しにがみ【死神】落語演目




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

米津玄師も唸る幽冥落語の逸品。
元ネタはドイツ、はたまたイタリア由来とか。
ローソク使った寿命の可視化が真骨頂。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめたッ」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまったくらい。西本晃二『落語「死神」の世界』(青蛙房、2002年)です。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したのがイタリアのルイージ・リッチとフェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」で、この筋か、または、グリム童話「死神の名付け親」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴(源一郎、1841-1906、幕臣→劇作家、東京日日新聞社長、衆院議員)あたりから聞き込んで、落語に翻案したものといわれています。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。古来、日本にはこんなイメージがありません。日本では死神があんまり出てこないのです。

この噺で語られる死神はというと、ぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとったやせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

しかし、こんなのは日本文化にはなじまないもの。明らかに明治期に西洋から入ってきた死神の図像的な翻案です。

とはいえ、円朝は死神像をでたらめにこさえたわけでもありません。

江戸時代も後期になると、聖書を漢訳本で読んだ国学者たちの間で醸成していった西洋と日本の掛け合わせ折衷文化が庶民の日常にもじわじわと及ぼしてきます。

ついには、これまでの日本人がまったく抱いてこなかった「死を招く霊」が登場するのです。

たとえば、下図は『絵本百物語』(桃山人著、竹原春泉斎画、天保12年=1841年)の「死神」。このようにすっとんきょうな、乞食のようなじいさんのような姿の死神像も一例です。

日本の「死神」は古くからあまりイメージされてきていませんから、人々の心の中に一定のイメージがあるわけではありませんでした。

それでも「死神」というからには死を連想させるわけで、老人、病人、貧者の姿がおさまりよいのでしょう。異形のなりではありますが。

円朝の「死神」では、筋の上では西洋の翻案のためか、ギリシア風の死をつかさどる神とい、新しいイメージが加わっているようにも見えます。

日本では死神に対する誰もが抱く共通した図象イメージがなかったことが、円朝にはかえっておあつらえ向きだったことでしょう。

ローソクを人の寿命に見立てる考えなども、日本人にはまったくなかった発想でした。ここでの死神は、じつは、明治=近代の意識丸出しのそれなんですね。

「古典落語」といいながらも、大正期にできた噺までも許容しているわけです。

古典落語を注意深く聴いていると、妙に「近代」が潜り込んでいることに気づくときもあります。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家芸です。

明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味とユーモアが渾然一体で絶品でした。八五郎役は森川正太(新井和夫、1953-2020)。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」。昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承します。

先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意としました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、オチも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種でした。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のは、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。






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こまちょう【駒長】落語演目

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【どんな?】

つつもたせを仕組んだ借金夫婦。
夫が出ているうち女は男に情が移り。
志ん生がやってた珍しい噺。
「お直し」と真逆に向かう物語です。

別題:美人局

【あらすじ】

借金で首が回らなくなった夫婦。

なかでも難物は、五十両という大金を借りている深川の丈八という男だ。

この男、実は昔、この家の女房、お駒が深川から女郎に出ていた時分、惚れて通いつめたが振られて、はては、今の亭主の長八にお駒をさらわれた、という因縁がある。

「ははあ、野郎、いまだに女房に未練があるので、掛け取りに名を借りて、始終通ってきやがるんだ」
と長八は頭にきて、
「それなら見てやがれ」
と渋るお駒を無理やりに説き伏せ、一芝居たくらむ。

