ねどこ【寝床】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

だんなの道楽はへたくそな義太夫。
これを聴く羽目となる長屋連の苦し紛れ。
断る言い訳、またも聴く言い訳が絶妙です。
文楽流と志ん生流の二系統があります。

別題:素人義太夫 素人浄瑠璃(上方)

あらすじ

ある商家のだんな、下手な義太夫に凝っている。

それも人に聴かせたがるので、みな迷惑。

今日も、家作の長屋の連中を集めて自慢のノドを聞かせようと、大張りきり。

「最初は御簾内みすうちだ。それから橋弁慶はしべんけい、あとへひとつ艶容女舞衣あですがたおんなまいぎぬ三勝半七酒屋さんかつはんしちいざかやの段をやって、伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ御殿政岡忠義ごてんまさおかちゅうぎの段と、あと、久しぶりにそうですな、太閤記たいこうき・十段目尼崎あまがさきを。ついで菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ松王丸屋敷まつおうまるやしきから寺子屋てらこやを熱演して、次に関取千両幟せきとりせんりょうのぼり稲川内いながわうちの段から櫓太鼓やぐらだいこ曲弾きょくひきになって、ここは三味線しゃみせんにちょっともうけさせておいて、このへんで私の十八番、三十三間堂棟由来さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい平太郎住居へいたろうすみかから木遣きやり、玉藻前旭袂たまものまえあさひのたもと・三段目道春館みちはるやかたの段、本朝二十四孝ほんちょうにじゅうしこう・三段目勘助住家かんじゅうろうすみかの段、生写朝顔日記しょううつしあさがおにっき宿屋やどやから大井川おおいがわでは満場をうならせるから。あとへ、彦山権現誓助剣ひこさんごんげんちかいのすけだち毛谷村六助家けやむらろくすけいえの段、播州皿屋敷ばんしゅうさらやしき鉄山館てつさんやかたの段、恋娘昔八丈こいむすめむかしはちじょう・お駒才三こまさいざ城木屋しろきやから鈴ヶ森すずがもりを熱演して、近頃河原達引ちかごろかわらのたてひき・お俊伝兵衛堀川しゅんでんべえほりかわの段、あとへ、碁盤太平記ごばんたいへいき白石噺吉原揚屋しらいしばなしよしわらあげやの段、一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんきを語って、伊賀越道中双六いがごえどうちゅうすごろく沼津千本松原ぬまづせんぼんまつばらをいきましょう。それから、忠臣蔵ちゅうしんぐら大序だいじょから十一段ぶっ通して、後日ごじつ清書きよがきまで語るから」

番頭の茂造に長屋を回って呼び集めさせ、自分は小僧の定吉さだきちに、さらしに卵を買ってこい、お茶菓子はどうした、料理は、見台けんだいは、と、うるさいこと。

ところが、茂造が帰ると、雲行きが怪しくなる。

義太夫好きを自認する提灯屋ちょうちんやは、お得意の開業式で三百さんぞくほど請け負ったので来られず、小間物屋は、かみさんが臨月りんげつで急に虫がかぶり(産気さんけづき)、鳶頭とびのかしらは、ごたごたの仲裁と、口実を設けて誰も来ないとわかると、だんなはカンカン。

店の一番番頭の卯兵衛うへえまで、二日酔いで二階で寝ていると言うし、他の店の者も、やれ脚気かっけだ、胃痙攣いけいれんだと、仮病けびょうを使って出てこない。

「それじゃ、おまえはどうなんだ」
「へえ、あたしはその、一人で長屋を回ってまいりまして……」

しどろもどろで言い訳しようとすると、だんながにらむので
「ええ、あたしは因果と丈夫で。よろしゅうございます。覚悟いたしました。伺いましょう。あたしが伺いさえすりゃ」
と、涙声。

だんなは怒り心頭で
「ああよござんす、どうせあたしの義太夫はまずいから、そうやってどいつもこいつも仮病を使って来ないんだろ。やめます。だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに店ァ貸しとくわけにはいかないから、明日十二時限り明け渡すように、長屋の連中に言ってこい」
と大変な剣幕。

