稲の神、つまりは生産、豊穣の神です。稲荷社のご神体はどこもこの神さまです。

「ウカ」は「ウケ」とも通じて、食や豊かさを象徴します。

伏見稲荷(京都府)、豊川稲荷(愛知県)とともに、日本三大稲荷の一つとされています。

異説は多いのですが、とりあえず。

初詣では、茨城県内では一の宮の鹿島神宮を抜いて第1位の動員80万人を数えます。

現在も、五穀豊穣の祭神として信仰を集めているということですね。

坂本九(大島九、1941.12.10-85.8.12、)は結婚式を笠間稲荷で挙げました。

坂本家は笠間稲荷の信心篤い一家だったのですね。坂本九自身は日本航空123便墜落事故に巻き込まれて、帰らぬ人となりました。残念。

そのかかわりからでしょうか、笠間市内のJR駅の発車メロディーは「上を向いて歩こう」が使われています。

笠間稲荷は東京にもあります。

牧野家の下屋敷跡に、笠間稲荷神社東京別社(中央区日本橋浜町2丁目)として建っています。明治21年(1888)、牧野家が本所緑町に引っ越すにあたって、跡地に分祀されました。現在の社殿は空襲での焼失後、復興されたものです。いまは、日本橋七福神の寿老神の役回りも担っています。

背割羽織  【RIZAP COOK】

別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。

武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。

稲荷信仰  【RIZAP COOK】

京都市伏見区の伏見稲荷大社を中心とした信仰。

神社は2,970社、摂社や末社は32,000社を超えるといわれています。しめて約35,000社。

八幡社の20,000社をはるかにしのいでいます。

東日本に広く分布しているようです。

稲荷神は渡来系の秦氏の氏神のため、もとは外来の神さまです。

秦氏は中央アジアから韓半島を経て渡ってきたといわれますから、稲荷神の本当の神はそこらへんの神さまなのでしょう。

一般にはウカノミタマノカミ(古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂大神)とされています。

「ウカ」とか「ウケ」とかという古語は、食物や豊かさを意味します。

中世には伊勢神宮外宮にまつられるトヨウケビメ(古事記では豊宇気毘売神、日本書紀では記載なし)と同じ神とされるようになりました。

とはいえ、稲荷神社の祭神がウカノミタマノカミであるというのは室町後期以降です。

つまり、この神社の神がなにものなのかは、本当のところはよくわかりません。

日本の神さまには、いまだによくわからないのがけっこうあります。

稲荷というくらいですから農業神だったようですが、米が流通や商業とも深くかかわることから、商業神、漁業神、福神として平安時代から篤信されてきました。

豊かさをつかさどる神さまということで現代まで崇信されてきたのですね。

このような稲荷信仰の効用から想像すれば、秦氏は東西の十字路で豊穣と富裕の象徴とされるサマルカンドあたりから移ってきたのかもしれません。

教王護国寺(東寺)の鎮守でもあり、真言宗系とも深く結びついてきました。

神仏習合思想における稲荷神は、江戸時代までは仏教における十一面観音や聖観音を本地仏(本来の姿の仏)とされるとともに、江戸時代以降は荼枳尼天だきにてん(夜叉やしゃ、護法善神)とも同一視されてきました。

伏見稲荷大社の神宮寺じんぐううじ(神社付属の寺。明治になるまでは普通にあった)である愛染寺でも荼枳尼天がまつられていました。

明治元年(1868)の神仏分離(→廃仏毀釈)後も、稲荷神を荼枳尼天としてまつる寺院があります。

その代表例は、豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市、曹洞宗)と最上稲荷妙教寺(岡山市北区、日蓮宗)。最上稲荷では最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天の本地であるとされています。

このように稲荷神は、時代を経るとともに融通無碍ゆうづうむげにさまざまな神仏と融合合体して信仰を集めてきました。

これほどの篤信盛況ぶりは、稲とかかわる神であることで日本人に最も強い結びつきを示す神であったこと、秦氏や東寺といった巨大勢力と結ばれていたこと、下級宗教家によって、稲荷ずし、お狐さま、正一位(稲荷神の神階で最高位)といった、わかりやすい状態で布教されていったことが大きいのでしょう。