丈八あての恋文をお駒に書かせ、それが発覚したことにして、丈八が来る時を見計らって、なれ合いの夫婦げんかをする。

あわてる丈八に、どさくさに二、三発食らわして、
「こんな女は、欲しいなら、てめえにくれてやる」
と、わざと家を飛び出す。

その間に、今度は本当にお駒を丈八に口説かせ、でれでれになった頃合いを見計らって踏み込む。

「不義の現場押さえた」
とばかり、出刃包丁で脅しつけ、逆に五十両をふんだくった上に裸にむいてたたき出すという、なかなか手の込んだもの。

序幕はまったく予定通り。

「こんな女ァ、てめえにくれてやるが、仲へ入った親分がいるんだから、このままじゃあ義理が立たねえ。これから相談してくるから、帰るまでそこォ動くな」

尻をまくって威勢よく飛び出した長八。

筋書きがうまくいって安心したのか、まぬけな奴もあるもので、親分宅で酒を飲みながら時間をつぶすうち、ぐっすりと夜明けまで寝込んでしまった。

第二幕。

こちらは長八の家。

丈八は上方者で名うての女たらし。差し向かいでじわじわ迫る。

「わいと逃げてくれれば、この着物も、これもあんたのもん」
とやられると、お駒も昔取った杵柄。

「つくづく貧乏暮らしが嫌になり、あんな亭主といては一生うだつが上がらない。この上は」
と、急きょ狂言を書き直し、長八が帰らないのを幸い、丈八といつしか一つ床に。

挙げ句の果てに、夜が明けぬうち、家財道具一切合切かき集め、手に手を取って、はいさようなら。

瓢箪から駒だ。

翌朝。

長八があわてふためいて家に駆け込んでみると、時すでに遅く、モヌケのカラ。

火鉢の上に、書き置き一通。

「ついには、うそがまことと、相なりそろう。おまえと一緒に暮らすなら、明くればみその百文買い、暮るれば油の五勺買い。朝から晩まで釜の前。そのくせ、ヤキモチ焼きのキザ野郎。意気地なりの助平野郎」

さらには
「丈八さんと手に手を取り、二世も三世も変わらぬ夫婦の楽しみを……」

「あのあまァ、どうするか見てやがれッ」
と出刃を持って飛びだすと、カラスが上で
「アホウ、アホウ」

底本:五代目古今亭志ん生、四代目橘家円喬

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【しりたい】

円朝作の不倫噺

原話は、明和5年(1768)刊の笑話本『軽口はるの山』巻四の「筒もたせ」とみられます。

この小咄はかなり短く、金に困った男が友達に、うまくすれば銀三百匁にはなるから「美人局」をやってみろとけしかけられます。

そこで、かみさんに因果を含めて近所の若い者を誘惑させ、いよいよ「間男見つけた」と戸棚から飛び出したものの、あわてて「筒もたせ、見つけた」と言ってしまうというおマヌケなお笑いです。

これをもとに、明治初年に三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が一席の落とし噺に仕立てたとみられますが、円朝自身の速記は残っていません。

代わりに、春陽堂版「円朝全集」(1929年刊)には、円朝の口演をもっとも忠実にコピーしたとされる門下の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)の速記が掲載されました。

この噺の登場人物名は、すべて講談の大岡政談や浄瑠璃中の、白子屋お駒の情話から取ったものです。

お駒の実録などについては、「城木屋」をどうぞ。

三遊一朝

「教訓」としての円朝演出

一朝の速記を見ると、マクラで、うぬぼれが強く人間をばかにするカラスの性癖を引き合いに、「まして人間はうぬぼれが強うございまして、おれの女房はおれよりほかに男は知らない、どんなことをしてもおれのことは忘れまい、なぞと思っていると大違いでございます」と語っています。

男の思い上がりを、円朝がこの噺を教訓として戒めているのがうかがわれます。

なるほど、これがあって初めて、オチのカラスの「アホウ、アホウ」が皮肉として効いてくるわけです。

古い速記では、「美人局」と題した四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)のもの(明治28年=1895年)も残っています。

円喬は上方ことばを自在に操れた人なので、活字だけを追っても、大阪弁の丈八の口説きに、いかにもねっとりとした色気が感じられます。

つつもたせ

「美人局」と書きます。博打から出た言葉といわれます。

筒持たせ、つまり博打の胴を取るように情夫がしっかり状況をコントロールしている意味でしょう。

それとも、もう少しエロチックな意味があるのかもしれません。

「美人局」の表記は、中国で元代のころに遡るといいます。

井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)なども使っているので、上方ではかなり古くから使われた言葉なのでしょう。

明くれば味噌の百文買い

芝居がかった、女房の置手紙の文句ですが、食うや食わずの貧乏暮らしを象徴する言い回しです。

河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93)の芝居「御所五郎蔵」でも、敵役星影土右衛門の子分が主人公を辱めて「こなたと一生連れ添えば(中略)米は百買い酒は一合」と、似たような表現で罵倒します。

