よだんめ【四段目】落語演目

  【RIZAP COOK】  

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

『忠臣蔵』四段目、判官切腹の場が題材。
芝居好きのおかしさ爆発。

別題:芝居道楽 野球小僧 蔵丁稚(上方)

あらすじ

小僧の定吉は芝居好き。

今日もお使いに出たきり戻らないので、だんなはカンカン。

この前、だんなが後をつけて、芝居小屋に入るのを見届けているので、言い訳はきかない。

「今日こそはみっちり小言を言います」
と、だんなが待ち構えているのも知らず、定吉、ご機嫌でご帰還。

問いただされると、
「日本橋の加賀屋さんへ伺っておりまして、『今日は伺いかねる用がありますから、両三日中に伺いますのでよろしく』と、おっしゃいました」
と言い訳するが、当の加賀屋のだんながつい先刻まで来ていたのだから、とうにバレている。

それでもめげずに、
「あたしは芝居なんて嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、実に、この、けしからんもんで」

往生際が悪いので、だんなは一計を案じ、
「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、おまえは留守番だ」
と言い渡す。

定吉が焦り出すのを見て、
「今度の歌舞伎座の『忠臣蔵』は、歌右衛門の師直と勘三郎の与市兵衛の評判がいいそうだ」
とカマをかけると、たちまち罠にかかった。

「女方の歌右衛門が敵役の師直なんぞ、やるわけがねえ。あたしは今見てきました」
「この野郎ッ。こういうやつだ。今日という今日は勘弁なりません」

二、三日蔵へ。

「出してはなりません」
と、だんなの厳命で、定吉はとうとう幽閉の身。

しかたなく、今日見てきた『忠臣蔵』四段目・判官切腹の場を一人芝居で演じて気を紛らわしているうち、車輪になって熱が入り、
「御前ッ」
「由良之助かァ、待ちかねたァ」
とやったところで、腹が減ってどうしようもなくなった。

番頭が握り飯をこっそり差し入れてくれると約束したのに、忘れてしまったらしく、いっこうに届かない。

こうなれば、本格的に芝居をして空腹を忘れようと、蔵の箪笥を探すと、うまい具合に裃とお膳が出てきた。          

その上、ご先祖が差した九寸五分の短刀まであったから、定吉、大喜びで、お膳を三宝代わりに
「力弥、由良之助は」
「いまだ参上、つかまつりませぬ」
「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」
と九寸五分を腹へ。

そこへ女中がようすを見にきて、定吉が切腹すると勘違い。

あわててご注進すると、だんなも仰天。

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだ、間違いがあってはならない」
と、自分で鉢を抱えて、蔵の前にバタバタバタ。

戸前をガラリと開けると
「ご膳(御前)ッ」
「蔵のうちで(由良之助)かァ」
「ははッ」
「待ちかねたァ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

日本一の猪?  【RIZAP COOK】

天明8年(1788)刊江戸板『千年草』中の「忠信蔵」が原話で、上方落語「蔵丁稚」が東京に移されたものです。

原話の小咄では、商家の若だんなが丁稚を連れてお呼ばれに行き、早く着きすぎたので二人とも腹ペコ。そこで声色で忠臣蔵ごっこをして気をまぎらわそうとし、熱が入って「いまだ参上……」のセリフになったとき二階で「もし、御膳をあげましょう」の声。若だんなが「まま(飯)待ちかねたわやい」というもの。

上方の「蔵丁稚」は、船場の商家が舞台で、筋は同じですが、桂米朝では、だんなが「雁治郎と仁左衛門が五段目の猪をやる。日本一のイノシシや」とだまします。

東京のやり方  【RIZAP COOK】

明治32年(1899)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の速記では「碁泥」につなげて演じられています。六代目文治は芝居好きで知られます。

定吉が芝居小屋で赤ん坊の尻をこっそりつねって泣かせ、そのたびにあやそうと乳母が差し出す食べ物を失敬するという場面が前についていますが、この部分は現在は省かれます。

昭和に入ってからは、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)がよく演じましたが、現在はそれほど演じられていないようです。

仮名手本忠臣蔵  【RIZAP COOK】

人形浄瑠璃としては赤穂浪士の討ち入りから半世紀ほどを経た寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演されました。