返す刀で、
「まずい義太夫はお嫌でしょう、みんな暇をやるから国元へ帰っとくれ」
と言い渡して、だんなはふて寝。

しかたなく、店の者がもう一度長屋を回ると、店だてを食うよりはと、一同渋々やってくる。

茂造が、みんなさわりだけでも聞きたがっていると、うって変わってお世辞を並べたので、意地になっていただんな、現金なもので、ころりと上機嫌。

長屋の連中、陰で、横町の隠居がだんなの義太夫で「ギダ熱」を患ったとか、佐々木さんとこの婆さんは七十六にもなって気の毒だとかぶつくさ。

だんな、あわただしく準備をし直し、張り切ってどら声を張り上げる。

どう見ても、人間の声とは思えない。

動物園の脇を通るとあんな声が聞こえる、この家の先祖が義太夫語りを絞め殺したのがたたってるんだと、一同閉口。

まともに義太夫が頭にぶつかると即死だから、頭を下げて、とやっているうち、酒に酔って残らずその場でグウグウ。

三味線は玄人ながら、オヤマカチャンリンで弾いている。

だんな、静かになったので、感動して聞いているんだろうと、御簾内から覗くとこのありさまで、家は木賃宿じゃないと怒っていると、隅で定吉が一人泣いている。

だんなが喜んで、
「子供でさえ義太夫の情がわかるのに、恥ずかしくないか」
と説教し、定吉に
「どこが悲しかった? やっぱり、子供が出てくるところだな。『馬方三吉子別うまかたさんきちこわかれ』か? 『宗五郎そうごろうの子別れ』か? そうじゃない? あ、『先代萩せんだいはぎ』だな」
「そんなとこじゃない、あすこでござんす」
「あれは、あたしが義太夫を語ったとこじゃないか」
「あたくしは、あすこが寝床でございます」

底本:八代目桂文楽

しりたい

日常語だった「寝床」

上方落語「素人浄瑠璃しろうとじょうるり」を、「狂馬楽きょうばらく」と呼ばれた奇人の三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらく(本間弥太郎、1864-1914)が明治中期に東京に移したとされます。

ただ、明治22年(1889)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残るので、それ以前から東京でも演じられていた、ということでしょう。

古くから東西で親しまれた噺です。少なくとも戦前までは「下手の横好き」のことを「寝床」といって普通に通用したほどです。

佐々木邦ささきくに(1883-1964)著『ガラマサどん』(太白書房、1948年)では、ビール会社のワンマン社長が社員相手に「寝床」をそっくり再現して笑いを誘いました。これもむろん落語が下敷きになっています。初出は昭和5年(1930)、月刊誌『キング』(講談社)に連載されました。古川ロッパ(古川郁郎、1903-61)主演で、舞台や映画でも人気を集めました。

原話と演者など

江戸初期の寛永年間(1624-44)刊行の笑話本『醒睡笑せいすいしょう』や『きのふはけふの物語』に類話があります。

最も現行に近い原話は、安永4年(1775)刊『和漢咄会わかんはなしかい』中の「日待ひまち」です。オチも同じです。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が上方のやり方を踏襲して演じ、それを弟子筋の八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が直伝で継承、十八番としました。

主人公がいかにへたくそとはいえ、演じる側に義太夫の素養がないとこなしきれないため、大看板でも口演できるものは限られます。

文楽のほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)が子供義太夫語りの前身を生かして「豊竹屋とよたけや」とともに自慢ののどを聞かせ、三代目金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も演じました。

異色の志ん生版「寝床」

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、「正統型」の文楽・円生に対抗して、ナンセンスに徹した「異色型」の「寝床」を演じました。

前半を短くまとめ、後半、だんなが逃げる番頭を追いかけながら義太夫を語り、「獲物」が蔵に逃げ込むと、その周りを悪霊のようにグルグル回ったあげく、とうとう蔵の窓から語り込み、中で義太夫が渦を巻いて、番頭が悶絶というすさまじいもの。オチは「今ではドイツにいるらしい」という奇想天外。

実はこれ、師匠だった初代柳家三語楼さんごろう(山口慶三、1875-1938)のやり方をそのまま踏襲したものです。志ん生が三語楼の話財をいただいた好例でしょう。

三語楼は、英語まじりのくすぐりを連発するなど、生涯エログロナンセンスの異端児で通した人でした。志ん生の次男である三代目古今亭志ん朝の本名、「強次」の名付け親です。名づけたら、まもなくみまかってしまいました。

むろん、このやり方では「寝床」の題のいわれもわからず、正道とはいえません。長いこと無頼の人生を送った志ん生は、師匠の反逆精神にどこか共鳴し、それを引き継いでいたのでしょうか。このやり方で演じるのは少数です。あまりよいできとも思えませんが、これはこれで楽しめる珍品です。

要は、「寝床」には、①円馬→文楽、円生、金馬、可楽の系統と、②三語楼→志ん生の系統がある、ということです。

義太夫

大坂の竹本義太夫(1651-1714)が貞享2年(1685)ごろ、播磨流浄瑠璃はりまりゅうじょうるりから創始、二世義太夫(1691-1744)が大成し、人形芝居(文楽)とともに、上方文化のいしずえとして興隆しました。