「味噌こし下げて歩く」も同意です。

志ん生の独壇場

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が一手専売で、ほかに演じ手はありませんでした。

おそらく、敬愛する四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記などから独力で覚えたものでしょう。志ん生の次男、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が継承していました。

志ん生は、この噺の欠点である構成の不備や不自然さを卓抜なくすぐりで補い、不倫噺を、荒唐無稽の爆笑編に転化することで、後味の悪さを消す工夫をしています。

当サイトのあらすじは、主に志ん生の速記・音源を参考にしましたが、オチ近くの女房の置き手紙などは、円喬のをそっくり取り入れています。

【語の読みと注】
美人局 つつもたせ

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こごろし【子殺し】落語演目

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【どんな?】

父母が逝った赤ん坊。
五十両付きで養育する借金夫婦は。
陰惨丸出しの噺。
落語ってすごい。
これで笑わせるんですから。
変化球の演目ですね。

【あらすじ】

亭主の働きが悪く、借金取りに責めたてられて、大家にも店立てをくっている夫婦。

いっそ夜逃げをしようと相談中に、知人が尋ねてくる。

ある家で、かみさんが産後の肥立ちが悪くてとうとう死んでしまい、亭主もその跡を追うようにあの世へ行ってしまって、赤ん坊だけ残された。

どこか育ててくれる人はないかと、亭主の兄弟分に頼まれたが、心当たりはないかという相談。

なんでも、引き取ってくれる人には、五十両の養育費を付け、赤ん坊の着物も添えるというので、夫婦は金にひかれて、その子をもらい受けることにした。

その五十両で借金もきれいに返し、一息ついてほっとしたものの、こうなると、じゃまになるのが赤ん坊。

もともと金づくでしかたなく引き取ったもので、ピイピイ泣いて手間がかかり、夜も寝られないとあって、
「五十両ぽっちの目腐れ金でこの先も居すわられたのでは割りに合わねえからいっそ片付けちまおう」
と亭主が言い出す始末。

絞め殺したのでは喉に痕がついてバレるからと一計を案じ、湯に連れていって温め、こたつの脇で布団をかぶせて押さえつけた。

しばらくして見てみると、赤ん坊の死骸は、注文通り、真っ赤。

これを医者に見せ、
「疱瘡で亡くなりました」
と言い立ててさっさと葬式を出し、遺留品もきれいに始末してしまう。

以来、悪行が実を結んでか、にわかに金回りがよくなった夫婦。

そうなると亭主の気が大きくなり、吉原のお女郎になじんで、十日も二十日も帰らない。

おもしろくないのがかみさんで、ある日、やっと帰ってきた亭主をつかまえて責めたてたあげく、赤ん坊殺しの件まで大きな声でしゃべり出すので、亭主は仰天。

そんなことがお上に漏れれば、首と胴が泣き別れになると必死になだめすかす。

「もう決して家は明けない」
と謝って、
「おまえと久しぶりに一杯やろうと酒屋に一升頼んできたから、湯に行っている間に届いたら燗をつけておいてくれ」
と、言い残して出ていく。