二世竹田出雲(1691-1756、浄瑠璃作者、千前軒、外記)、並木宗輔(1695-1751、浄瑠璃作者、初代並木千柳)、三好松洛(?-1771、浄瑠璃作者)の合作で、歌舞伎では翌寛延2年2月、江戸森田座の上演が僅差でもっとも早いようです。記念すべき初代の大星由良之助役は山木京四郎、塩冶判官役は花井才三郎と、記録にあります。

四段目・判官切腹の場は、前段の高師直(=吉良上野介)への刃傷で切腹を命じられた塩冶判官(=浅野内匠頭)が九寸五分の短刀を腹に突き立てたとたん、花道からバタバタと大星由良之助(=大石内蔵助)が駆けつける名場面です。

江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用しました。

ちなみに、二世竹田出雲、並木宗輔、三好松洛の3人は、義太夫狂言の三大名作とされる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』とを作り上げた竹本座の作者です。

改作と類話  【RIZAP COOK】

二代目三遊亭円歌が芝居を現代風に野球に代え、「野球小僧」と改作したものを演じていました。

上方では、発端は「蔵丁稚」と同じですが、番頭が店の金を使い込んで女と芝居を見ていることを丁稚がだんなにバラし、番頭がクビになる「足あがり」があります。

忠臣蔵の噺  【RIZAP COOK】

「忠臣蔵」を題材とした噺は多くあります。「二段目」「五段目」「六段目」「七段目」「九段目」についても同題の噺があるほか、十段目についても艶笑小咄「天河屋義平」があります。現在演じられるのは「四段目」と「七段目」くらいで、たまに別題「吐血」の「五段目」が「蛙茶番」ほか、芝居を扱った噺のマクラに振られます。

ことばよみいみ
蔵丁稚くらでっち
師直もろなお
高師直 こうのもろなお
与市兵衛 よいちべえ
箪笥 たんす
裃 かみしも
塩冶判官 えんやはんがん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ

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ごどろ【碁泥】落語演目

スヴェンソンの増毛ネット

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

典型的な滑稽噺。昔はマクラに使われていたそうです。

別題:碁盗人 碁打ち盗人(上方)

【あらすじ】

碁仇のだんな二人。

両方とも、それ以上に好きなのが煙草で、毎晩のように夜遅くまでスパスパやりながら熱戦を展開するうち、畳に焼け焦げを作っても、いっこうにに気づかない。

火の用心が悪いと、かみさんから苦情が出たので、どうせ二人ともザル碁だし、一局に十五分くらいしかかからないのだから、碁は火の気のない座敷で打って、終わるごとに別室で頭がクラクラするほどのんでのんでのみまくろう、と話を決める。

ところが、いざ盤を囲んでみると、夢中になってそんな約束はどこへやら。

「マッチがないぞ」
「たばこを持ってこい」

閉口したかみさん。

一計を案じ、マクワウリを小さく切って運ばせた。

二人とも全く気がづかないので、かみさんは安心して湯に出かける。

そのすきに入り込んだのが、この二人に輪をかけて碁好きの泥棒。

誰もいないようなので安心してひと仕事済ませ、大きな風呂敷包みを背負って失礼しようとした。

すると、聞こえてきたのがパチリパチリと碁石を打つ音。

矢も楯もたまらくなり、音のする奥の座敷の方に忍び足。

風呂敷包みを背負ったままノッソリ中に入り込むと、観戦だけでは物足らず、いつしか口出しを始める。

「うーん、ふっくりしたいい碁石だな。互先ですな。こうっと、ここは切れ目と、あーた、その黒はあぶない。それは継ぐ一手だ」
「うるさいな。傍目八目、助言はご無用、と。おや、あんまり見たことのない人だ、と。大きな包みを背負ってますねッと」
「おまは誰だい、と、一つ打ってみろ」
「それでは私も、おまえは誰だい、と」
「へえ、泥棒で、と」
「ふーん、泥棒。泥棒さん、よくおいでだねッ、と」

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

おじさん、そこおかしいよ!