噺に登場する「先代萩」など三編はいずれも今日でも文楽の重要なレパートリーになっている代表作です。義太夫が庶民間に根付き、必須の教養だった明治期までは、このほか「釜入かまいりの五郎市ごろいち」「志度寺しどじ坊太郎ぼうたろう」などの子役を並べました。

オヤマカチャンリン

明治10年代にはやったことば。相手を軽く見て「わかったよ」といったニュアンスのことば。

三味線の師匠は、金さえもらえば「もうどうでもいいや」という投げやりの心持ちで弾いているのが、このことばからわかります。

いまも使われる「親馬鹿チャンリン」は、「オヤマカチャンリン」のもじりかと。

明治12年(1879)1月17日付の読売新聞で、幸堂得知こうどうとくち(高橋利平、1843-1913、根岸派、黄表紙流の作家)が「寄書よせぶみ(寄稿欄)」で、滑稽味ある記事を寄せています。ここに「親馬鹿チャンリン」が登場します。

何でも唐の唐人の真似さへさせればよいと思ってゐるから、親馬鹿チャンリンなどといはれるのだ

うーん、わかったような、わからないような。

ただ、嘲りや侮りが感じられる点では「オヤマカチャンリン」と同じ語感です。

だんなの強権

この噺の長屋は通りに面した表長屋おもてながやで、おそらく二階建て。義太夫だんなは、居附き地主といって、地主と大家を兼ねています。

表長屋は、店子たなごは鳶頭など、比較的富裕で、今で言う中産階級の人々が多いのですが、単なる賃貸関係でなく、店に出入りして仕事をもらっている者が大半なので、 とても「泣く子とだんな」には逆らえません。

加えて、江戸時代には、引越しして新しい長屋を借りるにも、元の家主の身元保証が必要な仕組みで、二重三重に、義太夫の騒音に命がけで耐えなければならないしがらみがあったわけです。

お次は音曲がらみで、「稽古屋」はいかがでしょうか。

 



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ことばよみいみ
束 そく百の異称。「三百」を「さんぞく」と呼ぶなど

評価 :3/3。

とよたけや【豊竹屋】落語演目

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【どんな?】

義太夫大好き男とでたらめ口三味線野郎。
二人の極め付き、夢の競演。
上方噺の音曲噺。
豊竹豆仮名太夫だった六代目円生のお得意。

あらすじ

下手の横好きで、義太夫に凝っている豊竹屋節右衛門という男。

なんでも見聞きしたものをすぐ節をつけて、でたらめの義太夫にしてしまうので、かみさんはいつも迷惑している。

あくびにまで節をつける始末。

朝起こされると
「おとといからの寝続けに、まだ目がさめぬゥ、ハァ(と欠伸して)、あくびィ、かかるところに春藤玄蕃、くび見る役はァ、まつおうまるゥ」
と、さっそく「寺子屋」をひとうなり。

あちこち飛んで、
「その間遅しとォ、駆けいるお染、逢いたかったァ……」
と野崎村に変わったと思うと
「武田方の回し者、憎い女と引き抜いてェ」
と「十種香」になり、いつの間にか
「母の皐月がァ、七転八倒ォ、やややややァッ」
と「太功記」十段目・尼崎の場。

「ちちちちちっつん、つんつん、巡礼姿の八右衛門、後に続いて八幡太郎、かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれェ」
と、しまいにはなんだかわからない。

朝飯になると、碗の蓋を取るなり
「ちちん、お碗の蓋ァ、開くゥればァッ、味噌汁八杯豆腐、煮干の頭の浮いたるはァ、あやしかりけるゥ、ぶるるるッ」
と、興奮して蛮声を張り上げ、お膳を引っくり返す騒ぎ。

そこへ訪ねてきた男、これまた
「てん、ちょっとお尋ね申します、豊竹屋節右衛門さんンンは、こちらかええッ」
と、妙な節回し。

同類が現れたと、かみさんは頭を抱える。

この男、浅草三筋町三味線堀に住む花林胴八といって、でたらめの口三味線を弾くのが好きという、負けず劣らずの義太夫狂。

節右衛門の噂を聞いて、手合わせしたいと訪ねてきたもの。

三味線とはちょうどいいと、かみさんの渋い顔もどこ吹く風、節右衛門は大喜び。

さっそく二人の「競演」が始まった。

隣のお婆さんが洗濯する音が聞こえると
「ばあさァんせんだあくゥ、ううゥゥゥ」
「は、じゃっじゃっじゃっじゃじゃ。しゃぽォん」
「にじゅうごにちのォ、ごォえェんにィち」
「はっ、てんじんさん」
「ちんをふったわァ、ごォみィやァ、かァえ」
「ハッ、ちりちりん、ちんりんちんりん、ちりつんでゆくゥ」
「うまいッ。きょねんのくれのォ、おォおみォそおか、米屋と酒屋に責められェ、てェ」
「てんてこまい、てんてこまい」