ところが天の網、さっきのかみさんの声が人に聞かれて、訴人されたか、奉行所の捕り手が四方から家を囲んだ。

「御用だっ」
「おや、酒屋さんかい」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

江戸の嬰児虐待

陰惨な噺で、特に現在の社会状況を考えると、リアルすぎてシャレになりません。

百年二百年たとうが、人の世は同じことの繰り返しということでしょうか。

いずれにせよ、資料的価値以外にはないでしょう。

原話も不明で、速記は明治32年(1899)の初代三遊亭円左のみ。

この円左以前も以後も、まったく口演資料がないところをみると、あるいは、これ限りの円左の新作かもしれません。

御用聞き

酒屋に限ってこう呼びました。徳利拾いともいいます。

まず酒の御用を聞き、それから味噌醤油と、二、三回も、御用は御用はと聞くのでついた名とか。

オチは、お上の御用を承る目明しの「御用聞き」と掛けています。

初代円左は、わざわざマクラでそのことを説明していて、当時でさえ、後者の意味がわからなくなりかけていたことがうかがえます。

ここで円左は、江戸時代の目明しを「おてききしゅう」と呼び、速記で「御探偵衆」と当て字させています。そのあたりは、いかにも明治のにおいがします。

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いじくらべ【意地くらべ】落語演目

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【どんな?】

強情と強情の張り合いの繰り返し。
筋を通すことをはき違えた群像。
ウケも少なく地味で難しい噺。
小三治にかかると珠玉の逸品に。

別題:強情くらべ

【あらすじ】

ある金持ちの地主のところに、金を三十円借りにきた男。

「あんたは今度、鼠の懸賞で当たったそうだから、三十円くらいなんでもないだろう」
などと言うので、地主が怒って断ると、
「今日中に金がそろわないと、あっしの顔が立たないことがあるから、貸してくれるまで四日でも五日でもここを動かない」
と粘る。

「飯を食わさない」
と言っても、
「勝手に仕出しから取って食う」
とあくまで強情。

「警察を呼ぶ」
と言えば、
「もし牢死でもすれば、あなたを取り殺す」
と脅す。

「今日中に要るのなら、四、五日先では間に合わないだろう」
と地主が言っても、
「役に立とうが立つまいが、借りると言いだしたものは借りずにはおかない」
と大変な威勢。

根負けして理由を聞くと、
「一家そろって強情で通り、だんなも強情、おかみさんも強情、若だんなも強情と三強情そろっている家に金を借りにいったところ、無利息無証文で貸してくれた上、おまえさんの都合のいい時にお返しなさいと言ってくれたが、自分は晦日までに返すと心決めましたので、どうしても今日中に返さないと男が立たない」
と、いう。

その三強情一家に勝るとも劣らぬあっぱれな強情ぶりに、地主もほとほと感心し、三十円貸してやると、男は
「必ず次の晦日に返す」
と約束して、さっそく、強情だんなの家に駆け込んだ。

ところがだんな、
「前に、おまえさんの都合のいい時に返せと言ったが、見たところまだ都合もよくなさそうなようすだから、そんな人から金を受け取るわけにはいかねえ」
と突っ返す。

一度受け取らないと言ったら、意地でも受け取らない。

「わざわざ金を借りてきた」
と話すと、
「一度貸さないと言ったものを後になって貸すとは、男の風上にも置けない、借りる奴も借りる奴だ」
と怒って追い出す。

しかたがないので、
「金は不要になったから」
と、もとの家に返しに行くと、今度はこっちのだんなが意地になり、
「晦日まではどうあっても受け取らない」
と、また突っ返される。

男はあっちへ行ったりこっちへ行ったり、右往左往。

またまたまた強情だんなのところに逆戻り。

「金を受け取ってくれるまでは動かない」
と、言うと、
「それはおもしろい。おまえさんも男だ。動かないといったん言ったら、生涯そこに座っていろ」

そこをなんとか頼み込んで、
「それほどに言うならしかたがない」
と、やっと承知してもらったはいいが、
「おまえさんに貸したのは当月一日の朝十時だから、明日の十時になったら受け取る」
と、どこまでも頑固一徹。

男も、こうなればそれまでここを動けない。

「飯でも食わしてやろう、牛肉はどうだ」
と聞くと、
「あっしは食わず嫌いで」
と言うので、
「言い出した以上は牛肉を食わさなければおかない」
と、だんな、せがれに買いにやらせる。

ところが、いつまで待っても帰らないので、ようすを見に表に出ると、せがれが知らない男とにらめっこの最中。

「この人が出会いがしらに、あたしの鼻っ先に突っ立ったんで、あたしもまっすぐ通らないじゃ気が済まないから、この男のどくまでここに立ってるんです」
「えらい、それでこそ、おれの息子だ。しかし、家じゃ腹すかせて待ってるだろう。早く牛肉を買ってきな」
「でも、おとっつぁん、この人がどかなきゃ行かれません」
「心配するな。おれが代わりに立ってる」

底本:初代三遊亭円左

【しりたい】

作者は「鬼」の評論家

岡鬼太郎おかおにたろう(1872-1943、劇作家、評論家)が、明治末期に初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909)のために書き下ろした「新作落語」です。