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評価 :1/3。

おうじのきつね【王子の狐】落語演目

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【どんな?】

狐が人に化かされてひどい目にあった、
という、江戸前のはなしです。

別題:乙女狐(上方)、高倉狐(上方)

あらすじ

神田あたりに住む経師屋の由さん。

王子稲荷に参詣の途中、道灌山の原っぱに来かかると、なんと、大きな狐が昼寝中。

「ははーん、狐は人を化かすというが、こう正体を現しているなら、俺が逆にこうつをたぶらかしてやろう」
といたずら心を起こし、狐に
「もし、姐さん、こんな所で寝ていちゃ、風邪ひくよ」

起こされた狐は、出し抜けに姐さんと呼ばれたから、あわててビョンと飛び上がり、十八、九の美人にたちまち化けた。

正体がバレたとも知らず、これはいいカモだと、
「私は日本橋あたりの者で、乳母を連れて王子稲荷に参りましたが、はぐれてしまい、難渋しております。あなたはどなた?」

由さん、笑をかみ殺し、
「自分は神田の者だが、日本橋はすぐそばなので送ってあげたい、ただ空腹なので、途中、なにかごちそうしたい」
と持ちかけた。

狐は成功疑いなしと、ワナとも知らず、喜んでエサに食いつく。

連れ立って稲荷を参拝した後、土地の海老屋という料理屋の二階に上がる。

盃のやりとりをするうち、狐はすっかり油断して、酒をのみ放題。

ぐでんぐでんになると、いい心持ちで寝入ってしまう。

由さん、しめたとばかり喜んで、土産物をたんまり持ち、帳場に、
「二階の連れは疲れて寝込んでいるから、そのままにしてやってくれ、起きたら勘定はあっちが持つから」
と言い置くと、風を食らってドロン。

さて、料理屋の方では、そろそろ勘定をというので、二階に仲居が上がってみると、狐は酔いつぶれてすっかり化けの皮がはがれ、頭は狐、体はまだ女、足は毛むくじゃらで大きな尻尾を出すという、まさに化物。

仲居の悲鳴で駆けつけた男どもが
「やや、こりゃ狐。さては先刻帰った男も、うむ、太いやつだ」
と寄ってたかってさんざんに打ちのめしたから、狐はたまらず、命からがら逃げだした。

一方、由さん。

かえってこの自慢話をすると、年寄りに
「狐は稲荷の使い。そんなイタズラをすれば必ずたたるから、ボタ餠でも持ってわびに行け」
とさとされて、道灌山へ戻ると、子狐が遊んでいる。

聞けば、おっ母さんが人間に化かされたあげく、全身打撲と骨折の重傷とか。

由さん、さてはと合点して平謝り。

餠を子狐に渡すと、ほうほうの体で逃げ帰った。

子狐は、ウンウンうなっている母狐に、
「おっかさん、人間のオジサンがボタ餠を持ってあやまりに来たよ。たべようよ」
「お待ち。たべちゃいけないよ。馬の糞かもしれない」

【RIZAP COOK】

しりたい

原話は江戸  【RIZAP COOK】

正徳2年(1712)刊江戸板『新話笑眉』巻1の11の「初心な狐」が原話といわれます。

これは、狐が、亀戸の藤を見物に行く男を化かそうとして、美貌の若衆に変身し、道連れになります。

男はとっくに正体を見破っていますが、そ知らぬ顔でだまされたふりをし、狐の若衆に料理屋でたっぷりとおごってやります。

別れた後、男がこっそりと跡をつけると、案の定、若衆は狐の穴へ。

狐が一杯機嫌で、得意そうに親狐に報告すると、親狐は渋い顔で、「このばか野郎。てめえが食わされたなあ、馬糞だわ」

「高倉狐」  【RIZAP COOK】

この原話は江戸のものですが、落語としては上方で磨かれ、「高倉狐」として口演されました。

こちらは、東京のものと大筋は同じですが、舞台が大坂高津の高倉稲荷境内、狐を連れ込む先が、黒焼きと並んで高津の名物の湯豆腐屋の2階となっています。

東京には、明治16年(1883)、真打に昇進直後で、当時23歳の初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が逆移入したものです。

