おちゃくみ【お茶汲み】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

遊郭を舞台にした艶っぽい噺。
なんだかまぬけなんですがね。
圧倒的に人気ある噺です。

別題:女郎の茶 茶汲み 黒玉つぶし(上方) 涙の茶(改作)

あらすじ

吉原から朝帰りの松つぁんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから70銭ポッキリでいいと若えが言うので、あがったのが「安大黒やすだいこく」という小見世こみせ(大衆店)。

そこで、額の抜け上がった、ばかに目の細い花魁おいらんを指名したが、女は松つぁんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、むらさきというその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡のざいもの(いなかの人)だが、近所の清三郎という男と恋仲になったこと。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手もとでに清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨のつぶて。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界くがい(遊女の境遇)の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心かみしんじんをして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季ねんきが明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くどくうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目のふちになすりつけて、その茶殻ちゃがらがくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

しりたい

原作は狂言

大蔵流おおくらりゅうの狂言「墨塗すみぬり」が元の話とされています。

これは、主人が国許くにもとへ帰るので、太郎冠者たろうかじゃを連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬しっと深い女のところへいとまいに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋まぶたにこすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋かるくちごしきがみ』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里遊びが過ぎて勘当かんどうされかかった若だんなが、罰として薩摩さつま国(鹿児島県)の親類方に当分預けられるので、なじみのお女郎に暇乞いとまごいに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶殻に代えた「涙の茶」。

これを初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚々実々のだまし合いをリアルに活写。

現行の東京版「お茶汲み」が完成しました。

と、こんなストーリーがこれまでの種明かしでした。

でも、以下をお読みいただければ、この噺がもっと古いところから来ているのがおわかりになるでしょう。

小せんから志ん生へ

初代柳家小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が直伝で継承しました。

初代小せんは、廓噺の名手で、女遊びが過ぎて失明した上に足が立たなくなったといわれている人です。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、先の大戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎たごととしていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のものがCD化されていました。桂歌丸(椎名巌、1936-2018)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のものも。

本家の「黒玉つぶし」の方は、先の大戦後に東京で上方落語を演じた二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が得意にしていました。

歌舞伎でも

閑話休題。

「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、じつは、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平貞文たいらのさだふん(872-923、平定文、平中へいちゅう)の逸話中にすでにある、といわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九じっぺんしゃいっく(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛ぞくひざくりげ』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』の「鮨屋すしや」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)以来の音羽屋おとわやの型です。

歌舞伎のほうは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。

まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

「平中」をさらに

平貞文の通称がなぜ「平中」なのか、これは、国文学の世界では諸説あって、いまだによくわかっていません。

950年頃に成立した「平中物語へいちゅうものがたり」(平仲物語、へいちう物語とも)という歌物語うたものがたり(和歌にまつわる話題でつくられた物語)の主人公が平貞文で、「平中」は平貞文をさしているのです。

ここでは「平定文」と書いて「たいらのさだふん」と呼んでいます。「平貞文」と記した伝本もあります。

だいたいこの「平中物語」は、「平仲物語」と記したものもあって、中世から近世頃までは「へいじゅうものがたり」と呼び習わしていたそうです。

「平中物語」は、ある時期には「平中日記」と記されていたりしています。

名称の表記ばかりか、かつては、物語、日記、家集(歌集)といったジャンル分けのボーダーもあいまいでゆるやかだったのでしょう。

日記か、物語か、家集か、といったジャンル分けの考えは、およそ近代的なとらえ方なのかもしれません。

なぜそんなことをいうかといえば、「平中物語」が一般の人々が読めるようになるのは、宮田和一郎が校注した『王朝三日記新釈』(建文社、1948年)が刊行されてからのことです。

この本はお得な中身でして、「篁日記たかむらにっき」(10~13世紀成立)「平中日記へいちゅうにっき」(950年頃成立)「成尋母日記じょうじんのははのにっき」(1070年頃成立)が丸ごと収められています。

「篁日記」は「篁物語たかむらものがたり」のこと、「平中日記」は「平中物語へいちゅうものがたり」のこと、「成尋母日記」は「成尋阿闍梨母集じょうじんあじゃりのははのしゅう」(家集)のことです。