いよいよ乗ってきて、
「子供の着物を親が着てェ」
「ハッ、つんつるてん」
「そばに似れどもそばでなくゥ、うどォんに似れども、うどんでなく、酢をかけ蜜かけたべェるのは」
「とォころてん、かァんてん」
「おなかこォわァしてェ、かよォうのォはッ」
「せっちんせっちん」
と、やっていると、棚から鼠が三匹。

「あれあれ、むこうの棚に、ねずみが三ついでてむつまじィく、ひとつのそなえをォ、引いてゆゥく」
と、節付けすると、鼠まで節をつけて
「チュウチュウチュウチュウ」

「いやあ、節右衛門さんとこのねずみだけあって、よく弾き(=引き)ますな」
「いやあ、ちょっとかじるだけで」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

貴重な音曲噺

原話は不詳ですが、貞享4年(1687)刊の笑話本『はなし大全』中巻ノ二の「口三味線」がそれらしき原型のようです。大坂で、天保年間(1830-44)から口演されてきた、今に残る貴重な音曲噺です。いつ、だれが東京に移植したかは、不明です。演題は、浄瑠璃の一派で、豊竹越前少掾(1681-1764)が享保16(1731)年に創始した豊竹派をもじったものです。

円生の十八番

義太夫の素養がなくてはできないため、戦後、音曲噺がすたれてからは、幼時「豊竹豆仮名太夫」を名乗って義太夫語りだった、六代目三遊亭円生の独壇場でした。

円生は最晩年、まるで後継者を捜し求めるように頻繁にこの噺を高座に掛け、国立劇場のTBS落語研究会(1978年12月26日)を始め、残された音源は11種、CDは6種という、ちょっとした記録です。入船亭扇橋、林家正雀、古今亭志ん輔など、手掛ける人が出ました。

円生の工夫

円生の芸談によると、昔は現行の話の前に、節右衛門が湯屋で義太夫をうなりすぎてふらふらになる場面がつくこともあったといいます。東京でも、柳派はこのやり方でした。円生は、口三味線で胴八が洒落る場面で「隣のじいさん抱き火鉢」「たどん」とやっていたのを婆さんの洗濯に変えています。

通じないオチ

「ちょっとかじるだけ」というオチは、人形浄瑠璃の符丁で三味線を弾くことを「かじる」と呼んだことから。もう現在では、よほどの文楽マニアでないと通じないでしょう。

義太夫四題 

噺の中で披露される演目は、いずれも今日、文楽、歌舞伎のレパートリーとして著名なものですが、複数の浄瑠璃の登場人物が、入り乱れてごたまぜで現れるのが落語の落語たるところで、こういう滑稽は「五目講釈」にも登場します。

「寺子屋」は『菅原伝授手習鑑』の四段目の切です。松王丸は、大宰府に流罪となった旧主・菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の命を救うため、わが子を身代わりに立てる悲劇の人物。春藤玄蕃は、菅秀才の首実験のため派遣される役人で敵役。おやじが流罪なのに縁座の子供が打ち首という摩訶不思議な芝居。

「野崎村」は、世話浄瑠璃『新版歌祭文』全二段の上の切。

「十種香」は、『本朝二十四孝』四段目の中で、長尾謙信の息女八重垣姫が、恋する武田勝頼の回向に香を焚く場。

八右衛門は『恋飛脚大和往来』(近松門左衛門)の新口村の段の登場人物。八幡太郎義家は『奥州安達原』(近松半二)の登場人物。町人と武将がごちゃまぜに出る混乱ぶりです。

三味線堀

台東区小島一丁目にあった堀。形が三味線に似ていたことからこう呼ばれました。寛永7年(1630)、鳥越川の掘削によってできたもので、閑静な景勝地でした。戦後、川も堀も無残に埋め立てられ、今は跡形もありません。