古い速記では、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものが残っています。

先の大戦後では、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)の十八番として知られ、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も得意でした。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)や五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)を経て、現在も多くの演者に継承されています。

類話「乙女狐」  【RIZAP COOK】

上方には、「高倉狐」「王子の狐」と筋はほとんど同じながら、舞台が大坂の桜の宮で、二人の男との化かしあいに負けた狐が、「眉に唾をつけておけばよかった」、または「今の素人には油断がならん」というオチの「乙女狐」があります。「高倉狐」は、この噺の改作ではないかともいわれます。

狐の悪行は世界共通  【RIZAP COOK】

狐の出てくる噺は多いものです。

「稲荷車」
「稲荷の土産」
「今戸の狐」
「王子の狐」
「王子の白狐」
「お盆」
「蛙の子」
「狐つき」
「狐と馬」
「木の葉狐」
「九尾の狐」
「けつね」
「七度狐」
「初音の鼓」
「紋三郎稲荷」
「安兵衛狐」
「吉野狐」

思いついただけでも、ざっとこんなに。

狐は「稲荷の使い」として特別な呪力を持つものと、日本では古くから見なされてきましたが、ずるい動物という認識は東西同じなのか、フランスの「狐物語」、ドイツの「ライネッケ狐」など、手に負えない狐の話は世界中に流布伝承されています。

王子稲荷  【RIZAP COOK】

東京都北区岸町1丁目。
稲荷の本体は倉稲魂、または御食津神で、どちらにしても穀物神。五穀豊穣を司ります。王子稲荷社は、関東の稲荷の総社です。

大晦日には関東一帯の狐がご機嫌伺いに集まるので、狐火が連なって松明のようになると伝えられてきました。

歌川広重が「名所江戸百景」の内で、「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」。王子稲荷の怪異「狐松明」を描いています。狐が顔の近くに狐火を浮かべているのが見えます。

歌川広重「名所江戸百景」の内「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

志ん生流は抱腹絶倒  【RIZAP COOK】

料理屋の二階で、狐と人間が、互いに相手を化かそうと虚々実々の腹の探りあいを演じるおかしさが、この噺の一番の聞かせどころです。

そのあたりは、江戸の昔から変わらない、政財界の妖怪同士による、料亭談合のカリカチュアの趣ですね。

五代目古今亭志ん生の「扇屋二階の場」は抱腹絶倒です。

前半の2人(1匹と1人)のやりとりでは、男が「油揚げでも……」と口走って、あわてて口を押さえたり、疑わしげに「これ、お酒だろうねェ?」と確かめたあと、まだ眉唾で、肥溜めでないかと畳のケバをむしってみたりするおかしさ。

「第二場」では、だまされたと知って茫然自失の狐が、思わず「化けてるやつがふァーッと、半分出てきたン」で、帯の間から太い尻尾がニュー、耳が口まで裂けて……とか、狐退治に2階に押し上げられた源さんが、内心びくびくで、「狐けェ? オロチじゃねえのか。俺ァ天狗があぐらァけえていやがんのかと」と、強がりを言うシーンなど。

筋は同じでも、ここらの天衣無縫のくすぐりのつけ方が、まさに志ん生ならではです。

同時に、狐を悪獣として憎むのではなく、むしろ隣人として、いたずらっ子を見るまなざしで、どこかで愛し、いとおしんできた江戸人の血の流れが、志ん生の「王子の狐」を聴き、速記を読むと、確かに伝わります。

海老屋と扇屋  【RIZAP COOK】

男が狐同伴で揚がりこむ料理屋は、古くは海老屋、現行ではほとんど、扇屋で演じます。海老屋は、扇屋と並ぶ土地の代表的な大店で、扇屋は武家屋敷、海老屋は商家や町人筋がおもな顧客でした。

したがって、町人の登場するこの噺には、海老屋の方がふさわしかったのですが、残念ながら明治初年に廃業したので、昭和以後では、現存の扇屋に設定することが多くなったのでしょう。

扇屋の方は、慶安年間(1648-52)の創業で、釜焼きの厚焼き卵の元祖として名高い老舗です。

【語の読みと注】
経師屋 きょうじや
道灌山 どうかんやま
倉稲魂 うかのみたま
御食津神 みけつかみ

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