原話は不詳です。上方落語「碁打ち盗人」を三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、大阪の四代目桂文吾(鈴永幸次郎、1865-1915)に教わり、大正2年(1913)ごろ、東京に移しました。

小さんは、はじめは「芝居道楽」などのマクラとして演じていましたが、後に独立させました。

大正2年と、晩年の13年(1924)の速記が残っていますが、最初の演題は上方にならって「碁盗人」でした。

両国の立花家でこの噺を演じたところ、十五、六の少年に、碁を打つ手の行き方が、碁盤に対して高すぎると注意され、その後きちんと碁盤の高さを計ってやるようになったと、大正13年の方のマクラで述べています。

生意気なガキですが、前世の談志だったかも?

小さん相伝の噺

小さんのうまさは、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)をして「もうあたしは『碁泥』はやらない」と言わしめたほどだったといいます。

ただ、同じようなことを「笠碁」に対して三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が言ったという話もあるので、あるいは混同されて伝わった逸話かもしれません。

門弟の四代目小さん(大野菊松、1888-1947)、孫弟子の五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)と継承され、代々の小さん、柳派伝統の噺となりました。

先の大戦後には、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)も得意にしていましたが、小円朝は、最初の泥棒の助言に対して、主人が言葉で答えず、石を持った右手を耳の辺りで振ってみせるやり方でした。「本家」の上方では、現在はあまり演じられないようです。

煙草盆

たばこぼん。炭火を灰で埋めた小型の火鉢と、吸殻を捨てる竹筒(灰吹き)を入れた四角の灰皿です。

歌舞伎の小道具として、よく舞台で見られますね。

現代は灰吹がほとんど見られなくなりました。

かつて、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやった、「畳に火玉が落ちたよ」「ハイ、フキましょう」というくすぐりも、理解されにくくなっています。

泥棒の語源

泥棒にもピンからキリまであります。

おかめ団子」の主人公のように、本当に出来心でフラリと入ってしまうのが「空き巣ねらい」です。

計画的に侵入する盗賊より罪が軽く、盗んだ金額にもよりますが、江戸時代には初犯なら百たたきで勘弁してもらえることが多かったようです。

「どろ」は「どら」「のら」と同義語で、もともと怠け者の意。怠惰で、まともに働く意欲がないから盗みに入るという解釈から。

古くは「泥た棒」「泥たん棒」「泥つく」とも呼び、イカサマ師やペテン師、スリなども合わせて「泥棒」ということがありました。

泥棒伯円と教導職

幕末から明治にかけて白浪(=盗賊)ものを得意にした講釈師、二代目松林伯円(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905)は「泥棒伯円」とあだ名され、お上から「副業」にやっているのではないかと疑われたほどでした。

ところが、後に明治政府の肝いりで教導職となって「忠君愛国講談」に転向、明治天皇御前口演までやってのけました。

彼が手掛けた泥棒は、鼠小僧、稲葉小僧はじめ大物ばかりで、コソ泥などいません。

このことからも講談と落語の違いが明白です。

ちなみに、噺家のほうで教導職を命じられたのは、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)でした。

明治3年(1870)に、天皇の意思ということで神祇官が「大教宣布の詔」を発布しました。

神道を利用して日本国民の心をひとつにしようという運動です。

大教宣布運動と称したこの運動は、明治5年(1872)には、教部省の下に大教院(研修所の本部)が設けられました。

芝の増上寺境内に大教院が建てられ、地方都市には中教院がつくられました。

大教院や中教院では、宣教使(布教する人)や教導職(国民を教化する人)が研修を受けました。

教導職は日本中の神官と僧侶が任命されたのですが、それ以外にも、人々の生活や心情に影響を及ぼす演芸界からも教導職が任命されました。

講談からは伯円、落語からは円朝でした。

円朝が、陰惨な仇討ちものをつくりながらも、「塩原多助一代記」のようなありがたいような噺をつくったのは、そのような趨勢とかかわっていました。

この流れは、明治維新とともに始まった廃仏毀釈が、極端な神道優先の世に変容しました。

あまりにも極端なためにさまざまな不具合が生じて、やがては失速し、明治8年(1875)には大教院が廃されました。

浄土真宗の島地黙雷たちが政府内に入り込んで急速に巻き返したことが主因でした。

明治17年(1884)には教導職も廃されました。

極端思想の国学者と洋行帰りの僧侶との文化闘争だったともいえるでしょう。

円朝と伯円の「教導職」は10年余でしたが、その間、彼らの内外に吹き及んだ出来事は、少なからぬ影響を残しています。

互先

実力の同じレベルの二人が、交互に白を持って先番になる取り決めです。

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