オチの部分は『笑府』(明代の笑話本)巻六・殊綸部の「性剛」から取っています。

岡は明治中期から先の大戦中まで、歌舞伎・落語の両分野で超辛口の批評で知られる人でした。

こわいものなしだった若き日の六代目尾上菊五郎(寺島幸三、1885-1949)なども、その増長慢の鼻を、何度もいやというほどへし折られたとか。

岡鹿之助(1898-1978、洋画家)は鬼太郎の長男です。

落語でも、若手真打ちはもちろん、老大家ですら、そのしんらつな批評に震え上がったそうです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)も「本当にこわい先生でした」と回想しています。

小さん一門が得意に

今回のあらすじは、おそらく初演の円左のものをテキストにしました。

書き下ろしなので、基本の演出や人物設定は今でもほとんど変わりません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が磨き上げ、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)がよく継承しました。

先の大戦後は、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が演じました。

文楽の没後は、四代目譲りの五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)が一手専売で演じていました。五代目小さんは、四代目小さんが亡くなると、文楽の門弟にあったので。

小さんの没後は、柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)などがかけました。小三治亡き後も、柳家さん喬はじめ、五代目小さん一門が高座にかけています。

春風亭一之輔は、すじのばかばかしさに拍車をかけて、けた違いにダイナミックな悪強情ぶりを演じています。

江戸っ子の強情

落語にも、意地っぱりのカリカチュアともいえる「強情灸」がありますが。

江戸っ子の場合は特に、その異様なまでの義理がたさと細かいところまで「筋」を立てることにこだわる気質の表れとして、さまざまな小説や戯曲に、強情ぶりが描かれています。

たとえば、明治末の東京・下町の市井を舞台にした永井龍男(1904-90)の『石版東京図会』でこんな話が出てきます。

主人公がほれぬいて、おやじの反対を押し切って婚約した女。のちに、彼女には他の男との間に子供を身ごもったことが判明しました。仲人口を聞いた男に対して、職人肌で頑固一徹の主人公の父親が「女のせいではない、誰のせいでもない。ただせがれが未熟」の一点張りで、その弁明をがんとして受け付けない場面のやりとりなどにその潔癖さがよく表現されています。

鼠の懸賞が当たった

最初に男が言うこの言葉は、現在ではまったく通じないので、省かれることが多くなっています。

落語では「藪入り」にも登場しますが、明治38年(1905)、ペスト予防のため、東京市が1匹3-5銭で鼠を買い上げたことを指します。

明治38年2月現在で122万6900匹が駆除のため買い上げになった、という記録が残っています。

ところがその甲斐もなく、明治40年(1907)には東京市中全域でペストが猛威を振るい、328人が犠牲となりました。

ちなみに、円左のこの噺の速記は、明治41年(1908)6月ごろのものです。

仕出し屋

今もある、料理の出前専門の料亭です。

特に文化文政(1804-30)以後、食生活がぜいたくになり、大規模な料理店が江戸市中に乱立したのにともなって、花見など、行楽用の弁当を請け負う業者が増えたことが仕出し屋の始まりです。

江戸で名高い「八百善やおぜん」は、天保年間(1830-44)には、仕出し専門店になっていました。

小里ん語り、小さんの芸談

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)にとって、この噺は四代目と文楽から継承したものでした。思い入れの深かった噺だったのかもしれません。

では、五代目小さんの芸談を聴いてみましょう。弟子の小里ん師が語ります。

そうそう、「サゲが効かなきゃダメだ」とも師匠は言ってました。親父の「オレが代わりにに立っててやる」が、ちゃんとサガに聞こえなきゃいけない。「軽く運んで、サゲに持ってく噺だから、前は受けなくても、サゲでワッと来たら、噺としては成功してる」という話でした。それを目標にして、演出や、人の出し入れを考えなきゃいけない。つまり、「受けようと思って演るな」ってネタなんです。「受けさせよう」とすると、ウソっぽさがかえって強くなっちゃうから、「こういう人がいましたよ」ってくらいの演出で留めておくべき噺なんですね。

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。噺によって、心得が異なるものなんですね。

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