これを見ると、日記も物語も家集も、区分けが難しいし、区分けすることになんの意味があるのかがわからなくなってきます。

「平中物語」には、平定文(平貞文)がしでかした、さまざまな失敗譚が記されています。

持参した水だと思って、顔に墨を付けてしまった話が載っています。

これは、「源氏物語」末摘花すえつむはな帖にある、光源氏が自分の鼻に赤い色を塗って紫の上と戯れる場面の元ネタとされています。

ところがこの話は、いまに残る「平中物語」の本文にはなく、これまでのいくつかの注釈書に記されてきた内容から、われわれは知るだけなのです。

「平中物語」は、おそらく「古本説話集こほんせつわしゅう」(12世紀成立)にあった話を下敷きにしていたと思われます。

と、このように、話の淵源はなかなか昔までさかのぼるもので、中国、インド、ペルシャ、ギリシャなどに原点を求めることも難しくはありません。

平貞文という人は、一昔前の在原業平ありわらのなりひら(825-880)と並び称されることが多く、二人は、歌詠み、色好み、官歴などの点で、不思議に共通していました。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(=午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょう。

明治末から大正初期で、大見世(=高級店)では揚げ代(=入場料)のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。

これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。

こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

ことばよみいみ
勘当かんどう親が子と縁を切る ≒義絶
花魁おいらん吉原での高位の遊女
梨の礫 なしのつぶて音信のないこと。投げた小石(礫)は返ってこない(なし→梨)ことからの洒落



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評価 :1/3。

おみたて【お見立て】落語演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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【どんな?】

志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸むしずが走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽もくべえだいじんに会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗ぜんでらしゅうで」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
養空食傷信士ようくうしょくしょうしんじ天保八年酉年てんぽうはちねんとりどし

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
天垂童子てんすいどうじ安政二年卯年あんせいにねんうどし
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしません。

武藤禎夫(1926-)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』に収載の「手くだの裏」とのこと。

武藤禎夫は朝日新聞在職中、「日本古典文学全書」を企画担当した編集者です。

その後、共立女子短大教授に転じました。専門はいちおう近世の舌耕芸。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺くるわばなしです。

現存でもっとも古いのは、「墓違い」と題した明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記。

ここでは、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。

林家彦いちなんかもそうやっていました。

現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)はじめ、多くの大看板が手がけました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼あいかたを選ぶことと掛けたものです。

「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎ぎゅうたろう)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町すみちょうの全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽傳』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。

杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸(石川清之助、1920-83)。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

                                                         『幕末太陽傳』☞

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よかちょろ【よかちょろ】落語演目

【RIZAP COOK】

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【どんな?】

なんだかよくわからない「よかちょろ」。
遊蕩放蕩の道楽息子が出てきます。
こんなご身分、うらやましいもんです。

別題:山崎屋・上

あらすじ

若だんなの道楽がひどく、一昨日使いに行ったきり戻らないので、大だんなはカンカン。

番頭に、おまえが信用しないとよけい自棄になって遊ぶからと、与田さんの掛け取りにやるように言ったのがいけないと、八つ当たり。

今日こそみっちり小言を言うから、帰ったら必ず奥へ寄越すように、言いつける。

実はこっそり帰っている若だんな、おやじが奥へ入るとちゃっかり現れ、番頭にさんざん花魁のノロケを聞かせた挙げ句、ずうずうしくも、これからおやじに意見してくるという。

「おやじは、癇癪持ちだから、すぐ煙管の頭でポカリとくるが、あたしの体は花魁からの預かり物で、顔に傷をつけるわけにはいかない。もし花魁が傷のわけを知ったら『なんて親です。おやじというのは人間の脱け殻で、死なないように飯をあてがっとけばいいんです。そういうおやじは片づけてくださいッ』」

興奮してきて番頭の首を締め上げ、大声を出すので奥に筒抜けで、
「番頭ォ」
と、どなる声。

「あたしがやりこめて、煙管が飛んできたら体をかわすから、おまえが代わりに首をぬっと出しな」
「ご免こうむります」

嫌がるのをぽかりとなぐり、一回二円で買収し、おやじの前へ。

「おとっつぁん、ご機嫌よろしゅう」
「ちっともご機嫌よくないッ。黙って聞いてりゃいい気になりゃあがってッ。おまえみたいなのは、兄弟があれば家に置く男じゃないんだ」