フィクションでは、昭和37年(1962)の東映映画『怪談三味線堀』の舞台となったほか、『その男』(池波正太郎)の主人公、剣客の杉虎之助が生まれ育った地でした。

花林胴八

カリン(マルメロ)の木で三味線の胴を作ることから、それをもじった名です。

【語の読みと注】
新口村 にのくちむら
花林胴八 かりんどうはち



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ごけごろし【後家殺し】落語演目

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【どんな?】

すじだけ読むと笑える代物ではないのですが。
六代目円生のお得意噺でした。

あらすじ

職人の常さん、大変に義太夫に凝っている。

ある日、町内の伊勢屋という大きな質屋で開かれた会で、「平太郎住家」を一段語ったのが縁となって、そこの後家さんといい仲になった。

もう三年越し。

後家さんは年のころ二十七、八で、色白の上品ないい女。

常さん、コソコソ隠れてするのが嫌いな性分なので、堂々とかみさんに打ち明けると、このかみさんもさばけたもの。

「決してうれしいことではないけれど、私を追い出すというのでさえなければ、おまえさんがほかに変な女に引っ掛かるよりはいいし、男の働きだから」
と公認してくれている。

そんなわけで、本宅と伊勢屋に一日交代で泊まり、向こうも心得たもので、月々にはちゃんと金も届けて寄こすし、うらやましいご身分。

ところが、その話を聞いた友達がやっかみ半分に、
「あの後家さんは、もうとうにおまえに飽きが来て、荒井屋という料理屋の板前で喜助という男とできている」
と吹き込んだから、さあ常さんは心穏やかではない。

喜助は女殺しの異名を取る、小粋ないい男。

疑心暗鬼にかられた常吉、ついにある夜、出刃包丁を持って伊勢屋に踏み込み、酒の勢いも借りて
「よくもてめえはオレの顔に泥を塗りゃあがったなッ」

後家さんのいいわけも聞かばこそ、馬乗りになると、出刃でめった突き。

なます斬りにしてしまった。

あとで、その話はまったくの作り話と知れ、後悔したが、もう遅い。

お白州へ引き出され、打ち首と決まった。

「その方、去る二月二十四日、伊勢屋の後家芳なる者を殺害いたし、重々不届きにより、重き科にも行うべきところ、お慈悲をもって打ち首を申し付ける。ありがたくお受けいたせ」
「ありがたかありません」
「今とあいなり未練なことを申すな」

奉行が、
「いまわの際に一つだけ願いをかなえてつかわす」
というので、常さん、義太夫で
「後に残りし女房子が、打ち首とォ聞くゥなァらばァ、さそこなげかァーん、ふびんやーとォー」
と語ると奉行、ぽんと膝をたたいて
「よっ、後家殺しッ」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

しりたい

円生ネタ

もともと上方落語の切りネタ(大ネタ)で、原話は不詳です。

大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)からの直伝で、戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が東京に移植、独壇場にしていました。

義太夫の素養が不可欠なため、円生在世中もほとんどほかにやる落語家はなく、没後の継承者も出ません。今となると、貴重な噺です。

実際に、高座で義太夫を語る音曲噺なので、「やはり耳で聞いていただくのがいちばん」と円生も述べています。

円生は、「噺の中の進行のために、浄瑠璃の文句のすべてを節づけず、半分の文句は普通にしゃべりますが、義太夫の素養がないと、節の場合とちがって自然に出てこないものです」とも、語り残しています。

すじだけ読むと、とても笑える代物ではないのですが。円生のお得意噺でした。

この噺や「豊竹屋」などは、少年時代にプロの義太夫語りだった円生ならではのもの。豊竹豆仮名太夫の名で高座に出ていました。こうした噺を自在にこなせる落語家は、残念ながらいまはいません。

平太郎住家

浄瑠璃「祇園女御九重錦」全五段のうち三段目。柳の木の精が人間の妻になるという筋立てで、俗に「柳」ともいい、歌舞伎にも脚色されています。

お慈悲をもって打ち首

「下手人」といいます。この言葉は、犯人をも意味しますが、罪名として用いられる場合は、単純な斬首刑のこと。

取られるものは首だけで、同じ打ち首でも、「死罪」のように市中引き回し、家財没収、山田朝右衛門によるためし斬りなどの付加刑がない分、確かにありがたいお慈悲です。

後家殺し

上方で、浄瑠璃にかけるほめ言葉です。語源は不明ですが、後家を悩殺するほどの色男、という意味でしょう。

義太夫の三味線は「太ザオ」なので、あらぬ連想をたくましくすることも不可能ではありませんが……。

「後家が惚れるくらいですからいい加減な義太夫ではいけません」(六代目円生)

【語の読みと注】
下手人 げしゅにん:斬首刑

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