与田さんとこで勘定は取ってきたかと追及すると、確かに十円札で二百円もらったが、使っちまったと、いう。

おやじ、唖然として、
「たった一日や半日で二百円の大金を使い切れるものじゃない」
と言うと、
「ちゃんと筋道の通った、むだのない出費です」
と、譲らない。

いよいよ頭に来て
「なら、内訳を言ってみろ。十銭でも計算が違ったら承知しないからな」

若だんな、いわく、
「まず髭剃り代が五円」

大正のそのころで、一人三十銭もあれば顔中髭でもあたってくれる。

「おとっつぁんのは普通の床屋で、あたしのは、花魁が『あたしが湿してあげます。こっちをお向きなさいったら』って」
と、おやじの顔をグイと両手でこっちへ向けたから、おやじは毒気を抜かれてしまう。

あとは
「『よかちょろ』を四十五円で願います」

「安くてもうかるものだ」
というので、
「ふうん、おまえはそれでも商人のせがれだ。あるなら見せなさい」
「へい。女ながらもォ、まさかのときはァ、ハッハよかちょろ、主に代わりて玉だすきィ……しんちょろ、味見てよかちょろ、しげちょろパッパ。これで四十五円」

あきれ返って、そばの母親に
「二十二年前に、おまえの腹からこういうもんができあがったんだ。だいたいおまえの畑が悪いから」
「おとっつぁんの鍬だってよくない」
と、ひともめ。

「孝太郎が自分の家のお金を喜んで使ってるんだから、それをお小言をおっしゃるのはどういう料簡です。それに、あなたと孝太郎は年が違います」
「親子が年が同じでたまるかい」
「いいえ、あなたも二十二のときがありました。あなたが二十二であたしが十九で、お嫁に来たとき三つ違い。今でも三つ違い」
「なにを、ばかなことを言ってるんだ」

これから若だんな勘当とあいなる。

底本:八代目桂文楽

しりたい

遊三、文楽

山崎屋」の発端部分を、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)が明治20年(1887)前後に、当時流行の「よかちょろ節」を当て込んで滑稽落語に改作したものですが、現在では別話と見なされます。

遊三以後はほとんど演じ手がなく、昭和に入ると八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の独壇場となりました。

文楽の没後は、継承者がいません。

遊三では、このあと、母親が父親とのなれそめをえんえんとのろけたあげく夫婦げんかになり、おやじが今聞いた「よかちょろ」の歌詞をもう忘れているというので、「パッパというところがありますよ。お父さんパッパ」「ハッハ、よかちょろパッパ」となっていますが、わかりづらい(英語のパパ=パッパを効かしたものか?)ので、文楽が以下をカットしています。

文楽晩年の演出ではオチはありませんが、かつては、若だんながこれ以外の出費を並べて二百円ちょうどにしたので、おやじがケムにまかれて「うん、してみると無駄が少しもない」と落とすやり方もありました。

山崎屋

長編で、道楽者の若だんなが番頭の知恵でおやじをだまし、めでたく吉原の花魁を身請けしてかみさんにするという筋です。

「よかちょろ」のもとになった発端部分は、若だんながする花魁のノロケを、そっくり小僧がまねしてしかられる、というたわいないお笑いです。

本体の「山崎屋」でも、この部分はかなり早くから演じられなくなっていました。

よかちょろ節

明治21年(1888)ごろ流行した俗曲です。

芸者だませば七代たたる
パッパよかちょろ
たたるはずだよ猫じゃもの
よかちょろ
スイカズワノホホテ
わしが知っちょる
知っちょる
言わでも知れちょるパッパ

こういう歌詞が伝わりますが、意味は不明。

この噺のとは違いますが、とにかく「パッパよかちょろ」が付けばいいとかなり替え歌ができたようです。

「よか」と「ちょろ」

「よかちょろ」の「ちょろ」は、東京ことばの「ちょろ」または「ちょろっか」で、「安易」「たやすい」の意味。

「よか」は薩摩なまりに引っかけたものでしょう。

つまり、「いいよいいよ、ちょろいもんだ」ということ。

遊三の現存の速記は明治40年(1907)のものです。

噺中の替え歌「女ながらも……」の元唄は不明で、おそらく内容から、日清か日露の戦時中のものと思われます。

スイカズワ

「猫」は芸者の異称で、猫皮の三味線を商売道具にし、客を「化かす」ところから。

「スイカズワのホホテ」は、おそらく「すいかづら(忍冬=ツルクサ、カヅラの一種)の這うて」の誤記・誤聞で、ツルクサが長く這うように、相手をずっと思い続ける意味なのでしょう。

「玉かづら→這(延)う」は万葉集の古代からの代表的な枕詞です。

「いいよいいよ、おまえたちの仲はお見通しだ。ワシがなにもかにものみこんでいるから心配するな」という内容の、粋な唄ですね。

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